楊玄感の乱
 
  

 礼部尚書の楊玄感は驍勇で騎射が巧く、読書を好み賓客を喜んだ。だから海内の知名の士達の多くが彼と交遊した。中でも、蒲山公の李密は、特に彼と仲が良かった。
 李密は、李弼の曾孫である。幼い頃から才覚があり、志気雄遠、金を惜しまず人とつき合い、左親侍となった。
 ある時、煬帝が李密を見て、宇文述へ言った。
「あの黒色の小僧は、目つきが異常だ。宿衞にはするな!」
 そこで宇文述は李密へ病気と称して引きこもるよう揶揄した。以来、李密は人との交わりを避けて読書に専念する日々を送った。
 かつて、彼が黄牛に乗って漢書を読んでいるとき、たまたま楊素と出会った。楊素は、彼を異才と感じ、家へ招いて語り合った。そして大いに悦び、息子の楊玄感へ言った。
「李密の才覚はすごい。お前の及ぶところではない。」
 以来、楊玄感は李密と親密に付き合うようになったのだ。
 楊素は、それまでの功績を恃んで驕慢になっており、朝廷での宴会の時に臣礼を失うことがあった。煬帝は、これを根に持ったし、それは楊素も感じていた。
 楊素が死ぬ時、煬帝は近臣へ言った。
「奴がもう少し長生きしていたら、一族が全員誅殺されるところだったぞ。」
 この台詞は、楊玄感の耳にも入った。
 彼の家は代々名門だったし、楊素のもとの臣下は朝廷に沢山いた。そして朝廷の風紀は日々乱れて行き、煬帝は猜疑心が強い。だから、楊玄感は内心不安でたまらず、ついに諸弟達と共に造反を企んだ。
 煬帝が外征を計画した時、楊玄感は言った。
「私は代々御国の御恩を蒙っております。どうか将軍として出征させてください。」
 煬帝は喜んで言った。
「将軍の家からは将軍が、宰相の家からは宰相が出ると言うが、まさしくその通りだな。」
 以来、楊玄感は日々信任が篤くなり、やがて朝政へ関与するようになった。
 二度目の高麗出兵の時、楊玄感は黎陽にて兵糧輸送の監督を命じられた。そこで彼は虎賁郎将王仲伯、汲郡賛治趙懐義と共に陰謀を進めた。
 彼等はまず、海運を止めた。軍中の兵糧を欠乏させる為である。煬帝は使者を派遣して催促したが、楊玄感は水路に盗賊が多いことを理由にして、兵糧を送らなかった。
 楊玄感の弟の虎賁郎将楊玄縦、鷹揚郎将楊万石は、共に遼東まで従軍していたので、楊玄感はひそかに使者を出して二人を逃亡させた。しかし、監事の許華に捕らえられ、タク郡にて斬られた。
 この頃、右驍衞大将軍来護児は、水軍を率いて東莱を出発、平壌へ向かっていた。そこで楊玄感は、奴隷達を派遣して、来護児が造反したと触れ回らせた。
 大業九年(613年)、六月、楊玄感は黎陽へ入り、城門を閉めて、成人を徴発した。近隣へは、”造反した来護児を討つ”、と表明し、官庫を開いて接収した。趙懐義を衞州刺史、東光尉元務本を黎州刺史、河内郡主簿唐韋を懐州刺史に任命した。
 治書侍御史游元が黎陽にて運搬を監督していたので、楊玄感は言った。
「暴虐をほしいままにする独夫(暴虐な皇帝の蔑称)が、自ら外国へ行った。これは、天が奴を滅ぼすのだ。我は今、義兵を指揮して無道を誅するつもりだ。卿はどう思うか?」
 すると游元は顔色を変えて言った。
「尊公は古今比類ないほどの恩寵を受け、公の兄弟も貴族に列席しています。今こそ、誠意と節義を絞り尽くして御国の御恩に報じるべき時でございます。それが、先帝陛下の御墳墓の土さえ乾かぬ時に却って反噬を謀るとは!僕は殺されようとも、決して従いませんぞ!」
