皇太子と常山王演
 
常山王演 

 文宣帝の弟の常山王演は、文宣帝が酔っぱらった時は、いつも憂いに満ちた顔つきをしていた。
 ある時、文宣帝が言った。
「お前がいると、気儘に楽しむことができぬぞ!」
 だが、常山王は、ただ涕泣して拝伏するだけで一言も答えなかった。その有様に、文宣帝も大いに悲しみ、ついに盃を地へ投げ捨てた。
「お前から、まるで嫌われてしまったようではないか。これから先、酒を勧める者は斬る!」
 しかし、この禁酒の誓いも長続きはしなかった。酔っぱらったら御乱行が始まるが、ただ常山王がやって来ると、内外は粛然とした。
 また、常山王は多くの事條を書き連ねて文宣帝を諫めようとした。友人の王晞が止めたけれど聞かず、遂に極諫する。文宣帝は激怒した。ところで、常山王は厳格な性格で、この時尚書令だったので、尚書郎中に過失があると、すぐに殴りつけていた。そこで文宣帝は常山王を立たせて刀で脅しつけた上で、常山王から罰された者を呼び出し、彼等にも白刃を突きつけて、常山王の欠点を述べるよう命じた。しかし、郎中達は常山王の短所を一つとして口にしなかったので、とうととう、文宣帝は常山王を赦してやった。
 この時、文宣帝は、王晞が加担していたのではないかと疑い、彼を殺そうとした。それを知った常山王は王晞へ言った。
「王博士、明日一芝居撃つが、これは貴方の為、そして私の為です。信じてください。」
 そして、衆人の前で、王晞を二十回杖で打った。文宣帝はそれを聞いて、王晞を殺さずに済ませたが、その代わり奴隷とした。
 それから三年経って、常山王は再び諫争した。この時は、文宣帝は常山王を散々に殴り据えた。以来、常山王は口を閉ざしたきり、何も食べなくなった。婁太后は日夜涕泣し、文宣帝は為す術も知らない。
「あいつが餓死したら、老母は我をどうするだろうか!」
 そこで、常山王の見舞いに行き、言った。
「無理してでも、何か食べてくれ。その代わり、王晞をお前に返してやろう。」
 そして、王晞を釈放して常山王のもとへ行かせた。常山王は王晞を抱きしめて言った。
「俺は死にかけた時、お前に二度と会えなくなることだけが恐かった。」
 王晞も、泣いて言った。
「天道は神明です。どうして殿下をこんな所で殺したりしましょうか!殿下が何も食べないと、太后も又、何も喉を通りません。殿下がわが身を捨てておられても、どうか太后のことを思いやってください。」
 それを聞いて、常山王は無理して食事を摂った。
 更にしばらく経って。常山王は王晞へ言った。
「主上の振る舞いは、卿も耳目にしているだろう。たった一度怒りを買ったからといって、どうして舌を結んでよいだろうか。卿が諫争の草稿を作ってくれれば、我が時を見て極諫しよう。」
 王晞は十余條の諫文を造って進呈したが、その時、常山王へ言った。
「今、朝臣達の頼みの綱は、殿下だけです。それなのに殿下は、やくざ者の真似をして命を軽々しく捨てなさる。酒は、人の意識を奪います。刀や弓が、どうして相手を見分けましょうか!一旦禍が理の外へ出たら、この国はどうなりますか!太后はどうなりますか!」
 それを聞いて常山王は、泣きじゃくった。
「ああ、そんな事態にまでなってしまっていたのか!」
 翌日、常山王は王晞へ言った。
「一晩、まんじりともしないで考えたが、諦めたよ。」
 そして火を焚いて、諫文を燃やした。
 尚書左僕射の崔進が屡々文宣帝を諫めたので、常山王は崔進へ言った。
「今、太后も何も言わず、我等兄弟も口を閉ざしたのに、僕射一人竜顔を犯している。我等は、恥ずかしい。」 

  

