突厥   東西分裂
 
 貞観四年(630)、頡利可汗は捕らえられ、突厥は滅亡した。
 五月、丁亥。御史大夫蕭禹が、李靖を弾劾した。李靖が頡利の牙帳を破った時、法を無視して軍を動かしたことと、突厥の珍物を略奪したとゆう二件について、法司の裁断を請うたが、上は特敕にて弾劾を禁じた。
 やがて、李靖が入見すると、上は彼を大いに叱りつけ、李靖は頓首して謝った。しばらくして、上は言った。
「隋の史万歳が達頭可汗を破った時、功績はあったが賞されなかったどころか、死罪となってしまった。朕は、そんなことはしない。公の功績を記録し、公の罪を赦そう。」
 そして、李靖へ左光禄大夫を加え、絹千匹を賜り、真食邑通前五百戸を加えた。
 それから間もなく、上は李靖へ言った。
「前は公を讒言する者が居た。今、朕はそれが判った。公も根に持たないでくれ。」
 そして、更に絹二千匹を賜った。 

 西突厥の種落は伊吾に散在していた。涼州都督李大亮を西北道安撫大使と為し、磧口に食糧を備蓄して来る者へふるまい使者を招き慰めるよう、詔が降りた。多くの国が次々と使者を派遣してくれるようにとの配慮である。すると、大亮は上言した。
「遠い者から懐かれたければ、まず近いものを安定させなければなりません。中国は大本で、四夷は枝葉です。中国を疲れさせて四夷へ奉仕するなど、大本を抜いて枝葉を増すようなもの。遠くは秦・漢を考え、近くは隋室を観ても、戎狄へちょっかいを出したものは、皆、疲弊しています。今、西突厥を招致しましたが、これは出費がかさんだだけで、まだ利益がありません。ましてや河西の州県は生気がなく、突厥が微弱になて、始めて農耕生活ができるようになった土地です。それなのに、今、更にこの役を押しつけられては、民は堪りません。招慰はやめるのが妥当です。伊吾の地は砂礫ばかり。中に自立して主君となり臣従を申し出る者が出たならば、手懐けてこれを受け入れ、塞外に住ませたままで中国の藩塀としましょう。これこそ虚恵を施して実利を収めると申すものです。」
 上は、これに従った。 

 突厥が滅亡したので、営州都督薛萬淑は、契丹の酋長貪没折を東北の諸夷へ派遣して説諭して廻らせた。すると、奚、習(「雨/習」)、室韋等十余部が皆、内附した。 

 戊午、突厥の欲谷設が来降した。
 欲谷設は突利の弟である。突利が敗北すると、欲谷設は高昌へ亡命したが、今回突利が唐から礼遇されていると聞いたので、遂に来降した。 

 九月、戊辰。伊吾城主が入朝した。
 隋の末期、伊吾が内属したので伊吾郡が設置された。しかし、隋が乱れると、彼等は突厥へ臣従した。頡利が滅亡したので、その七城を挙げて来降した。そこで、この地を西伊州とした。六年に、伊州と改称される。 

 既に帰順した思結俟斤の部落は貧しく、飢えていた。九月、朔州刺史の新豊の張倹がこれを招集した。これに応じない者は磧北へ住んだが、親しい者とは行き来しており、倹も、それは禁じなかった。
 やがて、倹が勝州都督となって転任すると、州司が、「思結が造反しようとしている」と上奏した。そこで、倹へ実情の査察に行くよう詔が降りた。倹は、単騎でその部落へ行って説諭し、彼等を代州へ移住させた。そして倹が検校代州都督となった。思結は、結局造反しなかった。
 倹は、彼等へ耕作を勧めた。すると、この年は大豊作だった。倹は、虜が多量の食糧を備蓄すると不穏なことを考えるかもしれないと恐れた。そこで、余った穀物は朝廷が買い上げて、辺境の兵糧として使用するよう上奏し、裁可された。部落は喜び、野良仕事に精を出すようになったので、辺境の兵糧は満ち足りた。 

 隋の末期、大勢の中国人が突厥に捕らえられた。突厥が降伏するに及んで、上は使者を派遣して金帛で贖った。
 五年、五月、乙丑。男女凡そ八万人を得たと、役人が上奏した。 

  

  

