隋の煬帝   その一
 
  

 仁寿四年(604年)、七月。煬帝が即位した。
 十一月、煬帝は洛陽へ御幸した。晋王昭を留守役として長安へ留めた。
 同月、数十万の丁男を徴発して塹壕を掘らせた。龍門から、東は長平、汲郡へ接し、河を渡って浚儀、襄城へ至り、上洛へ達する。 

 大業元年(605年)、三月。楊素と納言楊達、将作大匠宇文豈に東京(洛陽)を造営させた。毎月二百万人の役丁を徴発し、洛州郭内の居民や諸州の富豪達数万戸を東京へ移住させた。
 又、宇文豈と内史舎人封徳彜へ、顕仁宮を造営させた。多量の奇材異石が大江の南や五嶺の北から洛陽へ運び込まれた。又、海内から嘉木異草、珍禽奇獣を求めて園苑を満たす。
 辛亥、河南淮北の民を前後百余万人徴発して通済渠を掘らせた。これは、西苑から穀、洛の水を引いて黄河へ達する。また、板渚から黄河の水を引き、栄澤を経てベンへ入り、大梁の東からベンを引いて泗水へ入り、淮河へ達する。
 又、淮南の民十余万人を徴発して、干溝を掘らせた。これは、山陽から揚子江へ入る。
 渠の幅は四十歩。渠の傍らには御道が造られ、柳が植えられた。長安から江都まで四十余所へ離宮が造られた。
 庚申、王弘を江南へ派遣して、龍船及び雑船数万艘を造らせた。
 東京の官吏達は、工事を早く完成させようと厳しく督促したので、役丁は四、五割方が死んでしまった。役人達は、役丁の死骸を車に載せて棄てたので、東は城皋から北は河陽へ至るまで、道端に死骸がゴロゴロ転がっていた。
 又、東京に天経宮を造営し、四時に高祖を祭った。
 東京は、大業二年に完成した。宇文豈は、この功績で開府儀同三司となる。 

  

 五月、西苑を造営した。周囲二百里。
 苑内には周囲十余里の人造海を造り、海野中には蓬莱、方丈、瀛洲の三つの島があった。島の中の築山は、水面から百余尺突き出ている。そして、山の上には立派な殿閣があった。
 北側には龍鱗渠があり、海内へ注いでいる。渠に沿って十六の離宮が造られた。それぞれ、門は渠へ臨んでいる。そして、離宮毎に四品夫人を住まわせた。離宮の装飾は華麗を極める。

 宮内の樹木は、秋や冬になると葉が落ちる。そこで、綾絹で葉を造り、枝枝へ綴り付けた。絹の色があせると新しいものと交換したので、いつまでも色鮮やかで、いつでも春のような有様だった。
 十六人の夫人達は、煬帝の恩寵に預かろうと華麗を競う。煬帝は、月夜に数千人の宮女と共に西苑で遊ぶのが好きだった。自ら清夜遊曲とゆう曲を作り、馬上にて演奏した。 

  

 煬帝は、諸王へ対して恩寵が薄いのを自覚していたので、彼等が造反するのではないかと猜疑心が強かった。トウ王綸、衞王集等は内心不安で、術者を呼んでは吉凶を聞いたり、福を祈ってもらったりしていた。すると、ある者が、呪詛をしていると密告した。裁判に掛けたところ、役人は誅殺を請願した。
 七月、トウ王と衞王を庶民に落とし、僻地へ流した。 

  

 八月、煬帝は江都へ御幸した。王弘は龍船を出して迎えた。
 龍船は四階建て。高さは四十五尺。長さは二百丈。最上階には正殿、内殿、東西の朝堂があった。二階と三階は百二十室あり、皆、金玉で飾り立てられていた。最下階は内侍が寝起きした。
 皇后の乗る船は、これよりも一回り小さかったが、構造は大体同じだった。
 他にも豪華な船が沢山あり、全てで数千艘。後宮、諸王、公主、百官、僧尼、道士、蕃客などが乗っていた。(もっと詳細に既述されていますが、小説や歴史書に書いてある通りですので、省略します。興味のある方は、隋紀四、中華書房版なら5621頁をお読みください。) 

