尉遅迥の乱
 
尉遅迥決起 

 相州総管の尉遅迥には衆望が集まっていたので、楊堅は彼に異図があるかと恐れた。そこで、子息の魏安公尉遅惇を使者として派遣し、葬式に参列するよう召集した。
 壬子、上国柱韋孝寛を相州総管とし、小司徒叱列長乂を相州刺史とした。
 尉遅迥は、楊堅が簒奪を謀っていることを察知し、帝室のために挙兵して彼を討とうと謀った。
 韋孝寛が朝歌へ来ると、尉遅迥は麾下の大都督賀蘭貴を派遣して、彼へ書状を渡し、招いた。韋孝寛は、賀蘭貴を留めて共に語り、その言葉の端から尉遅迥の叛意を読みとった。そこで、病と称してゆっくりと進み、また、使用人に薬を買いに行かせるとゆうふれこみで、密かに尉遅迥の動向を探らせた。
 韋孝寛の甥の韋芸が魏郡守となっていた。尉遅迥は韋芸に、韋孝寛を迎えにやらせた。韋孝寛は、韋芸に尉遅迥の動向を問うたが、韋芸は尉遅迥の仲間だったので、嘘を答えた。しかし、韋孝寛が怒って韋芸を斬ろうとすると、韋芸は懼れて尉遅迥の陰謀を白状した。韋孝寛は韋芸を連行して西へ走り、亭駅へ着く度に、全ての伝馬をかき集め、駅司へ言った。
「もうすぐ蜀公(尉遅迥)が来るから、盛大な宴会で持てなすように。」
 尉遅迥は、儀同大将軍梁子康へ数百騎を与えて韋孝寛を追いかけさせた。しかし、その一行が駅へ着く度に宴会の準備がしてあり、しかもどの駅にも馬が一匹もいない。そうこうしてもたついたので、韋孝寛は無事に逃げ出すことができた。
 楊堅は、候正の破六韓褒を尉遅迥のもとへ派遣して説得させたが、それと共に総管府長史晋永等へ密かに書状を渡し、準備をしていた。尉遅迥は、これを知ると晋永と破六韓褒を殺し、文武の士民を集め、城の北楼へ登って言った。
「楊堅は、太后の父親とゆう権威を借りて幼帝を擁立している。奴が簒奪を目論んでいるのは、道行く人でも知っている。我は、国舅(宇文泰)の甥で、将と相を兼ねている。先帝が我を選んでこの地位へ据えてくださったのは、国の危急の事態に備えてのことだ。今、卿等とともに義と勇をかき集め、国を正し、民を庇いたいのだ。諸君等はどう思うか!」
 皆は命に従った。
 ここにおいて尉遅迥は大総管と自称し、官吏を置いた。
 この時、趙王招は朝廷へ行っていたが、子息は封国へ置いていた。そして彼の封国である襄国は、相州総管の管轄内にあった。そこで尉遅迥は、趙王の子息を推戴し、近隣へ号令を掛けた。
 甲子、楊堅は関中の兵へ動員令を掛けた。韋孝寛を行軍元帥とし、梁士彦、楽安公元諧、宇文忻、濮陽公宇文述、武郷公崔弘度、清河公楊素等を行軍総管として、尉遅迥の討伐を命じた。 

 話は遡るが、宣帝は、計部中大夫の楊尚希へ、山東の撫慰を命じていた。彼は、任地へ向かう途中、相州にて宣帝の崩御を知った。そこで、尉遅迥と共に喪を発した。
 儀式が終わって退出すると、楊尚希は近習達へ言った。
「蜀公は、作法通りに哭していたが、ちっとも哀しみがこもっていなかったし、端から見ていてとても不安げだった。奴は必ず、何かしでかす。早く立ち去らないと、巻き添えを食らってしまうぞ。」
 そして、その夜のうちに逃げ去った。
 明け方になって、尉遅迥はそれに気がつき追っ手を掛けたが、追いつけず、楊尚希は長安へ逃げ帰ることができた。
 楊堅は、楊尚希へ三千の兵を与え、潼関を鎮守させた。 

