慕容、秦に背いて燕を復す。 姚萇、秦を滅ぼす。

 肥水で大敗した苻堅は、敗残兵を収集して洛陽へ帰った。その兵力は十余万。百官、儀物、軍容も、ほぼ揃った。

 慕容農は慕容垂へ言った。
「父上は、窮地にあった人間を守りました。その節義は、天地を感動させたでしょう。
 秘記に、次のような一文があります。
『燕は河陽にて復興する。』
 だいたい、青い果実を取らなくても、旬日も待てば、熟して自然に落ちたものを拾えます。しかも、その難易も美醜も比べ物になりません!」
 慕容垂は、その言葉を心中大いに喜んだ。そこで、縄池へ着くと、苻堅へ言った。
「王師が大敗したと聞き、北鄙の民衆に造反の動きがあります。臣が詔を奉じて赴き、これを鎮定いたしましょう。」
 苻堅はこれを許諾した。
 これを聞いて、権翼が言った。
「国軍が敗れた直後です。独立の動きは四方どこにでもあります。ですから名将を都へ集めて大本を固めましょう。その偉容を聞けば、枝葉は自ずから静まります。
 慕容垂の雄略は超絶しております。その上、彼は代々中国の東半分を統治していた家柄。禍を避けて我が国へ逃げ込みましたが、我が国へ、心底服従しておりましょうか!
 これを養鷹に喩えてみると、飢えた時だけ人になつくようなもの。烈風の吹き荒ぶ音を聞く度に、広野を飛翔していた頃の志を思い出しましょう。ですから、せっかく捕らえた鷹は、謹んで鳥かごにしまって置かねばなりません。これを放てば、勝手に飛んで行ってしまいますぞ!」
 すると、苻堅は答えた。
「卿の言葉は正しい。しかし、朕は既に許諾したのだ。匹夫でさえ、なお、違約を恥じる。まして朕は天子だぞ!それに、もしも天命に興廃があるのなら、人間の力の及ぶところではない。」(訳者、注。これは遊びに溺れた頃の紂王が常用した台詞だ。)
「陛下は小信を重んじて、社稷を軽んじられるのですか!臣の予測では、慕容垂は二度と帰って参りませんぞ。そして、関東の動乱は、これから始まるのです。」
 苻堅は聞かず、将軍の李蛮、閔亮、尹固に三千の兵を付けて慕容垂へ与えた。
 また、石越に精鋭三千を与えて業を守らせ、張毛に羽林軍五千を与えてへい州を守らせ、毛當に四千の兵を与えて洛陽を守らせた。
 権翼は、屈強の男を選りすぐると、刺客として、密かに河橋へ派遣した。慕容垂はこれを予測し、涼馬台から筏を作って渡河し、典軍の程同に自分の衣装を与えて、河橋へ向かわせた。すると、果たして伏兵が襲いかかってきたが、程同は馬を馳せて逃げることが出来た。

 十二月、長安へ到着した苻堅は、苻融を想って哭した後、入城した。苻融を哀公と諡する。

 東晋では、謝石を尚書令とした。謝玄は前将軍を昇進させようとしたが、彼は固辞して受けなかった。

 慕容垂は安陽へ到着すると、まず苻丕のもとへ使者を派遣した。苻丕は、慕容垂が造反すると思ったが、それでも自身で出迎えた。
 趙秋が慕容垂へ勧めた。
「この機会に苻丕を捕らえ、業に據って造反しましょう。」
 しかし、慕容垂は従わなかった。
 苻丕は慕容垂を襲撃しようと考えたが、姜譲が言った。
「慕容垂は、まだ造反の端緒さえ起こしておりません。それなのに殿はこれを捕らえて殺そうとなさって居られますが、それは臣下が独断で行って良いことではありません。まずは上賓の礼でもてなす傍ら厳重に軍備を布き、敵の出方を見てから図るべきです。」
 苻丕はこれに従い、慕容垂を業西へ泊まらせた。

 慕容垂は、燕の旧臣達と密かに連絡を取り、燕の復興の為に画策した。そんな折、丁にて擢斌が秦へ反旗を翻し、洛陽目指して進撃した。そこで、苻堅は慕容垂を呼び戻した。
 石越は苻丕へ言った。
「あの大敗で、民衆は不安なのです。そして、逃亡中の罪人など乱世を心待ちにしている輩も大勢居ました。ですから擢斌の一挙へ、僅かの間に数千人が集まったのです。
 慕容垂は、燕の宿望。しかも、故国復興の野望があります。今、彼へ兵卒を与えるのでは、虎へ翼を与えるようなものです。」
 しかし、苻丕は言った。
「いや、業は奴の本拠地。ここから離れるのだから、却って安心とゆうものだ。それに、擢斌は凶悖な男。慕容垂の下に甘んじるなど我慢できまい。二匹の虎が戦えば、吾が制圧するのも容易い。これこそ卞荘子の戦術だ。」
 そして、老兵二千と粗末な武器を慕容垂へ与えた。
 又、廣武将軍苻飛龍へていの騎兵一千を与え、慕容垂の副将として派遣した。その時、苻丕は苻飛龍へ言った。
「慕容垂は三軍の指揮官だが、卿はその将を謀れ。」
 慕容垂は、出陣に先立って業へ入城し、宗廟へ詣でたいと願い出たが、苻丕はこれを却下した。そこで、慕容垂はお忍びで入城した。ところが、役人がそれを見咎めて入城を拒否した。慕容垂は激怒し、役人を殺すと関所を焼き払って帰った。
 石越が苻丕へ言った。
「奴目が役人を殺し関所を焼き払ったのは、我等を侮っていればこそ。これこそ造反のれっきとした証拠です。さあ、奴を処分する良い口実が出来たではありませんか。」
「しかし、淮南の敗戦の時、彼は乗輿を護衛して帰ってきた。この功績を忘れることはできん。」
「慕容垂は、故国さえ裏切った男ですぞ!我等へ忠義を尽くす筈がありません!今の好機を逃したら、後々必ず患いとなりますぞ!」
 苻丕は従わなかった。
 石越は退出した後、知人へ言った。
「主上は親子して小仁を好み、大計を顧みない。きっと捕囚となり果てよう。」
 慕容垂は、慕容農、慕容楷、慕容紹を業へ留めて出発した。
 彼等が安陽へまで行った時、閔亮と李比が業から追いかけてきて、苻丕と苻飛龍の謀略を慕容垂へ密告した。慕容垂はこれに乗じて部下の心を掻き立てようと考え、言った。
「吾はずっと苻氏へ忠誠を尽くしてきたのに、彼等は我が親子を陥れることばかり考えている。これでは造反する以外ないではないか!」
 そして兵力が少ないと言い立てて、河内に止まり、募兵した。すると、僅か旬日のうちに、彼の兵力は八千にまで膨れ上がった。
 洛陽を守っている平原公苻暉は、慕容垂のもとへ使者を派遣してその遅着をなじり、進軍を促した。
 慕容垂は苻飛龍へ言った。
「賊軍はそう遠くない。そこで、昼間は休んで夜間に急行し、敵の不意を衝こうではないか。」
 苻飛龍は同意した。
 壬午、夜。慕容垂は慕容寶を前方へやり、末子の慕容隆を後方へやり、合図を定めて前後から苻飛龍軍を挟撃し、これを壊滅した。そして、苻飛龍軍の参佐のうち西方出身の者は逃がしてやり、併せて苻堅へ書を届けさせた。その書には、苻飛龍を殺した理由が綴られていた。
 さて、かつて慕容垂が燕から亡命する時、息子の慕容麟が父親を裏切ってこれを密告した。
この時、慕容垂は麟の母親を殺したが、慕容麟本人は、さすがにわが子だけあって殺すに忍びなかった。
 今回、苻飛龍を殺すにあたって、慕容麟は屡々計略を献策したが、それは慕容垂の遺漏を補うことが多かった。これによって慕容垂は息子を見直し、他の子供達と同じように寵愛するようになった。
 翌日、慕容垂は河を渡って橋を焼いた。この時、三万の兵卒が居た。可足渾談を河内の沙城へ留める。又、業へ使者を派遣し、慕容農らへ起兵を告げ、呼応を命じた。
 この時、既に夕暮れで、慕容農と慕容楷は業へ留まった。ただ、慕容紹だけが先発して蒲池(業の城外にあり、かつて慕容儁がここで大宴会を開いた。)へ赴いた。そして苻丕の駿馬数百頭を盗んで慕容農と慕容楷を待ち受けた。
 翌日、慕容農と慕容楷は数十人を率いて平服で業を脱出し、列人まで逃げ出した。
九年、正月。苻丕は大宴会を開き賓客をもてなしたが、慕容農を呼んでも出てこなかった。そこで始めて彼が脱出したことに気がつき、四方へ人を派遣して行方を捜させた。
 三日後、彼等が列人に居ると知ったが、その時既に慕容農等は起兵していた。

