西魏の宇文泰
 
社会改革 

 西魏は、西遷以来、礼楽が散逸していた。そこで宇文泰は左僕射周恵達と吏部郎中唐謹へ故事を調べさせていたが、大同五年(539年)、ほぼ備わった。
 九年七月、西魏は測量単位を変更した。又、尚書の蘇綽へ法律の改正を命じた。賢才を探し出しては牧守令長と為したが、これも新制へ拠ったものである。
 数年経つと、百姓はその便を喜ぶようになった。 

  

瓜州討伐 

 魏の東陽王栄が瓜州刺史となった時、婿のケ彦と共に下向した。
 東陽王栄が卒すると、瓜州の人々は栄の子息の康を刺史とするよう望み、上表したが、ケ彦が康を殺してその地位を奪った。魏には討伐する余力がなかったので、ケ彦を刺史とした。
 魏の朝廷は、しばしばケ彦の入朝を求めたが、ケ彦は上京しない。又、吐谷渾とも好を通じ始めた。
 しかし、瓜州は遠すぎて、大軍を動員するのは難しい。そこで宇文泰は、計略でやっつけようと考え、給事黄門侍郎の申徽へこの件の処理を命じて、河西大使として派遣した。大同十一年のことである。
 申徽は、五十騎を率いて瓜州へ行き、賓館へ泊まった。ケ彦は、申徽の手勢が少ないのを見て安心し、疑いもしなかった。
 申徽は、ケ彦のもとへ使者を派遣し、心を入れ替えて朝廷へ帰順するよう勧めたが、ケ彦は聞かない。そこで、申徽は、敦煌(瓜州)にて自立するよう勧めた。ケ彦は、それを真に受けて、詳しい相談をする為に賓館へやって来た。
 ところで、瓜州主簿の令狐整は、瓜州では人望のある男だった。申徽は、あらかじめ、令狐整と密かに計画を練っていた。ケ彦がやって来ると、申徽は彼を捕らえ、それまでの行為を責め立てて縛り上げた。そして、即座に吏民へ布告した。
「大軍が、そこまで来ているのだぞ。」
 城中の者は、誰も動こうとしなかった。
 こうして、申徽はケ彦を捕らえ、長安へ送った。宇文泰は、申徽を都官尚書とした。 

  

涼州討伐 

 中大同元年(546年)、二月。西魏は、義州刺史史寧を涼州刺史とした。ところが、涼州では、前任の州刺史宇文仲和が州に勢力を張っており、交代を受け付けなかった。すると、瓜州では住民の張保が刺史の成慶を殺して、これに呼応した。晋昌でも、住民の呂興が太守を殺し、郡ごと張保へ呼応した。
 宇文泰は、太子太保の独孤信と開府儀同三司の怡峰へ、史寧と共に彼らを討伐するよう命じた。
 史寧が涼州の吏民を説得すると、皆は、彼へ帰順したが、宇文仲和は、城へ據って降伏しなかった。
 五月、独孤信が攻撃を開始した。夜、諸将へは城を東北から攻撃するよう命じ、自身は壮士を率いて西南から襲撃した。夜明け頃、戦闘に勝利し、宇文仲和を捕らえた。
 一方、張保は、当初は主簿の令狐整を殺そうと考えていたが、彼は人望が篤かったので、衆心を失うことを恐れて中止した。以来、上辺は彼を敬っていたが、内心では非常に忌避していた。令狐整の方でも、上辺は張保と親しんでいた。
 独孤信軍が出陣すると、令狐整の意向を受けた男が、張保を説得した。
「今、大軍が涼州へ迫っております。彼らが孤立していては、とても勝てません。すぐにでも精鋭兵を派遣して、救援するべきです。令狐整は文武の達人。彼を大将にすれば、きっと勝ちます!」
 張保は、これに従った。
 令狐整は、玉門県まで行くと、豪傑を招集し、張保の罪状を述べ、踵を返して賊軍を襲撃した。 まず、晋昌を襲撃して呂興を斬り、そのまま瓜州へ進軍した。
 瓜州の人間は、もともと令狐整へ信服していたので、皆、張保を棄てて降伏してきた。張保は吐谷渾へ逃げた。
 事が治まると、人々は令狐整を推戴した。すると、令狐整は言った。
「張保が造反した。我々は、州の人々全員が不義へ陥ることを恐れ、共に決起して逆賊を討ったのである。それなのに、ここで私が自立しては、罪を更に重ねることになってしまうではないか。」
 そして、朝廷からの使者張道義を推戴し、事件の経緯を朝廷へ具に伝えた。
 宇文泰は、申徽を瓜州刺史とし、令狐整を召し出して、寿昌太守とし、襄武男へ封じた。
 令狐整は、一族三千人を率いて入朝し、以来、宇文泰に従って数々の戦争に参加する。そして、次第に出世し、最後には驃騎大将軍、開府儀同三司、加侍中となるのである。 

