隋の煬帝   その三
 
 九年、正月。天下の兵を再びタク郡へ集結させた。始めて民から募兵し、これを驍果と名付ける。遼東の古城を修復して軍糧を貯め込んだ。
 同月、刑部尚書衞文昇等へ、代王侑の補佐役として西京を守るよう命じた。 

 煬帝が高麗親征しているうちに、楊玄感が造反した。詳細は、「楊玄感の乱」に記載する。煬帝は、タク郡から引き返した。各地の盗賊は、益々盛ん。 

 十年、三度目の高麗親征。高麗王は降伏した。詳細は「高麗」へ記載。 

 十一月、煬帝が東都へ御幸しようとすると、ユ質が言った。
「今年は遼を征伐して、民は疲弊しきっております。陛下は関内にて宣撫して、民を農作業に専念させてください。三五年して四海が豊かになってから、巡回すれば宜しいのです。」
 煬帝は不愉快だった。
 ユ質は、病気と言って巡回に従わなかったので、煬帝は怒り、牢獄へぶち込んだ。ユ質は、獄中にて卒した。
 十二月、煬帝は東都へ御幸した。 

  

 十一年、正月。秘書省官を百二十人増員した。全て学士から選抜する。
 煬帝は、読書や著述が好きだった。揚州総管だった頃から、王府には百人からの学士を置いており、常にいろいろな書物の修選をさせていた。皇帝になってから前後二十年近く修選の作業は休まず、その対象も経術、文章、兵、農、地理、医学、卜、仏教、道教と多岐に渡っていた。全てで三十一部、一万七千余巻。
 煬帝の書庫は自動ドアーで、宮人が香へ火を付けると、作り物の天女が降りてきてカーテンを巻き上げてくれた。扉は全て自動に開く。煬帝が退出すると、再び自動で閉じるのだ。 

  

 この頃、逃亡する民が相継ぎ、盗賊も増えた。そこで煬帝は、民は城内へ住むよう詔を出した。また、田も住居に近いところを支給する。郡県駅亭村塢には、全て築城させた。 

  

 話は遡るが、申明公李穆が卒した時、孫の李均が襲爵した。彼の叔父の李渾は、李均がケチなのに腹を立て、賊を雇って殺した。ところで、李渾の妻は宇文述の妹だった。そこで、李渾は宇文述へ頼んだ。
「俺が襲爵できるよう運動してくれ。もしもうまくいったら、公国の収入の半分を上げるから。」
 宇文述は、当時皇太子だった煬帝へ頼み、それは文帝へ上奏され、結局、李渾が李穆の跡継ぎとなった。
 ところが、李渾は襲爵して二年経っても、宇文述へお金を渡さなかった。宇文述はすごく恨んだ。
 煬帝が即位すると、李渾は順当に出世し、右驍衞大将軍となった。彼の一門は皆、勢力があったので、煬帝はこれを忌むようになった。
 この頃、方士の安伽施が言った。
「李氏が天子となる。」
 そして、海内の李姓の者を全員殺すよう、煬帝へ勧めた。
 昔、隋の文帝は洪水で都が水没する夢を見て、縁起が悪い、と、大興へ遷都した(開皇三年)が、李渾の従子の李敏の幼名は、”洪児” と言った。煬帝はこの符合から、彼を疑った。
 疑われた李敏は大いに懼れ、李渾などとコソコソ話をすることが多くなったが、おかげで益々疑われた。すると、煬帝へ諂って李渾の造反を告げる者が出る。とうとう煬帝は李渾を捕らえて裴蘊等に調べさせた。
 裴蘊は数日調べたが何の証拠も見つけられず、それをそのまま上奏した。そこで煬帝は、今度は宇文述に調べさせた。宇文述は、李敏の妻の宇文氏をだきこみ、造反計画をでっち上げて告発した。煬帝は泣いて言った。
「公のおかげで、この国が滅びずに済んだ。頼りになるのは公だけだ。」
 三月、李渾、李敏始め宗族三十二人を殺した。数ヶ月後、李敏の妻も毒殺された。彼女は北周の天元の娘である。 

  

 二羽の孔雀が、西苑から集寶城の朝堂前へ飛んだ。親衞校尉高徳儒等十余人がこれを見て、鸞が飛んできたと報告した。検分に来たときには、孔雀は飛んでいっており、確かめる術もなかったが、百僚はこれを慶賀した。
”高徳儒が嘉祥を最初に見つけたのは誠心の至りである。”と詔が降り、彼は拝朝散大夫に抜擢され、帛を百段賜る。その他の者も、皆、束帛を賜下された。
 これを記念して、儀鸞殿が造られた。 

  

 十二年、正月。慶賀がやってこない郡が二十余もあった。盗賊が暴れ回っているせいである。十二道から兵を動員して盗賊を討伐することが、始めて提案された。 

  