西突厥 

 西突厥の肆葉護可汗は、先代可汗の子であり、大勢の民が推戴した。莫賀咄可汗の麾下の酋長達も、大勢彼へ帰属した。
 四年十二月、肆葉護が兵を率いて莫賀咄を攻撃すると、莫賀咄は敗北して金山へ逃げ込んだ。泥熟設が、これを殺す。西突厥の諸部は、共に肆葉護を推戴して大可汗とした。
 六年四月。肆葉護可汗が出兵して薛延陀を攻撃したが、敗北した。
 肆葉護は猜疑心が強くて暴戻で讒言を信じやすい人間。西突厥の小可汗では、乙利可汗が最も功績が多かったが、彼は肆葉護の一族ではなかったので、誅殺してしまった。これによって諸部の心はバラバラになった。肆葉護は又、莫賀設の子の泥享(「享/丸」)を忌み、密かに殺そうと考えていたので、泥享は耆へ亡命した。
 設卑達官と弩失畢の二部がこれを攻撃し、肆葉護は軽騎で康居へ亡命して、客死した。すると国人は耆から泥享を迎え入れて擁立した。これが咄陸可汗である。咄陸は唐へ使者を派遣して内附した。
 丁酉、鴻臚少卿劉善因を派遣して、咄陸を立てて奚利必(「必/里」)咄陸可汗とした。
 八年、西突厥の咄陸可汗が卒し、その弟の同娥設が立った。これが沙鉢羅咥利失可汗である。 

 九年冬、十月、乙亥、處月がはじめて使者を派遣して入貢した。處月と處密は、皆、西突厥の別部である。 

 十年、正月辛丑、突厥の拓設阿史那社爾を左驍衞大将軍とした。
 社爾は、處羅可汗の子息である。十一の時から知略で有名だった。そこで可汗は拓設として磧北に牙帳を建て、欲谷設と敕勒部を分割統治させた。その地位のまま十年過ぎたが、重税を課したことがなかった。諸設が、あるいは彼が富貴になれないことをからかったが、社爾は言った。
「部落が豊かになれば、私には充分だ。」
 諸設は慚愧して感服した。
 薛延陀が造反して欲谷設を攻め破った時、社爾の軍も敗北し、敗残兵を率いて逃げ、西垂(「里/垂」)を保った。
 頡利可汗が滅ぶと、西突厥は再び乱れ、咄陸可汗兄弟が国を争った。社爾は偽って彼等のもとへ降伏に行き、兵を率いて西突厥を襲破し、その土地の半分を占領した。十余万の衆を擁し、自ら答布可汗と称す。
 社爾は諸部へ言った。
「我が国を破った首謀者は、薛延陀だ。我は先の可汗の仇に報いる為、これを撃って滅ぼしてやる。」
 諸部は皆、諫めた。
「新たに西方を得たのだから、ここに留まって鎮撫すればよいのです。今、ここを棄てて遠方へ行けば、西突厥は必ずこの地を取り返します。」
 社爾は従わず、磧北にて薛延陀を撃った。この戦争は百日にも及んだ。やがて咥利失可汗が立った。社爾の衆は長い戦役に苦しんで、大勢が社爾を棄てて咥利失のもとへ逃げこんだ。そこを薛延陀が襲撃し、社爾は大敗し、高昌へ逃げ込んだ。その旧兵は、わずか一万余りとなり、また、西突厥から迫られることも懼れ、遂に衆を率いて唐へ降伏してきた。
 その部落を霊州の北へ住ませるよう敕が降りた。社爾は長安へ留めさせ、皇妹の南陽長公主を娶らせ、苑内で典屯兵をさせた。 

 西突厥の咥利失は、可汗になると、その国を十部に分けて部毎に酋長一人を置き、彼らへ各々一本の箭を賜下した。彼等は十箭と呼ばれた。又、左右廂に分け、左廂を五咄陸と号し、五大啜を置き、碎葉以東に住ませた。右廂は五弩失畢と号し、五大俟斤を置き、碎葉以西に住ませた。これらを十姓と言った。
 やがて咥利失は衆心を失った。
 貞観十二年、その臣下の統吐屯が、これを襲撃した。咥利失は敗北し、弟の歩利設と共に焉耆まで逃げて、ここを保った。統吐屯等は、欲谷設を大可汗に擁立しようとしたが、統吐屯が殺されてしまい、欲吐屯も敗戦して、咥利失は故地を回復した。
 ここにいたって、西部は遂に欲谷設を擁立した。これが乙毘咄陸可汗である。
 乙毘咄陸は、即位すると咥利失と激戦を繰り返し、大勢の人間が戦死した。そこで、土地を二つに分けることとし、伊列水以西を乙毘咄陸の領土とし、以東を咥利失の領土とすることになった。
 やがて、咥利失可汗の臣下の俟利發が、乙毘咄陸可汗と通謀して造反した。咥利失は切羽詰まって、發(「金/發」)汗へ逃げて、死んだ。すると、弩失畢の部落が、その甥の薄布特勒を擁立した。これが乙毘沙鉢羅葉護可汗である。
 沙鉢羅葉護は可汗となると、雖合水の北に庭を建てた。これを南庭と言う。クチャ、ゼンゼン、且末、吐火羅、焉耆、石、史、何、穆、康等の国が、皆、これに臣従した。
 対して咄陸は、鏃曷山野西へ牙帳を建てた。これを北庭と言う。厥越失、抜悉彌、駁馬、結骨、火尋(「火/尋」)、觸水昆等の国が、これに臣従した。 