 楊玄感は怒ってこれを捕らえた。武器で脅しつけたけれども、游元は屈しなかったので、ついに殺した。
 楊玄感は、運搬役から若者五千人を選抜した。丹陽と宣城では三千人を選ぶ。そして、牛、豚、羊を殺して宣言した。
「主上は無道だ。百姓の苦しみを意に介さず、天下を騒がせている。遼東で死んだ者は一万人を越える。今、君らと共に起兵して、兆民の弊を取り除く所存だ。」
 皆は躍り上がって万歳を唱えた。
 唐韋は、楊玄感のもとから逃げ出し、河内へ駆け込んだ。
 これより以前に、楊玄感は家奴を長安へ派遣して、李密と、弟の楊玄挺を黎陽へ呼び寄せていた。挙兵した時、李密がやって来たので、楊玄感は大喜びで、彼を参謀長とした。「お前はいつでも天下救済を自己の任務としていた。今こそその時だ!ところで、何か計略があるか?」
「今、天子自ら出征して、遼外へ行きました。これは幽州から千里も離れています。南には大きな海があり、北には強胡が控え、帰国する道は一つだけです。公は大軍を率いて敵の不意を衝き、長躯薊州へ入り臨渝関の険に據れば、敵の喉元を掴めます。帰路が途絶したことを高麗が知れば必ず背後を衝くでしょう。そうすれば一月も経たずに敵軍の兵糧が尽き、その軍は戦わずに壊滅します。これこそ、上策です。」
「では、その次の策は?」
「関中は四方が塞がっている天府の国です。衞文昇がいますが、あんな奴は相手になりません。今、軍を率いて西へ向かい、途中の城など無視して直接長安を取ります。そしてその豪傑を懐柔し士民を慰撫し、険に據ってこれを守ります。そうすれば天子が帰ってきても大本を亡くしているのですから、ゆっくりと料理できます。」
「その次は?」
「精鋭を率いて昼夜進軍し、東都を奪取して四方へ号令を掛けます。ただ、既に唐韋が我等を告発していますので、すでに守備を固めているでしょう。もしもこれを攻撃して百日以上落とせないと、天下の兵が四方から攻めてきます。そうなれば、僕の打つ手はありません。」
「いや、そうではないぞ。今、百官の家族は全て東都に住んでいる。まずこれを奪ったら、奴らは動揺する。それに、城を攻め落とさなければ、どうやって我等の威力を誇示するのか!公の下計こそ上策だ。」
 そして兵を率いて洛陽へ向かった。
 楊玄挺へ驍勇千人を与えて前鋒とし、まず河内を攻撃させた。だが、唐韋が城へ據って防戦したので、落とすことができなかった。
 唐韋は越王同のもとへ使者を派遣して急を告げ、守備を固めさせた。その傍ら、彼は修武県(河内郡の中の一県)の民を率いて臨清関を守った。楊玄感は黄河を渡ることができず、ここを迂回して汲郡の南から黄河を渡った。しかし、これに付き従う民は、市を為すほど多かった。
 楊玄感は、弟の楊積善へ三千の兵を与えて洛水から西へ進軍させた。楊玄挺は亡山から南へ進み、楊玄感は三千の兵力でこれに続いた。これらの兵卒は、皆、短兵を持ち、弓矢や甲冑などなかった。
 洛陽方は、河南令達奚善意へ五千の兵を与えて楊積善を防がせた。また、将作監、河南賛治裴弘策へ八千の兵を与えて、楊玄隊を防がせた。
 奚善意は、洛水を渡って漢王寺で宿営した。翌日、楊積善の軍が来ると、奚善意軍は戦いもしないで逃げ出した。捨てられた鎧や仗は、全て楊積善軍に奪われた。
 裴弘策は、白司馬坂へ出たが、一戦して敗走した。大半の兵卒は、鎧や仗を棄てて逃げた。楊玄挺は追撃しなかった。裴弘策は三、四里退却すると、敗残兵をかき集め、再び陣を布いた。楊玄挺はゆっくりとやって来た。そして、一休みした後、突然、攻撃した。裴弘策軍は、また、敗北した。このようにして、官軍は五回負けた。
