隋の煬帝   その二
 
  大業四年(608年)、河北諸軍百余万を徴発して永済渠を掘らせた。沁水の南から黄河へ達し、北はタク郡へ通じる。
 この工事では丁男が不足し、婦人まで労役に駆り出した。 

 三月、倭王の多利思比孤が朝貢した。
 その書に曰く、
「日の出る所の天子が、日の没する所の天子へ書を致します。恙なきや。」
 煬帝はこれを読んで不機嫌になり、鴻臚卿へ言った。
「蛮夷からの無礼な書状は、取りつがなくても良い。」 

 煬帝は、交通の途絶した外国へ使者となる者を募集した。すると、屯田主事の常駿が赤土への使者へ名乗りを挙げた。煬帝は大いに悦び、五千段の斎物を赤土の王へ贈るよう命じた。赤土は、南海にある遠国である。
 十月、常駿は赤土へ到着した。赤土王利富多塞は、三十艘の船を出して迎え入れる。常駿等は百日の航海で上陸し、その後一ヶ月ほど掛けて国都へ到着した。王の居城は大変きらびやかで、使っている器物も贅を極めていた。赤土王は、常駿を下にも置かずもてなし、子息の那邪迦を使者として、常駿と共に入朝させた。
(訳者、曰く。上陸してから国都まで一ヶ月もかかった。赤土とは、今のどこに当たるのだろうか?) 

 煬帝は連日のように宮殿の造営に明け暮れた。両京や江都にはたくさんの苑亭が造営されたが、どれも暫くすると厭きてしまい、御幸ごとに新しい邸宅を造らせるのだ。
 また、天下山川の図を作らせ、自身で歴覧し、景勝の地を見つけるたびに宮苑を造らせた。
 四月、汾水の水源地に、汾陽宮を造営した。 

 元徳太子が死んでから、河南尹の斉王東(「日/東」)が世継ぎとなった。元徳太子の元にいた二万余の吏兵は、全て斉王の配下となる。また、煬帝は光禄少卿の柳誉之を斉王の長史とし、彼を戒めて言った。
「斉王が徳行を修めるのも、富貴になるのも、全て卿にかかっている。もしも不善があれば、その罪は卿にも及ぶぞ。」
 柳誉之は、柳慶の従子である。
 斉王の寵遇は日々盛んになり、謁見を求める百官は道路を埋めるほどだった。これによって斉王は次第に驕慢となり、小人達なれしたしみ法律を無視するようになった。斉王は、近習の喬令則、庫狄仲奇、陳智偉等に美女を探させる。
 喬令則等は増長し、民間に美女がいると聞けば斉王の命令と騙って強奪し、斉王の邸宅で弄んでから家へ帰すようになった。また庫狄仲奇と陳智偉は、隴西へ行き、諸胡から名馬を強奪して斉王へ献上した。斉王は持ち主へ返すよう命じたが、二人は自宅へ持ち帰り、斉王からの賜といつわった。これらのことは、斉王の知らぬ事である。
 かつて、楽平公主が煬帝へ言った。
「柳氏の娘は美人です。」
 しかし、煬帝が何も言わなかったので、彼女は今度は斉王へ勧めた。斉王は彼女を後宮へ入れた。
 しばらく経って煬帝が柳氏の娘のことを訊ねると、楽平公主は彼女が斉王の後宮へ納れられたと答えたので、煬帝は気分を害した。
 斉王が煬帝と共に汾陽宮へ御幸した時、盛大に狩猟を行った。その得物の鹿や麋を煬帝に献上したが、煬帝はまるで収穫がなかったので、斉王の従官へ怒鳴り散らした。すると彼等は口を揃えて言った。
「斉王が大勢で包囲して、獣を独占したのです。」
 煬帝は怒り、斉王の罪失を求めた。
 この頃の制度では、県令は理由もなしに統治する県を離れてはいけないことになっていたが、伊闕県の県令皇甫羽は、斉王のお気に入りで、禁令を無視して汾陽宮へ遊びに来ていた。御史の韋徳裕は、煬帝の意向を汲んで、この件で斉王を弾劾した。そこで煬帝は武装兵千人で斉王の邸宅を捜索し、彼の余罪を糾明するよう命じた。
 斉王の妃の韋氏は早くに卒していた。斉王は、妃の妹の元氏と密通して一子をもうけた。又、元徳太子には三人の男児がいたので、斉王は自分が即位できないことを恐れ、呪いをやらせていた。これらのことが、全て暴露されてしまった。
 煬帝は激怒して、喬令則等数人を殺し、元氏を自殺させた。また、斉王の幕僚達は全て遠流とした。柳誉之は、斉王を匡正できなかったとして、除名された。
 この時、煬帝の三男の趙王杲はまだ幼かったので、煬帝は侍臣へ言った。
「朕の息子は、今は東だけしかいない。そうでなかったら、こいつを市場で斬り殺して国法を明確に示してやるのに。」
 これ以来、斉王の恩寵は日々衰えた。官職こそは京兆尹のままだったが、政治には全く関与させて貰えなくなった。それだけではなく、虎賁郎将の一人が、必ず彼を監視し、ほんのわずかな過失でも容赦なく煬帝へ告げるようになった。
 煬帝は、斉王が造反することを常に警戒し、彼の幕僚には老弱のみを配置して、ただ規定の頭数だけを揃えた。
 太史令ユ質はユ秀才の息子だが、彼の息子が斉王の幕僚だったので、煬帝はユ質へ言った。
「汝は息子を斉王へ仕えさせているが、我へ一心に仕えることができないのか?どうゆう了見だ!」
 するとユ質は答えた。
「臣は陛下へ、そして臣の子息は陛下のご子息へ、一心に仕えております。」
 しかし煬帝の怒りは収まらず、ユ質を合水令へ左遷した。 

