盗、仍と寿を殺す。
 
(春秋左氏伝) 

 衛の宣公は、夷姜と密通して仍を生んだ。これを、右公子に後見させた。
 仍が長じると、彼の為に斉から嫁を娶ったが、その女性があまりに美しかったので、宣公は自分の側室にしてしまい、寿と朔を生んだ。寿は、左公子に後見させた。これを知って、夷姜は首吊り自殺してしまった。
 寿と朔の母親は、宣姜。彼女は、息子達が大きくなると、朔とぐるになって仍へ罪をかぶせた。宣公はうかうか騙され、仍を殺そうと考えた。そこで、彼は仍を斉へ使者として派遣し、その途中へ刺客を放って待ち伏せさせた。
 この陰謀を知った寿は、ありのままを仍へ語り、亡命するよう勧めたが、仍は言った。
「父君の仰せに背いたら、役立たずの子供だ。父親のいない国ならば、それでも良いのだろうが。」
 寿は、仍が逃げてくれないと悟ったので、彼へ酒を飲ませ、酔って寝ている間に自分が仍の旗を持って進み、身代わりになって殺されてしまった。だが、賊が寿を殺したところへ、彼を追って仍がやって来た。仍は、賊へ言った。
「この人に何の罪がある?私を殺してくれ。」
 賊は、仍も殺した。
 この事件で、左右の二公子は恵公(公子朔)を怨んだ。
 十一月、左公子の泄と右公子の職が、公子黔牟を推戴し、恵公は斉へ逃げた。
 荘公の五年。斉、魯、宋、、蔡の軍が、恵公を復位させようとして、衛を伐った。
 六年、恵公は、公子黔牟を追放し、左右公子を殺してから、復位した。 

  

(東莱博議) 

 和気は祥瑞をもたらし、乖気は怪異をもたらす。この二つは、まるで太鼓とばちのように相応じているのだ。
 物の祥よりも、人の祥の方が優れている。だから、国家では、聖人賢人が出ることを佳祥とし、徳星や瑞雲や甘露といった祥瑞はこれに次ぐ物とされている。
 同様に、物の怪異も又、人の怪異よりも劣る。だから国家では、邪臣佞臣が出ることを大異と為し、彗星や妖亀牛禍の怪異はこれに次ぐ物とされるのだ。
 だから、古公の末裔に王季や文王が現れ、紂王の門には武庚や禄父(共に紂の子息。殷の祭祀を絶やさぬ為に宋に封じられるが、管叔や蔡叔と共に造反して誅殺される。)が育つのである。まさしく、各々その類に従うのである。 

 ところで、衛の宣公は無道である。昏縦悖乱、その生臭さは天まで届く。このような乖戻の気が招くのだから、その子孫は凶姦逆悪であると思いきや、仍や寿のような子息が育った。
 それでは、天理にも、たまには例外があるのだろうか?
 いいや、そうではない。これこそ、天理が天理たるゆえんである。 

 世間の人間は皆、思っている。
「人間の欲望をほしいままにすると、天理は滅亡してしまう。」と。
 だが、天理は不滅である。
 あの衛公の家は、三綱(君臣、父子、夫婦の道)は壊れ、五典(仁義礼知信)はこぼつ。およそ生民の常性は、全て剥離喪失して残すところがない。それなのに、二子の賢が、この至醜至汚の地に生まれたのだ。
 ああ、上帝は昏縦悖乱の中にあっても、真心を降してくれる。
 二子は幼い頃から成長するまで、耳にする言葉は一体何か。目にする物は一体何か。それなのに、介然として自らの正しさを守り、習いも移すことができないのは、果たして人知の及ぶところだろうか。これこそ、天がこの二子を以て、この理が滅びないことを顕わしてくれたのだ。 

 ああ、天理はもとよりこのようである。
 無道なる宣公へ対して、天はこのような賢人の子孫を与えてくれた。それでは、世の中には乖気が祥瑞を致すことがあるのだろうか。
 いや、それは違う。
 この二子の賢は、君子のいわゆる瑞祥だが、衛国に於ける妖異である。
 彼等は邪なのに、吾は正。彼は濁って吾は清い。事毎にいすかの嘴のように食い違っている。淫朋悪党が彼等を見たら、まさしく妖怪変化ではないか。讒言や讚言が交々起こり、挙げ句の果てに二子は殺され、恵公は放逐され、黔牟は放たれ左右公子は誅殺された。その変異は、これ以上の物はない。
 私はこれを以て、天道が誣いず、乖気が結局怪異を呼ぶことを知ったのである。 

 天が祥瑞を下しても、人がこれを受け止められなければ、瑞兆はたちまち怪異へ変わる。
 もしも宣公が二子の賢によって一念悔悟して正へ返り、風紀を正して朝廷を正し、朝廷を正して百官を正し、百官を正して万民を正させれば、風が駆せ雷が動くように、万悪は全て消えた。
 詩経に収められた衛の詩は、ホウヨウや桑中のように淫乱を風刺した物ばかりだが、これらの詩は漢廣や行露のように、淫乱の風俗が改まったことを讃える詩となったことだろう。
 災いを変じて瑞兆となし、乖気を変じて和気となす。これは実に掌を返すように容易なのだが、どうして宣公ができたことだろうか。 

 宣公は、もとより非難するにも値しない人間だ。だが、これ程の天賦を受けた二人の賢人が、衛国の乱れを治めることができなかったのは、一体どうしてだろうか?
 答えよう。
 黍や稷などの種は、天から授かった物だ。これを適宜に播き、植え、耘り、穫るのは、人である。これらの種が手に入ったからといって、放ったらかしにしておいて倉庫一杯に満ちるのを待つとゆう法があるだろうか。 

 二子が天から授かったのは、大舜の資質である。それなのに、頑迷な父と口やかましい母の間におり、遂には姦人の手に掛かり、区々たる介を守ったとはいえ犬死にしてしまい、父母の悪行を成就さしめてしまったのは、他でもない、その資質を充養して広大にする助けが、舜のようにはいかなかったのだ。
 二子が生まれたのを見れば、天理が滅びないことが判る。そして二子の死に様を見れば、天資の恃むべからざる事を知る。この道は、天と人の際を貫き、性命の大本へ達することができなければ、これを知ることができないのである。