蕭宗
 
 至徳二年(757)十二月甲子、上皇が宣政殿へ御幸し、伝国の宝を上へ授ける。上は始めて、涕泣してこれを受けた。
 やがて上皇は、上へ光文武大聖孝感皇帝の尊号を加えた。
 上の元の妃の韋氏は、廃された後は尼となり、禁中に住んでいた。この年、卒した。 

 乾元元年(758)正月戊寅、上皇が宣政殿へ御幸し、冊を授けて、上へ尊号を加える。上は、「大聖」の称号を固辞するが、上皇は許さない。
 上は、上皇を尊んで、太上至道聖皇天帝と言う。
 官軍が京城を解放した時、宗廟の器や府庫の資材の多くは民間へ散佚していた。使者を派遣して照合確認させたので、非常な騒動が起こった。乙酉、これを悉く停止すると敕が降り、京兆尹李見(「山/見」)に坊市を安撫させる。 

 二月癸卯朔、殿中監李輔国へ太僕卿を兼任させる。輔国は張淑妃と結託して、判元帥府行軍司馬となって、その勢力は朝野を傾けた。 

 丁未、上が明鳳門へ御幸し、天下へ恩赦を下し、改元する。百姓の今年の租、庸を全額免除し、「載」を「年」へ戻す。
 庚午、安東副大都護王玄志を営州刺史として、平盧節度使に充てる。
 三月甲戌、楚王俶を成王とする。
 戊寅、張淑妃を皇后に立てる。
 癸卯、太子少師カク王巨を河南尹として、東京留守に充てる。 

 六月戊午、賊に陥った両京の官吏で、三司の救命がまだ終わらない者は全員赦す、と敕が降りた。貶、降は続いて処分する。 

 太子少師房官(「王/官」)は官職を罷免させられてからは怏々として、病気と称して登朝しないことが多かった。それでいて、賓客は朝夕門に満ち、その一味は朝廷にて揚言した。
「官には文武の才があります。大きく用いるべきです。」
 上はこれを聞いて憎み、制を下して官の罪を数え上げ、幽州刺史へ降格する。
 前の祭酒劉秩を良(「門/良」)州刺史へ、京兆尹厳武を巴州刺史へ降格する。共に、官の仲間である。 

 七月丁亥、回乞可汗を英武威遠毘伽闕可汗へ冊立する。上は、幼い娘の寧国公主を娶らせた。詳細は「ウイグル」に記載する。
 八月、回乞が、その臣骨啜特勒及び帝徳へ驍騎三千を与えて、安慶緒討伐を助けに派遣する。上は、朔方左武鋒使僕固懐恩へ、これを指揮するよう命じた。 

 七月乙未、郭子儀が入朝した。
 八月庚戌、李光弼が入朝した。丙辰、郭子儀を中書令、光弼を侍中とする。
 丁巳、子儀が行営を詣でる。
 九月庚午朔、右羽林大将軍趙を蒲、同、カク三州節度使とする。
 庚寅、朔方の郭子儀、淮西の魯Q、興平の李奐、滑濮の許叔冀、鎮西・北庭の李嗣業、鄭蔡の李廣深、河南の崔光遠の七節度使及び平盧兵馬使董秦へ歩騎二十万を与えて慶緒を討伐させた。また、河東の李光弼、関内・澤路の王思禮二節度使へ、麾下の兵を率いてこれを助けさせた。詳細は、「史思明」へ記載する。 

 癸巳、廣州が上奏した。 
「サラセンが、ペルシャの州城を包囲しました。刺史韋利見は城壁をこえて逃げ、二国の兵は倉庫を掠め盧舎を焼き、海に浮かんで去りました。」 

 十月甲辰、太子を冊立し、豫と改名する。
 中興以来、群下への賜がなかった。ここに至って、始めて大銭を鋳造し、百官、六軍へそれぞれ差を付けて賜下した。
 十二月己未、群臣が、上の尊号を、乾元大聖光天文武孝感皇帝とするよう請うた。これを許す。 

 三月、安慶緒を攻撃していた官軍連合軍が、史思明によって大打撃を受けた。
 甲申、回乞の骨啜特勒、帝徳等十五人が、相州から西京へ逃げ帰った。上は、紫宸殿にて宴会を開き、それぞれへ恩賞を賜下した。
 庚寅、骨啜特勒等は挨拶して行営へ帰った。
 丙申、郭子儀を東畿、山東、河東諸道元帥、権知東京留守とした。
 河西節度使来眞(「王/眞」)を行陜州刺史として、陜、カク、華州節度使に充てた。 