  

蘇綽 

 西魏の大行台度支尚書、司農卿の蘇綽は、忠義者で節約家。常々、天下統一こそ自分の使命と考え、人心や政治の引き締めに努めていた。そこで宇文泰は、晋以来、奢侈に流れていた風潮へ対して、彼を登庸して是正を図った。
 宇文泰も彼を親任し、誰も彼等を離間させることができなかった。宇文泰が都を留守にする時は、常に白紙委任状を彼へ渡し、好きなように政務を執らせた。帰って来ても報告を受けるだけ。
 蘇綽は、常々言っていた。
「為国の道とゆうものは、慈父のように人々を愛し、厳師のように人々を訓諭する事だ。」
 公卿と議論するたびに、大小となく細かく論議し、昼も夜もない。
 中大同元年、蘇綽は過労がたたって卒してしまった。
 宇文泰は、これを深く悼んで公卿へ言った。
「蘇尚書は、常日頃から廉潔で謙譲だった。我は、その心映えを全うさせたいのだが、薄葬にしたら、未熟な人間達が何を言うか判らない。しかし、厚く葬って諡まで賜下されるのは、きっと彼の本意ではあるまい。どうすればよいだろうか?」
 すると、尚書令史の麻瑶が、卑職にも関わらず、席次を越えて発言した。
「倹約に葬ってこそ、彼の美徳を表彰することになるのです。」
 宇文泰は、これに従った。
 彼の遺体は布車一乗に乗せられ、武功(ここは、蘇綽の生まれ故郷である)に葬られた。宇文泰は、群公と共に、同州の郭外まで送り出した。 

  

地方にて 

 岐州は、長い間動乱が続き、刺史の鄭穆が赴任したとき、民戸は三千しかなかった。しかし、鄭穆が民を撫育し、あちこちから呼び集めたので、数年の後には四万余戸にまで増加した。その考績は諸州で最高である。
 太清元年(547年)、宇文泰は鄭穆を京兆尹へ抜擢した。 

 三年。東魏の民四千余家が、西魏の北徐州刺史司馬裔を慕って、彼の元へ亡命してきた。宇文泰は、この功績で司馬裔を封じようとしたが、司馬裔は固辞して言った。
「士大夫が陛下を慕って帰順したのが、どうして臣の手柄でしょうか!義士を売って身の栄華を求めるなど、私にはできません。」 

  

従諫 

 太清二年(548年)、宇文泰は安定国臣の王茂を、無実の罪で殺してしまった。
 この時、尚書左丞の柳慶が諫めたが、宇文泰は怒って言った。
「卿が罪人へ組みするなら、連座するぞ!」
 そして、その場で柳慶を捕らえた。だが、柳慶は恐れもしないで言った。
「『事を知らないのは主君の不明。それを知って争わないのは臣下の不忠』と、聞いております。慶は既に忠義を尽くしました。死ぬのは恐くありませんが、ただ、公の不明を懼れるのです。」
 宇文泰は悟り、すみやかに王茂を釈放するよう命じたが、既に処刑されていたのだ。そこで、王茂の遺族へ銭と帛を贈った。
「これで、我が過ちを顕わそう。」 

  

北斉建国 

 大宝元年(550年)、東魏が滅亡し、北斉が建国した。これを知った宇文泰は、討伐軍を組織した。秦州刺史宇文導を大将軍、都督二十三州諸軍事として咸陽へ駐屯させ、関中を鎮守させた。
 九月、西魏軍は長安を出発した。
 十一月、宇文泰は弘農へ橋を架けて黄河を渡り、建州まで進んだ。斉帝は、自ら出陣し、東城へ屯営する。その軍容が厳盛だったので、宇文泰は感嘆した。
「高歓は、まだ死んでいない!」
 この秋から冬までは長雨で、西魏の軍用の畜産が、多数死んだ。そこで、宇文泰は蒲阪まで撤退した。
 これによって、河南は洛陽以東、河北は平陽以東が、全て斉の領土となった。 

  