 二年、二月。牛弘へ、新しい朝服や乗輿などの作成を命じた。開府儀同三司の何稠が、多くの図書を参照し、古今を漁って作定する。これは華盛なもので、煬帝の御意に叶った。乗輿から皇后や百官の朝服まで、全て作り替えられる。その為に必要な羽毛などは、州県へノルマを課した。だから民衆は、禽獣を捕らえるために水陸へ網をかぶせ、美しい羽毛を持つ動物は絶滅するほど採り尽くされた。
 こんな話が遺っている。
 烏程に、百尺を越えるほど高い樹があった。そのてっぺんに鶴が巣を掛けていたが、その樹には足がかりになる枝がはえてなかった。民はその羽毛を取りたかったので、樹木を根本から切り倒すことにした。弦はそれを見て、雛達まで殺されてしまうことを懼れ、自ら羽を抜いて散らした。これを見た人は、瑞兆として言った。
「天子が羽毛を求めたら、禽獣でさえ自らの羽を抜いて献上したぞ。」
 この衣替えの為に、のべ十万人の労力がかかり、かかった金銀は億を数えた。
 三月、煬帝は江都を出発し、四月、千乗万騎を従えて東京へ入った。
 辛亥、大赦を下し、天下へ今年の租賦を免除する。
 五品以上の文官が乗る車や弁服は珠玉で飾り付けられられる。文物の盛大なことは、近世随一だった。 

  

 六月、楊素が司徒となった。
 七月、百官の進級には、著しい徳行や功績が必要だと敕が降りた。煬帝は、名位などの賜下に吝嗇で、官吏達は、なかなか昇格できない。たとえ欠員ができても、兼任させるばかりで、昇格することがなかった。
 当時、牛弘が吏部尚書だったが、政務を専断することはできなかった。とゆうのは、納言蘇威、左翊衞大将軍宇文述、左驍大将軍張謹、内史侍郎虞世基、御史大夫裴蘊、黄門侍郎裴矩も重用されて政治に口を出していたからで、これら七人を人々は「選曹七貴」と称した。
 この七人は同列に扱われてはいたが、与奪の権限は虞世基が独断しており、彼へ賄賂を贈るかどうかで出世が決まった。 

  

 皇太子の昭が長安からやって来て、数ヶ月東京へ逗留した。長安へ戻る期限が来て、大使はもう少し留まりたがったが、煬帝は許さなかった。ところが、皇太子は突然病気になって、急死してしまった。煬帝は哭の儀式の時、お座なりに数回泣いただけで、音楽や女色は平常通り楽しんだ。楊昭は、元徳太子と呼ばれている。
(皇太子の急死は、「雑記」には、煬帝が宴席で楊素を毒殺しようとしたが、間違って皇太子へ毒酒を飲ませてしまったとあるが、その説を採っている書は、他にはない。)
 楚公楊素は大功があったが、煬帝から猜疑されており、上辺は重んじられていたが、実権はなかった。
 楊素が病気になると、煬帝は名医を派遣して上薬も賜下したが、いつも医者へ容態を聞いて、彼が死なないのを畏れる風だった。楊素の方も警戒し、煬帝から賜った薬は決して飲まず、弟の楊約へ言った。
「これ以上生き延びて何になろうか!」
 乙亥、卒した。太尉公、弘農十郡太守を追賜され、非常に盛大に葬られた。
 八月、元徳太子昭の子息三人が王に封じられた。 

  

 十月、文帝の末期には法令が厳しくなりすぎたとして、律令の改修を行った。 

  

