鬱林王の乱
 
皇太孫の即位 

 中書郎の王融は俊才で名門出身。それに傲って、三十までには宰相になろうと心に誓っていた。
 ある夜、彼は省中で仕事をしていて思わず嘆いた。
「お前はまだこんな事をしているのか。登(「登/里」)禹から笑われるぞ。」
 又、車に乗っていて嘆いたこともある。
「八頭立ての馬車に乗らなければ丈夫ではない!」
(登禹は、後漢の光武帝の幕僚で、二十四才で司徒になった。又、晋以降、諸公や諸従公は八頭立ての馬車に乗るようになっていた。)
 そんな王融だったが、意陵王子良は彼の文章や学問を愛しており、特に親しくつき合っていた。
 永明十一年(493年)、武帝が重態になり、子良は延昌殿に侍って看病するように命じられた。以来、子良は日夜宮殿内に籠もったが、皇太孫は二日に一度参内するだけだった。
 戊寅、武帝が危篤になった。皇太孫が入内する前に内外は惶懼し、百僚は子良へ服従した。王融は詔を矯して子良を立てようと考え、その草稿まで書き上げた。
 ところで、子良は蕭衍や范雲等を帳内軍主としていたが、このような状況にあって、蕭衍は范雲へ言った。
「大勢の人々が道端で噂しあっているぞ。将軍が非常の事を行うのではないか、と。だが、王融には救世の才覚はない。失敗するのは目に見えている。」
 すると、范雲は言った。
「いや、王融こそが国家を憂えているのだ。」
「国を憂えている?それは周公や召公になる為かな?それとも斉の桓公の側近だった易牙や豎キョウになる為かな?」
 范雲は黙り込んだ。
 皇太孫が入内すると、王融は戎服(軍服)で彼等の行く手を阻んだ。
 この頃、武帝は蘇生し、皇太孫の居所を尋ねた。そして、東宮の一行を召集する事と、尚書左僕射の西昌侯鸞に朝廷を委ねる事を命じたが、たちまち急逝した。享年五十四。
 王融は、子良の兵を動員して諸門を閉鎖した。事態の急変を聞いた西昌侯鸞が急いで雲龍門へ駆けつけたが、彼等に邪魔されて進めない。だが、西昌侯鸞は言った。
「敕があって召されたのだ!」
 そして強引に突き進み、皇太孫を奉じて登殿すると、子良をつまみ出すように左右へ命じた。指揮を受けた部署は、音が鐘に従うようにこれに応じ、誰も逆らわない。
 王融は、失敗したことを知った。彼は、朝服へ着替えて中書省へ帰り、嘆じた。
「公が我を誤らせたのだ!」 

 武帝の遺詔に言う。
「太孫の徳は日々篤くなっている。きっと社稷を護れるだろう。子良はこれを善く輔け、治道を弘めよ。内外の諸々のことは、大小となく鸞と共に決裁せよ。政務のことは、悉く右僕射王晏と吏部尚書徐孝嗣へ委ね、軍事に関しては王敬則、陳顕達、王廣之、王玄貌、沈文季、張壊、薛淵等へ委ねよ。」
 武帝は政治に留意し、大礼を務め、厳明で決断力があった。地方官の汚職には断固たる処置を行ったので、百姓は豊かに暮らせ、賊盗は息を潜めた。又、遊宴は好きだったが、華奢は嫌っていた。廟号は、世祖。
 さて、皇太孫昭業が即位するまで、人々は子良が立つのではないかと口々に言い合っていたが、武陵王曄が大声で言った。
「年長を立てるのならば、俺が居る。嫡を立てるのならば太孫に決まっているではないか。」
 これによって、皇太孫昭業は、武陵王曄を深く頼みとした。
 皇太孫昭業は、即位したが、後に廃される。後世、鬱林王と呼ばれている。 

  

