宇文化及、隋を滅ぼす
 
   義寧元年(617年)、劉武周、梁師都、薛挙等が、相継いで皇帝や覇王を名乗った。 七月、王世充へ江・淮の悍卒を与え、他の将軍達と共に東都の救援へ向かわせた。李密を討伐させる為である。これ以降の王世充に関しては、「王世充」に記載する。 

 煬帝に従って江都へ滞在していた驍果兵が、次々と逃亡するようになった。これを患った煬帝が裴矩へ相談したところ、裴矩は答えた。
「人は木石ではありませんから、長い間家族と離れているのが堪らないのです。ですから、兵士達へ現地妻をあてがいましょう。」
 煬帝は、これに従った。
 九月、江都内の寡婦を全員召集して宮下へ集め、兵士達へ好きなように取って行かせた。また、これ以前に姦淫している相手がいたら、自首すればその女を与えた。 

  

 煬帝は、江都へ来てから淫乱が益々激しくなった。宮中に百余りの房を造ってその各々へ美人を満たし、毎日別の房を訪れた。江都郡丞趙元階は、煬帝と共に酒を飲むばかり。煬帝と蕭后や寵姫達は、毎日宴会で杯を口から離す時がなく、女官達千余人もいつも酔い痴れていた。煬帝は、天下が乱れに乱れているのを見て心中不安であり、朝廷を退くと散歩をしている時も台館を遍歴している時も、ただ恐々としていた。
 煬帝は、占いや呉の方言が好きで、夜はいつも酒を持って天文を見た。ある時、彼は蕭后へ言った。
「外では、儂(呉では一人称を「儂」と言う。)を謀ろうとする者が大勢居る。しかし、儂は悪くとも長城公程度ではいられるだろうし、卿も沈后くらいではいられるだろう。(長城公は、陳寶叔のこと。沈后は、その皇后)。そうなったら、二人で酒を飲んで暮らそう。」
 また、ある時は鏡を見ながら首を撫でて言った。
「この良き頸は、誰に折られるのだろうか。」
 煬帝は、中原が乱れているのを見て北へ帰る気にならず、丹陽へ遷都して江南だけを確保しようとゆう気になっていた。群臣達へこの件について議論させると、虞世基等は皆賛成したが、右候衞大将軍李才は不可と極言し、車駕を長安へ帰すよう請い、虞世基と紛争して退出した。門下録事李桐客が言った。
「江東は湿潤で土地が狭い場所です。万乗の君に奉仕し、参軍を養うのでは、民はその負担に耐え切れません。結局は騒乱が起きてしまいます。」
 すると御史は、李桐客が朝政を誹謗したと弾劾した。ここにおいて公卿達は皆、煬帝へ阿って言った。
「江東の民は、長い間遷都を待望していました。陛下が揚子江を越えてここへ臨まれましたのは、南巡して会稽にて諸侯と会盟した、あの聖君禹の業績にも匹敵する事業でございます。」
 そして丹陽宮を建造させてここへ都を移した。
 この頃、江都では食糧が不足していた。それに、車駕に随従してやって来た驍果兵達は大半が関中の人間で、長い間異郷に過ごしていたので故郷に帰りたがっていた。それなのに、煬帝には長安へ戻る気がない。遷都の準備などでそれを思い知らされたので、兵卒達は、煬帝を見限って自分達だけ長安へ帰ろうと考えるようになった。郎将の竇賢は遂に部隊ごと集団亡命して西へ走ったが、煬帝は追撃させて斬り殺した。それでも亡命する者は後を絶たず、煬帝はこれを患った。
 虎賁郎将司馬徳戡はもともと煬帝から寵用されていた。煬帝は、彼へ驍果を統率させて東城へ屯営させていた。唐の武徳元年(618年)。司馬徳戡は、仲の善い虎賁郎将元禮、直閣裴虔通と謀って言った。