 北斉の温公(高緯)の時代、魚龍、山車などの戯れの音楽があり、これを散楽と呼んでいた。北周の宣帝の時代、鄭譯にこれを演奏させた。
 文帝が受禅すると、牛弘へ音楽を定めさせたが、牛弘はこれら散楽が正当な音楽ではないとして、放逸した。
 やがて煬帝の時代になり、突厥の啓民可汗が入朝することになると、煬帝は音楽を誇示したくなった。太常少卿の裴蘊が、煬帝の意向を汲んで上奏した。
「周、斉、梁、陳の楽家の子弟を、皆、楽戸とし、彼等のうち六品以下で音楽の巧い者を太常としましょう。」
 煬帝はこれに従った。
 ここにおいて四方の散楽は大半が東京へ集まった。煬帝は、芳華苑の積翠池の辺で大演奏会を開いた。その時、いろいろな曲芸も催された。幻人が火を吐いたり、鯨が噴いた潮が長さ七丈の黄龍になったり、二人の人間が持った竿の上で舞を舞う者も居た。それらの曲芸師には綾錦が盛大に振る舞われたので、京兆、河南の綾錦はすっかり底をついてしまった。
 煬帝は、自ら作曲もした。これを楽正の白明達へ演奏させる。そのメロディーは、とてももの悲しかった。煬帝は悦び、白明達へ言った。
「北斉は地方政権に過ぎなかったが、それでも楽工の曹妙達を追うに封じた。ましてや、朕は天下を支配している。汝を貴人にしてやるから、よく精進するが良い!」 

  

 三年、元旦。文物を盛大に陳列した。この時、突厥の啓民可汗が入朝していたが、可汗はこれを見て慕い、冠や帯を身につけることを請願したが、煬帝は許さなかった。翌日、啓民可汗は、今度は一族を引き連れて謁見し、固く請うた。煬帝は大いに悦んで牛弘へ言った。
「我等が衣服は、ここまで立派なものになった。皆、卿等の功績である!」
 こうして、各々へ沢山の帛を賜下した。 

  

 三月、煬帝は長安へ戻った。 

  

 雲定興と閻毘は、皇太子勇へ媚びていたとして、妻子ともども官奴婢となっていた。
 煬帝は、即位すると次々と宮殿を造営したが、この二人が優れた腕を持っていると聞き、それらの工事の監督を命じ、閻毘を朝請郎に抜擢した。
 この頃、宇文述が大した羽振りだった。雲定興は宇文述へ明珠などの宝物を贈り、立派な服や歌姫などで宇文述に媚びた。宇文述は大いに喜び、雲定興と兄弟づきあいするようになった。
 やがて煬帝は四方を征服しようと考え、沢山の兵器を造らせた。すると、宇文述はその監督として雲定興を推薦し、煬帝はこれを受諾した。
 宇文述は雲定興へ言った。
「兄上の造る兵器に、陛下は大満足です。それでも兄上が出世できないのは、まだ長寧王の家族が生きているせいです。」
「あいつらは、無用の長物だ。殺すよう、陛下へ勧めてくれないか。」
 そこで、宇文述は煬帝へ言った。
「房陵(もとの皇太子勇は、死後房陵王へ追封された)の諸子は、既に成人しております。彼等は父親の仇を討とうと、挙兵の準備をしていますぞ。どうか早めに御処分を。」
 煬帝も同意し、長寧王儼を毒殺し、その七人の弟達は嶺表へ流罪としたが、途中で使者を派遣して、皆殺しにした。襄城王恪の妃の柳氏は、夫の後を追って自殺した。
 後、軍備が充実した時、煬帝はその器甲の美しさを褒めて、雲定興を太府丞に抜擢した。 

  