 丙辰、楊玄挺は洛陽の太陽門まで進軍した。裴弘策は、わずか十余騎で宮城へ逃げ帰ってきた。その他の兵卒達は、全て楊玄挺へ帰属したのだ。
 楊玄感は上春門へ陣営し、衆へ誓った。
「我は上柱国、家には代々蓄えてきた巨万の金がある。身分も金も、これ以上いらない。しかし、今、一族全滅をも顧みないのは、ただ、天下の先行きを座視できなかったのだ!」
 衆は、皆、悦んだ。土地の長老達は、先を争って酒や肉を献上した。自ら軍門へ駆けつけれてくる男達も、毎日千人を数えた。
 内史舎人韋福嗣は、楊玄感防衛軍に従軍して、捕らえられてしまった。楊玄感はこれを厚く遇し、それまでの同志の胡師耽と共に文書係とした。その上で、煬帝の罪悪を暴露した文書を書かせ、樊子蓋へ届けた。その文書に言う。
「今、昏を廃して明を立てるのだ。どうか小礼に関わらず、大きく羽ばたいてくれ。」
 樊子蓋は、外藩から東都(洛陽)へやって来たばかりだった。東都には生え抜きの旧官が多く、彼等は樊子蓋をバカにしており、軍事命令など、なかなか聞かれなかった。そこで樊子蓋は、厳罰主義で彼等へ臨んだ。
 裴弘策は、敗北して帰ってきた。樊子蓋は再度の出撃を命じたが、裴弘策は出撃したがらない。そこで樊子蓋はこれを引き出して誅殺した。また、国子祭酒楊汪は、傲慢無礼な男だった。樊子蓋は、これも斬ろうとしたが、楊汪が流血するまで土下座したので、なんとか、これを赦した。
 ここにおいて、将吏は震撼し、綱紀は粛正され、軍規は行き届くようになった。
 楊玄感は全力で城を攻めたが、樊子蓋が良く守ったので勝てなかった。しかし、従軍していた高官の子弟達は、裴弘策が誅殺されたと聞いて、入城しないで楊玄感軍へ投降してしまった。韓擒虎の子息の韓世咢、観王雄の子息の恭道、虞世基の子息の虞柔、来護児の子息の来淵、裴蘊の子息の裴爽、大理卿鄭善果の子息の鄭儼、周羅侯の子息の周仲など、四十余人が楊玄感のもとへ降伏した。楊玄感は、彼等を親任し、重い任務に就けた。
 楊玄感は、五万の兵を手に入れた。そこで、五千人に伊闕道を、五千人に慈間道を守らせた。韓世咢へ三千の兵を与えて栄陽を包囲させ、顧覚へ五千人を与えて虎牢奪取に向かわせた。虎牢関が降伏したので、顧覚を鄭州刺史として、虎牢を守らせた。
 長安留守の代王侑は、衞文昇へ四万の兵を与えて東都救援に向かわせた。衞文昇は華陰まで来ると、楊素の墓を暴き、兵卒の前で、楊素の骸骨を焼いた。これは兵卒達へ決死の心を持たせる為である。
 その後、彼等はまっすぐ東進し、洛陽城の北へ向かった。楊玄感は、これを迎撃する。衞文昇は戦いながら進軍し、金谷に屯営した。 

  

 この頃、高麗攻めは難航していた。しかし、どうにか城攻めの準備も整って、いよいよこれから総攻撃、とゆう時、”内地で楊玄感が造反した。”との報告が入り、煬帝は大いに懼れた。そこで納言の蘇威を呼び寄せて、言った。
「あの小僧っ子は聡明だ。どうなるだろうか?」
「どれが是でどれが非かを明確に判断し、結果の予測が正しい。そうゆう人間を『聡明』と呼ぶのです。楊玄感は粗野で思慮がありません。ただ、このような事が続いて、やがて造反が日常茶飯事になるかも知れないのが恐ろしいのです。」
 また、煬帝は、高官の子弟達が賊軍へ次々と投降していると聞いて、ますます憂えた。