鬱林王の為人 

 始め、西昌侯鸞は太祖から愛されていた。鸞は、倹素な性分で車も服も供人達も質素にしていたし、厳格有能だったので、世祖も彼を重んじた。それで、世祖の遺詔では、意陵王子良と共に政治を補佐することになったのである。
 意陵王子良は、もともと仁厚な人間で、世務を楽しまなかった。そこで、西昌侯鸞のことを推した。遺詔に、「内外の諸々のことは、大小となく鸞と共に決裁せよ。」の一文が入ったのは、子良の志が汲まれたのである。 

 鬱林王は、幼い頃、子良の妃の袁氏に育てられ、ずいぶんと慈しまれていた。だが、王融が陰謀を巡らせてからは、子良を深く忌むようになってしまった。
 壬午、遺詔と称して、武陵王曄と陳顕達が開府儀同三司となった。西昌侯鸞は尚書令、意陵王子良は太傅である。 

 鬱林王は、弁が立って智恵があり、容貌が美しかった。人との対応が巧く、感情表現が過敏。だから、世祖は彼を愛していた。だが、上辺を取り繕うのが巧く、陰日向が酷い。人から愛される人柄は見せかけだけの仮の姿で、自分の言うままになる宦官や低い身分の男達と喜んでつき合い、起食を共にしていた。
 鬱林王は幼い頃、南郡王となった。この頃、養育していた意陵王子良が揚州刺史となったので、鬱林王も彼に従って西州へ行った。この時、父親の文恵太子は決まっただけの金しか与えなかった。すると鬱林王は土地の富豪のもとへ使者を派遣し、銭を求めた。相手が相手だけに、求められた富豪達は無碍に断れない。こうして金を得た鬱林王は、夜毎に西州の後閣を開いて、乱痴気騒ぎに明け暮れた。
 鬱林王の師の史仁祖と侍書の胡天翼が相談した。
「もしもこの事が、陛下や殿下の耳へ入ったならば、大変なことになるぞ。我等が誅殺されるどころか、へたすれば一門族滅だ。俺達はもう七十になる。吝しむ歳ではない!」
 そして、相継いで自殺した。しかし、武帝も文恵太子も実情を知らなかった。
 寵愛する側近達には、黄色い紙へ官職を書いて渡した。
「即位したら、この通りにしてやるからな。」
 文恵太子が病に伏せった時には、窶れきった顔をして、傍目にも痛々しかった。だが、私室へ戻ると酒を飲んで馬鹿騒ぎをした。そして、一日も早く即位できるよう、父のことを、巫女の楊氏へ毎日呪詛させていた。太子が崩御すると、楊氏の霊験と信じ、彼女を益々敬った。太孫となって世祖が病気になると、再び楊氏へ呪詛を命じた。
 この頃、妃の何氏は、まだ西州に居た。世祖の病気がいよいよ重くなると、鬱林王は彼女へ手紙を送った。それは紙の中央に大きく「喜」の字が書いてあり、その周りを小さな「喜」が三十六個書かれたものだった。
 世祖の看病をしている時は、涙を零して言葉も出せないほどだった。それを見た世祖は、必ず天下の大業を担えると信じ、この孫へ言った。
「五年間は宰相へ全てを任せ、お前は自分の判断を抑えよ。だが、五年過ぎたら人へ任せるな。自分の決断で巧く行かなかったら、恨みも少ない。」
 臨終の時、手を執って言った。
「この爺のことを忘れてくれるなよ!」
 そして、崩御した。
 その場の諸儀式が済むと、鬱林王は世祖の全伎女を呼び出して、乱痴気騒ぎをやった。
 即位して十余日後、鬱林王は王融を投獄した。王融は意陵王子良に救助を求めたが、子良は憂懼して敢えて救わず、とうとう、獄中で死を賜った。享年二十七。
 以前、王融は徐勉と交遊したくて何度か彼を呼んだ。だが、徐勉は答えた。
「王君は、名声こそ高いが、急ぎすぎている。きっと躓くぞ。」
 果たして、王融は獄死したので、徐勉の名声は高まった。
 九月、世祖の遺体を宮城から運び出した。鬱林王は、瑞門(南の正門)の内側で別れの言葉を述べた。そして、車が瑞門を出る前に「具合が悪い」と言って引き返し、即座に胡伎達と遊んだ。その銅鑼の音などは、内外を震わせた。
 十月、何妃が、皇后となった。 