「今、驍果の面々は逃亡したがっているが、これを陛下へ伝えると陛下は癇癪を起こして我を誅殺しかねない。かといって、言わずにおいて逃亡者が続出してしまっては、一族誅殺を免れない。どうすれば良いだろうか?それに、今、関中で李淵が造反した。李孝常が城ごと李淵軍へ降伏すると、陛下は怒って、彼の兄弟達を捕らえたが、やがて死刑にするつもりだ。我等の兄弟も関中へ居る。彼等がいつ賊軍へ降伏するか知れたものではないぞ。」
 二人とも、それを聞いて震え上がった。
「どうすればいいだろうか?」
 そこで司馬徳戡は言った。
「驍果兵が集団脱走したなら、我等も彼等と共に逃げ出すことだ。」
 二人とも、それに賛同した。そこで同志を求め、内史舎人元敏、虎牙郎将趙行枢、鷹揚郎将孟乗、符璽郎牛方裕、直長許弘仁、薛世良、城門郎唐奉義、医正張豈、勲侍楊士覧などを仲間に引き込み、日夜計画を練るようになった。 
 宮人がこれを知り、蕭后へ言った。すると蕭后はそれを煬帝へ上奏するように言った。しかし宮人がこれを煬帝へ告げると、煬帝は激怒して、妄言を吐いたと決めつけ、その宮人を斬り殺してしまった。
 その後、宮人が同じ様なことを蕭后へ言うと、蕭后は言った。
「ここまで来たら、救いようがありません。もう何も言いますな。陛下へ心労を掛けるだけです!」
 以来、誰もが口をつぐんだ。
 趙行枢と宇文智及は仲が善く、楊士覧は宇文智及の甥である。二人が陰謀を宇文智及へ告げると、彼は大いに喜んだ。
 司馬徳戡は、三月になれば西へ逃げ出すよう計画していたが、宇文智及は言った。
「主上は無道だが、まだ威令は残っている。卿等が逃げ出しても、結局は竇賢の二の舞だぞ。しかし今、天は隋を滅ぼそうとしており、英雄達が各地で挙兵している。我等の同志が既に数万人もいるのなら、これで天下を狙おう。帝王になれるぞ!」
 司馬徳戡も、これに同意した。
 趙行枢や薛世良は宇文化及を盟主に請うた。そこで誓約が定まってから、彼等はこれを宇文化及へ告げた。宇文化及はもともと臆病者で、これを聞くと顔色を変えて汗びっしょりになったが、やがてこれに従った。
 許弘仁と張豈が備身府へ入り、顔見知りへ触れ回った。
「陛下は、驍果兵が造反を企んでいると聞き、驍果兵を皆殺しにするつもりだ。毒酒を多量に造っていたから、宴会を開くと言って、皆に飲ませるのだろう。陛下は一人でここへ留まるつもりだ。」
 驍果兵達は懼れ、互いに語り合ったのでこの噂は瞬く間に広がり、造反の陰謀に益々拍車が掛かった。
 乙卯、司馬徳戡は驍果の軍吏を全員召集して計画を語った。すると、彼等は皆、言った。
「将軍の仰せに従います。」
 この日の夕方、元禮と裴虔通が殿内へ入ると、唐奉義は城門を閉めた。諸門はすべて鍵を掛けなかった。
 司馬徳戡は手筈通り、東城へ数万の兵を集め、城外で火を挙げた。煬帝がこの火を見て、騒がしさにも気がつき、何事か訊ねた。すると、裴虔通は言った。
「草坊で失火しました。宮殿の外から救援に来ているのです。」
 この頃、煬帝の耳へ外部の情報が入ってこないようになっていたので、煬帝はこの言葉を信じ込んだ。
 宇文智及と孟乗は、城外に千余人を集め、候衞虎賁馮普楽を脅しつけて港を守らせた(候衞は、市内の巡邏する役職)。
 燕王炎は変事を知って、夜玄武門へ行き、跪いて言った。
「臣は突然中風になりました。命も危ないので、どうか陛下へ謁見させてください。」