 兵部侍郎斛斯政は、もともと楊玄感と仲が良かった。楊玄感が造反した時、これへ内通した。楊玄縦兄弟を逃がしてやったのも、彼である。楊玄縦等が逃げ出すと、煬帝はこの件を徹底的に調べるよう命じた。斛斯政は、高麗へ亡命した。
 煬帝は、急いで帰国した。詳細は「高麗」に記載する。帰国すると、虎賁郎将陳稜へ、黎陽の元務本攻撃を命じ、宇文述と屈突通に楊玄感討伐を命じた。
 来護児が東莱へ到着すると、楊玄感が洛陽を包囲しているとの報告を受けた。そこで彼は諸将を召して会議を開いた。来護児が、国を救うため転進することを提案すると、諸将の中には敕もないのに専断はできないと反対する者も居た。来護児は、声を荒らげて言った。
「洛陽が包囲されているのは心腹の病だ。高麗が命令に逆らうのは、ほんの皮膚病にすぎない。国家の大事を放置できるか!専断の罪はこの俺一人が引き受ける。異議を唱える者は、軍法に従って罰する!」
 そして、即日軍を返した。そして、子息の来弘と来整を煬帝のもとへ派遣して伝令させた。煬帝は、タク郡へ帰ると、すぐに来護児へ洛陽救援を命じるつもりだったが、既に来弘と来整が来ていたので、大喜びで来護児へ璽書を賜った。
「公が軍を返した日は、朕が公へ敕を賜ったのと同日だった。君臣の心が一つになれば、場所は離れていても付合するものだ。」
 これより先、右武候大将軍李子雄が、罪を犯して除名され、来護児の下に従軍していた。煬帝は、彼が造反するかと疑い、鎖に繋いで行在所へ連れてくるよう詔した。李子雄は、使者を殺して楊玄感のもとへ逃げ込んだ。
 衞文昇は、歩騎二万を率いてジン水を渡り楊玄感と戦ったが、楊玄感は屡々これを撃破した。楊玄感は、自ら率先して戦い、兵卒達を良く慰撫したので、士卒は彼の為に喜んで命を捨てた。だから、戦う度に勝ち、人間が大勢よってきて、兵力も十万を越えた。
 衞文昇は衆寡敵せず、兵卒も大半は死傷した。それでも進軍して亡山まで来て、ここで決戦を挑んだ。一日に十余合とゆう激しい戦いの中、楊限定が流れ矢に当たって戦死した。これによって、楊玄感軍の威勢がやや衰えた。
 七月、餘杭の住民劉元進が起兵して楊玄感に呼応した。詳細は「群盗」に記載する。また、梁郡の住民韓相国が挙兵してこれに応じた。楊玄感は、彼を河南道元帥に任命した。
 始め楊玄感が決起した時、天下の人々が次々呼応してくると考えていた。やがて韋福嗣がやって来ると、これを腹心とした。そうゆう訳で、李密は専任されなくなった。ところが、韋福嗣の献策は、全て二心があった。李密はそれを悟ったので、楊玄感へ言った。
「韋福嗣は我等の同志ではなく、情勢を観望しています、明公は決起したばかりなのにこのような姦人を側に置いて是非を聞いておられます。これでは必ず道を誤ります。彼を斬ってください!」
 楊玄感は言った。
「言葉が過激すぎるぞ!」
 李密は退出すると親しい者へ言った。
「楚公は造反を好みながら勝とうとしない。我等は全員捕らわれてしまうぞ!」
 李子雄は、楊玄感へ、早く皇帝となるように勧めた。楊玄感が李密へ訊ねると、李密は言った。
「昔、陳勝が皇帝を名乗ろうとした時、張耳は諫めて疎外されました。曹操が九錫を求めた時、荀イクはこれを諫めて誅殺されました。今、私が正言を吐いたなら、二子に追い落とされます。しかし、阿諛追従は我が本意ではありません。なぜ?起兵以来連勝ではありますが、まだ麾下へ入った郡県は一つもないのですよ。洛陽の守備は堅固で、天下から援軍が次々結集しています。公は全力を挙げて力戦し、一刻も早く関中を平定しなければならないのに、ここで皇帝を名乗って人々の不信を買うのですか!」