八柱国 

 北魏の敬宗皇帝の頃、爾朱栄が天柱将軍として、丞相の上の地位に置いていた。だが、爾朱栄が死ぬと、この天柱将軍とゆう地位もなくなった。
 大宝元年(550年)十二月、西魏の文帝は、宇文泰を天柱将軍へ任命した。
 その後、功績高い朝廷の重臣達を選んで八柱国と名付けた。その八人は、宇文泰、廣陵王、趙郡公李弼、隴西公李虎、河内公独孤信、南陽公趙貴、常山公于謹、彭城公候莫陳祟である。
 宇文泰は、もともと民間の才覚ある人間を徴発して府兵として、彼等の租・庸・調は全て免除した。(唐の「府兵法」はこれを手本としている。)そして、農隙期に訓練していた。軍馬は、六家に一頭の割合で養わせた。
 全軍を二十四に分けた。八柱国のうち、宇文泰は百揆を総括した。廣陵王欣は皇室の宿望だから選ばれただけで、特に仕事はなかった。残る六人が、各々二人の大将軍を都督した。これを十二大将軍と言った。そして、各大将軍が各々二人の開府を指揮し、各開府が、一軍を指揮するのである。
 この後、功臣達は、柱国将軍や、開府儀同三司、儀同三司まで出世する者が続出した。 

 二年、二月。文帝が崩御した。太子の欽が立つ。彼は、後に廃される。後世、廃帝と呼ばれている。 

  

突厥 

 大宝二年(551年)。鉄勒が柔然を攻撃しようとしたが、突厥の酋長土門が、これを攻撃して破った。鉄勒は、全て降伏し、その数は五万戸を越えた。土門は、その勢力を恃んで、柔然へ通婚を求めた。 柔然の頭兵可汗は激怒して、使者を派遣した。
「お前達は、もともと俺の鍛冶屋じゃないか!身の程を知れ!」
 土門も怒り、使者を斬り殺し、柔然との国交を断絶した。
 五月、突厥は西魏へ求婚した。宇文泰は、長楽公主を、彼に娶せた。 

  

廃立 

 承聖二年(553年)、二月。宇文泰が丞相、大行台を辞職し、都督中外諸軍事となった。
 十一月、西魏の尚書元烈が宇文泰暗殺を謀ったが、事前に発覚、宇文泰は彼を殺した。 

 三年、正月。宇文泰は、始めて九命之典を作った。内外の官爵を改めて、九等に造り直した。 

 西魏帝は、元烈が殺されてから宇文泰を怨み、以後、暗殺計画を練っていた。臨淮王育、廣平王贊等が流涕して切に諫めたが、聞かない。
 宇文泰の諸子は、皆、幼かった。兄の子の章武公導、中山公護は、どちらも鎮から出ており、宇文泰は、ただ諸婿を腹心としていた。大都督の清河公孝基、義城公李暉、常山公于翼等をともに武衛将軍として、禁兵を分掌させた。彼等はそれぞれ、李遠、李弼、于謹の子息である。
 これによって、魏帝の陰謀は漏洩した。宇文泰は、魏帝を廃して弟の斉王廓を立てた。これが、恭帝である。皇帝の姓の元氏を、拓跋氏へ戻し、九十九姓も、旧姓へ戻した。
 四月、宇文泰は廃帝を毒殺した。 

 紹泰元年(555年)、淮安王育が上表した。
「昔の制度に準じて王を公へ降格なさいますよう。」
 実は、宇文泰が淮安王育へ風諭して、上表させたのである。
 これは裁可され、宗族の諸王は、全て公爵へ降格された。
 太平元年(556年)、西魏では、六官を新設した。宇文泰は、太師・大塚(土編なし)宰、柱国李弼は太傅・大司徒、趙貴は太保・大宗伯、独孤信は大司馬、于謹は大司寇、侯莫陳祟は大司空となった。自余の百官も、全て周礼に拠って改称した。 

  

世継ぎ 

 宇文泰は、尚武の妹の馮翊公主を娶り、略陽公覚を生んだ。
 姚夫人は、寧都公疏を生んだ。寧都公は、宇文泰の諸子の中で最年長で、大司馬独孤信の娘を娶っていた。
 宇文泰は、跡継ぎを立てようとして、公卿へ言った。
「孤は嫡子を立てようと思うが、大司馬が猜疑するかもしれぬ。どうすればよいかな?」
 皆は黙りこくったが、尚書左僕射李遠が言った。
「嫡子を立るべきであり、長男を立てるべきではありません。略陽公を世子とするのに、何の疑いがありましょうか!もしも独孤信が猜疑するのなら、まず、私が彼を斬りましょう。」
 そして、刀を抜いて立ち上がった。
 宇文泰も立ち上がって言った。
「どうしてそこまでする事があろうか!」
 独孤信も、自ら弁解し、李遠も刀を収めた。
 こうして、李遠の建議が通った。
 後、李遠は独孤信へ拝謝した。
「大事に臨んで、やむを得なかったのです!」
 独孤信もまた、李遠へ謝った。
「公のおかげで、この大事が決定しました。」
 遂に、宇文覚が世子となった。 