 裴虔通は上奏せず、燕王を捕らえた。
 丙辰、まだ夜が明けないうちに司馬徳戡は裴虔通へ兵を与え、諸門の衞士と交代させた。裴虔通は、門から数百騎を率いて成象殿へ行き、宿衞には「賊が出た」と連呼させた。それから裴虔通は戻ってくると諸門を閉め、ただ東門だけを開けた。殿内の宿衞へは、出て行くように命じた。彼等は武器を棄てて逃げだした。右屯衞将軍独孤盛が裴虔通へ言った。
「兵員がいつもと全然違うぞ。」
「事態は既に、こうなったのです。もう将軍の手を放れました。将軍は妄動しないでください。」
「この老賊!何を言うか!」
 独孤盛は兜も被らずに左右十余人と拒戦したが、乱戦の中で討ち死にしてしまった。
 千牛の独孤開遠が、殿内兵数百人を率いて玄覧門へやって来て、閣を叩いて言った。
「兵も武器も完全です。賊など撃破できますぞ。陛下が出てきて指揮を執って下されば、人心も落ち着きますが、そうでなければ禍がやったてきますぞ!」
 しかし、返事はなく、とうとう軍士は散ってしまった。賊達は独孤開遠を捕らえたが、義としてこれを釈放した。独孤開遠は、独孤后の兄の子である。
 これより先、煬帝は驍健な官奴数百人を玄武門へ置き、これを非常の備えとして非常に優遇し、果ては彼等へ宮女さえ賜下した。しかし、煬帝から親任厚かった司宮の魏氏が宇文化及と内通していた。この日、魏氏がでっちあげた詔に騙されて、彼等は全員外へ出ており、一人としてこの事件に立ち会わなかった。
 司馬徳戡が、兵を率いて玄武門から入ってきた。煬帝は、乱と聞くと服を変えて西閣へ逃げた。裴虔通と元禮は東閣へ向かおうとしたが、魏氏が煬帝の行方を告げたので、西閣へ向かった。永巷にて、問うた。
「陛下はどこにおはします。」
 美人が出てきて、隠れた場所を指さした。令狐行達が刀を抜いて突撃すると、煬帝が言った。
「汝は我を殺すのか?」
「いえ、ただ陛下を奉じて西へ帰りたいだけです。」
 そして、煬帝を助けて閣を降りた。
 裴虔通は、煬帝が晋王だった頃から親任されて近習として仕えていた男だった。煬帝は彼を見ると、言った。
「卿は我が古馴染みではないか!何を恨んで造反したのか?」
「臣は造反したのではありません。ただ、将士が帰りたがっておりますので、陛下を奉じて京師へ帰るだけでございます。」
「朕も、そろそろ帰ろうと思っていたのだ。今、汝等と共に帰ろうか。」
 そこで裴虔通は、兵を指揮して煬帝を守らせた。
 明け方になると、孟乗が武装兵を率いて宇文化及を迎えに来た。宇文化及は、震え上がっていて言葉一つ喋れない有様。謁見に来る者が居ても、ただ首を振って陳謝するだけだった。宇文化及が城門まで来ると、司馬徳戡が迎え出て、朝堂へ引き入れ、丞相と号した。
 裴虔通が煬帝へ言った。
「百官が朝堂に揃っております。陛下、どうか御自ら慰労してあげて下さい。」
 馬を勧めて、乗るよう強制した。煬帝は、その馬の鞍がくたびれきっているのを嫌い、新しい鞍変えさせて、乗馬した。
 裴虔通は轡を執り、刀を持って宮門を出た。賊徒達は喜び、歓声は大地を揺るがせた。
 煬帝は問うた。
「虞世基はどこにいる?」
 すると、賊党の馬文挙が言った。
「すでに梟首しております!」
 ここにおいて煬帝は寝殿へ戻った。裴虔通と司馬徳戡が刀を持って傍らに控えた。煬帝は、嘆いて言った。
「我に何の罪があったというのかね?」
 馬文挙は答えた。