  

他州の動向 

 ヨウ州牧の畢刺王賢は五王と共に楊堅暗殺を謀ったが、事前に洩れてしまった。楊堅は畢刺王と彼の三人の子息を殺したが、五王が関わっていた点はもみ消して、不問に処した。
 秦王贄を大塚宰、杞公椿を大司徒とする。また、柱国梁睿を益州総管とした。 

 青州総管の尉遅勤は、尉遅迥の甥である。当初、尉遅迥から文が来たときには、それを朝廷へ渡したが、やがて尉遅迥へ追従した。
 尉遅迥の任地は、相、黎、洛、冀など九州、尉遅勤は青、斉など五州。これらは全て彼等に従い、その兵力は数十万となった。
 栄州刺史召公冑、申州刺史李恵、東楚州刺史費也利進、潼州刺史曹孝遠は、各々任地にいたまま尉遅迥への同心を表明した。徐州総管席毘羅はコン州にて、前の東平郡守畢義緒は蘭陵にて、尉遅迥への同心を表明し、懐県永橋鎮の将軍乞豆陵恵は城ごと尉遅迥へ降伏した。
 尉遅迥は大将軍石遜へ建州を攻撃させた。建州刺史宇文弁は、州を挙げて降伏した。
 また、西道行台韓長業へ路州を攻撃させた。韓長業は刺史の趙威を捕らえ、城民の郭子勝を刺史とした。
 乞豆陵恵は、鉅鹿を落とし、恒州を包囲した。
 上大将軍宇文威は、ベン州を攻めた。
 リョ州刺史烏丸尼等は、青・斉州の兵を率いて沂州を包囲した。
 大将軍檀譲は曹、毫二州を攻め落とし、梁軍へ屯営した。
 席毘羅の軍勢は八万と号して、蕃城へ進軍し、昌慮、下邑を攻め落とした。
 李恵は申州から永州を攻めて、これを落とした。 

 尉遅迥は、大左輔・ヘイ州刺史李穆を仲間に引き込もうと使者を派遣したが、李穆はこれを捕らえて書状は封をしたまま楊堅へ渡した。
 李穆のもとには天下の精鋭が揃っていた。そこで李穆の子の李士栄は、尉遅迥へ同心するよう、密かに李穆へ勧めたが、李穆はこれを頑として拒んだ。
 楊堅は、内史大夫柳裘を李穆の元へ派遣して、利害を説いた。また、李穆の子の左侍上士李渾を腹心とした。すると李穆は、李渾を介して楊堅へ言った。
「閣下の権威にすがって、天下を安寧にしとうございます。」
 そして、十三鐶金帯を楊堅へ献上した。十三鐶金帯は、天子の服装である。楊堅は大喜びで、李渾を韋孝寛の元へ派遣し、李穆の意向を伝えた。
 李穆の兄の子の李祟は、懐州刺史となっており、最初は尉遅迥へ応じようとしていたが、李穆が楊堅についたことを知るや、大きく溜息をついて言った。
「我が家は、数十人も富貴の身分に抜擢して貰ったのに、御国の大難の時に助けることもできぬのでは、何の面目あって天地の間に住めようか!」
 しかし、やむをえず、楊堅へ附いた。
 尉遅迥の子の尉遅詛は朔州刺史となっていた。李穆は彼を捕らえて長安へ送った。また、郭子勝を討伐して、これを捕らえた。 