 擢斌が造反したと聞くや、慕容鳳と、王騰及び段延(共に燕の遺臣の息子)が、手勢を率いて駆けつけた。苻暉は、彼等を討伐する為、毛當を派遣した。
 慕容鳳は言った。
「父上の仇を討ちたく存じます。(父親は慕容桓。彼の戦死については、「秦、燕を滅ぼす」に記載。)将軍の御為にも、あのてい奴めを斬り殺して見せましょう。」
 かくして先陣を買って出て、秦軍を大いに破り、毛當を斬り殺した。更に進軍して陵雲台の砦を蹴散らし、万余人を捕らえ、多くの武器を押収した。
 慕容鳳、王騰、段延は、慕容垂を盟主として推戴するよう擢斌へ勧め、擢斌はこれに従った。しかし慕容垂は、洛陽襲撃を考えており、また、擢斌の誠意の真偽も掴めなかったので、これを拒否して使者へ言った。
「吾は豫州(苻暉は豫州牧だった)を救援に来たのであって、君に呼応したのではない。君は既に大事を建てた。成功すれば福運を享受すればよいし、失敗したら禍を蒙るだけだろう。吾の与り知ったことではない。」
 慕容垂が洛陽へ到着すると、苻暉は門を閉ざして拒絶した。慕容垂が苻飛龍を殺したことを聞いていた為だ。
 これを知って、擢斌は再び慕容垂を説得しようと、郭通を使者として派遣した。
 慕容垂はなおも断ったが、郭通は言った。
「将軍が擢斌を拒まれるのは、彼の部下を山賊上がりの無頼漢と侮り、大した才人も居ないので、その挙兵は必ず失敗すると考えられたためではありませんか?
 しかし、よくお考え下さい。将軍が今日挙兵したのは、大業を成し遂げる為でしょう。それをお忘れ下さいますな。」
 それを聞いて、慕容垂は擢斌の申し出を承諾した。
 ここにおいて、擢斌は兵卒を率いて慕容垂と合流し、彼に尊称を勧めた。すると、慕容垂は言った。
「新興侯(慕容偉。苻堅は彼を新興侯とした。)が、我が主である。迎え入れて奉るつもりだ。」
 さて、洛陽は四面のどこからも攻撃されやすい土地である。そこで、慕容垂は業に據ろうと考え、退却して東へ進んだ。すると、栄陽太守となっていた、故の扶餘王の餘尉と、昌黎の衛駒が、手勢を率いて降伏してきた。
 慕容垂軍が栄陽へ入城すると、部下達が即位を固く請うた。そこで慕容垂は、東晋の元帝の故事に倣って、大将軍、大都督、燕王、承制行事と称し、幕僚を統府と称した。部下は皆、「臣」と称し、その他の名称も、皆、王に倣った。
 弟の慕容徳を車騎大将軍とし、范陽王に封じる。甥の慕容楷を征西大将軍とし、太原王に封じる。擢斌を建義大将軍とし、河南王に封じる。餘尉を征東将軍、統府左司馬とし、扶餘王に封じる。衛駒を鷹揚将軍とし、慕容鳳を建策将軍とする。
 その軍勢は二十万。石門から河を渡り、業へ向かった。

 さて、列人へ逃げた慕容農は、まず魯利の家を訪ねた。魯利はご馳走を並べたが、慕容農は笑っただけで箸を付けない。
 魯利は退出し、妻に言った。
「どうしたものかな。彼は貴人だが、俺は貧しい。これ以上のもてなしは出来ないのだが。」
「あら。あのお方は才能高く、大きな野望を持たれています。何の目的もなしにこんな所へ来る筈がございませんでしょ?ご馳走を食べる為にここへ寄られた訳ではありません。きっと、貴方に同士をかき集めて欲しいのですわ。」
 魯利は納得し、再び慕容農に会うと、慕容農は言った。
「燕復興の為、ここで挙兵したいのだ。卿は俺に従ってくれるか?」
「はっ。命を懸けて。」
 そこで、慕容農は魯利と共に張驤に会い、言った。
「我が主は既に挙兵し、擢斌はこれを推戴した。そして、呼応する者は遠近に相継いでいる。だから、此処へ来たのだ。」
 すると、張驤は慕容農を再拝した。
「旧主を得て、これに仕えられるのです。命さえ惜しみません!」
 こうして慕容農は、列人にて民をかき集めて決起した。
 更に、趙秋を使者として畢聡を説得させた。すると、畢聡のみならず、ト勝、張延、李白、郭超、餘和、勅勃、劉大などが、各々数千の手勢を率いて駆けつけた。
 そこで慕容農は、彼等へ仮の称号を与えた。張驤は輔国将軍。劉大は安遠将軍。魯利は建威将軍。
 こうして、彼等は進撃した。
 慕容農は自ら館陶を撃破し、多くの兵器を強奪した。別働隊として趙秋、蘭汗、段讚、慕輿希が康台を襲撃して数千匹の軍馬を略奪した。蘭汗は慕容垂の姻戚、段讚は段聡の息子である。
 ここに至って、歩兵騎兵が雲のように集まり、軍勢は数万に及んだ。
 張驤等は、慕容農を使持節、都督河北諸軍事、驃騎大将軍、監統諸将に祭り上げた。そして各々の才能に合わせて地位を与えたので、上下は粛然とした。
 ところで、まだ慕容垂が到着していなかったので、独断を恐れた慕容農は、敢えて部下を褒賞していなかった。すると、趙秋が言った。
「褒賞のない軍隊では、兵卒にやる気が起きません。彼等が集まってきたのは、この一時に功績を建て、利益を万世へ流そうと思ったからに他ならないのです。ですから、どうか彼等へ官位なり封爵なりの恩賞を与え、中興の基礎を固めて下さい。」
 慕容農は納得し、恩賞を与えた。すると、今までに益して多くの豪族が麾下へ馳せ参じてきた。慕容垂はこれを聞いて、大いに嘉した。
 又、慕容農は遠近の豪族へ使者を派遣して、積極的に呼応を呼びかけ、これに応じる者も多かった。慕容農の軍令はよく行き届き、略奪に走る兵卒が居なかったので、民衆は喜んだ。