 毘陵通守路道徳へ、郡の東南へ宮苑を造るよう詔が降りた。動員する郡兵は数万人。苑の周囲は十二里。その内側に十六の離宮がある。これらは、大抵洛陽の西苑をモデルにしているが、綺麗さはそれ以上だった。
 また、会稽にも宮を築きたがったが、乱が起こったので果たせなかった。 

  

 四月、大業殿の西院で出火した。煬帝は、群盗が攻め込んだかと驚き、西苑へ逃げ込んで草むらに隠れた。鎮火してから、戻る。
 煬帝は、八年頃から夜毎に飛び起きて「賊が攻めてきた」と叫ぶことが増えてきた。
(訳者、曰く。秦の二世皇帝を始めとして、国の滅亡当日までそれを知らなかった皇帝は多い。皇帝が臣下の口を塞いだら、情報は絶対に耳に入らないからだ。煬帝は、それを知っていたのだろう。群盗は大業七年頃から決起し始めた。大業八年なら、まだそれ程の勢力はなく、隋はそれ以後に何度も高麗討伐ができるほどの国力を有していた。それなのに、耳にする情報の全てが信じられないと、疑心暗鬼に駆られてしまうのも無理はない。まだまだ平穏だった頃でさえもビクビクと暮らさなければならなかったのだから、なんとも間の抜けた話ではないか。)
 煬帝が、侍臣達へ群盗の実情を訊ねた。すると宇文述が言った。
「減っています。」
「従来と比べてどうかな?」
「十分の一もいません。」
 この時、蘇威は柱の後ろへ隠れた。煬帝が前へ呼び出して訊ねると、蘇威は答えた。
「臣の管轄ではありませんので定かには判りませんが、破局は日々近づいています。」
「何で判る?」
「昔は、賊が長白山に據ったと聞きましたが、今は水まで来ています。それに、かつて徴発していた丁役達は、今はどこにいるのですか!みんな盗賊になってしまったのではありませんか!これから判じるに、盗賊に関する報告が全て偽りだと判ります。しかし、その虚偽を信じて対策を立てていた為に、抜き差しならぬ所まで来てしまったのです。それに、去年雁門にて遼討伐の中止を宣言なさいましたが(詳細は「突厥」に記載)、たちまち反古になさいました。これでどうして盗賊がいなくなりましょうか。」
 煬帝は不機嫌になった。
 五月、皆既日食が起こった。
 この月、煬帝は景華宮にて蛍遊びをした。その為に、数斛の蛍が山に放たれた。蛍の光は、谷間をあまねく埋め尽くした。
 五月五日、百僚達が煬帝へ献上品を持ち寄った。皆は珍奇な宝物を持ってきていたが、蘇威だけは尚書を献上した。すると、ある者が讒言した。
「尚書には、五子の歌があります。(夏の太康が外遊にのめり込み、都を長いこと空にして国を滅ぼしてしまった事を歌った詩。)蘇威はなんと不遜な男でしょうか!」
 煬帝はますます怒った。
 この頃、煬帝は高麗討伐について蘇威へ下問した。蘇威は、天下に盗賊が溢れ返っている実情を煬帝に伝えたくて、答えた。
「今回の遠征では、兵を徴発するよりも、盗賊達を赦免するべきです。彼等が帰順して我等の兵となれば、即座に数十万の兵力が手に入ります。彼等は今までの罪を帳消しにして貰えるので、喜んで戦うでしょう。そうすれば高麗など、簡単に滅ぼせます。」
 煬帝は許可しなかった。
 蘇威が退出すると、裴蘊が言った。
「不遜の極みでございます。天下のどこに、そんな多くの盗賊がおりましょうか!」
「老人は狡猾だ。盗賊にかこつけて朕を脅しつけたか!我慢できんな。」
 裴蘊は煬帝の意向を知って、白河白衣の張行本へ告発させた。
「九年、蘇威が高陽へ行った居り、官位を乱発しました。昨年は突厥を畏れて、長安へ早く帰るよう急かしました(詳細は、「突厥」に記載)。」
 煬帝がこれを審議させたところ、有罪となったので、裴蘊に判決文を書かせて庶民へ落とした。
 後、一月ほど経って、再び蘇威を密告する者が居た。突厥と手を結んで造反を企んでいるとゆうものだ。これを裴蘊へ審議させたところ、死罪を求刑した。それに対して蘇威は弁明できず、ただ赦しを請うだけだった。煬帝は、憐れになって、これを赦した。
「まだ、殺すには忍びない。」
 しかしながら、蘇威は子孫三代まで全員庶民へ落とした。 

  

 七月、済景公樊子蓋が卒した。 

  