 沙鉢羅葉護可汗は、屡々使者を派遣して、入貢した。
 十五年七月、甲戌、左領軍将軍張大師を持節として派遣し、沙鉢羅葉護を可汗として擁立してくるよう命じた。鼓纛を賜下する。
 この時上は、使者へ多くの金帛を渡し、諸国を回って良馬を買ってくるよう命じたが、魏徴が諫めた。
「可汗の位がまだ定まってもいないうちに、まず、馬を買わせる。彼等は必ず、陛下はただ馬が欲しかっただけで、我等へ可汗を立てるとゆうのは単なる名目に過ぎないのだと思い、可汗として擁立できても我等への恩義は薄いでしょう。ましてや擁立できなければ、必ずや深く怨まれます。諸国はこれを聞いて、中国を軽く見ます。商売など、巧く行っても行かなくても、名誉ではありません。それよりも、あれを安寧にすることが出来れば、諸国の馬など、求めなくても向こうからやって来ます。」
 上は欣然として、これを止めた。 

 乙毘咄陸可汗と沙鉢羅葉護は互いに攻撃しあっていたが、乙毘咄陸が次第に強大になって行き、西域諸国の多くはこれに臣従した。いくばくも経たぬうちに、乙毘咄陸は石国に沙鉢羅葉護を攻撃させた。彼等は、沙鉢羅葉護を捕らえて帰国し、殺した。
 乙毘咄陸可汗は、沙鉢羅葉護を殺した後、彼の民を併呑した。そのまま吐火羅を攻撃し、これを滅ぼす。こうして強大になると、その力を恃んで驕慢になり、唐からの使者を抑留し、西域へ侵略しはじめた。又、伊州へ派兵したが、郭孝恪が軽騎二千を率いて烏骨からこれを攻撃して、敗った。乙毘咄陸は又、處月、處密の二部を派遣して天山を包囲させた。郭孝恪は、これを攻撃して敗走させ、勝ちに乗じて處月の俟斤の居城を落とし、遏索山まで追撃し、降伏した處密の民を率いて帰った。
 ところで、高昌が平定された後は、毎年千余人の兵を派遣してその土地を守っていた。その頃、猪遂良が上疏した。その大意は、
「聖王の政治は、華夏が第一で夷狄は二の次です。陛下が兵を興して高昌を獲った時、その負担で数郡が裏寂れてしまって、何年経っても復興しません。その上毎年千余人も防人を徴発させられ、本人が故郷を遠く離れるだけではなく、その負担で家が破産しています。また、罪人の流刑地にしていますが、彼等は皆無頼漢、辺鄙を騒がせるだけで、戦備の役に立ちましょうか!派遣する者の多くは逃亡し、追補に忙殺されるだけです。のみならず、その途上は千里の砂礫。冬風は肌を裂き夏風は身を焦がし、往来の途中にこれに遭って大勢が死んでいます。張掖と酒泉に警備の狼煙台を築かせながら、陛下は高昌から一斗の粟でさえ得られぬまま、隴右諸州の兵卒兵糧を徴発してこれへ充てているだけでございます。しかしながら、河西は中国の心腹で、高昌は他人の手足です。なんで本根を疲弊させて無用の土へご奉仕なさるのですか!かつ、陛下は突厥、吐谷渾を得ながら、その土地を領有せず、君主を立ててこれを慰撫させております。高昌だけ、どうしてそのようになさいませぬのか!造反すればこれを捕らえ、服従すれば封じる。そうすれば刑には威厳があり、徳は厚くなります。どうか、高昌の子弟で君主の器を持つ物を選び、これを国王として子々孫々へ大恩を賜り、永く唐室の藩塀とすれば、内は安んじ外は平寧となります。なんと素晴らしいではありませんか!」
 上は聞かなかった。
 西突厥が入寇するに及んで上はこれを後悔し、言った。
「魏徴、猪遂良は我へ高昌の君主を立てるよう勧めたが、我はその提案を用いなかった。今、自己批判している。」 