 苻丕は、石越に万余の兵力を与えてこれを攻撃させた。そこで、石越はまず慕容農討伐へ向かった。
 慕容農は言った。
「今、大軍を率いてここへ来たのは、燕王を恐れ、俺を侮っている為だ。石越は、知勇兼備で名高いが、きっと油断して備えをして居るまい。」
 部下達は、列人に城を築いて防御するよう請うたが、慕容農は言った。
「頼みとなるのは、一つになった部下の心だけ。敵が来たら山を城とし、河を掘として戦えばよい。列人に城を築いたとて、何の役に立とうか!」
 石越が列人の西まで迫ると、慕容垂は趙秋と纂毋騰を派遣してその前鋒を攻撃させ、これを敗った。
 参軍の趙謙が慕容農へ言った。
「石越が率いるのは精鋭兵で軍備も充分ですが、兵卒の心は浮ついております。これを撃破するのは容易。ここは、速戦あるのみです。」
「奴等の鎧は身の外にあり、我等の鎧は心にある。昼間戦えば、兵卒達はその完全武装の見てくれに恐れを抱いてしまうだろう。だから、日暮れを待って戦う。そうすれば、必勝疑いない。」
 そして、軍士へ厳重な警戒を命じ、妄動を厳禁して時を待った。
 対して石越は、柵を築いて軍備を固めた。慕容農は笑って諸将へ言った。
「石越軍は精鋭の上、大軍。到着したばかりの志気の高揚に乗じて我等を撃破するべきなのに、防備を固めている。奴の能力も知れたものだ。」
 日が暮れ始めると、慕容農は軍鼓を鳴らして軍を繰り出し、城西に陣取った。
 牙門の劉木が先陣を望むと、慕容農は笑った。
「ご馳走ならば、誰もが食べたい。それを独り占めするつもりか?だが、その志気や嘉し!お前に先鋒を命じる!」
 劉木は壮士四百人を率いると、柵を乗り越えて敵陣へ突入し、秦軍を大いにかき回した。慕容農は大軍を指揮してこれに続き、秦軍は大敗した。石越を斬り殺し、その首は慕容垂へ送った。
 石越も毛當も秦の驍将。だから、苻堅は彼等を息子達の補佐として、業と洛陽を鎮守させたのである。それが、相継いで戦死した。人情は騒然となり、それに応じるように、盗賊があちこちで群起した。

 庚戌、慕容垂は業へ到着し、秦の建元二十年を改め、燕の元年とした。そして、燕朝廷の正装を復活し、部下へ官位官職を授けた。又、慕容農が軍を率いて業へ入ると、彼の称号を追認した。
 世子の慕容寶を太子とし、従兄弟の慕容抜等十七人及び、甥の宇文輸、舅の子の蘭審を皆王に封じ、それ以外の宗族及び功臣三十七人を公爵に封じた。侯、伯、子、男に封じられた者は八十九人に及んだ。
 可足渾談は二万の兵を集め、野王を攻撃。これを抜くと軍を退いて慕容垂と合流し、業を攻めた。平幼とその弟の叡、規も又数万の手勢を率いて業攻撃に合流した。
 苻丕は、姜譲を使者として慕容垂のもとへ派遣し、これを責めた。又、説得して言った。
「過ちも更正すれば、まだ間に合うぞ。」
 すると、慕容垂は言った。
「孤が主上から受けたのは、まさしく『再生の恩』とでも言うべきもの。ですから、長楽公を害したくありません。全軍を挙げて長安へ戻られませ。そして、これからは秦と燕と永く修好いたしましょう。それが孤の望みです。
 にも関わらず、公はどうして立ち去らないのですか?
 公は機運に暗く業城に固執なさっておいでです。もし、無闇の迷いから醒めず、力の限り戦ったならば、公お一人の命さえ、保証できかねるのでございます。」
 姜譲は、怒りの余り顔色を変えた。
「将軍は国家から見放され、命辛々聖朝へ逃げ込んだのではないか。燕の尺土と雖も、将軍にはその権利などありはせぬのだ!
 主上は、将軍とは民族も違うのに、一見以来心を尽くして親戚同様に扱い、勲旧以上に寵遇されたではないか!古より今に至るまで、これ以上厚遇された臣下がどこにいた?それが王帥が一度敗れるや、掌を返して野望に走る!
 長楽公は主上の嫡男。それが西半分の鎮撫を命じられたのに、手を拱いて将軍に百の城を献上し、オメオメと帰京できると思うのか?
 将軍が国を奪おうと思ったのなら、その兵力で暴れればいい。何を云々のたまうか!ただ、将軍は既に七十にもなったのに反旗を翻し、高世の忠義を覆して逆鬼となった!なんとも惜しむべき話ではないか!」
 慕容垂は黙り込んでしまった。
 左右の臣下がこれを殺そうと請うと、慕容垂は言った。
「彼は主人の為に言っただけだ。何の罪も犯してはおらん!」
 礼遇して彼を帰し、苻丕及び苻堅へ書状を送った。それは利害をつまびらかに説き、苻丕を長安へ帰すよう請うたものだったが、苻堅も苻丕も激怒し、返書を与えて慕容垂をさんざんに詰った。
 慕容垂は業を攻撃し、その外郭を抜いた。苻丕は退いて中城を守った。
 この時にあたって、関東の六州は、多くの郡県が慕容垂へ同心した。

 この頃、東晋の鷹揚将軍劉牢子が秦の焦城を攻撃し、これを抜いた。桓沖は郭寶に秦の魏興、上庸、新城を攻撃させ、これを抜いた。楊詮期は、秦の梁州刺史藩猛を攻撃して、これを敗走させた。楊詮期は、楊亮の息子である。
 ところで、謝安が手柄を建てて以来、桓沖はかつての自分の失言を恥じ、それが高じて病気になっていた。この年の二月に卒する。朝廷では、桓氏を無視して怨望が溜まることを恐れ、桓石民、桓石虔、桓伊を州刺史とした。

 二月、慕容垂は、丁零、烏桓の兵卒二十万を率い、雲梯を造り地下道を掘って業を攻撃したが、なかなか陥落しない。そこで、包囲陣を布き、持久戦とした。老弱の兵卒は肥郷へ移動し、輜重は新興城へ置いた。

 さて、秦の参軍の高泰は、もともと燕の旧臣だったので、造反に内応することを疑われた。高泰は懼れ、同郡の呉韶と共に渤海へ逃げ帰った。
 この時、呉韶は言った。
「燕軍は、肥郷にもいる。ここに逃げ込んで従軍すればよい。」
 すると、高泰は言った。
「吾は禍を避けたいだけだ。一君を去って別の君に仕える。そんな無節操な真似が出来るか!」 呉韶は感嘆して言った。
「去就にも人の道を外れない。君子とはこうゆうものか!」

 燕の范陽王慕容徳が秦の方頭を抜き、砦を築いて帰った。

 東胡の王晏は館陶に據り、業の苻丕の為に燕軍を牽制した。そして、鮮卑や烏桓や、郡県の民衆の中には、砦を築いて燕に反抗する者も大勢居た。そこで慕容垂は、これらを掃討する為に、慕容楷と慕容紹を派遣した。
 出陣にあたって、慕容垂は彼等へ言った。
「鮮卑や烏桓、そして冀州の民は、もともと、燕の国民である。ただ、大業が始まったばかりで、その恩徳がまだ行き渡っていないので、人心が合一せず、ちょっとした齟齬が起こっているに過ぎない。だから、徳を以て彼等を招撫するよう心がけ、無闇と武力を振りかざしてはならない。
 吾は一カ所に留まって、燕の武力の看板となる。だからお前達は地方を巡撫して、大義を示せ。そうすれば、彼等は必ず麾下へ馳せ参じてくるだろう。」
 慕容楷は、まず僻陽へ屯営した。慕容招は、数百騎を率いて王晏のもとへ赴き、禍福を説いた。王晏は納得すると、彼と共に慕容楷のもとへ詣で、降伏した。すると、これを聞いた多くの砦が次々と降伏し、来降者の数は数十万にも登った。
 慕容楷は老弱を僻陽へ留め、守宰を置いて彼等を統治させ、自身は壮丁十余人を率いて王晏と共に業へ行った。
 慕容垂は大いに喜んだ。
「お前達兄弟は、文武の才を兼ね備えている。それでこそ、慕容恪の息子達だ!」
 やがて、庫辱官偉が数万を率いて業へ駆けつけて来た。慕容垂は彼を安定王に封じた。
 関東では、秦の冀州刺史苻定が信都を守り、苻紹が高城を、苻亮と苻謨が常山を、苻鑑が中山を守っていた。慕容垂は、楽浪王慕容温を派遣して信都を攻撃したが、勝てない。そこで慕容垂は、増援軍として撫軍大将軍慕容麟を派遣した。 苻定、苻鑑は苻の叔父、苻紹、苻謨は苻堅の従兄弟、苻亮は苻堅の養子である。又、慕容温は慕容垂の甥である。