  

西昌侯、蠢動 

 建武元年(494年)、西昌侯鸞は廃立を考え、鎮西諮議参軍蕭衍と共に陰謀を巡らせた。
 荊州刺史の随王子隆は穏和な性格で文才があった。西昌侯鸞は、彼を仲間に引き込みたかったが、断られて陰謀が暴露することを懼れていた。すると、蕭衍が言った。
「随王は名声こそ高いけれども、実は庸才です。知謀の士も持たず、爪牙といえば、司馬の垣歴生と武陵太守のベン白龍だけ。ですが、この二人は利に転びますので、高い官職を与えればついて来ます。そうすれば、随王を仲間にするなど簡単です。」
 そこで、垣歴生を太子左衛率、ベン白龍を游撃将軍に任命したら、二人とも都へやって来た。続いて、随王を侍中・撫軍将軍として召した。
 豫州刺史の崔恵景は、高祖や武帝以来の旧将だった。西昌侯鸞は、彼が将来の憂いになることを懸念し、蕭衍を寧朔将軍にして寿陽を守らせた。すると、崔恵景は懼れて白服(罪人の着る服)を着て出迎えたので、衍は彼を撫安した。 

  

この世の春 

 鬱林王は、中書舎人の基毋珍之、朱隆之、直閣将軍の曹道剛、周奉叔、宦官の徐龍駒等を寵幸していた。特に、毋珍之が推薦した人間は拒絶されたことがなかったので、内外の要職を求める人間は我も我もと彼へ贈賄し、旬月のうちに千金が集まった。官物等を持ち出す時にも、詔など待ちはしない。だから、役人達は言い合った。
「喩え敕にそむこうとも、舎人の命令にだけは背いてはならない。」
 徐龍駒は、後閣舎人となった。常に含章殿に居住する。黄色い帽子を被り貂の裘を着、南面して草案を練り、鬱林王の代わりに敕を書く。左右の侍臣は、皇帝へ接する時と同様の態度で彼に仕えた。
 鬱林王は、左右と共に市里をお忍びで遊び歩いた。文恵太子を葬った祟安陵は特にお気に入りの場所で、トンネルに泥を塗ったり石をぶつけたり、高飛びをしたりして遊んだ。左右が気の利いた文を作ると、即座に褒美を出した。ややもすると、百万銭にも及ぶ。鬱林王は、銭を見る度に言った。
「昔、我は汝の十枚も得られなかった。今は幾らでも使えるぞ。」
 世祖は上庫に五億銭をかき集めていたが、鬱林王は三億銭を運び出した。その他に金銀布帛を数え切れない位持ち出したが、即位して一年足らずでこれらを全て浪費したのである。
 ある時は、主衣庫へ入り、何后や寵姫達と共に諸宝器を叩き割って喜んだ。ある時は、世祖の幸姫だった崔士と密通し、彼女を徐と改姓させた。
 朝廷での政務は、大小となく西昌侯鸞へ押しつける。西昌侯鸞は屡々諫争したが、殆ど聞き流す。しかし、心中では西昌侯鸞を疎ましく思い、粛清しようと思った。番陽王鏘は、世祖から手厚く遇されていた人間だったので、鬱林王は鏘へ言った。
「西昌侯鸞が我へどう対しているか、公は聞いているか?」
 鏘はもともと謹み深い人間だったので、答えた。
「臣鸞は、宗戚の最長老。それに、先帝の託も受けております。臣等は皆、年少。朝廷が頼みとするのは、ただ鸞一人です。どうか陛下、無用の慮りはなさいますな。」
 彼が退出すると、鬱林王は徐龍駒へ言った。
「我は、番陽王と手を組んで西昌侯を排除しようと思っていたのだが、番陽王は断りおった。我一人では、力も弱い。しばらくは西昌侯をのさばらせるしかないか。」 