 十六年、乙毘咄陸は西進して康居を攻撃する途中、米国を通過して、これを破った。沢山の戦利品を獲たが、これを配下へ分配しなかったので、麾下の将泥熟啜が、これを掠奪した。乙毘咄陸は怒り、泥熟啜を斬ったので、衆は皆、憤怨した。泥熟啜の部将胡禄屋がこれを襲撃すると、乙毘咄陸の部下は散り散りになり、白水胡城へ逃げ込んだ。
 ここにおいて、弩失畢の諸部と乙毘咄陸麾下の屋利啜等羅が唐へ使者を派遣し、乙毘咄陸を廃して別の者を可汗に立てるよう請うた。上は、使者へ璽書を与えて派遣し、莫賀咄の子を立てた。これが乙毘射匱可汗である。
 乙毘射匱は即位すると、乙毘咄陸が抑留していた唐の使者を全て丁寧に返還した。また、手勢を率いて白水胡城の乙毘咄陸を攻撃したが、乙毘咄陸は迎撃して、乙毘射匱は大敗した。そこで乙毘咄陸は、使者を派遣してもとの部落の民を招いたが、彼等は皆、言った。
「たとえ千人戦死しようが、最後の一人になるまで汝には従わないぞ!」
 七月、乙毘咄陸は、民から見離されたことを知り、西方の吐火羅へ亡命した。
 二十年、六月丁卯。西突厥の乙毘射匱可汗が、入貢の使者を派遣し、かつ、通婚を求めた。上はこれを許し、婚礼の引き出物代わりにクシャ、于真(「門/真」)、疏勒、朱倶波、葱嶺の五国の支配させた。 

  