 北地長史の慕容泓は、慕容垂が業を攻撃したと聞いて関東へ逃げ出し、鮮卑の兵卒をかき集めた。その兵力が数千人となったので、彼は華陰へ取って返し、秦の将軍強水を撃ち破った。
 この戦勝で、彼の軍団は益々盛強となった。そこで彼は「都督陜西諸軍事、大将軍、よう州牧、済北王」と自称した。そして、慕容垂を推して「丞相、都督陜東諸軍事、領大司馬、冀州牧、呉王」とした。
 苻堅は権翼へ言った。
「卿の言葉を聞かなかったばかりに、鮮卑達はここまで跋扈した。関東については、最早彼等と争えない。しかし、慕容泓如きが何をするか!」
 そこで、苻煕をよう州刺史に任命し、蒲阪を鎮守させた。そして、苻叡に五万の兵を与え、左将軍竇衝、龍驤将軍姚萇と共に、慕容泓討伐に派遣した。
 だが、この時、平陽太守の慕容沖も挙兵して、二万の兵力で蒲阪へ進撃した。そこで苻堅は、竇衝にこれの討伐を命じ、慕容泓討伐は、苻叡と姚萇へ任せることとなった。

 秦軍の来襲を聞いた慕容泓は、懼れ、部下を率いて関東へ逃げようとした。苻叡は粗暴で獰猛な男。そして敵を軽視していたので、追撃を掛けようとしたが、姚萇は言った。
「鮮卑は、皆、故郷へ帰りたがっております。だから決起して反乱を起こしたのです。ですから、速やかに関から出ていくよう命じ、追撃を掛けてはなりません。
 例え鼠でも、尻尾を踏まれたら人にだって噛みつきます。連中は進退窮まったことを知っておりますので、その反撃は命がけです。万一不覚をとったら、悔いても及びません。
 その代わり、軍鼓を鳴らして追い立てましょう。そうすれば、奴等は逃げるだけで他を顧みますまい。」
 苻叡は従わず、華沢にて戦いを挑んだ。そして秦軍は破れ、苻叡は戦死した。
 姚萇は龍驤長史の趙都と参軍の姜協を派遣して苻堅へ謝罪したが、苻堅は激怒して、二人とも処刑した。それを聞いて姚萇は懼れ、渭北へ逃げた。そして、そこで尹緯、尹詳、寵演等きょう族の豪族達を煽動し、乱を起こした。彼等は続々と結集し、遂に五万余家まで膨れ上がった。彼等は皆、姚萇を盟主と戴いた。
 姚萇は、「大将軍、大単于、萬年秦王」と自称し、大赦を下した。白雀と改元する。馳せ参じた豪族達に、それぞれ官位官職を与えた。(「後秦」の成立)

 片や竇衝は、河東にて慕容沖と戦い、撃破した。慕容沖は八千騎の鮮卑を率いて慕容泓のもとへ逃げ込んだ。
 慕容泓の軍勢は十余万にまで膨れ上がった。そこで、慕容泓は、苻堅のもとへ使者を派遣した。
「呉王は既に関東を平定した。速やかに大駕を準備し、我が兄皇帝(慕容泓は、慕容偉の弟)を当方へ返還して戴きたい。泓は、関中の燕人を率いて乗駕をお衛りし、業の都へ戻ろう。そして、以後は虎牢関を国境と定め、燕と秦と、長く修好を保とうではないか。」 苻堅は激怒し、慕容偉を召し出すと、これを詰って言った。
「今、慕容泓はこのように言ってきた。卿が立ち去りたいと言うのなら、朕は助けてやろうではないか。しかし、卿の宗族は人面獣心、国士として接することができん!」
 慕容偉は叩頭流血し、涕泣して陳謝した。
 ややあって、苻堅は言った。
「まあ、これはあの三豎が勝手にやったこと。卿の咎ではない。」
 慕容偉の待遇は、従来通り変わりなかった。そして苻堅は、慕容泓・慕容沖・慕容垂を招諭するよう、彼に命じた。
 慕容偉は、密かに使者を派遣して慕容泓へ伝えた。
「俺は籠の中の鳥。帰ることは出来まい。それに、燕を滅ぼした張本人でもある。俺のことなど心に掛けず、お前は故国復興に勉めよ。呉王を相国とし、中山王を太宰、領大司馬とし、お前を大将軍、領司徒、承制封拝とする。そして、吾の訃報を受けたら、お前が即位して皇帝となるがよい。」
 これを聞いて慕容泓は、長安へ向かって進撃した。又、年号を、「燕興」と改元する。
 ところで、慕容泓よりも、慕容沖の方が人気があった。しかも慕容泓は殆ど苛烈と言えるほど厳格に法律を適用していたので、とうとう慕容泓の謀臣の高蓋が、慕容泓を殺し、慕容沖を立てて皇太弟、承制行事とし、百官を設置した。これによって高蓋は尚書令となった。
 後秦王姚萇は、息子の姚嵩を人質として派遣し、慕容沖と講和した。

 業はなかなか陥落しない。慕容垂は僚佐を集めて会議を開いた。すると、左司馬の封衡が、水攻めを提案した。曹操が業を攻撃した時の故知に倣い、章水の流れを業城へ注ぎ込もうとゆうのだ。慕容垂はこれを裁可した。
 慕容垂等はそのまま華林園にて宴会を開いた。秦軍はそれに気がつき、密かに出兵すると、雨のように矢を降らせた。慕容垂は進退窮まったが、冠軍大将軍の慕容隆が決死隊を率いて突入し、どうにか救出した。
 五月、苻定と苻紹が燕に降伏した。そこで、これを攻撃していた慕容麟は兵を退き、中山攻撃に合流した。

 同月、後秦王姚萇は北地まで進軍し、屯営した。秦の華陰、北地、新平、安定のきょうや胡が次々と降伏してきた。これによって、新たに十万人が傘下に集まった。
 六月、苻堅自ら二万の軍を率いて後秦討伐に乗り出し、趙氏塢に陣を布いた。又、護軍将軍の楊璧を別働隊として派遣した。
 後秦軍は屡々敗北し、姚萇の弟の姚尹買を斬った。
 後秦軍には、井戸がなかった。そこで、秦軍は安定谷を塞ぎ、同官水に堰を造って水を断った。後秦軍は恐慌し、渇き死ぬ者まで出た。だが、折良く大雨が降り、後秦軍に三尺程も水が溜まったので、再び勢いを盛り返した。苻堅は嘆いて言った。
「おお、天は賊軍を佑けるのか!」
 姚萇は七万の軍勢で秦を攻撃した。苻堅は楊璧を派遣したが、撃破され、楊璧と右将軍徐盛、鎮軍将軍毛盛が捕らえられた。しかし、姚萇は礼を以て彼等を送り返してきた。

 同月、慕容麟は常山を抜き、苻謨と苻亮は降伏した。慕容麟は更に進撃して中山を包囲する。七月、これに勝ち、苻鑑を捕らえた。
 これによって、慕容麟の威名は一気に揚がった。彼はそのまま中山に駐屯した。