 尉遅迥は、徐州総管源雄と、東郡守于仲文も招いたが、共に従わなかった。源雄は、源賀の曾孫で、于仲文は于謹の孫である。
 尉遅迥は、于仲文を攻撃する為、宇文冑と宇文威を派遣した。宇文冑は石済から、宇文威を白馬から黄河を渡り、二道から于仲文を攻める。于仲文は郡を棄てて長安へ逃げ帰った。尉遅迥は、于仲文の妻子を殺した。
 また、尉遅迥は檀譲を河南へ派遣した。楊堅は、于仲文を河南道行軍総管として洛陽の兵を与え、檀譲を攻撃させた。また、楊素へ宇文冑攻撃を命じた。
 丁未、楊堅は都督中外諸軍事となった。 

 ウン州総管司馬消難もまた、挙兵して尉遅迥へ応じた。朝廷は、柱国王詛を行軍元帥として、司馬消難を討伐した。
 廣州刺史于ガイは、于仲文の兄だが、総管の趙文表と仲が悪かった。そこで、心臓の病と偽って趙文表を呼び寄せて自ら殺し、”趙文表は尉遅迥と内通していた。”と表明した。この時、まだ尉遅迥は平定していなかったので、楊堅は彼をねぎらい、呉州総管とした。 

  

暗殺計画 

 趙王招は、楊堅を暗殺しようと謀り、自分の第へ招待した。楊堅が酒を携えて出かけると、趙王は寝室へ招き入れた。その部屋では、趙王の子の員、貴、及び妃の弟の魯封等が佩刀して左右に立っていた。また、室の後ろには、壮士を伏せていた。
 楊堅の近習達は入室を断られたが、ただ、開府大将軍弘と大将軍元冑のみが、戸側へ坐ることができた。彼等はどちらも勇気も武力もあったので、楊堅が腹心としていた男達だった。
 酒がたけなわになると、趙王は佩刀で瓜を刺して、楊堅へ食べさせた。そして、そのまま刺し殺すつもりだったが、元冑が進み出て言った。
「丞相府は忙しい最中です。余りゆっくりとはできません。」
 趙王は、怒鳴りつけた。
「我と丞相が語らっているのだ。引っ込んでいろ!」
 元冑は目を怒らせ、刀を押さえて入室し、楊堅の護衛に立った。趙王は、元冑へ酒を賜った。
「吾が良からぬ事を企んでいるとでも言うのか!なにを邪推して、そんなに警戒しているのだ?」
 趙王は、わざと酒を吐き出し、気分が悪くなったふりをして、後閣へ入ろうとした。それを見た元冑は、刺客が飛び込んでくることを懼れ、趙王を助け起こして上座へ据えた。
 このようなことが、数回繰り返された後、今度は趙王は「喉が渇いた」と言い、元冑へ、厨房へ行って飲み物を取ってくるよう命じたが、元冑は動かなかった。
 この時、トウ王が尋ねてきたので、楊堅は席を降りて挨拶をした。するとその時、元冑は楊堅へ耳打ちした。
「様子が変です。お逃げください!」
「しかし、奴には兵も馬もないのだぞ。なにができる?」
「この第の兵も馬も、全て彼のものです。奴が先手を打ったら、逃げようがありませんぞ。私は、死ぬのが恐くて言っているのではありません。犬死が嫌なだけです。」
 しかし、楊堅は再び入室した。
 元冑は、室の後方で、鎧の鳴る音を聞いたので、わざと大声で言った。
「丞相府には、仕事が山積みなのに、公はそんなにゆっくり構えて居られるのか!」
 そして、楊堅を抱えて寝室から出て行った。趙王は追いかけようとしたが、元冑が体で戸口を塞いだので、趙王は部屋から出ることができなかった。楊堅が門の所まで来た時、元冑は追いついてきた。
 壬子、楊堅は趙王と越野王盛が謀反を企てているとして誅殺した。彼等の諸子も皆殺しになった。
 周室の諸王達はしばしば楊堅を暗殺しようとしたが、楊堅の都督の李圓通が、常に彼を護衛したので、どうにか免れた。 

 この月、周の豫・荊・襄三州の蛮が造反し、郡県を攻め破った。 

  