 牛弘が作っていた新しい律が完成した。それは十八篇から成立し、「大業律」と呼ばれた。
 四月、頒布する。民は、苛酷な法律に苦しんでいたので、寛大な新政を喜んだ。しかし、その後戦争が相継ぐと、民は兵役に苦しむようになった。役人達は、時には脅しつけて徴召するようになったので、遂にこの律令は使用されなくなった。
 旅騎尉の劉玄が、律令の作成に関与していたが、ある時、世間話のついでに牛弘が劉玄へ言った。
「周の頃は、士が多く府史が少なかった、と、『周礼』に記されている。いま、令史は前代の百倍はいるとゆうのに、その人員を減らしたら政務が滞る。この違いは何なのだ。」
「昔は、職務分担が巧く行っており、毎年年末に考課をしておりました。裁判は再審を行わず、提出文書は簡素なもので、府史は重要な事だけに目を通すのが仕事でした。今は文書が煩雑になり、裁判は何度も行われます。もしも事情聴取が不完全だったら、喩え百年前の事件でも万里を走って追加の証拠を探し回ります。『老官吏は裁判の文書を抱えて死ぬ。』とゆう諺さえもできている有様。事象が煩雑になれば、政務が疲弊するのです。」
「北魏や北斉の頃は、令史は黙って坐っているだけだったが、今は忙殺されている。これは何故かな?」
「昔は、州には長史と司馬のみ、郡には太守と丞、県には県令だけしか設置されておりませんでした。その他の官職は、長官が自ら選んだもの。詔を受けて赴任する者は、一州に数十人しかおりませんでした。しかし、今は違います。大小の官は、全て吏部が選任します。『官吏を省くより事を省く方が効果的』と謂われていますが、今は官吏も事も省きません。それでいて官吏が坐っているだけで政治が廻ることを望んでも、できはしません。」
 牛弘は、その言葉を正しいと思いながらも、用いることができなかった。 

  

 壬辰、州を改めて郡とし、測量の単位を改めた。いずれも、古代の制度に依ったもの。上柱国以下の官位を大夫と改称し、殿内省を設置した。それまでの尚書省、門下省、内史省、秘書省と併せて五省とする。
 謁者台、司隷台を増設し、御史台と共に三台とした。
 太府寺を分けて少府監を設置し、長秋監、国子監、将作監、都水監と共に五監とした。
 又、左、右翊衞等十六府を増設し、伯子男の三つの爵位を廃止し、ただ、王公侯の爵位のみを残した。 

  