 秦の幽州刺史王永と、平州刺史苻沖が、二州の兵力を合わせて燕を攻撃した。
 慕容垂は平朔将軍平規を派遣して王永を迎撃させた。これに対して王永は昌黎太守の宋敞を差し向けたが、范陽にて撃破された。平規は更に進軍し、薊南に陣取った。

 七月、秦の平原公の苻暉が洛陽、陜城の七万の軍勢を率いて長安へ戻った。
 慕容沖軍が長安へ向かったので、苻堅はやむをえず、兵を撤退した。撫軍将軍の苻方を驪山に配置し、苻暉に五万の兵を与えて慕容沖を防がせた。こうして、姚萇はしばらくの猶予を手にした。
 慕容沖は、鄭西にて苻暉と戦い、これを撃破。苻堅は前将軍姜宇と、末子の苻琳に三万の兵を与え、覇上にて慕容沖を防がせた。しかし、慕容沖軍に蹴散らされ、姜宇と苻琳は共に戦死。慕容沖は遂に阿房城に據った。

 さて、燕軍では、擢斌が功を恃んで驕慢となっていた。彼は褒賞を求めて止まず、又、業がなかなか陥落しないので密かに二心を抱いた。
 太子の慕容寶が、彼の粛清を進言すると、慕容垂は言った。
「河南での盟約に背くことはできん。
 もしも奴が事を起こすなら、奴の罪状は明らかとなるが、今は事を起こしては居ないのだ。現状で粛清すれば、我が擢斌の功績や能力を忌憚したと、人々は思うだろう。吾は豪傑を収攬して故国を復興しようとしているのだ。天下に狭量を示し、人々から失望されるわけには行かない。
 彼が陰謀を企むとしても、吾の知略で未然に防ごう。そうすれば奴は何もできまい。」
 慕容徳、慕容紹、慕容農が皆して言った。
「擢斌兄弟は、功績を恃んで驕慢です。いずれは我が国の患いとなるでしょう。」
 しかし、慕容垂は答えた。
「驕慢になれば速やかに敗北する。なんで患いとなれようか!奴には大功があるのだ。だから自滅するのを待てばよい。」
 擢斌は、自分を尚書令に推挙するよう、丁零以来の党類に揶揄した。彼等がそれを上奏すると、慕容垂は答えた。
「擢王には大功があり、確かに上輔に据えるべきだ。だが、業を落とせず、未だに国の形が整っていない。尚書令を置くのは、時期尚早だ。」
 擢斌は怒り、密かに苻丕と通じて、水攻めの堤防を決壊しようとした。だが、事が発覚し、慕容垂は擢斌と、その弟の擢檀、擢敏を殺したが、その他の者は全て赦した。擢斌の甥の擢真は邯鄲へ逃げた。

 八月、業では兵糧が底をついた。松の木を削って馬の飼料とする有様。
 慕容垂は諸将へ言った。
「苻丕は追い詰められているが、決して降伏しないだろう。だから、軍陣を少し後退させ、西への帰路を開けてやるのだ。そうすれば、昔秦王から受けた恩の万分の一でも返せるし、擢真攻撃にも好都合ではないか。」
 こうして、慕容垂は包囲網を解いて新城まで移動した。
 その傍ら、慕容農に清河、平原を巡回させ、租税を徴収させた。慕容農は公正に租税を徴収し、軍令は厳整、暴力で略奪することもなかった。それ故租税の徴収はスムーズに進み、燕軍の軍資は満ち足りた。

 東晋の謝安は、この機会に中原開拓をするよう進言した。謝玄、桓石虔等が討秦の軍を起こし、謝玄は下丕を、桓石虔は彭城を占領した。
 また、この頃呂光は西域を平定した。(詳細は「呂光、姑藏に據る」に記載。)苻堅は呂光を「都督玉門以西諸軍事・西域校尉」に任命した。

 さて、秦の幽州刺史の王永は、振威将軍の劉庫仁に救援を求めた。劉庫仁は、妻の兄の公孫希に三千の騎兵を与えて派遣し、薊南にて、平規を大いに敗った。彼等は勝ちに乗じて進撃し、唐城に據った。
 擢真が、承営に屯営し、宋敞、公孫希と連携を取った。

 九月、慕容沖は長安へ迫った。苻堅が城へ登って敵軍を見下ろし、嘆じて言った。
「この虜は、どこからこんなに集まったのだ!」
 そして、大声で慕容沖を責めた。
「この奴隷めが!何を苦しんで自殺に来たのか!」
 すると、慕容沖は言った。
「奴隷は、奴隷の苦しみに嫌気がさし、お前に取って代わろうと思っただけだ!」
 慕容沖は、幼い時から美しく、苻堅の男娼として、大いに寵愛されていた。そこで苻堅は、詔と称して錦の袍を遣って嘲った。すると、慕容沖は皇太弟の称号で返書を送った。
「孤の心は天下にある。一袍程度の小恵などいらん!それよりも、速やかに君臣して降伏し、我等が皇帝を送り返せ。そうすれば、特別の慈悲を以て、子の世の片隅にでも苻一族を養ってやる。」
 苻堅は激怒して言った。
「吾が王景略や陽平公の進言を用いていたら、白虜にこんな無礼はさせなかったものを!」

 十月、日食が起こった。

 苻丕は、使者を中山に派遣して、擢真と同盟を結んだ。又、陽平太守召興へ数千を与えて冀州の郡県で募兵させた。
 この時、燕軍は疲弊し始め、秦軍は盛り返してきたので、冀州の郡県は状況を観望していた。そんな中で、趙郡の趙粟が召興へ同心した。
 慕容垂は召興を撃破しようと、慕容隆と張祟を派遣した。両軍は襄国で激突し、召興は敗北した。召興は廣阿まで逃げたが、慕容農がこれを捕らえた。
 慕容隆はそのまま趙粟を攻撃してこれを撃破。冀州の郡県は、再び燕へ臣従した。

 さて、公孫希の戦勝を聞いた劉庫仁は、大軍を発して苻丕救援に赴こうと考え、雁門・上谷・代郡から兵を徴発した。
 この時、燕の重臣だった慕輿一族で慕輿文(慕輿句の子)と慕輿常(慕輿虔の子)が劉庫仁の元にいた。彼等は三郡の兵卒達は遠征に嫌気がさしていることを知り、造反して劉庫仁を攻撃した。
 これを聞いて、公孫希の軍は動揺し、自潰した。公孫希は擢真のもとへ逃げた。
 劉庫仁の弟の劉頭眷が、劉庫仁に代わってその軍を領有した。
 苻丕は、使者を派遣し、晋陽の驃騎将軍張毛と、へい州刺史王騰に救援を求めた。だが、晋陽の兵は少なかった為、彼等は業へ赴けなかった。
 苻丕は進退窮まり、軍議を開いて僚佐へ諮った。すると司馬の楊鷹が、晋への降伏を提案したが、苻丕は却下した。
 そのうち、謝玄が劉牢子を高傲へ派遣した。晋の済楊太守郭満が滑台に據った。将軍の顔肱と劉襲が河北へ陣取った。
 苻丕は、将軍の桑據を黎陽へ派遣して拒戦させたが、劉襲が夜襲を掛けて追い散らし、黎陽を占領した。
 苻丕は懼れ、謝玄のもとへ使者を派遣した。
「我々は、国難を救うため、何とか兵糧を調達して、西へ向かう所存。もしも援軍を出してくれたら、業を進呈しよう。西への道が塞がり、長安が陥落したら、業は君達が守ればよい。」
 使者に選ばれたのは、焦逵と姜譲。彼等は、楊鷹へ密かに言った。
「今、我が国はここまでボロ負けしている。長安への道は閉ざされ、国の存亡も判らない。節義を屈し、誠を尽くしても、救援が来ないのではないかと懼れているのです。にも関わらず、公の剛毅さは変わらず、未だに秦の存立へ心を残している。これでは、交渉は絶対に失敗します。
 ここは、この書を改竄し、晋軍を迎え入れ、我等は晋へ降伏しましょう。公がどうしても従わなければ、縛り上げてでも連れていけばよい。」
 楊鷹は苻丕の妃の兄だったが、自分では苻丕を動かせないことを知り、書状を改竄して謝玄へ送った。
 謝玄は、晋陵太守騰恬之を黎陽へ派遣した。