官軍反撃 

 韋孝寛の軍が永橋城に着いた。諸将が先陣争いをすると、韋孝寛は言った。
「城は小さいが堅固。もしもこの城を攻撃して抜くことができれば、我が軍の威厳が無くなってしまう。今、大軍を破ろうにも、どうやってできるだろうか!」
 ここにおいて、軍を武渉まで退いた。
 尉遅迥は、子息の魏安公尉遅惇へ十万の兵を与え、沁水の東へ屯営させた。丁度この頃、沁水が増水して水を満々と湛えていたので、韋孝寛と尉遅迥は河を隔てて睨み合ったまま動かなかった。 

 韋孝寛の長史李詢が、密かに楊堅へ言った。
「梁士彦、宇文忻、崔弘度が、尉遅迥から金を受け取って密かに攪乱工作を行っております。これによって、軍中の士卒達は志気が乱れております。」
 楊堅は深く憂えて、その三人の交代要員を鄭譯と相談した。すると、李徳林が言った。
「諸将は、公と同じ国家の貴臣です。公の臣下になったわけではありません。公はあくまで、陛下を擁立しているので諸将へ号令が掛けられるに過ぎないのです。その状況で、派遣した人間にちょっと疑惑があるからと言って、すぐに他の人間と交代する。そんな有様ではだれが忠節を尽くしましょうか!又、金を受け取ったとゆうことも、虚実は明確にしにくいことです。いま、交代要員を送れば、彼等は罪へ陥れられることを懼れて逃げ出すかも知れません。そうかと言って、最初に有無を言わさず捕らえてしまっては、韋孝寛以下は驚いて、公へ疑惑を抱くに違いありません。それに、敵前にて将軍を交代するのは、敗北の原因です。燕は斉に破れ、趙は秦に破れたではありませんか。今回の事件は、信頼できる軍目付を一人派遣すれば済むことです。公の腹心で、知略明るく諸将から信望がある人間を送り、軍の情偽を調べさせましょう。そうすれば、喩え異心があっても妄動はできないでしょうし、動けば制圧することもできます。」
 楊堅はハッと悟って言った。
「公の助言がなければ、大事を誤るところだった。」
 そこで、少内史崔仲方へ軍監を命じた。だが、崔仲方は崔猷の子息で、父親が山東にいるので、辞退した。そこで劉方や鄭譯に命じたが、劉方は「まだ将となった経験がない」と言って辞退し、鄭譯は老母を理由に辞退した。楊堅は不機嫌になった。すると、高潁が自薦した。楊堅は喜んで、潁を派遣した。潁は、命令を受けると、直ちに出発した。ただ、自宅へ人を走らせて母親へ事情を伝えただけだった。
 以来、楊堅は軍事については李徳林に相談するようになった。時には、一日に百件を越える案件が、李徳林へ尋ねられた。そんな時、李徳林は数人の人間を並べて口述筆記させたが、 できあがった答申書は、どれも一文字の添削もいらないほど立派なものだった。 

 益州総管王謙も、楊堅へつかず、蜀の兵卒を率いて始州を攻撃した。楊堅は、梁睿へ王謙討伐を命じた。 

  

諸外国 

 司馬消難が、ウン・随・温等九州と魯山等八鎮ごと陳へ降伏し、子息を人質に出して救援を求めた。
 八月、陳は、司馬消難を大都督・総督九州八鎮諸軍事、司空として、随公の爵位を贈った。後、大都督水陸諸軍事とする。
 鎮西将軍樊毅、南豫州刺史任忠等を歴陽へ派遣し、超武将軍陳恵紀を前軍都督として南コン州へ派遣する。通直散騎常侍淳于陵が臨江郡に勝った。
 後、智武将軍魯廣達が郭黙城に勝ち、淳于陵が裕州城に勝つ。 