 七月、丁男二十万人を徴発して楡谷から東へ長城を延ばした。 

 九月、天下の鷹匠を全員東京へ集めた。その数は、一万人を超えた。 

 五年、東京(洛陽)を東都と改名する。
 天下へ均田を詔した。また、民間人が鉄叉などの武器を持つことを禁じた。 

 正月、煬帝は東都を出発し、二月に西京へ到着。そのまま西巡して吐谷渾を撃った。詳細は「吐谷渾」へ記載する。
 この遠征の最中、煬帝は、給事郎の蔡徴へ言った。
「古の天子には巡狩の礼があった。それなのに江南の天子達は白粉まみれで後宮に引きこもりっぱなし。百姓の生活を見て回ろうともしなかった。どうしてこんな理があろうか。」
 すると、蔡徴は答えた。
「だからこそ、あれらの王朝は長続きしなかったのでございます。」
 この遠征で、隋は西方まで領土を広げ、西域との通路が開けた。
 この時、天下に百九十郡、千二百五十五県があり、戸数は八百九十万戸。その領土は東西九千三百里、南北一万四千八百十五里。隋氏の隆盛は、ここに極まった。
 西京及び西北の諸郡から塞外へ持ち出す兵糧は、毎年億万を数えた。輸送の途中で盗賊などに襲われて行方不明となってしまったら、郡太守や県令はもう一度徴発した。これによって、大勢の農民が破産して、流浪の民となってしまった。 

 この頃、民間の戸籍には偽りが多かった。わざと登録しなかったり、丁男を老人や子供と偽ったりしていたのだ。そこで民部侍郎裴蘊が、これを徹底的に洗い直すよう上奏した。一人でも誤魔化しがあったら、官司は解任とゆう厳しいもの。又、民へ対しても一丁の誤魔化しを密告した者へは賦役を免除させ、その分は誤魔化していた相手へ負担させると布告した。
 この年、全国で丁男二十万三千を含む六十四万千五百人の人口が増加した。
 煬帝は、百官へ言った。
「前代は明盲ばかりだ。こんなにも見落としがあった。今、こんなに戸籍が増えたのは、全て裴蘊の手柄である。」
 これ以来、裴蘊は次第に親任されるようになり、程なく御史大夫へ抜擢され、裴矩や虞世基と共に機密を参掌するようになった。
 裴蘊は煬帝の顔色を窺うのが巧った。
 これ以後、大小の疑獄は全て裴蘊が裁断するようになったが、彼は、罪に陥れたい相手は法を曲げてでも有罪とし、宥めたい者は最も軽い判例を捜し出して無罪とした。だから、裴蘊と敢えて争う者は居らず、皆が彼の手下になった。裴蘊はまた、弁も立ち、立石に水と言葉が出る。時人で彼を詰れる者は居なかった。 