 慕容沖が長安を攻撃していると聞き、姚萇は幕僚を集めて会議を開いた。すると、幕僚達は皆言った。
「大王は、まず長安を取り、大本を固めてから四方を経略するべきでございます。」
 すると、姚萇は答えた。
「いや、そうではない。大勢の鮮卑が生まれ故郷へ帰りたがった。慕容沖はそれに乗じて勢力を伸ばしたのだ。だから、いつまでも関中に留まっていたら、慕容沖は兵卒から見放される。
 吾は今から嶺北へ移動し、軍備兵糧を充実させながら、秦が滅亡して燕が立ち去るのを待てばよい。その後、手に唾して長安を手に入れることが出来るだろう。」
 そして、長男の姚興を北地へ留め、自らは手勢を率いて新平を攻撃した。
 話は遡るが、新平で暴動が起こって新平相を殺した時、苻堅は城壁の一部を壊して、彼等の行動を戒めた。以来、新平の人々は、壊れた城壁を見るごとに、自分たちの過去の暴動を恥じた。そうゆう訳で、新平の人々は、忠義を表して過去の恥を雪ごうと考えていた。
 後秦王の姚萇が来襲すると、新平太守の苟輔は降伏しようとしたが、新平郡の人馮傑、馮羽、趙義、馮苗等が諫めて言った。
「昔、田単は一城を以て、斉を存続させました。今、秦の州鎮はなお百以上の城を持っております。なんでこうも速やかに叛臣とならねばならないのですか!」
 苟輔は喜んで言った。
「本当は、吾もそうしたかったのだ。ただ、救援が来ないで長期に亘って孤立することを懼れていた。しかし、諸君等もそのように思っているのなら、吾がどうして生を貪ろうか!」
 こうして、彼等は籠城した。
 後秦軍は、城攻めの為に築山を造り地下道を掘ったが、苟輔も又、城兵を指揮して山上で戦い地下で戦い、後秦は一万以上の戦死者を出してしまった。
 ある時、苟輔は後秦軍を誘き寄せようと、偽って降伏を申し出た。姚萇は新平城へ入城しようとしたが、直前に悟って引き返した。その時、苟輔の伏兵が襲いかかり、姚萇は辛くも逃げ出せたが、又も万余人の戦死者を出してしまった。

 さて、王嘉とゆう處士が、倒虎山に隠居していた。彼は不思議な術を使い、多くの人々から仙人とあがめられていた。その評判が高くなると、苻堅、姚萇、そして慕容沖が皆、使者を派遣して招聘した。
 十一月。王嘉は長安へ入城した。これを聞いた人々は、「苻堅に福運があるので聖人が助けるのだ。」と噂しあい、三輔の自衛団やてい、きょうが続々と秦へ帰心し、その勢力は四万余となった。
 苻堅は、王嘉と沙門の道安を外殿へ住まわせ、何かと諮問した。

 長安城中には、鮮卑族が、なお千余人住んでいた。そこで、慕容粛(慕容紹の兄)と慕容偉は、この鮮卑達と結託して乱を起こそうとの陰謀を企てた。
 十二月、慕容偉は息子の結婚にかこつけて、苻堅を新居へ招待した。そこへ伏兵を置いて暗殺しようとゆうのだ。苻堅はこれを承諾したが、偶々大雨が降って行かなかった。
 これによって陰謀が露見し、苻堅は慕容偉と慕容粛を呼び付けた。
 慕容粛は言った。
「陰謀が露見した。宮殿へ行けば殺されるだけだ。使者を殺して逃げ出そう。城外へ逃げ延びれば何とかなる。」
 だが、慕容偉は従わず、遂に二人揃って出頭した。
 苻堅は言った。
「今まで、お前達と誠実に接してきたのに、今回のこれはどうゆうつもりだ!」
 すると、慕容偉は言葉を飾って言い訳をしたが、慕容粛は言った。
「国家のことが重大なだけ。この程度で籠絡されると思ってか!」
 苻堅は、まず慕容粛を殺した。次いで慕容偉とその宗族を殺し、更に、城内の鮮卑は幼長男女の区別なく、皆殺しを命じた。
 慕容垂の幼子の慕容柔は、宦官の宋牙が養子としていたので、見逃された。又、慕容寶の息子の慕容盛は、隙を見て脱出し、慕容沖の陣へ逃げ込んだ。

 慕容垂が業の包囲を解いたのに、苻丕はなおも業に固執して脱出しない。そこで、慕容垂は再び業を包囲したが、西方だけは兵を置かず、いつでも逃げられるようにしておいた。
 焦逵が謝玄と面会すると、謝玄は出兵の条件として、まず苻丕の子息を人質として差し出すよう要求した。だが、焦逵が苻丕の誠意を必死になって述べた為、謝玄はようやく援軍を派遣した。
 出陣したのは、劉牢子と騰恬之。兵力は二万。
 又、焦逵が長安の飢餓を告げたので、謝玄は二千石の米を水陸から送った。

 十年、正月。苻堅は寵臣を集めて宴会を開いた。この頃、長安は飢えに苦しみ、人々がお互いに食い合っている有様だった。
 慕容沖は、阿房にて皇帝位に即いた。更始と改元する。(西燕王朝の成立)
 即位した慕容沖は得意の絶頂で、勝手気儘に賞罰を下した。この時、まだ十三歳だった慕容盛が、慕容柔へ言った。
「十人の長でさえ、他の九人よりも優れた能力を持ってこそ、その地位が安泰なのだ。今、中山王は凡人以下の才量で、秦滅亡とゆう功績を建てたわけでもないのに、もうこのように驕り高ぶっている。これでは末路も知れたものだ!」
 甲寅、苻堅は仇班沐にて慕容沖と戦い、大いに撃ち破った。翌日、桑雀にて再び戦い、又も大勝利だった。だが、甲子の戦いで、秦軍は大敗してしまった。
 苻堅は西燕の軍に包囲されたが、殿中将軍登遭が力戦し、どうにか脱出できた。
 壬申、慕容沖の命令を受け、高蓋が長安へ夜襲を掛けた。南城から入ったところで竇衝と李弁が撃退した。西燕軍は八百人の戦死者を出した。秦軍は、その屍を全員で分配して食べた。
 乙亥、高蓋は兵を退き、渭北の諸砦を攻撃して回った。太子宏と成貳壁で戦い、大いにこれを破る。秦軍は三万人の打撃を受けた。