 梁の世宗が、中書舎人柳荘を使者として、周へ書を送った。この時、楊堅は柳荘の手を執って言った。
「昔、孤が開府として江陵の役に従軍した時、梁主から特別目をかけて貰ったものだ。今、その幼主が艱難に遭い、孤を頼っておられる。梁主は、累代我が朝廷に保護されているが、これは立木が冬を凌いでいるようなもの。いずれ春に遭ったら、再び青々と繁るだろう。」
 この頃、梁主の諸将達は、”挙兵して尉遅迥へ加担すれば今までの周からの恩顧へ応えることになるし、巧く行かなくても山南を攻略することはできる。”と吹き込んでいたが、梁主は躊躇して決断できないでいた。柳荘は戻ってくると楊堅の言葉を伝え、言った。
「袁紹、劉表、王凌、諸葛誕達は、皆、一世の英雄でしたし、険阻な土地と強大な兵力を擁していましたが、結局は何も成し遂げることもできないままアッとゆう間に滅ぼされてしまいました。これは、魏や晋が天子を擁立し、大義名分を味方としていたからです。今、尉遅迥は旧将ですが、もう耄碌しております。司馬消難や王謙に至っては、凡人の下の才覚しかなく、天下を糾合する事などできはしません。周朝の将相達は、保身のために競って楊堅へ媚びております。臣の判断では、尉遅迥は滅亡し、随公は必ずや簒奪するでしょう。今は妄動せず、境内の民を休めて様子を見るべきです。」
 梁主は納得し、臣下達も何も言わなくなった。 

  

決戦 

 高潁は、軍へ到着すると沁水へ橋を架けた。尉遅惇は上流から薪を積んで火を付けた筏を流したが、潁は土狗(テトラポットの一種。)を積み上げて、これを防いだ。
 尉遅惇は、少し退却した。韋孝寛へ渡河するよう誘いかけ、もしも乗ってきたら、渡河の祭仲に攻撃しようと考えたのだ。韋孝寛は、敵の退却に乗じて、軍鼓を鳴らして進軍した。
 軍が河を渡り終わると、潁は橋を燃やして、背水の陣を布いた。尉遅惇の軍は大敗し、尉遅惇は単騎で逃げ出した。韋孝寛は、勝ちに乗じて業まで追撃した。
 尉遅迥と二人の息子尉遅惇、尉遅裕は、全軍十三万を総動員して城南へ陣を布いた。
 尉遅迥は、別に一万の精鋭兵を率いていた。彼等は皆、緑の頭巾と錦の上着を身に纏い、「黄龍兵」と号していた。
 尉遅迥の弟の尉遅勤は五万の兵を率いて青州から駆けつけてきて、三千騎で先駆けとなった。
 尉遅迥は軍事に習熟しており、老いてもなお甲冑に身を固めて戦陣に立った。彼の麾下は皆、関中の人間だったが、父母妻子を顧みず、尉遅迥の為に力戦した。韋孝寛等は、戦況不利になって、少し退いた。
 ところで、業の士民は、数万人がこの戦争を観戦していた。行軍総管の宇文忻は言った。
「危ないぞ!奇策を使ってでも敵を檄はしなければ。」
 そして、観戦している人間へ矢を射かけた。観客は、皆、大声を挙げながら逃げまどった。宇文忻は、ここぞとばかり伝呼した。
「賊軍は敗れたぞ!」
 韋孝寛軍は奮い立ち、混乱している賊軍へ突撃した。尉遅迥軍は大敗して業城へ逃げ込んだ。韋孝寛は、これを包囲する。李詢と足軽の賀婁子幹が、先頭切って城壁へ登った。
 崔弘度の妹は、尉遅迥の息子と結婚していた。業城が破れると、尉遅迥は彼女を脅して楼へ登った。崔弘度は、これを追いかける。尉遅迥が弓で彼を狙ったら、崔弘度は兜を脱いで言った。
「今回は、私も貴方も私心を棄てて御国のために謀ったのです。親戚の情に駆られて軍を乱すことなどできましょうか。もう、ここまで来たのです。ジタバタなさいますな。」
 尉遅迥は弓を叩きつけると、楊堅のことを思う様ののしってから、自殺した。
 崔弘度は、弟の崔弘升を振り返って言った。
「お前が首を取りなさい。」
 崔弘升は、尉遅迥の首を斬った。
 軍士の中には、小城へ立て籠もって拒戦した者も居たが、韋孝寛は彼等を全員生き埋めにした。
 尉遅勤、尉遅惇、尉遅裕は、青州へ逃げた。しかし、行き着く前に開府儀同大将軍の郭衍に捕らえられてしまった。ところで、尉遅勤は、当初は尉遅迥へ書を遣って諫めていた。そこで楊堅は、特に彼だけは罰さなかった。
 李恵は、自らを縛り上げて自首してきた。楊堅は、彼を元の官爵へ就けた。
 尉遅迥は、末年は耄碌して、小御正の崔達拏を長史としていたが、彼は文士で武略はなく、措置にも齟齬が多かった。結局、挙兵して六十八日で敗北した。 