  

宇文泰崩御 

 九月、宇文泰は巡回先で発病した。宇文泰は、中山公護を召集した。
 中山公がやって来ると、宇文泰は言った。
「我が諸子は、皆、幼少だ。その上、外敵は強い。天下のことは、全てお前へ任せる。良く勉めて、我が志を成し遂げよ。」
 乙亥、卒した。中山公は、長安へ戻ってから、喪を発した。
 宇文泰は、英雄豪傑を使いこなすことができた。その性格は質素を好み、虚飾を尊ばず、政治に明達していて、儒教を尊び古を好んだ。彼が新設したものは、おおむね三代を手本としている。
 丙子、世子の宇文覚が地位を継承して、太師、柱国、大蒙宰となり、同州へ下向して鎮守した。宇文泰が政治を補佐していた頃は、同州へ住んでいることが多かった。その土地は、関・河の喉元に当たり、北斉が侵略した時にすぐに応戦できる場所である。
 この時、宇文覚は、まだ十五才だった。 

  

北周建国 

 中山公護は、宇文泰から後事を託されたが、彼の名声や地位は卑しく、群公は各々好き勝手に政治を執り、彼へ服従する者は殆ど居なかった。
 そこで中山公は、大司寇の于謹へ相談した。すると、于謹は言った。
「私は若い頃、先公から非常な知遇を得ました。その恩は骨肉よりも深い。ですから、今日は、決死の覚悟を決めて奴等と戦いましょう。もしも彼等が策を決めたとしても、公は絶対譲りなさいますな。」
 翌日、群公を集めて会議を開いた。
 于謹は言った。
「昔、帝室の危急の時に、安定公(宇文泰)がおられたからこそ、今日があるのだ。今、公は逝去なされ、跡継ぎは幼い。だから、安定公は甥の中山公へ後事を託されたのだ。軍国のことは、全て中山公へ裁量させるべきである。」
 その有様が非常に激しかったので、皆は慄然とした。
 中山公は言った。
「これは、我が一族のこと。私は蒙昧だが、どうして辞退しようか。」
 于謹は、もともと宇文泰とともに戦っていた人間で、中山公は、常に彼を拝していた。だが、この時于謹は立ち上がると言った。
「公がもしも軍国を統べられるのなら、我らは皆、その傘下へ入りましょう。」
 そして、中山公へ対して再拝した。
 群公も、于謹の元へ集まって、中山公へ再拝した。こうして、西魏は一つにまとまった。
 中山公は、内外の綱紀を粛正し、文武の官吏を慰撫したので、人々の心は安定した。
 十二月、安定公を埋葬した。世子の宇文覚が周公となる。
 中山公は、宇文覚が幼いので、はやく地位を固めて、人心を安定させようと考えた。
 庚子、西魏の恭帝は周へ禅譲した。恭帝は、大司馬府へ移住する。 

 永定元年(557年)、正月。周公が、天王の位へ即いた。(北周の成立)。魏の恭帝は、宋公へ封じた。魏は水徳の国だったので、周は木徳でこれを継承した。
 李弼を太師とし、趙貴を太傅とし、独孤信を太保とし、中山公を大司馬とした。
 周王は、神農皇帝の子孫と自称した。文公(宇文泰)を文王と追尊して明堂へ配する。廟号は、太祖。
 元氏を王后へ立てる。彼女は、魏の文帝の娘、晋安公主である。 

  

粛清 

 周の楚公趙貴と衞公独孤信等は、皆、宇文泰とともに戦ってきていた勇者達だった。だから、晋公護(もとの中山公護)が政治を独断するようになると、彼らは皆、内心不満が溜まっていった。
 趙貴は、晋公暗殺を謀ったが、独孤信はこれを止めた。そのうち、開府儀同三司の宇文盛が、これを告発した。
 二月、入朝した趙貴を捕らえ、殺した。知っていながら告発しなかった独孤信は、免官させられた。(この事件で、晋公は趙貴を殺した。これによって、彼の権威は確定したのである。)
 趙貴の代わりに于謹が太傅となり、独孤信の代わりに侯莫陳祟が太保となった。柱国の賀蘭祥が大司馬となり、高陽公達奚武が大司寇となった。
 同月、西魏の恭帝を殺した。
 独孤信は、名声が高すぎたので、晋公は、彼をおおっぴらに処刑したくなかった。そこで晋公は、独孤信へ迫って服毒自殺させた。 

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