 丙寅、煬帝は北辺を巡狩した。
 五月、啓民可汗が、子息の拓特勒を来朝させた。
 戊午、河北の十余郡から丁男を徴発し、太行山へトンネルを掘って馳道を通した。
 丙寅、啓民可汗が、兄の子の毘黎伽特勒を来朝させた。また、啓民可汗自身が中国へやって来て煬帝を出迎えようと申し出たが、これは煬帝が許さなかった。
  煬帝が雁門を通過した時、雁門太守の丘和が豪華な宴会で煬帝をもてなした。ところが馬邑では、馬邑太守楊廓は何も献上しなかったので、煬帝は不機嫌になった。煬帝は、丘和を博陵太守に任命した。辺境の郡から中央の郡への移動であるから、これは賞である。そして楊廓は、博陵へ行って丘和の授賞式を観てくるように命じられた。これ以来、煬帝を迎え入れる宴会は豪華を競い合うようになった。
 戊子、車駕は楡林郡へ着いた。煬帝は、ここで辺境の兵を集めて派手な演習を行い、そのまま突厥まで行進しようと思ったが、啓民可汗の民が驚愕することを恐れ、これを予告してやろうと、長孫晟を啓民可汗の元へ遣った。
 長孫晟から詔を受けた啓民可汗は近隣の諸国へ使者を出し、酋長数十人を呼び集めて煬帝を迎え入れる準備をした。
 長孫晟は、可汗のテントの回りに雑草が生えているのを見て思った。
”これを啓民可汗が自ら刈り取り、その姿を衆人へ見せることができたら、陛下の意向は更に輝くに違いない。”
 そこで、長孫晟は雑草を指さして啓民可汗へ言った。
「その草は良い香りがするな。」
 啓民可汗が嗅いでみて言った。
「とりたてて良い香りはしないが。」
 すると、長孫晟は言った。
「天子が御幸する時は、諸侯は自らその通り道を掃き清め、雑草が生えていたら良い香りがするもの以外は抜き取り、天子への敬意を示すのだ。今、テントの回りに雑草が生えていたので、芳香のある草をわざと残したのかと確認したのだ。」
 啓民可汗は、ようやく、その意向を悟った。
「これは奴の罪です!奴の骨肉は、みな天子から賜ったもの。どうして労力を惜しんだりしましょうか。ただ、田舎者ですから礼儀作法を知らなかっただけです。今、将軍が御教授くださいました。将軍のお恵みこそ、この奴めの幸いです。」
 そして、自ら佩刀を抜いて、雑草を切り払った。それを見た貴人や酋長達も、争って草をむしる。ここにおいて、楡林北境の民を徴発し、テントを通って東は薊州へ至るまで、長さ三千里幅百歩の立派な道を造ろうと、突厥の国を挙げて労役に勤しんだ。
 煬帝はこの話を聞いて、ますます長孫晟を重宝がった。
 丁酉、啓民可汗と義成公主が行宮へ来朝した。
 己亥、吐谷渾と高昌が使者を派遣して入貢した。
 甲辰、煬帝は北楼にて黄河の漁を見物し、百僚と宴会をした。
 太府卿の元寿が言った。
「漢の武帝が関を出た時、旌旗は千里も連なりました。今、御営の外をに二十四隊に分けましょう。客隊の距離を三十里離しても、旗幟は見えますし、鉦鼓は聞こえます。そして首尾は千里に連なる。これでこそ帝王出陣の盛とゆうものです。」
 すると、定襄太守の周法尚が言った。
「それはなりません。兵が千里に連なると、その間に山や川が入ります。不慮の事態が起こると四分五裂してしまいます。中央に変事が起こっても首尾には判りません。余りにも前後に離れすぎてしまい、互いに救援することができないのです。いかに故事に記されているとはいえ、敗北の道です。」
 煬帝は周法尚武へ言った。
「それでは、卿はどうしたいのだ?」
「方陣を組んで四方を固めます。六宮と百官の家族は、その中へ入れて守るのです。もしも変事が起こったら、相対する面が防ぎ、他の面が突撃して迎撃します。車は車輪を外して壁と為し、鉤で連ねればそのまま城になります。戦いに勝てば騎馬で追撃し、負ければ城へ籠もって守る。これこそ万全でございます。」
「良ろしい!」
 そして、周法尚を左武衞将軍に抜擢した。
 啓民可汗は煬帝へ言った。
「先帝陛下は臣を憐れみ、安義公主を賜り、更にあれこれと面倒を見て貰いました。おかげで臣は他の可汗達から妬かれ、彼等は共謀して臣を殺そうとしました。臣は逃げ出しましたが、この時、臣は天地に身の置き所さえなくしてしまい、行くアテもないままに先帝の元へ身を寄せたのです。先帝は臣を憐れみ、死にかけていた臣を養ってくださいましたので、臣は息を吹き返すことができたのです。そうして、先帝は臣を大可汗として突厥の地へ送り返してくれました。今、至尊が天下を御し、先帝陛下と同じように臣や突厥の民を養い、あれこれ面倒を見てくださいます。臣が受けました聖恩は、言葉に言い尽くすこともできません。臣は、今や昔日の突厥可汗ではありません。至尊の臣民でございます。願わくば、部落を率いて中華の服装に変えたいと存じます。」
 煬帝は許さなかった。
 七月、煬帝は啓民可汗へ璽書を賜り、諭した。
「北方は、まだ平定してはいない。しばらくは戦闘を心がけてくれ。心に恭順の思いさえあれば、どうして服装などにこだわる必要が有ろうか?」
 煬帝は、突厥へ威厳を誇示しようと思い、宇文豈へ大きなテントを張らせた。その下には、数千人が坐ることができた。甲寅、煬帝はそのテントに護衛兵をズラリと並べ、啓民可汗とその部落を招いて宴会を開き、散楽を演奏した。諸胡は驚愕すると共に大いに悦び、争って牛羊駝馬を献上した。その数は数千万頭にも及んだ。煬帝は、啓民可汗へ帛二千万段を賜下した。その他のものにも、各々の地位に従って賜下する。また、啓民可汗へ路車乗馬を賜下し、贊拝不名の特権を与え、その地位は諸侯王の上へ置いた。
 又、丁男百余万を徴発して長城を修復した。それは西は楡林から東は紫河へ及んだ。尚書左僕射の蘇威が諫めたが、聞かない。二旬にて、工事は終了した。
 煬帝が散楽の楽士達を徴集した時、高穎は諫めたが、聞き入れられなかった。高穎は太常丞の李懿へ言った。
「周の天元も音楽を好み、国を滅ぼした。殷鑑遠からずとゆう。この国も長くないぞ!」
 高穎は、又、煬帝が啓民可汗を厚遇しすぎると思い、太府卿何稠へ言った。
「あの野蛮人達が中国の虚実を知り、山川の険阻を利用するようになれば、のちのち大きな患いとなるぞ。」
 礼部尚書宇文弓(「弓/弓/攵」)が、私的に高穎へ言った。
「天元の贅沢も、今と比べれば、そんなにひどくはなかったな。」
 又、言う。
「長城の工事は、幸いにも現在の急務ではない。」
 光禄大夫の賀若弼も、私的な場所で、啓民可汗への宴会が贅沢すぎると評価した。
 これらの言葉は、全て密告された。高穎、宇文弓、賀若弼は政治誹謗罪で誅殺された。高穎の諸子は全て僻地へ流され、賀若弼の妻子は官の奴婢となった。この事件は蘇威にまで連なり、彼も罷免させられた。
 高穎は、文武に大略を持っており、政務に明達していた。大仕事を任されるようになってからは誠心と節義を尽くし、国家の太平を自分の任務だと考えた。蘇威、楊素、賀若弼、韓擒虎等は、皆、高穎が推薦した人材であり、彼の建てた功績は枚挙にいとまがなかった。朝廷の政治を執ってから二十年、朝野共に服した。海内が豊かになったのは、全て高穎の力である。彼が死んで、胸を痛めない者は居なかった。
 話は遡るが、蕭宗(後梁の最後の国主)が、皇后の縁者として重用されていた。彼は内史令となり梁公へ改封された。彼の宗族も全て抜擢され、蕭宗の弟達は朝廷にズラリと並んだ。蕭宗は雅やかな性格で、職務を意に介さず、北方の貴族達が相手でも車から降りることがなかった。彼は賀若弼と仲が良かったので、賀若弼が誅殺されると童謡が流行った。
「蕭蕭また起きる。」
 それを聞いて煬帝は不機嫌になり、遂に蕭宗に自宅謹慎を命じた。蕭宗は、それからすぐに卒した。 