  

掃討 

 于仲文は、檀譲と戦った。
 檀譲の兵力は、数万。于仲文は老弱の兵で戦いを挑み、すぐに逃げ出した。檀譲は勝ちに奢って備えもしなかったので、于仲文は引き返して襲撃し、大勝利を収めた。五千余を捕虜として、七百の首級を挙げる。
 そのまま、進軍して梁郡を攻撃した。尉遅迥の守将劉子寛は、城を棄てて逃げた。
 于仲文は、更に進軍して、曹州にて刺史の李仲康を捕らえる。
 檀譲は、敗残兵をかき集めて、成武に陣を布いたが、于仲文はこれを襲撃して破り、成武も抜いた。
 尉遅迥の将席毘羅は、十万の兵力で沛県に屯営し、徐州を攻撃しようとしていた。ところで、席毘羅の妻子は金郷に居た。そこで于仲文は席毘羅の使者と偽って、金郷城主の徐善浄へ使者を出した。
「檀譲は、明日の午後にも金郷へ到着します。蜀公から、将士へたくさんの賜が賜下されましょう。」
 金郷の人々は大喜びした。
 于文仲は、精鋭兵を選ぶと、尉遅迥の旗を建てて驀進させた。徐善浄は、それを見て檀譲の兵と思って出迎えたので、于文仲は、これを捕らえた。そのまま、金郷も占領する。
 諸将の多くは、城内の民を皆殺しにするよう勧めたが、于文仲は言った。
「ここは、席毘羅が起兵した所だ。彼等の妻子を寛大に扱えば、奴等は不安になって引き返してくるだろう。しかし、虐殺すれば、奴等は死ぬまで戦うではないか。」
 皆は、名案だと賛同した。
 席毘羅は、数を恃んで官軍へ挑んできたが、于文仲は伏兵を設けてこれを撃った。席毘羅軍は大敗を喫した。兵卒達は逃げ出して洙水へ飛び込んだので、溺死した兵卒の死体で川の流れが堰き止められてしまった。
 この戦いで檀譲を捕らえ、京師へ送った。席毘羅は、斬首して、首だけ送った。 

 韋孝寛は、兵を分散して関東の造反者達を悉く平定した。楊堅は、相州の役所を安陽へ移し、業を壊した。また、相州を毛州と魏州へ二分する。
 梁主は、尉遅迥の敗北を聞いて柳荘へ言った。
「もしも衆人の言葉に従っていたら、社稷は滅んでいたぞ!」 

  