 姚萇は諸将を新平へ留めて城攻めを続行させる傍ら、自らは一隊を率いて安定攻略へ向かった。そして秦の安西将軍苻珍を捕らえ、嶺北の諸城を悉く平定した。

 二月、苻堅は城西にて慕容沖と戦い、大勝利を収め、阿房宮城まで追撃した。諸将は勝ちに乗じて入城するよう請うたが、苻堅は罠にかかることを懼れて退却した。

 劉牢子が方頭へ到着した。だが、この時楊鷹と姜譲の陰謀が暴露し、苻丕は彼等を捕らえて処刑した。これを聞いて、劉牢子は進撃を見合わせて、ここに逗留した。

 苻暉は、慕容沖と戦って屡々敗れた。そこで、苻堅は彼を詰って言った。
「お前は我が才子である。それが大軍を擁して白虜の青二才と戦って屡々敗れる。何でオメオメ生きているのか!」
 三月、苻暉は怒り憤って、自殺した。
 李弁と彭和正は、長安に見切りを付けた。そこで同郷の隴西の人間を呼び集めると韮園へ屯営した。苻堅は彼等を呼び返したが、戻らなかった。
 慕容沖は、驪山にて苻方と戦い、これを殺した。そして、秦の尚書葦鐘を捕らえた。そこで、彼の息子の葦謙を馮翊太守に任命し、三輔の民を呼び集めさせた。
 塁主の召安民は、葦謙を責めて言った。
「君は擁州では名家の生まれ。それが賊軍に従って不忠不義を為している。どの面下げてあの世へ行くつもりか!」
 葦謙がこの言葉を父親の葦鐘へ伝えると、葦鐘は自殺した。葦謙は、東晋へ逃げた。
 秦の苟池と倶石子が慕容沖と驪山で戦い、敗れた。慕容永が苟池を斬り、倶石子は業へ逃げた。慕容永は、慕容運(慕容鬼の弟)の孫で、倶石子は、倶難の息子である。
 苻堅は、領軍将軍楊定を派遣して、慕容沖を攻撃した。楊定は大いに敵を破り、鮮卑一万余りを捕虜として連れてきた。苻堅は、これを悉く穴埋めにして殺した。

 さて、慕容垂は、まだ業を陥落できなかったので、しばらく冀州へ逗留しようと考えた。そこで、慕容麟を信都へ屯営させ、慕容温を中山へ屯営させ、慕容農を業へ呼び戻した。遠近の人々は、これを聞いて、燕の国力が衰えたと考え、去就に迷い始めた。

 中山の慕容温は、兵力が弱かったが、丁零の四つの郡城へ、軍を分けて駐屯させた。
「この軍力では、攻撃するには不足だが、守備を固めるには十分だ。よく連携を取って、敵が来たら追い払え。今は兵糧を蓄え、兵卒を訓練しながら、時を待てばよい。」
 そして、旧い領民を慰撫し、新しい民を招き、農桑を奨励したので、多くの民が続々と帰順してきた。郡県は砦を築いて兵糧を送ってきたので、官庫は穀物で満ち溢れた。
 擢真が中山へ夜襲を掛けたが、慕容温に撃退された。以来、擢真は二度と攻撃を仕掛けなかった。
 慕容温は、護衛兵に守らせて、一万石の兵糧を慕容垂へ送り、中山へ宮殿を建設した。

 東晋の劉牢子は孫就柵にて燕の黎陽太守の劉撫を攻撃した。慕容垂は、業の包囲を慕容農に任せ、自ら兵を率いて劉撫救援に向かった。
 この機会に苻丕は慕容農へ夜襲を掛けたが、撃退された。
 劉牢子は慕容垂と戦ったが、勝てず、黎陽まで退却した。そこで、慕容垂は業へ戻った。 四月、劉牢子軍は業へ進軍した。慕容垂は迎撃したが、撃退され、遂に包囲を撤収し新城まで退却した。
 乙卯、慕容垂は新城から北へ逃げた。
 劉牢子は、苻丕には告げずに、慕容垂を追撃した。苻丕はこれを聞き、後を追って追撃した。
 庚申、菫唐淵にて、劉牢子は慕容垂に追いついた。慕容垂は言った。
「秦と晋が瓦合した。合流すれば大した勢力だから、それで一勝すれば勢いに乗って手が出せなくなる。しかし、もともと一致協力しては居ないのだから、一敗すれば共に潰れるぞ。今、両軍は相継いでおり、一体化していない。今の内に叩くべきだ。」
 劉牢子軍は疾風のように二百里を駆け、五橋沢にて、燕の輜重隊を襲撃した。だが、そこを慕容垂本隊が襲撃して、大いにこれを破り、数千の首を斬った。
 劉牢子は単騎脱出し、後続の秦軍に救援され、危難を免れた。
 業では食糧が底を尽き、兵卒が飢えていたので、苻丕は晋の蓄えた兵糧に預かる為、とりあえず方頭へ入った。そして、劉牢子は業へ入城して敗残兵を呼び集めた。すると、東晋の兵卒が集まってきて、何とか軍容が整ったが、東晋朝廷はこの大敗の責任を追及し、劉牢之を本国へ呼び戻した。
 燕の冠軍将軍慕容鳳は戦闘の度にわが身を顧みずに戦い、前後して大小二百五十七の戦いに出たが、これと言った功績を建てることが出来なかった。
 慕容垂は彼を戒めて言った。
「今、大業はその端緒に就いたばかり。お前はまず、自愛せよ!」
 そして、車騎将軍慕容徳を彼の副将として、その鋭気を押さえさせた。
 燕と秦が対峙して、一年が過ぎた。幽州と冀州は大飢饉で、人が互いに食い合う有様。燕の軍卒からも、大勢の餓死者が出た。とうとう慕容垂は、兵糧確保の為、農民の養蚕を禁止し、桑の代わりに穀物を植えさせた。
 慕容垂は更に北上し、中山へ居を定めた。

 新平では、兵糧が底を尽き、救援も来ない。それを見計らって姚萇は使者を派遣した。「吾は義を以て天下を取ろうと考えている。どうして忠臣を怨もうか!卿は城中の民を率いて長安へ行きなさい。吾はただ、この城が欲しいだけなのだ。」
 苟輔は納得し、五千人の民を率いて城を出た。ところが、後秦軍はこの民を包囲し、悉く穴埋めにし、男どころか女まで洩らさなかった。ただ一人、馮傑の息子の馮終だけ、辛くも脱出し、長安へ落ち延びた。
 苻堅は苟輔等に官爵を追賜し、節愍侯と諡した。又、馮終を新平太守とした。

 五月、慕容沖が長安を攻撃し、苻堅は自ら督戦した。流れ矢が苻堅の満身に突き刺さり、流血が全身を染め抜いた。
 慕容沖の兵卒は略奪暴行を働いたので、関中の士民は逃げ散った。通行は途絶し、千里に渡って炊煙が絶えた。
 関中には三十余の砦があったが、彼等は平遠将軍趙傲を盟主に推戴した。そして結託し、苻堅を助ける為に艱難を冒して兵糧を送った。だが、その為、大勢の兵卒が西燕軍に殺されてしまった。
 苻堅は彼等へ言った。
「御身達こそ、誠の忠臣である。しかし、今は賊徒が多く、一人の力では状況を打開することは出来ない。徒に一人づつ虎口へ入って何の役に立とうか!お前達、今は御国の為にも、自分の命を大切にし、兵糧を備蓄して兵を鍛えなさい。そして天の時を待つのだ。平安な時は必ず来る!」
 慕容沖の略奪に、三輔の民は苦しんだ。そこで、長安へ密かに使者を放ち、苻堅へ告げた。
「どうか慕容沖を攻撃して下さい。我々は奴等の陣へ火を放って内応いたします。」
 苻堅は答えた。
「卿等の忠誠は、なんと哀しいことだろうか!だが、吾は虎豹のような猛士と霜雪のように鋭利な兵器を持ちながら、烏合の虜に苦しめられた。天命でなくて何だ!もしも天命ならば、卿達を徒に道ずれとするだけではないか!そんな事は忍びない」
 しかし、男が固く請うて止まなかったので、七百騎を派遣した。だが、慕容沖の陣へ火を付けた途端、風向きが変わり、火を付けた連中が却って火に巻かれてしまって、焼死を免れた人間は、ほんの一・二割とゆう有様だった。
 衛将軍楊定が、城西にて慕容沖と戦って戦死した。楊定は秦の驍将だったので、苻堅は大いに懼れた。讖書の中に「帝が五将へ出て、久長を得る」の一文があったので、とうとう苻堅は、鳳翔の五将山へ逃げる決心をした。そこで、皇太子の苻宏へ、長安に留まるよう命じて言った。
「これはあるいは、予を外へ出そうとゆう天の思し召しかも知れぬ。お前はこの城を守って、無闇と戦うな。吾は隴へ行き、兵卒を収め兵糧を入手して戻って来る。」
 そして、数百騎の護衛と、張婦人、中山公苻先、そして二人の娘寶と錦を連れて、五将山へ出奔した。又、州郡には、孟冬を期して長安を救援するよう通達した。
 苻堅が韮園を通過する時、李弁は燕へ逃げ、彭和正は恥じて自殺した。