  

 八月、車駕は楡林を出発し、雲中を経由して金河へ着いた。この頃、天下は泰平続きだったので物資は豊富に溢れ、武装兵は五十万、馬十万匹、旌旗輜重は千里も続いた。煬帝は、ここに行城を作った。その周囲は二千歩。板と衣で作り、丹青で飾り付け、楼櫓まで備わっていた。胡人はこれを見て、神業だと驚愕した。彼等は畏怖の余り十里外から膝を屈して歩き、敢えて馬で乗り付けようとはしなかった。
 啓民可汗は跪き、非常に恭順だった。煬帝は大いに悦んで詩を賦した。
「呼韓邪は頭を下げて来るし、他の酋長達も続々とやって来た。漢の天子が虚しく単于台へ登ったことなど、取るに足らぬではないか!」
 皇后も又、義成公主の帳へ御幸した。
 煬帝は、啓民可汗及び公主へ金や衣服綾錦などを贈下し、特勒達へも身分の上下に従って賜下した。
 壬寅、太原へ戻り、晋陽宮の造営を命じた。
 煬帝は、御史大夫の張衡へ言った。
「朕は公の居宅へ立ち寄るつもりだ。主人となって持てなしてくれ。」
 そこで張衡は一足先に河内へ戻り、牛酒を手配した。煬帝は太行から張衡の居宅まで九十里の直線道路を造らせた。九月、煬帝は張衡の居宅へ御幸したが、そこの山泉が気に入って、三日ほど留まり宴会を続け、張衡へ厚く褒賞を賜下した。張衡は再びご馳走を献上したので、煬帝はこれを供奉の人々へ賜った。公卿から衞士へ至るまで、その恩恵に預かった。
 己巳、東都へ帰る。

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