 内史侍郎の薛道衡は、才学で名高かった。長い間権力の中枢にいたが、文帝の末期に襄州総管として出向させられた。煬帝は、即位すると、当時番州刺史だった薛道衡を中央へ呼び戻して秘書監に任命しようと欲した。
 薛道衡は都へ帰ると、高祖文皇帝頌を造って献上した。これを読んだ煬帝は不機嫌になって蘇威へ言った。
「薛道衡は先朝をこんなに褒めている。これは魚藻の同類か。」
 魚藻とゆうのは詩経「小序」の一編で、幽王を風刺した作品である。そして煬帝は、薛道衡を裁くよう、司隷大夫へ命じた。
 司隷刺史の房彦謙は、薛道衡へ、賓客との交わりを断ち腰を低くして恐惶の意を示すよう助言したが、薛道衡は用いなかった。
 裁判には、えらく時間がかかった。と、言うのは、丁度新しい法令を造ることになったので、そちらに手を取られて、なかなか判決が降りなかったのだ。
 薛道衡は朝士へ言った。
「高穎が生きていたら、こんな法令は絶対施行されなかったものを。」
 これを密告する者が居たので、煬帝は怒って言った。
「汝は高穎を憶えているのか!」
 そして、裁判を急がせた。すると、裴蘊が言った。
「薛道衡は才覚に驕り旧臣とゆう立場を恃み、主君をないがしろにして国悪を推し進め禍端を妄りに造りました。その罪行から論じるなら微小にも見えますが、その心情を論じるならば悖逆は深いと言えます。」
 煬帝は答えた。
「その通りだ。我は若い頃彼と共に陳討伐に出たが、我を幼いと軽んじて高穎、賀若弼等と共に栴檀横行しておった。我が即位してからは内心不安だらけだったろうが、天下平穏だったので造反できなかっただけだ。公の論じた薛道衡の悖逆は、その本心を衝いている。」
 薛道衡は、自分の犯した罪は軽微なものだと思っていたので、憲司達へ早く判決を下すよう催促していたほどだった。そして、やがて煬帝から特赦の使者が来るものと思い、彼等を丁寧に迎えようと準備までしていた。判決が出ると、極刑である。薛道衡は承服できなかった。しかし、憲司は、再審の上絞首刑とした。妻子は流刑になる。
 天下の人々は、冤罪だと評した。 

 六年、正月、癸亥の明け方、数十人の盗賊が建国門から押し入った。皆、冠も被らない粗末な身なりで、香を焚いて手に華を持ち、自ら弥勒仏と名乗っていた。門番達が首を垂れて敬うと、彼等は衞士の仗を奪い、乱を起こそうとした。たまたま斉王東がこれと出くわし、切り捨てた。
 この事件で都中が捜索され、千余家が連座された。 

 同じく正月、煬帝は諸蕃の酋長を洛陽へ集めた。
 丁丑、端門街にて百戯を盛大に催した。戯場の大きさは、周囲五千歩。楽器を奏でる者は一万八千人。その音楽は数十里先まで聞こえた。黄昏から明け方まで、松明が皎々と燃えさかって天地を照らし、一ヶ月間闇がなかった。その為、巨万の費用を費やす。
 以来、これが毎年の恒例となった。
 蕃人達が、豊都の繁華街の見物を請願したので、煬帝は許諾した。だが、彼等が見物するに先立って、店肆を飾り立てるよう命じた。全ての露店には美しい幔幕が張り巡らされ、珍貨が山積みされた。粗末な野菜売りでさえ、高価な絨毯を布いていた。蕃人が飲食店へ入ると、厭きるほど飲み食いさせた上代金は一切受け取らず、言った。
「中国は豊かな国ですから、飲食の代価は取らないのが慣例なのです。」
 胡人達は度肝を抜かれてしまった。
 ところが、中にずる賢い者が居た。彼は都へ来る途中の民の窮乏を憶えていたので、辺りの木々に巻き付けてある帛を指さして言った。
「中国にも貧しい民がおり、彼等が纏っている衣服はボロボロだった。この布を、彼等に与えずに木々へ纏わせているのはどうしてですか?」
 市場の人は恥じ入って答えることができなかった。
(訳者、曰く)
「諸蕃請豊都市交易」とありました。「豊都市」とは、固有名詞でしょうか?それとも「都で一番のショッピング街」とゆう意味でしょうか?いずれにしても、意訳するなら「蕃人達は、『繁華街へショッピングに行かせてください』と請願した。」となります。
 この当時、西域諸国から見たら隋は一番の文明国ですから、他の国々から出てきたら、やっぱり、「繁華街へ行きたいぜぃ」とゆうことになるのでしょう。 つい最近まで、諸外国の方々が日本へ来たら、秋葉原へ行きたがっていました。あれと同じ様な気持ちでしょうね、きっと。古今東西を問わず、都会へ行ったら、まずはショッピング!娯楽の王道です(^^)
 ところで、市場の人間をやりこめた蛮人は、原文では「黠者」です。「黠」とゆう字を辞書で引いたら、「ずる賢い」と載っていました。ですから「ずる賢い者が」と訳しましたが、どこが「ずるい」のだか。単に「賢者」と記してもよさそうに思うのですが。中国をやりこめた蕃人は、青史では「黠者」と記されるのでしょうか?まあ、中国の歴史書ですからね。 