  

腹心離反 

 衛尉の蕭甚(「言/甚」)は、世祖の族子である。世祖が郢州に居た頃からの腹心だった。世祖が即位すると、常に宿衛に控え、機密事項の全てに関与していた。征南諮議の蕭坦之は、蕭甚の族人である。かつて、東宮直閣となり、世祖の面識を得た。
 鬱林王は、この二人が祖父の古い部下なので、特別親信していた。蕭甚が外泊した日などは、鬱林王は夜も眠れず、彼が帰ってくると安心する有様。蕭坦之は後宮へ自由に出入りすることができた。鬱林王の乱痴気騒ぎの時も、蕭坦之は側に控えていた。鬱林王は、酔っぱらうと裸になって眠ったが、そんな時に蕭坦之は、鬱林王を抱き上げて諫め諭した。西昌侯鸞は、鬱林王を諫めようとしても王が後宮から出てこない時は、この二人を派遣して伝言した。 

 何后は淫乱な女で、鬱林王の近習の楊民と密通していた。だが、鬱林王の意を得ることが巧かったので、鬱林王はこれを放任していた。その寵愛ぶりは、何后の親戚を宮殿へ入れ、輝霊殿へ住まわせる程だった。
 彼等の淫乱は止めどがない。とうとう、西昌侯鸞は蕭坦之を派遣して、楊民を誅殺するよう上奏した。すると、何后は涙で顔を濡らして言った。
「楊郎はまだ若い。罪もないのにどうして殺すのですか!」
 すると、蕭坦之は鬱林王へ耳打ちした。
「楊民と皇后の醜聞は、外まで噂になっています。暴露されるのも時間の問題。誅殺しなければいけません。」
 鬱林王は、やむを得ずにこれを許可した。だが、すぐに後悔して彼を赦す旨、敕を出したが、間に合わなかった。
 また西昌侯鸞は、徐龍駒を誅殺するよう鬱林王へ請願した。鬱林王は断りきれずに誅殺したが、心中ますます西昌侯鸞を疎ましがった。 

 鬱林王の狂縦は日毎に益々甚だしく、改悛の意などどこにもない。それを見ていて、蕭坦之と蕭甚はやがて自分達にも禍が降りかかるのではないかと恐れた。そこで、密かに西昌侯鸞と結託し、彼へ廃立を勧めた。以後、彼等は西昌侯鸞の耳目となって働いたが、鬱林王は気がつかなかった。 

  

羽翼もがれる 

 周奉叔は勇を恃んで武力を誇り、公卿達へ睨みを利かせていた。常に二十人の武装兵を従えて禁門を出入りしていたが、門衛は、敢えて口を出さなかった。簒奪を企てる西昌侯鸞にとっては、一番の邪魔者だ。そこで、鸞は蕭坦之と蕭甚に鬱林王を説得させた。
「周奉叔を地方へ出して、外藩としましょう。そうすれば、誰が造反しても安心です。」
 己巳、周奉叔は青州刺史となり、曹道剛は中軍司馬となった。
 出向に先立って、周奉叔は千戸侯となる事を鬱林王へ求めた。鬱林王は許可したが、西昌侯鸞がこれを阻み、結局、曲江県男に封じられた。食邑は三百戸。周奉叔は激怒して、人中で刀を抜き放ち怒鳴りつけたが、西昌侯鸞が説得し、どうにか受けさせた。
 周奉叔の挨拶が終わり、いざ出向とゆう段になると、まず部下を全員出発させた。その時、西昌侯鸞と蕭甚は敕と称して周奉叔を省中へ召し出し、殴り殺してしまった。そして、鬱林王へは報告した。
「周奉叔は朝廷にてあのような狼藉をしでかしました。」
 鬱林王は、やむを得ず、これを認めた。
 さて、湮林令の杜文謙は、鬱林王がまだ南郡王だった頃、王の侍読だった。少し前の話になるが、彼は基毋珍之へ言った。
「天下のことを予見してみるに、我等の命運は逼迫している。早く手を打たなければ一族皆殺しになってしまうぞ。」
「何か手だてがあるか?」
「先帝の旧臣達は、西昌侯鸞のもとで冷や飯を食らわされている。彼等を語らえば、皆、闘志旺盛だぞ。最近では、王洪範と宿衛将の萬霊会が共に語り合い、悲憤慷慨しているとゆう。君が、周奉叔と密かに連絡を取り、萬霊会に蕭甚等を殺させる。こうすれば、宮内の兵力を我等が独占できる(蕭甚は、この時、衛軍司馬と衛尉卿を兼任し、宿衛兵を掌握していた)。そうして、即座に兵を尚書へ繰り出し、西昌侯鸞を斬る!いま、挙兵しても殺され、挙兵しなくても殺されるというのなら、社稷の為に死ぬべきではないか!もしもグズグズしていたら、君は敕によって死を賜るぞ。そうすれば、君の父母も誅殺されることは明白だ。」
 だが、毋珍之は断行できなかった。
 周奉叔を処刑すると、西昌侯鸞は杜文謙と基毋珍之を投獄して殺した。 