 六月、苻宏は長安を支えきれないと見切って、数千騎を率い、母、妻、宗室と共に下弁へ逃げた。百官は逃散し、司隷校尉の権翼等数百人が後秦へ逃げ込んだ。(権翼はもともと姚襄の幕僚だった。)
 慕容沖は、長安へ入城すると、大いに略奪を働き、虐殺された者は数知れなかった。

 七月、苻堅は五将山へ到着した。姚萇は、驍騎将軍呉忠を派遣して、これを包囲した。
 秦の軍卒は逃げ散り、ただ数十人が残るだけとなった。だが、苻堅は落ち着き払って座り込むと、宰人達へ食事を摂らせた。すると、そこへ呉忠がやって来て彼等を捕らえ、新平へ送って幽閉した。

 苻宏は下弁へ逃げ込んだが、南秦州刺史の楊璧は、城門を閉ざして入れなかった。
 この楊璧は、苻堅の娘婿である。妻の順陽公主は、夫を棄てて苻宏に従った。
 苻宏は武都へ逃げ、豪族の強煕の助けを借りて東晋へ亡命した。東晋朝廷は、彼等を江州へ住まわせた。

 八月、姚萇は、幽閉した苻堅の元へ使者を派遣して国璽を求めた。
「私こそ、予言された次代の皇帝。こうして汝を捕まえたのは天の恵みか。」
 すると、苻堅は言った。
「小きょう!天子に迫るとは、身の程をわきまえろ。お前の名前は、予言書になど出ていない。それに、国璽は既に東晋へ送った。お前の手には入るまい。」
 姚萇は、今度は右司馬の尹緯を派遣して、禅譲を説かせた。だが、苻堅は言った。
「禅譲とは、聖賢へ対して行うもの。逆賊相手に、何でそんな真似が出来るか!」
 苻堅は尹緯と語っているうちに、フと問うた。
「御身の、我が朝廷での官職は何だったか?」
「尚書令史です。」
「なんと。卿の才覚は王景略にも劣らぬ。宰相の才だ。それなのに、朕は今まで卿のことを知らなかった。道理で、国が滅ぶ訳だ。」
 苻堅は、姚萇へ恩愛を与えていたと常々自負していただけに、怒りも甚だしく、屡々姚萇を罵り、早く殺せと喚いた。
 又、張夫人へ言った。
「きょう奴なんぞに、我が子が辱められるなどとんでも無い!」
 そして、我が手で寶と錦を殺した。
 辛丑、姚萇は使者を派遣し、新平の仏寺にて、苻堅を絞殺した。張夫人と苻先は自殺した。
 これを聞くと、後秦の将士でさえ、皆、哀慟した。そこで、姚萇は自分の悪名を覆い隠そうと思い、苻堅へ「壮烈天王」と諡した。

 

 司馬光、曰く。

 人々は皆、慕容垂と姚萇を殺さなかったから、苻堅が滅んだのだと言う。しかし、私はそうは思わない。
 かつて許召は、曹操を評して、「治世の能臣、乱世の姦雄」と言った。もしも苻堅が立派に国を治めていたら、慕容垂も姚萇も能臣だった。どうして天下を掻き乱すことが出来ただろうか!
 苻堅が滅亡したのは、勝ち続けて心が驕ったせいである。
 昔、魏の文侯が、呉が滅亡した理由を尋ねたところ、李克は答えた。
「度重なる戦いに、勝ち続けたからでございます。」
「戦う度に勝つのなら、国家の幸い。どうしてそれで滅亡するのだ?」
「戦いを続けると民は疲れ、勝ち続けると主君の心が驕ります。驕主が疲民を御せば、滅びないはずがありません。」
 苻堅が滅亡したのも、これと同様である。

 

(訳者、曰く)

 私はかつて晋書の「苻堅載記」を読んだことがある。
 苻堅は如何にも名君であり、国が大きくなるのも頷けた。しかし、それまでは多くのエピソードが苻堅の治世を讃え、民の生活へ心を配っていたことを伺わせていたにも拘わらず、「肥水の戦役」を境にして、以後は戦争の記述で塗りつぶされてしまった。
 造反は止まず、次々と討伐軍を繰り出し続けた。一人の兵士が死ねば、その妻や子供を考えると、三・四人が路頭に迷う。そして、戦争の度に大勢の若者が命を落とすのだ。これでは民はどうして堪ろうか!国が滅ぶのも、もっともな話である。前秦の滅亡は「肥水の戦役」ではなく、その後の内乱にこそ在ったのである。
 勿論、それまで寛大に対していた慕容垂から裏切られ、激怒する心情は判る。しかし、凡俗を以てふんぞり返るのなら、最初から聖人ぶらなければ良かったのだ。
 上り坂の数と下り坂の数が全く同数であるように、全ての人間は長所と同じ数の短所を備え持っている。一つの性格が、現実に適合したらこれを「長所」と呼び、そぐわなければ「短所」と呼んでいるのだから。
 苻堅が五族協和理想に燃え、寛大を以て処したことは、長所でもあり、短所でもあった。
 その寛大さは、奸悪な人間に悪心を恣に養わさせたが、彼の理想故の善政によって、民の生活は安定し、多くの民衆が苻堅を慕ったのである。
 確かに、連勝の奢りは「肥水」の過ちを招いた。そして一旦落ち目になると、虎狼のような慕容垂は忽ち牙を剥いたが、これは彼の理想が火種をくすぶらせていた。だが、彼にはまだ広大な領土と五十万の兵卒がおり、これで守りに徹すれば、虎牢関以西を守り通すことは出来た筈だし、慕容垂もそこまでは求めていなかった。それ故、苻丕へ対して西の道を開けていたのだ。虎狼の一片の良心が西への通路を開けさせたのは、苻堅の努力の成果でもある。そして、大勢の民が苻堅のために力を尽くそうと考えていた。これは彼の理想の賜である。そう考えるならば、彼が理想のみを求めていたことは、禍の火種を生むと共に、それなりの成果も上げていたのである。
 だが、肥水の後、彼は単なる庸君に変わった。
 そもそも、肥水以前でさえ、戦争に次ぐ戦争で兵卒は疲弊していた。ましてや大敗の後、どうして戦争など出来る状態だっただろうか!天子として民の生活に目を向けたならば、反乱軍追討など出来なかったはずである。にも拘わらず、彼は怒りに任せて派兵した。
 姚萇の部下を処刑したことに至っては、暴君以外の何物でもない。彼に咎はなかったのだから、命惜しさに逃亡しても、不義を責められるものではない。これが二人めの慕容垂を生んだのである。
 民は戦苦に喘ぎながらも、多くの義勇軍が生まれ、苻堅の為に戦った。善政の余慶、推して知るべし。その民の心を思えば、土地を放棄してでも民を守るべきであるのに、苻堅はそうはしなかった。戦乱を収める機会を、自ら握りつぶし、破滅へと走ったのである。そしてその戦乱の中で、かつての余慶を食い潰し、遂に滅んだのである。
 苻堅は、その前半生を聖人ならんと努力し、後半生は凡人を以て自ら許した。人は皆、彼を評して「理想故に国を滅ぼした」と言うが、そうではない。理想の悪弊で衰退こそしたものの、その理想を捨て去ったが故に滅んだのである。