東突厥 

 当初、突厥の突利可汗の弟の結社率が、突利に随従して入朝し、順々に出世して中郎将となった。彼は無頼漢で、突利が自分を排除したことを怨んでいたので、突利が謀反を企てていると誣告した。上は、それ以来結社率を疎んじて、長い間進級しなかった。
 貞観十三年、結社率は、密かにもとの部落と結託し、四十余人の同士を得、上の暗殺を企てた。晋王治が四鼓に宮を出るので、その門が開いた時を見計らって宮門へ駆け込み、御帳を直撃すれば事は成ると考えたのだ。
 四月甲申、突利の子の賀邏鶻を擁し、夜、宮外へ伏せた。だが、その日大風だったので晋王がやって来るのが遅れた。結社率は、暁になるのを恐れて、遂に行宮を犯した。彼等は四重の幕を乗り越えると、弓矢を乱発して衞士数十人を殺した。
 折衝孫武開等が部下を率いて奮撃し、しばらくして追い散らした。賊徒達は御厩へ逃げ込んで馬二十余匹を盗み、北へ逃げた。
 彼等は渭水を渡ってその部落へ逃げ込もうとしたが、追いかけて捕らえ、これを斬る。賀邏鶻は、捕らえて、嶺表へ流した。
 結社率が造反してから、「突厥を河南へ留めておくのは良くない。」と口にする者が増えた。
 七月、庚戌、右武候大将軍、化州都督、懐化郡王李思摩を乙彌泥孰俟利必(「草/必」)可汗として、これへ鼓纛を賜り、諸州に暮らしている突厥及び胡へ河を渡って旧領へ帰らせ、藩塀を作って長く辺塞を保つよう、詔が降りた。
 突厥は、薛延陀を憚り、塞から出たがらなかった。上は、司農卿郭嗣本を派遣して薛延陀へ璽書を賜り、言った。
「頡利は既に滅亡し、その部落は我が国へ帰化した。吾は、彼等の旧過を咎めず後の善を嘉し、彼等の高官を我が百僚のように、その部落は我が百姓のように扱った。中国は、礼や義を尊ぶ。他の国を滅ぼしたりしない。前回突厥を破った時も、頡利一人が百姓を害したことを罰したに留め、その土地や人畜を貪らなかった。そしていつも代わりの可汗を立ててやろうと考えていたので、降伏した部落は河南へ置いて、彼等の意のままに畜牧を行わせていたのだ。今、彼等の戸口はますます増え、吾は心から喜んでいる。既にこれを立てることを許したのだから、信義を失ってはいけない。この秋に、中将を派遣して突厥に河を渡らせ、その故国を復興させる。なんじ、薛延陀は、我が册を先に受けた。突厥はその後に册を受けたのである。遅れて受けた者は小さく、先に受けた者は大きくする。汝は磧北を領土とし、突厥は磧南を領土とし、各々その領土を守って部落を鎮撫せよ。その領土を越えて掠奪を行ったならば、我は兵を発し、各々その罪を詰問するぞ。」
 薛延陀は、詔を奉じた。
 ここにおいて俟利必可汗を河北へ派遣して牙帳を建てさせることにした。上は、齊政殿へ出向いて、これと別れを告げた。俟利必可汗は涕泣し、觴を奉って上を寿ぎ、言った。
「この奴達は破亡のお余り。我が国は分かれて灰燼となりましたのに、陛下は骸骨を残し、再び可汗に立ててくださいました。願わくば、万世の子孫に至るまで陛下へお仕えしとう存じます。」
 また、礼部尚書趙郡王孝恭等を派遣して册書を贈り、河上に壇を築かせた。
 上は侍臣へ言った。
「中国は、根幹だ。四夷は枝葉だ。根幹を割って枝葉へ奉仕たら、木はどうして滋栄できようか!朕が魏徴の言葉を用いなかったので、動乱を起こしてしまった。」
 また、左屯衞将軍阿史那忠を左賢王、左武衞将軍阿史那泥熟を右賢王とした。
 忠は、蘇尼失の子息である。上は、彼を厚遇し、宗族の娘を娶らせた。彼は塞を出ると中国を懐慕し、使者を見ると必ず涕泣し入侍を請うた。詔が降りて、これを許した。
 十四年四月丙辰、寧朔大使を設置して、突厥を護らせた。
 十五年、正月乙亥、侯利必可汗がはじめて部落を率いて河を渡り、もとの定襄城へ牙帳を建てた。その民は三万戸。四万の健兵と九万匹の馬がおり、上奏した。
「臣は分でもないのに御恩を蒙り部落の長となりました。願わくば、子々孫々国家の一犬となり、北門を守吼させてくださいませ。もし、薛延陀が侵入したら、家族達は長城へ入らせてください。」
 詔して、これを許した。
 さて、俟利必可汗が河を渡って北上すると、薛延陀の真珠可汗は、自分の部落が動揺することを懼れ、心中これを甚だ憎み、軽騎を漠北へ揃えてこれを攻撃しようとした。上は使者を派遣して敕を与え、戦争しないよう戒めたが、真珠可汗は聞かなかった。その言葉は「薛延陀」へ記載する。これより、しばしば戦争が起こった。
 俟利必が黄河を渡った時には十万の民衆と四万の勝兵がいた。だが、俟利必は彼等を撫御することができず、衆は彼に服さなかった。
 十八年、十二月戊午、彼等は全員俟利必を棄てて河を渡って南下し、勝・夏の間に住ませて欲しいと嘆願した。上はこれを許す。群臣は皆言った。
「陛下は、将に遼東へ遠征しようとなさっていますのに、突厥を河南へ住ませる。そこは京師のそばですぞ。後慮が起こったらどうなさいますか!どうか陛下は洛陽に留まられ、諸将を東征へ派遣してください。」
 だが、上は言った。
「夷狄も人間だ。その人情は、中原と変わらない。人主は、徳沢が加わらないことを憂えるだけで、異類を猜忌する必要はない。けだし、徳沢が触れ合えば、四夷は一家のように使えるし、猜忌が多いと骨肉でも讐敵となってしまう。煬帝は無道で、遠征のずいぶん前から人心はすっかり失われていた。だから遼東の役が起こった時、人は皆、手足を切断してまで征役を避けた。この時、楊玄感は輜重兵を率いて黎陽にて造反したので、夷狄が患を為したのではない。朕は今回高麗東征に当たって募兵したが、十人募れば百人志願し、百人募れば千人志願が来る。従軍から洩れた者は憤懣やるかたない有様だ。なんで民から怨まれていた隋の行軍と同列に語られようか!突厥は貧弱だから、我が収めて養ってやっているので、その恩は骨髄に染みわたっている。なんで患を為そうか!それに、彼等と薛延陀は嗜欲がほぼ同じなのに、彼等は北上して薛延陀の元へ逃げ込まずに、南下して我が元へ帰順したのだ。それを見ても、彼等の心情が判るではないか。」
 顧みて猪遂良へ言った。
「爾は起居を記録している。これをしっかりと記載せよ。今から十五年間は、突厥の患いは起こらないぞ。」
 俟利必は民衆を失った後、軽騎で入朝した。上は、右武衞将軍とした。 

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