  

意陵王、卒す 

 二月、意陵王子良が憂いの余り卒した。鬱林王は、常に意陵王子良が造反することを心配していたので、彼が死んだと聞いて大いに喜んだ。
(鬱林王は、意陵王子良の造反のみを気にかけていた。しかも自身が西昌侯鸞を排除しようとしていたにも関わらず、西昌侯鸞の陰謀には気がつかなかった。鬱林王が意陵王子良の事を気にしていたのは、やはり王融があのような陰謀を巡らせたせいだろう。)
 五月、日食があった。 

  

弑逆 

 既に徐龍駒と周奉叔を誅殺した西昌侯鸞は、陰謀が益々深くなっていった。
 この時、蕭甚と蕭担之が兵権を掌握し、王晏が尚書事を統べていた。蕭甚は、密かに諸王の典籤(宋の時代から、この地位にいる者が自然と王の第一の側近となっていった。皇帝の懐刀として権勢を謳歌する者は、たいてい、その皇帝が王だった頃の典籤である。)を呼び集め、諸王にむやみと人に会わせないよう約束させた。蕭甚は要職について長かったので、皆は憚って、これに従った。
 西昌侯鸞が、王晏や丹陽尹徐孝嗣へ陰謀を語ると、彼等は即座に応じた。
 驃騎録事の楽豫が、徐孝嗣へ言った。
「人々は廃立が起こると喧しく噂しております。しかし、君は武帝から殊に深い恩顧を蒙ったお方。とてもの事、そんな輩に同調はできますまい。人々がチョ淵(斉の簒奪に加担した中心人物)を嘲り笑った歯は、まだ乾いていませんぞ。」
 徐孝嗣は内心頷いたが、中止しなかった。
 不穏な噂が広まると、鬱林王は蕭担之へ言った。
「人々は、西昌侯鸞が王晏や蕭甚と共に我の廃立を企てていると噂しているが、信憑性があるぞ。卿はどのように聞いている?」
 すると、蕭担之は言った。
「何でそんなことがありましょう。理由もなしに皇帝の廃立をする男がとこにおりましょうか!朝廷の貴官達は笑い飛ばしています。これは、尼姥どもの茶飲み話。なんで信じるに足りましょうか!それよりも、理由もなくこの三人を粛清すれば、全ての朝臣がおびえますぞ。次は自分の番ではないか、と。」
 直閣将軍の曹道剛は、この噂に不審を抱き、密かに機先を制しようとしていたが、まだ行動を起こさなかった。
 この時、始興内史の蕭季敞や南陽太守の蕭穎基等の中央への転任が決まった。そこで蕭甚は、彼等が到着してから手を組んで挙兵しようと考えていた。この二人は地方の任務から戻ってくるので、どちらも兵力を率いてくるのである。だが、西昌侯鸞は機先を制されることを恐れ、蕭担之と相談した。蕭担之は蕭甚のもとへ駆けつけて、言った。
「天子の廃立は、古来からの大事件です。それに、曹道剛や朱隆之が我等を疑っています。もしも明日決行しなければ、悔いても及びませんよ。私には百才になる老母がいます。敗北を座視することなどできません。ぐずつかれるなら、返り忠へ走りますぞ!」