皇太子殷 

 太子の殷は、幼い頃から温厚で明朗、士を礼遇し学問を好んだので、評判が高かった。だが、文宣帝は太子へ言った。
「お前の性格は中国人だ。我にちっとも似ていない。」
 そして、廃嫡したがった。
 ある時、文宣帝は金鳳台へ登り、太子を呼び出した。そして囚人を引き出し、太子の手で処刑するよう命じた。太子は憐れんで再三辞退し、どうしても囚人の首を斬ろうとしない。文宣帝は大怒して、みずから馬の鞭を執り、太子を打った。
 これ以来、太子はいつもオドオドするようになり、言葉はどもり、智慧の巡りも悪くなった。そうなってから文宣帝は、酒を飲んだ時に屡々言った。
「太子は惰弱な性格だ。社稷は重い。これでは常山王へ位を譲るしかないな。」
 そんな時、太子少傅の魏収が楊音へ言った。
「太子は国の根本です。動揺させてはいけません。しかし、至尊は酒を飲むといつも、『 常山王へ譲位する』と言われます。これでは臣下達へ二心を抱かさせるようなものではありませんか。もしもその気があるのなら、断行するべきです。この言葉は、国家を危うくさせますぞ。」
 楊音はそれを文宣帝へ伝えたので、文宣帝も口にしなくなった。 

(訳者、曰く) 

 魏収といえば、「魏書」を編纂するとき、勝手放題行って青史を穢した人間である。(「文宣帝」、参照)しかし、ここでの諫言は、実にまともである。人間には、多くの顔があるとゆうことだろうか。 

  

文宣時代の朝臣達 

 文宣帝は残虐な主君だったので、役人達も皆、残虐になった。拷問が横行し、被告は誣告に伏した。ただ、三公郎中の蘇瓊だけは、いつも寛大公平な態度を崩さなかった。この頃、趙州や清河で謀反人の告発が相継いだ。それらは蘇瓊へ下されたが、彼はその多くを冤罪と判決した。そこで、尚書の崔昴が言った。
「功名を立てたければ、党類を大勢検挙することだ。それなのに釈放するなど、命知らずも甚だしい!」
 すると、蘇瓊は顔つきを改めて答えた。
「放免したのは冤罪の者だけです。彼等は反逆者ではありません。」
 崔昴は恥じ入った。  

 ある時、文宣帝は臨章令の稽華へ立腹し、奴隷として舎人の李文思へ賜下した。この時、中書侍郎の鄭頤が、尚書の王マを招いて、私的に言った。
「朝臣を奴隷にするなど、前代未聞だ。」
 王マは答えた。
「箕子の例がある。」(箕子は紂王の叔父で、諫言をやめなかった為、紂王は怒り、奴隷とした。)
 すると、鄭頤は文宣帝へ密告した。
「王マは、陛下を紂王に喩えました。」
 文宣帝は、マを憎んだ。
 そんな最中、文宣帝が朝臣を呼び寄せて宴会を開いた時、マは病気と称して欠席した。文宣帝は騎兵を派遣してマを捕らえ、斬り殺して屍を川へ捨てた。 

 十二月、可朱渾道元を太師、尉粲を太尉、冀州刺史段韶を司空、常山王を大司馬、長廣王湛を司徒とした。 

 三年。文宣帝は、禅に夢中になり、甘露寺に引きこもった。軍国の大事以外、耳を貸さない。
 二月。僕射の崔進が卒した。文宣帝は第へ御幸して哭した。そして、崔進の妻の李氏へ言った。
「崔進のことを思い出すか?」
「どうして忘れられましょう。」
「それなら、そばへ行ってやれ。」
 そして、自ら李氏を斬り殺した。
 三月、高徳政を尚書右僕射とする。 

 かつて文宣帝が北魏の宰相となった時、杜弼を長史としていた。
 文宣帝が禅譲を受けようとした時、杜弼は、それを諫めた。
 又、ある時、文宣帝は尋ねた。
「国を治めるためには、誰を登庸すればよいかな?」
 すると杜弼は答えた。
「鮮卑は軍事の民です。政治には中国人を用いましょう。」
 それを聞いて文宣帝は、自分を謗ったものと思い、わだかまりを残した。
 高徳政が尚書となっても、杜弼は彼の下風に立とうとしなかった。ある時など、衆人の前で高徳政を面罵した。
 高徳政は、杜弼の短所を文宣帝へ盛んに吹き込んだ。だが杜弼は、昔のよしみを恃み、疑われているなどとは思ってもいなかった。
 夏、文宣帝は酔った勢いで、杜弼を斬るよう命じた。後、冷めてから後悔して中止するよう命じたが、刑は既に執行されていた。 