「陛下は宗廟を見捨てて巡狩ばかり行い、外は征討がやまず内は驕奢です。壮年の男達はことごとく戦死させ、女弱は疲れ果てて野垂れ死にしております。四民は生業を喪い、盗賊達はあちこちで蜂起しておりますのに、佞諛の臣下ばかりに専断させ、非を飾って諫言を拒みます。何で罪がないと言われますのか!」
「我は、実に百姓へ対して背いたかも知れない。しかし、お前達には富も地位も与えてやったではないか。なんでこんなことをするのだ!今日の事変は、首謀者は誰だ?」
「天下の人間全てが怨んでおります。なんで首謀者が一人きりでしょうか!」
 封徳彜が、宇文化及の命令で、煬帝の罪状を数え上げた。煬帝は言った。
「卿は士となって、何をしたのか?」
 封徳彜は恥じ入って退出した
 煬帝は、趙王杲を寵愛していた。趙王は、この時十二才。 煬帝の側にいて泣きじゃくっていた。裴虔通は、これを斬り殺した。血潮は、煬帝の被服にも掛かった。
 賊徒達が煬帝を殺そうとすると、煬帝は言った。
「天子が死ぬのには、作法がある。刃を加えるとゆう方があるか!鴆酒を持って参れ!」
 だが、馬文挙等は許さず、令狐行達が煬帝を絞め殺した。
 もともと、煬帝は自分が殺されることを予期しており、常に毒薬を準備していて、諸姫へ言った。
「「賊が来たら、お前達が真っ先に飲め。朕が後に続こう。」
 だが、実際に乱が起こると、毒を持ってこさせる前に近習はみんな逃げてしまい、遂に果たせなかった。
 煬帝は、巡狩する時には必ず蜀王秀を随従させ、驍果営へ幽閉していた。宇文化急派、煬帝を弑逆した後彼を擁立しようと考えていたが、皆が反対した為、これを殺した。また、斉王東や燕王炎をはじめとして、隋の宗室は皆殺しとした。ただ、秦王浩だけはもともと宇文智及と親交が深かったので、難を逃れることができた。
 斉王東は、皇太子を廃されてからは煬帝と猜疑しあっていた。煬帝は、反乱が起こったと聞いた時、蕭后を振り返って言った。
「阿孩(斉王の幼名)がやったのか?」
 宇文化及が斉王を殺すために第へ人を派遣すると、斉王は煬帝の放った刺客だと思い、言った。
「児は、国家に背いておりません!」
 賊徒は、斉王を街へ引き出して斬ったが、斉王は最後まで誰から殺されたのか知らなかった。
 また、虞世基、裴蘊、来護児、秘書監袁充、右翊衞将軍宇文協等が殺された。
 造反が起こる直前、江陽長張恵紹が裴蘊のもとへ駆け込んできて、造反計画を告げた。二人で対策を練り、詔をでっち上げて宇文化及等の兵を奪おうと決めた。そこでこれを虞世基へ告げたが、虞世基は張恵紹を疑って、その実行を許さなかった。
 それからすぐに、事件が勃発したのだ。裴蘊は嘆いて言った。
「虞世基と謀ったのが間違いだった!」
 虞世基の一族の虞仍が、虞世基の子息の符璽郎虞煕へ言った。
「事件は終わったのだ。一緒に南へ逃げるぞ。犬死にしても始まらない。」
 だが、虞煕は言った。
「父を棄て主君に背き、どこで生きて行けるのか!貴方の心遣いには感謝しますが、やることは決まっています!」
 虞世基の弟の虞世南は、虞世基を抱いて自分が身代わりになると泣いたが、宇文化及は許さなかった。
 黄門侍郎裴矩は、事件が勃発することを予見しており、厩番のような賤しい人間でも厚遇していた。また、驍果兵へ嫁を娶らせることを提案したのも彼だったので、事変が起こった時、賊徒達は皆言った。
「裴黄門には罪はない。」
 宇文化及がやってくると裴矩は迎え入れて拝礼したので、難を逃れられた。