 煬帝は、裴矩の有能さを褒めようと、群臣へ言った。
「裴矩は朕の心を知っている。彼が上奏することは全て、朕が思っていて未だ言葉にしないでいることばかりなのだ。誰が彼以上に、御国の為に心を尽くせるだろうか!」
 この頃、裴矩、宇文述、虞世基、裴蘊そして光禄大夫の郭衍が媚びへつらいで寵用されていた。
 郭衍は、かつて煬帝へ、朝廷へは五日に一度だけ顔を出すように勧め、言った。
「高祖はただ、意味もなく自分を苦しめていただけです。真似をしても意味有りません。」
 煬帝は、それこそ彼の忠義の顕れと思い、言った。
「朕と同じ心を持つ者は、ただ衍一人だけだ。」
 後、郭衍は真定襄侯へ封じられ、七年に卒した。 

 煬帝は、両都の巡遊の時にも、常に僧、尼、道士、女官を引き連れており、これを「四道場」と言った。蕭宗の甥の梁公蕭鉅や、千牛左右の宇文sなどは、煬帝から寵愛されており、煬帝は彼等や尼、僧、道士、寵姫達と共に酒宴を開いた。酒で乱れれば淫行は憚らずに行われた。彼等と妃嬪や公主とのスキャンダルはいくらでもあったが、煬帝は彼等を罰しなかった。 

 二月、功績のあった者のみに封地を賜り、子孫へ継承することを認める、と詔が降りた。旧来の五等爵を賜った者の中で功績のない者は、爵位を剥奪された。 

 三月、煬帝は江都へ御幸した。 

 煬帝はもともと汾陽宮を盛大に造営したがっていた。そこで、御史大夫の張衡へ設計するよう命じると、張衡は、暇な折に煬帝を諫めた。
「最近は労役が頻繁に起こり、百姓は疲弊しきっております。どうかもう少し我慢なさってください。」
 煬帝はムカついた。
 かつて煬帝がタク郡へ御幸した時、謁見した父老達の衣冠が無様だったことがある。そこで、これは御史大夫の手落ちであると蒸し返し、張衡を楡林太守へ左遷した。
 それからしばらくして、張衡は楼煩城の築城を命じられた。煬帝が巡幸して来たので、張衡は謁見することができた。この時、張衡は痩せていなかった。それを見た煬帝は、自分の咎を自責していないのだと思い、張衡を憎み、言った。
「公がそんなに肥ったのは、きっと楡林が肌にあっていたのだろう。」
 そして、楡林へ追い返した。
 しかし、それからすぐに、張衡へ江都宮の造営の監督を命じた。
 礼部尚書楊玄感が使者として江都へ来ると、張衡は楊玄感へ言った。
「薛道衡は、全くの冤罪で殺された。」
 楊玄感は、これを上奏した。
 江都郡丞の王世充もまた、張衡が飾り付けを質素にしていると上奏した。
 とうとう煬帝は怒りを発し、張衡を処刑するよう命じたが、しばらくして赦し、庶民へ落として田里へ放した。そして王世充を江都宮監とした。
 王世充は、もともと西域の胡人で、姓は支氏だった。幼い頃、母親が王氏と再婚したので、王氏を名乗るようになった。
 王世充は生粋の詐欺師で、弁が立ち、書伝を漁り読み、兵法を好み、律令を学んだ。煬帝は屡々江都へ御幸したが、王世充は煬帝の顔色を窺って媚びへつらうのが得意だった。また、池台は綿密に飾り立て、珍物を献上したので、寵遇されるようになった。
 六月、江都太守の地位を、京兆尹と同格にした。
 張衡を田野へ帰した後も、煬帝は常にこれを監視させていた。八年、煬帝は高麗親征に出かけたが、失敗して帰ってきた。すると、張衡の妾が、煬帝へ密告した。
「張衡は怨み、朝政を誹謗しています。」
 煬帝は、張衡へ自殺するよう命じた。
 死に臨んで、張衡は大声で言った。
「あいつを皇帝にさせる為に、どれだけ力を尽くしたと思っている!俺ののぞみはただ生きていたいだけなのに!」
 刑に臨んだ人間は耳をふさぎ、ただ自殺を急がせた。 