 楊玄感は笑って、中止した。
 屈突通は河陽へ屯営し、宇文述がこれに続いた。楊玄感が李子雄へ計略を問うと、李子雄は答えた。
「屈突通は兵法上手です。川を渡ってしまっては、勝敗を決めるのは難しいでしょう。ここは、兵力を二分して、一隊を彼に当て、川を渡らせないことです。そうすれば、樊子蓋と衞文昇へ援軍は来ません」 楊玄感は同意して、屈突通の渡河を防ぎに行こうとしたが、樊子蓋がこれを知り、屡々彼の陣営を襲撃したので、動きが取れなかった。
 屈突通は遂に川を渡り、破陵へ陣を布いた。楊玄感は軍を二つに分け、西は衞文昇を、東は屈突通を防いだ。
 樊子蓋は、何度も出兵し、楊玄感軍は屡々敗北した。そこで軍議を開くと、李子雄が言った。
「洛陽には続々と援軍が来ていますし、我々は屡々負けておりますので、長く留まっていてはいけません。ここは、すぐにでも関中へ入りましょう。永豊倉を開放して貧しい民を救済すれば、三輔はすぐにでも平定できます。拠点に府庫があり、東面して天下を争うのも、覇王の業です。」
 李密は言った。
「弘化留守の元弘嗣が強大な兵力で隴右にいます。彼が造反したと言い立てて、使者を派遣して公を迎え入れさせましょう。」
 華陰に住む楊玄感の一族が道案内を申し出たので楊玄感は洛陽の包囲を解いて潼関へ向かった。この時、楊玄感は言った。
「我等は既に東都を破った。次は関西を取る!」
 宇文述等諸軍は、これを追跡した。
 弘農まで来た時、土地の長老が楊玄感の行く手を阻んで言った。
「弘農宮城は兵力がありませんし、沢山の粟が蓄えられています。これを攻め落とすのは容易です。」
 そこで、楊玄感は弘農を攻撃することにした。
 弘農太守の蔡王楊智積は、官属へ言った。
「楊玄感の大軍が来た。奴等は関中へ入るつもりだ。そうなれば手出しができない。だから、計略を使って足止めする。一旬でも時を稼げたら、奴等を擒にできるぞ。」
 楊玄感がやってくると、楊智積はひめがきへ登って罵った。楊玄感は怒り、留まってこれを攻撃した。李密は言った。
「公は、衆人を欺いて関中へ向かっているのです。それに、追っ手も迫っています。一刻を争う時なのに、こんな所でぐずついてはいられません。もしも関中へ入れなければ、退いて守るところがないのです。大衆は散り散りに逃げますぞ。どうやって身を守るのですか!」
 楊玄感は聞かず、ついに、弘農城を攻撃した。彼等が城門を焼くと、楊智積は内側で火を焚いたので、楊玄感軍は城へ入れなかった。三日間攻撃したが落ちなかったので、兵を退いて西へ向かった。
 闃郷にて、宇文述、衞文昇、来護児、屈突通等が追いついた。彼等は戦いながら進軍する。楊玄感は一日に何度も敗北した。
 八月、楊玄感は菫杜原へ陣を布いた。諸軍がこれを攻撃し、楊玄感は大敗した。十余騎と共に上洛へ逃げる。追っ手は来たが、楊玄感が怒鳴りつけると、踵を返して逃げ出した。
 やがて、楊玄感は、弟の楊積善と二人きりになってしまった。馬も、最早無く、徒歩で進む。楊玄感は、もう逃げられないことを知り、言った。
「殺戮の辱めを受けたくない。お前が殺してくれ!」
 楊積善は刀を抜いて楊玄感を殺した。次いで自殺しようとしたが死にきれなかったところを捕らえられてしまった。楊玄感の屍は、東都に三日間晒された。