 蘇威は、政務に関与していなかったので、宇文化及が不問に処した。蘇威は、名声も高い重鎮だったので、彼が宇文化及へ会いに来ると、宇文化及は恭しく迎えた。
 百官は全て朝堂を詣でて慶賀を述べたが、許善心ひとりだけがやって来なかった。許弘仁が、彼の所へ駆けつけて、言った。
「天子は既に崩御され、宇文将軍が摂政となった。文武の朝臣達は全て集まっているのだ。天道にも人事にも、必ず終わりがあるもの。叔父上は何をこだわっているのですか!」
 しかし許善心は怒り、行こうとしなかった。許弘仁は泣きながら去った。宇文化及は人を派遣して捕まえた。やがて釈放したが、その時許善心は舞踏もせずに出て行った。宇文化及は怒って言った。
「こいつは謀反気の塊だ!」
 再び捕まえるように命じて、これを殺した。
 許善心の母親は范氏。この時九十二才だった。彼女は許善心の棺を撫でると、涙もこぼさずに言った。
「よく、国難に殉じました。それでこそ我が息子です!」
 そして飲食をやめ、十日ほどで卒した。
(訳者、曰く。「善心不舞踏而出、化及怒曰・・・」とあります。釈放された時に感謝の念を込めて舞踏するとゆうような慣例があったのではないかと思います。)
 話は前後するが、魏寧元年(617年)に李密が洛口を攻撃した時、箕山府郎将張季旬は、半年以上抗戦して玉砕した。(詳細は、「李密」へ記載。)李淵が長安へ入った時、張季旬の弟の張仲炎は上洛令で、吏民を率いて拒戦したが、部下が彼を殺して降伏した。今回、宇文化及の造反では、張仲炎の弟の張宗が、宇文化及から殺され、三人揃って国難に殉じた。
 宇文化及は、大丞相と自称して、全ての権限を掌握した。皇后の名の下に秦王浩を行程に立てた。しかし、この皇帝は詔や敕書を書かされるだけで、別室に軟禁されている状態だった。宇文智及は左僕射、宇文士及は内史令、裴矩は右僕射となった。
 宇文化及は、左武衞陳稜を江都太守として、留守の全権を与えた。後、陳稜は煬帝の死体を探し出して天子の様式で改葬した。
 壬申、内外に戒厳令を布き、長安へ帰ると宣言した。そして江都中から舟を徴発し、彭城の水路から西へ向かった。 

  

 折衝郎将沈光は驍勇だったので、禁内を警備させた。一行が顕福宮まで到着すると、虎賁郎将麦孟才と虎牙郎銭傑が沈光へ言った。
「我等は先帝から厚恩を受けたのに、首をうなだれて讐仇のイヌとなっては、世間へ対して顔向けができぬぞ!我等は必ず奴等を殺す。たとえ死んでも恨みはないぞ!」
 沈光は泣いて言った。
「それこそ我が望だ。」
 麦孟才は、煬帝へ対して旧恩ある人間をかき集め、数千人を率いて明け方に宇文化及を襲撃する手筈だった。しかし、計画が事前に洩れ、宇文化及は夜のうちに腹心と営外へ逃げ出し、司馬徳戡へこれを告げて彼等を討伐させた。
 沈光は、営内が騒がしくなったので、陰謀が発覚したのを悟り、即座に宇文化及の営を襲撃したが、すでにもぬけの殻だった。ただ、内史侍郎元敏等数名を斬ったに過ぎない。
 司馬徳戡は兵を率いて営を包囲し、沈光を殺した。沈光の麾下数百人も皆、討ち死にして、一人として降伏しなかった。
 麦孟才も、殺された。彼は、麦鉄杖の子息である。 

 宇文化及は十余萬の兵を擁し、六宮を占拠して、まるで煬帝のように暮らしていた。帳中に南面して坐っても、何もせず、決裁は全て唐奉義、牛方裕、薛世良、張豈等に任せきりだった。