 高徳政と楊音は同じ宰相だが、楊音は、常に高徳政を忌み嫌っていた。
 文宣帝が酔いしれるほど呑んでいると、高徳政はしばしば強諫した。文宣帝は不愉快になり、側近へ洩らした。
「高徳政は、一体何様のつもりだ。」
 高徳政は懼れ、病と称して隠居を求めた。文宣帝は楊音へ言った。
「高徳政が病気だと。心配なことだ。」
 すると、楊音は答えた。
「陛下が、もしも彼を冀州刺史とすれば、病気は治りましょう。」
 文宣帝は、これに従った。
 高徳政は、辞令を見て、すぐに起きあがった。それを聞いて文宣帝は大怒し、高徳政を呼びつけて言った。
「おまえは病気だそうだな。朕が自ら針を打ってやろう。」
 そして、小刀で高徳政を刺した。血がダラダラ流れる。更に、引き出して足を斬らせようとした。すると、劉桃枝は、刀を持ったままで振り下ろさない。文宣帝は言った。
「お前の頭を斬られたいか!」
 脅されて、劉桃枝は高徳政の足の指を三本斬った。
 しかし、この程度では文宣帝の怒りは解けず、高徳政を門下へ捕らえ、夜半になって家へ帰してやった。
 翌朝、高徳政の妻は珍宝を山ほど引き出して人へ与えようとしたが、そこへたまたま文宣帝がやってきた。文宣帝はその宝物を見て激怒して言った。
「我が府にも、これ程の宝物はないぞ。」
 そして出所を調べると、全て北魏の一族からの贈り物だったと判明した。
 遂に、高徳政を引き出して斬った。妻が赦しを請うて土下座したが、これも殺し、遂度に子供まで殺した。 

  

元氏受難 

 五月、文宣帝は北魏の一族四十四家を処刑した。
 六月、文宣帝は、北魏の一族を皆殺しにした。かつての王でさえも、東市で斬罪とし、幼児は空中へ放り投げて、落ちてくるところを矛で突き刺した。
 殺された者は、全部で七百二十一人。死体は全て、川へ棄てた。以来しばらくは、この川で捕った魚を割くと、腹の中から人間の指が出てきたりしていた。業の人々は、しばらく魚を食べなくなった。
 ただ、開府儀同三司元蛮と祠部郎中元文遙等数家だけが、この禍から免れた。元蛮は、中山王演の妃の父親である。
 定襄令の元景安は、姓を「高氏」と変えたくなり、従兄弟の景皓へ相談した。すると、景皓は言った。
「本宗を棄てて、他人の姓を貰うなど、とんでもないへつらいだ!丈夫なら、玉のまま砕けろ。瓦になってまで生き延びたいか!」
 元景安は、この言葉をそのまま文宣帝へ伝えた。文宣帝は景皓を誅殺し、景安へ高の姓を賜下した。
 八月、文宣帝は詔を下した。
「民間で、父や祖父などの時代に『元』の姓を貰った者は、何代前などに関わらず、全てもとの姓へ戻せ。」 

  

文宣崩御 

 同月、文宣帝は酒の飲み過ぎで病気になった。食べることさえできなかったので、もう長くないと自覚して、李后へ言った。
「人は皆、必ず死ぬ。惜しむには足らぬぞ!ただ、太子はまだ幼い。いずれは常山王へ簒奪されてしまうだろう!」
 そして、常山王を呼んで言った。
「奪いたければ、お前にやる。だから、我が子を殺さないでくれ。」
 十月、崩御した。喪が発表されると、群臣は大声を上げて哭したが、涙を零す者は居なかった。(あまりに残暴だった為、誰も悲しまなかったのだ。)ただ、楊音だけが涙を流して嗚咽した。
 太子の殷が即位する。皇太后は太皇太后、皇后は皇太后となる。詔がおり、全ての土木金鉄雑作を一切中止させた。
 斛律金が左丞相、常山王演が太傅、長廣王湛が太尉、段韶が司徒、平原王淹が司空、高陽王堤が尚書左僕射となった。
 上党王紹仁を漁陽王とする。
 文宣帝の廟号は、高祖。しかし、後に顕祖と改められた。 

 高陽王は、滑稽が巧くて文宣帝から寵を受けていた。常に文宣帝の傍らにおり、諸王達を杖で打つのも彼の役目だった。太皇太后は、これを深く根に持っていた。
 既に文宣帝が死んだ後、高陽王が罪を犯した。すると太皇太后は、高陽王を百余回、杖で打った。高陽王は、これがもとで死んだ。

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