 六年、十二月、牛弘が卒した。
 牛弘は寛大温厚恭謙倹約で、学術は精博。隋朝の旧臣で、始終変わらずに信任されたのは、彼一人だけだった。
 弟の牛弼は酒好きで、酒癖が悪かった。ある時酔っぱらって、牛弘の駕車の牛を射殺したことがある。
 牛弘が帰ってくると、妻が言った。
「叔が牛を射殺しました。」
 しかし牛弘は平然として答えた。
「肉は塩漬けにすればよい。」
 席に就くと、妻は又言った。
「叔が牛を射殺したのですよ。一大事じゃありませんか!」
 すると牛弘は言った。
「さっき聞いたよ。」
 牛弘は顔色も変えずに、読書を続けた。 

 百官が車駕に随従するときの服装は、袴褶だった。煬帝は、これでは軍旅に不便だと考え、詔した。
「車駕に随従して旅する文武官は、皆、戎衣とせよ。五品以上は通著紫袍、六品以下は兼用ヒ(糸/非)緑、胥吏は青、庶人は白、屠商はハク(白/十)、士卒は黄とする。」(これ以来、文武官の常服は、品位によって色が変えられるようになった。) 

 七年二月、煬帝は楊子津へ臨んだ釣台へ上がり、百僚と大宴会を開いた。
 乙亥、煬帝は江都からタク郡へ御幸した。高麗討伐の為である。四月、高麗討伐の詔が降りた。全国の兵卒を動員した。攻具も多量に造らせ、兵糧と共にタク郡へ集めた。詳細は、「高麗」に記載する。
 七月、山東、河南にて大水が起こり、三十余郡が水没した。十月、底柱が崩れ、黄河をせき止めたので、黄河は数十里も逆流した。この頃、各地で群盗が決起した。詳細は「群盗」へ記載する。 

 嵩高に潘誕とゆう道士がいた。三百才と自称し、煬帝の為に金丹を練ると申し出た。煬帝は彼の為に壮大な屋敷を造ってやり、嵩陽観と名付けた。男女の童子百二十人を賜り、三品の位も与える。彼は常に数千人を使役し、巨万の費用を費やした。彼は、「金丹には石膽と石髄が必要だ。」と言ったので、石工を大勢使い、数十ヶ所で深さ百尺も掘り下げた。
しかし、六年ほど立ったのに、金丹はできない。
 八年、煬帝が詰ると潘誕は言った。
「石膽と石髄では駄目です。童男童女の膽と髄が、各々三斛六斗必要です。」
 煬帝は怒り、これを斬った。
 潘誕は、死に臨んで言った。
「これは、天子に福がなかったのだ。我は、時が至ったので、尸解する。」 

 九年、正月。天下の兵を再びタク郡へ集結させた。始めて民から募兵し、これを驍果と名付ける。遼東の古城を修復して軍糧を貯め込んだ。 

 同月、刑部尚書衞文昇等へ、代王侑の補佐役として西京を守るよう命じた。 

 煬帝が高麗親征しているうちに、楊玄感が造反した。詳細は、楊玄感の乱に記載する。