 彭城へ到着すると、そこから先の水路が塞がっていたので、民間から車や牛二千両を強奪し、宮人や珍宝を載せて進んだ。戈や甲や武器は、全て兵士に担がせた。道は遠く、荷は重く、兵卒達は疲れ果て、次第に宇文化及を怨むようになった。
 司馬徳戡は、趙行枢へ言った。
「お前の言う通りにして大失敗だ!この乱世では、英賢を推戴しなければならぬのに、宇文化及は暗愚で、側近も小人ばかり。これでは必ず失敗する。どうしよう?」
 すると、趙行枢は言った。
「なに、奴を担いだのは俺達だ。廃するのだって簡単さ!」
 宇文化及は、政権を執った当初、司馬徳戡を温国公、光禄大夫として、驍果兵を専統させていたが、心中、彼を忌んでいた。だから数日すると、兵卒達は諸将へ分割して統率させることにし、司馬徳戡は礼部尚書に任命した。これは、上辺は尊んだのだが、実は兵権を奪ったのである。
 これによって、司馬徳戡は宇文化及を怨んだ。そこで彼は、貰った恩賞は全て宇文智及へ賄賂として贈った。宇文智及が彼の為に取りなしたので、司馬徳戡は後軍一万余人を指揮することになった。
 ここにおいて、司馬徳戡は趙行枢と諸将の李本、尹正卿、宇文導師等と、宇文化及襲撃の陰謀を練った。彼を殺し、司馬徳戡を盟主と仰ぐ企てだ。そして、曹州の孟海公のもとへ使者を派遣して、彼の力を借りようとした。その返事を待って決起を延期しているうちに、許弘仁、張豈等が、この陰謀に気がつき、宇文化及へ告げた。
 そこで宇文化及は、宇文士及と狩猟を行うと宣伝した。後軍へ着くと、司馬徳戡は計画が露見していることも知らずに出迎えたので、これを捕らえた。
 宇文化及は、司馬徳戡を詰って、言った。
「公と力を尽くし、萬死を乗り越えて海内を定めたのだ。今、決起は成功し、後は共に富貴を楽しむだけなのに、公はどうして裏切ったのか?」
 すると、司馬徳戡は答えた。
「もともと昏主の淫虐に苦しんで、彼を殺したのに、足下を推戴してみれば、やることはもっとひどいではないか。物情に迫られて、やむを得なかったのだ。」
 宇文化及は、これを絞殺し、併せてその一味十数人を殺した。
 孟海公は、宇文化及の強大さを畏れ、衆人を率いて牛肉や酒を振る舞って彼等を迎えた。
 李密は、鞏洛に據って宇文化及を拒んだので、彼等は西へ進むことができず、東都へ向かった。東郡通守王軌は、城ごと彼等へ降伏した。
 この頃、東都では越王が皇帝を名乗っており、(資治通鑑では皇泰主と称している。)李密が大軍を率いてこれを攻撃していた。
 宇文化及は輜重を滑台へ留めて、王軌へこれを守らせ、本隊は北進して黎陽へ向かった。 黎陽は、李密麾下の将軍徐世勣が占拠していたが、彼は宇文化及軍の戦意を畏れ、西へ移動して倉城を確保した。
 宇文化及は黄河を渡って黎陽を占領し、兵を分けて徐世勣を包囲した。
 李密は、二万の兵を率いて清淇へ出向き、狼煙にて徐世勣と連絡を取り合った。そしてこの両軍は渠を深く掘り、塀を高く築いて守備を固めるだけで、宇文化及軍とは戦わなかった。しかし、宇文化及が倉城を攻撃するたびに、李密軍はその背後を脅かした。
 宇文化及は、川を挟んで李密へ語りかけた。すると、李密は言った。
「卿はもともと、匈奴の一支族に過ぎなかったのに、父子兄弟全て隋の大恩を蒙り、代々富貴な身分でいられたのではないか。主上が君徳を失った時に死諫できなかったばかりか、却って主上を弑逆し、簒奪さえ望んでいる。天地に容れられぬ大悪人だ!それでも速やかに我がもとへ帰順すれば子孫だけは残してやろう。」