側近交代 

 楊堅は、政権を取った当初は黄公劉方と沛公鄭譯を腹心としていた。彼等の権勢は朝野を傾け、人々は「黄、沛」と称していた。
 二人とも功績を恃んで驕慢となり、財利に溺れて職務を蔑ろにしていた。しかし、監軍を辞退してから、楊堅は彼等を疎み始め、恩礼も次第に薄くなっていった。これへ対して高潁は、戦争から帰ってきてから寵遇が日々篤くなっていった。
 この頃、王謙と司馬消難は、まだ平定していなかった。楊堅はこれを憂え、浸食も忘れるほどだった。それなのに、劉方は遊びや酒に浸りきりで、相府の仕事にも手落ちが多い。とうとう、楊堅は劉方を罷免して後任の司馬に潁を任命した。
 鄭譯へ対しては、廃するのに忍びなく、官職はそのままだったが、仕事は全て取り上げてしまった。鄭譯は恐々として、自ら解任を求めたが、楊堅はなおも恩愛を以て慰勉した。
 漢王が太師となり、申公李穆が太傅となり、宋王が大前疑、秦王が大右弼、燕公于寔(于仲文の父親)が大左輔となった。 

  

乱の終焉 

 王詛が四総管を率いてウン州へ到着すると、司馬消難は部下を率いて降伏してきた。
 初め、司馬消難は上開府儀同大将軍段旬に、順州を包囲させた。順州刺史周法尚は防ぎきれず、城を棄てて逃げた。司馬消難はその母や弟を捕らえて、南進した。
 樊毅が司馬消難を救援に向かったが、間に合わなかった。壱州総管元景山がこれを攻撃したので、樊毅は民を掠めて去った。元景山は、南徐州刺史宇文弓(「弓/弓/攵」)と共に、これを追撃した。そして樊毅と戦い、一日に三戦して全勝だった。樊毅は甑山鎮まで退却する。これによって、司馬消難が基盤としていた城邑は、全て元景山が奪取した。
 ウン州の巴蛮は、しばしば造反する連中で、今回も司馬消難に加担していたが、王詛はこれを討伐して、旬月のうちに平定した。
 陳から救援に来た陳紀と蕭摩訶は江陵を攻撃したが、北周の呉州総管于豈が撃破した。
 楊素は、宇文冑を石済で破り、これを斬った。 

 丁亥、北周の将軍王延貴が歴陽を救援に来たが、陳の任忠が撃退し、王延貴を捕らえた。 

 十月、梁睿が二十万の兵力で王謙を討伐した。王謙は、各地の要害に部下を分散して守らせたが、梁睿はこれを次々と落としていった。蜀は、大恐慌に陥った。
 王謙は、麾下の達奚其、高阿那肱、乙弗虔へ十万の兵を与えて、利州を攻撃させた。彼等は揚子江を堰き止めて、敵を水攻めにした。城中の戦士は二千に過ぎなかったが、総管の豆盧勣は昼夜拒戦した。凡そ四旬が経ったが、その間、豆盧勣は屡々出撃して奚其等へ打撃を与えた。やがて、梁睿が到着すると、奚其等は逃げ出した。
 梁睿は剣閣から入り、成都へ迫った。
 王謙は、奚其と乙弗虔へ城を守らせ、自身は精鋭五万を率いて城を背にして陣を布いた。梁睿が、これを撃つ。王謙は戦って破れた。城へ逃げ込もうとしたら、奚其と乙弗虔が開城して降伏した。
 王謙は、麾下三十騎と共に新都へ走った。すると、新都令の王寶が、これを捕らえた。
 戊寅、梁睿は王謙と高阿那肱を斬り、剣南を平定した。 

 十一月、奚儒が楊永安を破り、沙州も平定された。 

 同月、韋孝寛が卒した。
 韋孝寛は、長く辺境に居り、しばしば強敵と拮抗した。計略や布石は、人々には始めは何の意味か判らないが、やがてそれらが図に当たって仰天することも多かった。軍中に居ても、文史を重んじ、宗族を大切にし、棒禄は私有しなかったので、皆が立派だと褒め称えた。

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