登(「登/里」)の三甥、楚の文王を殺すを請う。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の荘公の六年。楚の文王は申を滅ぼし、その帰途、登を通った。すると、登侯は言った。
「楚の文王は、我が甥(一族)だ。」
 そして、彼等を留めて饗応した。
 すると、登侯の三人の甥が、言った。
「登を滅ぼすのは奴です。この機会に殺しましょう。」
 登侯は従わなかった。
 やがて、文王は登を攻撃し、十六年にこれを滅ぼした。 

  

(東莱博議) 

 陰陽風雨晦明は、天の六気である。陰が過ぎれば人は寒疾に掛かり、陽が過ぎれば、熱疾に掛かる。同様に、風が過ぎれば末疾、雨が過ぎれば腹疾、晦が過ぎれば惑疾、明が過ぎれば心疾に掛かる。これが、人の六疾である。
 さて、ある医者が言った。
「六気というものは、疾病を招く根元である。だから、六疾を根絶させようと思ったら、陰陽風雨晦明を全てなくしてしまわなければならない。」
 こんな理屈が、どうして通用するだろうか。
 病気になるのは、本人の療養が足りなかったためである。人を咎めずに天を咎めるなど、天下きってのヤブ医者である。自分が建康に気を配れば、六気があっても病気にはかからない。同様に、国は自分で守るもの。患は四隣ではない。
 一体、全ての人間が六気に囲まれているのだ。それで建康の者が多いのだから、病気になる者は、日頃の養生が足りない。同様に、全ての国に隣国がある。隣国からの患を気にする者は、善く国を守っているとは言えない。
 汝が、その挙動を正しくし、精神をおしみ、飲食を適宜にして薬石をつまびらかにすれば、六気がおかしくなっても健康でいられる。そして、汝が徳沢を豊かにし、政刑を明らかにし、藩塀の監督を固くし、軍隊を鍛えれば、四隣が暴虐でも、我が国は安泰なのだ。
 登の三甥は、ここの道理を知らなかった。国の存亡は我が国の治乱にあるのを知らず、楚子の生死のみに掛かっていると言い、汲々として彼を殺せと訴え、内政を忘れて外患を憂うる。何と愚かなことだ。
 だいたい、登が滅んだ原因は、楚だけが原因ではないのだ。楚の近くに存在する国は、陳・蔡・鄭・許から揚子江周辺まで、数多くある。にも関わらず、楚は登のみを滅ぼそうとした。それは登に乗じるべき隙があったからではないか。
 それを、我が国の持っている隙は放置しておいて顧みず、隣国のみを睨み付けて憂いとしていた。楚子を殺せたとしても、まだ楚の本国は残っている。楚を滅ぼせたとしても、他に沢山の国がある。隣国を憂いとするのなら、極みようがないではないか。
 この時代は、強者が弱者を凌ぎ、衆が寡へ乱暴するのが、一般的な風潮だった。今日、斉が譚を滅ぼして諸侯へ告知したかと思うと、明日は晋がカクを滅ぼして諸侯へ告知する。乗じられるべき隙を持っている国は、どんな国でも寄ってたかって滅ぼそうとした時代だ。登を狙っている国が、どうしてただに楚一ヶ国だっただろうか。
 だから、三甥のような考え方をしていたら、全ての国を併合しなければ、枕を高くすることができないのである。なんと迂遠な話ではないか。
嗚呼、四隣を悉く併呑することなどできない。いや、例え四隣を併呑しても、それでは終わらない。秦は六国と隣り合っていた時に滅ばずに、天下を統一した後に滅んだ。隋も又、南北統一以前には滅ばずに、天下統一の後に滅んだ。国が滅亡する原因は、ただ隣敵に限ったことではないのだ。
 三甥の謀略が馬鹿げたことであるのは明白である。しかし、世間には、登侯がその言葉に従わなかったことを惜しむ人間が多い。
 他人を咎めて己を咎めないのが、小人の通弊である。その想いで古人を見る。なるほど、楚を咎めて登を咎めないのはもっともな話である。
 桀が南巣に放逐された後、彼は言った。
「夏台で湯王を殺しておくべきだった。」
 嗚呼、例え湯王を殺したとしても、桀を追放する人間は、天下に一人もいなかっただろうか。桀は、上天を誣い、萬方を虐し、龍逢を誅殺し、末喜と姦通した。滅亡する原因など、髪の毛の数よりもまだ多い。桀は、これらについては全然後悔せず、ただ湯王を殺さなかったことばかりを後悔した。まさしく、他人を咎めて己を咎めないの典型である。
 桀の為人は、悪いことしか言わず、悪いことしか行わず、ほんの一瞬の間でも、悪行以外はしなかった。ただ、僅かに、湯王を殺さなかったという一善があっただけである。それなのに、却って、その一善が失敗だったと言う。これは、一善があったことを恥じ、万悪を備えようと欲したに他ならない。哀しいことだ。 

  

(訳者、曰) 

 平家は源義経を赦し、項羽は劉邦を殺さなかった。世間の人々は、平家の滅亡、項羽の没落をそれのせいだと悔しがる。しかし、源義経や劉邦が死んでいたとしても、彼等はどうせ滅亡したのだ。積悪の余殃をこそ、畏れるべきである。