 宇文化及は黙り込み、しばらく項垂れていたが、やがて目を見開いて叫んだ。
「問答無用。戦で勝負だ!」
 李密は、従者へ言った。
「こんな馬鹿者が帝王になろうとしている。折檻してやらねばな。」
 宇文化及は攻撃用の器械を整備して倉城へ迫った。徐世勣は、城外に更に塹壕を掘って、守りを固めた。宇文化及は、塹壕に阻まれて、城下へ近づけない。徐世勣は、塹壕から地下道を掘って、宇文化及軍を襲撃した。宇文化及は大敗し、攻具は焼き払われた。
 この頃、李密は背後に東都を控えて宇文化及と戦っていたので、東都の動向が気になっていた。ところが、東都は東都で、宇文化及が東都を目指して北進し始めた頃から大騒動となり、その挙げ句、李密と手を結ぶことになった。その詳しい経緯は「王世充」へ記載する。こうして李密は西の東都を考慮することなく、東の宇文化及へ全力を挙げるようになった。
 李密は、宇文化及軍の兵糧が乏しいことを知り、偽りの講和を結んだ。宇文化及はそうとは知らずに李密と和睦できたことを喜び、李密から送られる兵糧を当て込んで、好き放題に食べるようになった。しかし、罪を犯した李密の部下が宇文化及のもとへ亡命して、全ての実情を暴露したので、宇文化及は激怒した。また、食糧が底を尽きかけたこともあり、すぐさま永済渠を渡って、童山の下にて李密軍と戦った。
 この戦いは辰から酉まで続き、戦いの最中、李密は流れ矢に当たり、悶絶して落馬した。左右は散り散りに逃げ、宇文化及軍は追撃してきたが、秦叔寶が奮戦して撃退し、どうにか李密は逃げ延びた。秦叔寶が陣を立て直して力戦したので、宇文化及は退却した。
 宇文化及は汲郡へ入り軍糧を求めた。また、東郡にて吏民から米や粟を強奪した。王軌等はその略奪に堪えられず、許敬宗を李密のもとへ派遣して、降伏を請うた。李密は王軌を滑台総管に任命し、許敬宗は元帥府記室として、魏徴と共に文書を司らせた。許敬宗は、許善心の子息である。
 宇文化及は、王軌が造反したと聞いて大いに懼れ、汲郡から兵を退いて北進しようと考えた。西へ帰りたがっていた将兵達はこれに不満を持ち、将軍の陳智略、樊文超、張童児等が各々驍果兵数千人から万余人を率いて李密へ降伏した。樊文超は、樊子蓋の子息である。
 宇文化及には、なお二万からの兵力があったので、これを率いて北進し、魏県へ向かった。李密は、宇文化及の無能さを知り、徐世勣のみを留めて彼等への備えとし、鞏洛へ戻った。 

 宇文化及が魏県へ着くと、張豈等が見限って逃げ出そうと計画したが、未然に発覚した。宇文化及は、これを殺した。
 こうして、腹心は次第に減り、兵卒は日を追って少なくなっていった。宇文兄弟にはこれといった打開策もなく、ただ寄り集まってやけ酒を飲み、女楽に耽るばかりだった。
 宇文化及は、酔うと宇文智及を詰った。
「俺は何も知らなかったのだ。お前が勝手に弑逆して、俺を担ぎ上げたのではないか。今、打つ手はなく士馬は日に日に逃げている。主君殺しの汚名を負った我等、天下のどこに住めるというのか。今に我等一族は皆殺しになってしまう。それがお前以外の誰のせいだ!」
 そう言って宇文化及が二人の子供を抱いて泣けば、宇文智及も言い返す。
「巧く行っている時には何も言わず、失敗したら全ての罪を押しつける。それなら、サッサと俺を殺して竇建徳へでも降伏すればよいではないか!」