 楊玄感の弟の楊玄奨は義陽太守だったが、楊玄感のもとへ赴こうとしたところを、郡丞の周旋玉に殺された。楊仁行は朝請大夫だったが、長安で誅殺された。
 韓相国は、楊玄感から河南道元帥に任命されてから旬月のうちに十余万となり郡県を荒らし回ったが、襄城にて楊玄感の敗北を知った。すると、みんな逃げ散ってしまい、韓相国は官吏に捕まった。首は東都へ送られた。 

  

 辛酉、司農卿の趙元叔が、楊玄感の一党とゆうことで誅殺された。
 煬帝は、楊玄感の乱の後始末を裴蘊、樊子蓋、鄭善果、刑部侍郎骨儀等へ任せた。その折、煬帝は裴蘊へ言った。
「楊玄感が一声叫んだだけで、十万の人間が従った。まったく、天下の人間が多いとろくな事がない。大勢集まって盗賊となるだけではないか。悉く殺し尽くさなければ、見せしめにならぬな。」
 樊子蓋はもともと残酷な人間だった。それに加えて裴蘊がこのように言われたのだから、法律を峻辣に適応して、びしびし罪に陥れた。三万人の人間が殺された。その全員が家財を没収され、大半は言いがかりだった。流刑者も六千余人でた。
 楊玄感が東都を包囲した時、官庫を開放して百姓へ振る舞った。この時に米を受け取った者は、全て都城の南に穴埋めとされた。
 楊玄感のもとで文章の名人と言われていた虞綽と王冑は共に流刑となった。二人とも亡命したが、捕まり、誅殺された。
 煬帝は文章が巧かったので、自分以上に巧い人間がいると腹を立てた。彼等が死んだ時、煬帝は彼等の作った佳句を誦して言った。
「こんな佳句も、もう作れまい!」
 煬帝は自分の才学を恃んで天下の士を見下していた。かつて、侍臣達へ言った。
「人々は、朕が血統で皇帝になったと思っているようだ。しかし、士・大夫の中から才覚で皇帝を選んだとしても、きっと朕が選ばれるぞ。」
 ある時、煬帝は秘書郎の虞世南へ言った。
「朕は諫言が嫌いだ。もしも出世したければ、諫言するのは逆効果だ。」 

  

 韋福嗣は、楊玄感が長安へ向かった時に、賊軍を見限って東都へ逃げ込んだ。この時は、このような人間は、皆、不問に処された。後、樊子蓋が楊玄感軍の文書を入手すると、これに封をして、煬帝へ差し出した。やがて、韋福嗣を捕らえて行在所へ連れてくるよう命令が降った。
 李密は逃げ出していたが、捕まって東都へ送られた。
 樊子蓋は、韋福嗣、李密、楊積善、王仲伯等十余人を鎖に繋いで高陽へ送った。
 李密と王仲伯は、何とか逃げ出そうと謀略を練った。彼等は、所持金を護送役の役人へ見せ、言った。
「どうせ我等は殺されるのだ。この金は全てお前達へ遣ろう。ただ、その代わりに旅の間は楽させてくれよ。」
 役人達は金に目が眩んで許諾した。おかげで、彼等の監視は日々緩くなった。また、李密は酒食を買ってこさせて、毎晩役人らと共に宴会を開いた。そのうちに、それが普通になり、役人達は警戒もしなくなった。魏郡にて、役人達が酔いつぶれたので、李密等は逃げ出すことができた。この時、他の囚人達も誘ったが、韋福嗣は言った。
「我は無罪だ。きっとお叱りを受けるくらいだろう。」
 しかし、彼等は皆死刑となった。
 楊積善は、楊玄感を殺したのは自分だとして、命乞いをしたが、煬帝は言った。
「お前は梟だな。」
 楊積善は車裂となり、楊一族を「梟氏」と改姓させた。 

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