 楊玄感の乱で龍舟や水殿が全て焼けてしまったので、大業十一年、これを作り直すよう、江都へ詔を出した。その舟の数は、凡そ数千隻だった。
 十二年、江都から、完成した龍舟が送られてきた。そこで宇文述は、江都への御幸を勧めた。すると右候衙大将軍趙才が言った。
「今、百姓は疲弊しており、官庫は空っぽ、盗賊は各地で蜂起しており、法律など誰も遵守しません。どうか陛下、速やかに長安へ帰り、民を安らげてください。」
 煬帝は激怒して、趙才をお目見え禁止としたが、十日ほどして赦してやった。
 朝臣達は誰も行きたがらなかったのだが、煬帝の想いが堅かったので、敢えて諫める者は居ない。建節尉の任宗が上書して言葉を極めて諫めたが、煬帝は、即日朝堂にて杖で殴り殺した。
 甲子、煬帝は江都へ御幸した。留守のことは、全て越王同と、光禄大夫段達、太府卿元文都、検校民部尚書韋津、右武衞将軍皇甫無逸、右司郎盧楚等へ命じた。韋津し、韋孝寛の子息である。
 奉信郎崔民象が盗賊が横行していることを理由に、建国門にて諫文を上書した。煬帝は激怒して、まず崔民象の顎を砕いてから斬った。
 馮翊の孫華が挙兵して盗賊となった。虞世基は盗賊が充満しているので、兵を動員して洛口倉を守るよう進言した。すると、煬帝は言った。
「卿は書生だから臆病なのだ。」
 御幸の途中、奉信郎王愛仁が長安へ戻るよう請願したが、煬帝はこれも斬り殺した。
 梁郡でき郡人が車駕へ迫って上書した。
「陛下が江都へ行かれたら、天下は陛下のものではなくなります。」
 これも斬った。
 この頃、李子通は海陵に、左才相は淮北に、杜伏威は六合に拠点を構え、各々数万の兵力を擁していた。煬帝は光禄大夫陳稜へ精鋭六千を与えて討伐させ、屡々勝った。 

  

 十月、宇文述が卒した。
 彼の子息の宇文化及と宇文智及はともに無頼漢だった。しかし宇文化及は、煬帝とは皇太子時代から昵懇で、煬帝が即位すると太僕少卿となった。
 末弟の宇文士及は、煬帝に媚びることばかり考えていたので、いつも宇文智及を馬鹿にして、ただ宇文化及とだけ昵懇にしていた。 

 十二月、蔡王の楊智積が卒した。
 煬帝は骨肉を疎んじていたので、楊智積は、いつも怯えていた。だから、病気になっても医者さえ呼ばなかった。
 臨終の時、親しい者へ言った。
「これでようやく安堵できる。」 

  

 煬帝は、群盗が暴れている話を聞くのを嫌がった。だから、官軍が敗北して援軍を求める要請が入っても、虞世基がこれを握りつぶして煬帝へは伝えなかった。
「あんな連中は鼠や狗のようなもの。郡県が捕逐していますから、やがて根絶やしにできます。どうか陛下、心をお煩わしなさいますな。」
 煬帝はそれで納得し、ある時は使者が「妄言を吐く」として杖でぶったこともあった。こうして、群盗が四海に溢れ返っており、郡県が次々と陥落しているのに、煬帝はこれをまるで知らなかった。
 楊義臣が河北で賊徒を数十万退治したとの報告を受けると、煬帝は嘆じて言った。
「賊徒はそんなに多かったのか。楊義臣は何と多数の賊徒を降伏させたことか!」
 すると、虞世基は言った。
「でも、そんな連中は烏合の衆で、どれだけ多くても心配要りません。しかし、楊義臣が外にいて大兵力を擁しているのは、後の患いとなります。」
 煬帝は、これに賛同し、楊義臣の兵を解散させた。これによって、賊軍達は、再び勢力を盛り返した。
 韋雲起が劾奏した。
「虞世基と裴蘊は権力の中枢におり、四方からの変事の報告を全て握りつぶしています。賊の数は多いのに、少なく報告していますので、その数を聞いた陛下は少数の兵卒の動員しか認めません。それ故、衆寡敵せず、官軍の敗北が相継ぎ、盗賊共は益々はびこるのです。裁判に掛け、正しく裁いてください。」
 すると、大理卿鄭善果が言った。
「韋雲起は、自分の権力を高めるため、根も葉もないでっち上げで朝政を誹謗し名臣を譏っております。」
 韋雲起は大理司直へ降格させられた。 

  

 煬帝が江都に到着すると、江・淮の郡官が次々に謁見に来たが、彼等の評価は礼物の豊薄で決まった。豊かだったら昇進し、薄ければ降格する。江都郡丞の王世充は、銅鏡の屏風を献上して通守へ昇格し、歴陽郡丞の趙元階は珍味を献上して江都郡丞となった。これによって官吏達は、庶民から絞れるだけ税金を搾り取るようになってしまった。 
 庶民は、外は盗賊から掠められ、内は税金で奪われ、とても生活ができなかった。それに飢饉まで加わると、木の皮や土まで食べ、遂にはお互いに食べあうようになった。それでいて、官庫には穀物が溢れている。だが、官吏は皆、法を畏れ、民を救済しようとする者は、一人も居なかった。
 王世充は、密かに民間から美女を集めて煬帝へ献上したため、ますます寵用された。 

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