 罵り遭う有様には、幼長の序列などまるでなかった。そして、酔いが醒めたら、また酒に溺れる。毎日がそれの繰り返しだった。
 こうしているうちに、兵卒達の大半が逃げ出していた。宇文化及は、必ず敗北することを知り、嘆いて言った。
「人はいつか死ぬ。それなら、一日だけでも皇帝を名乗ってやろう。」
 こうして、秦王浩を毒殺し、魏県にて帝位に即いた。国号を「許」と定め、天寿と改元し、百官を設置する。
 十月、日食があった。 

 二年、宇文化及は魏州総管元寶藏を攻撃したが、一ヶ月かけても落ちなかった。
 唐の魏徴が、魏州へ行って説得すると、元寶藏は、唐へ帰順した。
 戊午、唐の淮安王神通が、魏県にて宇文化及を攻撃した。宇文化及は耐えきれず、聊城へ逃げた。淮安王は魏県を抜き、二千余人を斬獲した後、宇文化及を追撃し、聊城を包囲した。
 宇文化及は、珍貨をばらまいて海曲諸城を味方に誘った。すると、賊帥の王簿が衆を率いてこれに従い、宇文化及と共に聊城を守った。
 ところで、北方には竇建徳が割拠していたが、彼は部下達へ言った。
「我は隋の民だった。隋は、我が主君だ。これを弑逆した宇文化及は、我が讐だ。これを討たずに居られようか!」
 そして、兵を率いて聊城へ赴いた。
 宇文化及は食糧が尽き、遂に降伏を請うたが、淮安王は許さなかった。安撫副使の崔世幹が、降伏を受け入れるよう勧めると、淮安王は言った。
「兵卒達は長い間軍営の苦労を続けて、敵をここまで追い詰めたのだ。賊徒は食糧も尽き、明日にでも敗北する。我は力尽くで攻め落として我が国の国威を高揚させ、玉帛を奪い取って将士へ分け与えて、今までの労苦を労うつもりだ。もしも敵の降伏を受け入れたら、どうやって我が兵卒達を賞するのか!」
 崔世幹は言った。
「ですが、竇建徳軍が迫っています。もし宇文化及が平定していなければ、我等は内外から敵を受け、必ず敗北します。攻撃せずに落とせるのなら、最上の軍功ではありませんか。玉帛を略奪したいから敵の降伏を受け入れないなど、とんでも無いことです!」
 淮安王は怒り、崔世幹を軍中の牢獄へぶちこんだ。
 だが、やがて宇文化及は済北から食糧を入手し、戦力を盛り返したので、再び拒戦した。
 淮安王は、兵を指揮して、これを攻撃した。貝州刺史趙君徳がまっさきに城壁をよじ登ったが、淮安王はその功績に嫉妬して、一時撤兵を命じた。趙君徳は大いに罵って、下城する。
 唐は、ついに勝てなかった。竇建徳軍が来ると、淮安王は兵を退いた。
 竇建徳は、宇文化及と連戦し、大勝利を収めた。宇文化及は、再び聊城を保った。竇建徳が四面からこれを込み有家期すると、王簿が城門を開いて、敵兵を導いた。
 竇建徳は入城すると、宇文化及を捕らえ、隋の蕭皇后へ謁見した。この時、皇后への会話では自分のことを「臣」と称していた。また、煬帝の為に慟哭し、哀しみを尽くした。国璽や歯簿儀杖などを収め、隋の百官を慰撫し、その後に逆臣の宇文智及、楊士覧、元武達、許弘仁、孟景等を、隋官の前で斬った。首は軍門の外に梟首する。
 宇文化及と二人の息子宇文承基、宇文承趾は檻車へ載せて襄国へ運び、ここで斬った。
 宇文化及は、死ぬ時、ただ一言、「夏王(竇建徳)には仇為してないぞ。」と言っただけだった。 

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