 蕭甚は恐れ、これに従った。
 七月、壬辰。西昌侯鸞は、まず蕭甚に入宮させた。すると、曹道剛や朱隆之に遭ったので、彼等を殺した。すると、徐僧亮が怒り狂って、皆へ向かって怒鳴りつけた。
「我等は御恩を受けている。今日こそ命を捨てて報いる時だ!」
 これも殺した。
 西昌侯鸞は服の上から朱衣を羽織っていた。彼は兵を率いて尚書から雲龍門へ入ったが、この時、慌てていて三度靴を見失った。王晏、徐孝嗣、蕭担之、陳顕達、王廣之、沈文季等が、皆、後に従った。
 この時鬱林王は寿昌殿に居たが、外の変事を聞いて、蕭甚を呼んだ。又、内殿の諸房閣を閉じさせた。すると、蕭甚が兵を率いて寿昌閣へ突入してきた。鬱林王は、徐姫の部屋へ逃げ込むと、剣を抜いて自殺しようとしたが、できず、帛で顔を隠して延徳殿へ逃げた。
 蕭甚が入殿した時は、まだ宿衛の兵卒達は弓や盾を構えて防戦しようとしていた。だが、蕭甚は彼等へ言った。
「討つべき者は他にいる。卿等妄りに動くな!」
 宿衛は、もともと蕭甚に隷服していたので、皆はこの言葉を信じ込んだ。やがて鬱林王を見つけると、兵卒達ははやり立ったが、鬱林王は一言も言葉を出せなかった。そして、殿の西の隅で弑逆された。享年二十二。
 鬱林王の屍は輿に載せて宮から出され、徐龍駒宅でもがりし、王の儀礼で葬られた。
 既に事が終わった後、西昌侯鸞は太后から命令を貰おうと欲した。すると、徐孝嗣が袖の中から太后の命令書を取り出して献上したので、西昌侯鸞は大いに悦んだ。
 徐姫及び諸々の嬖倖は、皆、誅殺された。又、何后も廃されて王妃となった。
 新安王昭文を迎え入れ、これを擁立する。 

  

大臣の去就 

 この事変を聞きつけた役人達が、大慌てで吏部尚書の謝淪のもとへ報告に駆けつけた。その時、謝淪は、客と棋を指していた。知らせを聞くと、石を打つ度に言った。
「何か訳があるのだろう。」
 そして、一局終わると家へ帰って寝てしまい、とうとう詳しい報告を受けなかった。
 大匠卿の虞宗(「心/宗」)は言った。
「王晏と徐孝嗣が陛下を廃し奉ったと?こんな事はあってはならん!」
 虞宗は、虞嘯父の孫、虞潭の曾孫である。
 朝臣達が、召集されて入宮した。この時、国子祭酒の江学は、雲龍門まで来た所で薬を飲み、車の中で嘔吐した。そして、病気を理由に帰っていった。
 西昌侯鸞は、中散大夫の孫謙を腹心にしたがり、衛尉へ百人の武装兵を与えて迎えに行かせた。だが、孫謙は彼の許へ行きたがらずに、兵卒達を追い散らした。だが、西昌侯鸞は孫謙を罰しなかった。 

  

乱の終焉 

 丁酉、新安王が即位した。時に、十五才。西昌侯鸞を驃騎大将軍、録尚書事、揚州刺史、宣城郡王とする。大赦が降り、延興と改元された。(後、鸞が立って、建武と改元される。)