 甲午、兵部侍郎呂煙(本当は、言偏)を同平章事とする。
 乙未、中書侍郎、同平章事苗晋卿を太子太傅、王與(「王/與」)を刑部尚書として、共に政事をやめさせる。
 
 五月、路(「水/路」)沁節度使王思禮へ太原尹を兼任させ、充北京留守、河東節度使とした。
 かつて潼関で敗北した時、思禮の馬に矢が当たり、倒れた。その時、騎兵の張光晟とゆう者が、下馬して馬を授けた。彼は、思禮が名を聞いても、告げずに去っていった。思禮は密かに彼の容貌を記憶しており、彼を探したけれども見つけきれなかった。河東へ到着した時、ある者が、代州刺史の河西の辛雲京を讒言した。思禮はこれを真に受けて怒ったので、雲京は懼れて為す術を知らなかった。光晟は、この時雲京の麾下だった。彼は言った。
「光晟は、かつて王公へ恩を与えたことがあります。今まで敢えて黙っていたのは、それで恩賞を取るのを恥じと思ったからせです。ですが、今、君の危急の時です。光晟はこれから王公に合ってきて、必ず君の誤解を解いて見せます。」
 雲京は悦んでこれを遣った。光晟が思禮と謁見すると、口を開く前に思禮は彼を知り、言った。
「おお、貴方は吾の恩人ではないか。なんで今まで名乗らなかったのだ!」
 光晟はありのままを告げた。思禮は大いに喜び、その手を執って流涕して言った。
「吾が今日有るのも、全て貴方のおかげだ。ずっと探して居ったのだぞ。」
 そして、長椅子に同座して兄弟の契りを結んだ。そこで光晟は、ゆったりとした有様で雲京の運罪を語った。思禮は言った。
「雲京も細事ではないが、今日は、特に恩人のために不問としよう。」
 即日、光晟を兵馬使へ抜擢し、非常に多くの金帛田宅を賜った。
(胡三省、曰く。張光晟は、王思禮へ対しては君子として振る舞った。その後、徳宗に仕えた時は、官職を失って怨望し、遂に朱へ身を委ねた。前後で何と違いのあることか!) 

 辛卯、朔方節度副使、殿中監僕固懐恩へ太常卿を兼任させ、官爵を大寧郡王へ進めた。
 懐恩は、郭子儀のもとで前鋒となり、その勇は三軍に冠たり、多くの戦功を建てた。だから、これを賞したのである。
  八月壬戌、李光弼を幽州長史、河北節度等使とする。
  九月丁亥、太子少保崔光遠を荊、襄招討使として、山南東道處置兵馬都使へ充てる。陳、穎、亳、申節度使王仲昇を申、ミャン等五州節度使として、知淮南西道行営兵馬とする。
 十一月、安西、北庭の兵を発し、陜へ駐屯する。史思明に備えたのである。 

 同月甲子、殿中監董秦を、陜西、神策両軍兵馬使とした。李忠臣の姓名を賜る。 

 十二月、呂煙を領度支使とする。 

 上元元年(760)正月辛巳、李光弼を太尉兼中書令とした。他の官職は従来通り。
 丙戌、于眞(「門/眞」)王勝の弟曜を、同じく四鎮節度副使、権知本国事とした。 

 閏月丁卯、河東節度使王思禮へ司空を加える。武徳年間以来、宰相にならないのに三公を拝受したのは思禮が始めてである。
 甲戌、趙王係を越王とする。
 己卯、天下へ恩赦を下し、改元する。
 五月丙午、太子太傅苗晋卿を行侍中とする。
 晋卿は、吏事に練達しており、身を慎んで位を固くしていたので、人々は、彼を胡廣と比べていた。 

 宦官の馬上言が、賄賂を受け取り、贈賄者の為に呂煙へ官を求めた。煙は彼の為に採用してやる。
 事が発覚し、上言は杖で打ち殺された。壬子、煙はやめて、太子賓客となる。数ヶ月後、煙は荊州長史、豊、キョウ、忠等五州節度使となった。 

 五月癸丑、京兆尹の南華の劉晏を戸部侍郎として、度支、鋳銭、塩鉄等使に充てる。
 晏は、財利に長けていたので、用いられた。 

 九月甲午、荊州へ南都を置く。荊州を江陵府とし、永平団練兵三千人を置き、呉、蜀の抑えとする。節度使呂煙の請願に従ったのである。
 二年正月にも呂煙が上奏に従い江南の淡、岳、林(「林/里」)、邵、永、道、連、黔中をバイ州として、全て荊南へ隷属させた。 

 ある者が上言した。
「天下は未だ平定しておりません。郭子儀を暇な場所に置くのは良くありません。」
 乙未、子儀を出して分州を鎮守させるよう命じた。すると党項は逃げ去った。
 戊申、制を降ろした。
「子儀は、諸道の兵を統べて朔方から直接范陽を攻略し、河北を平定せよ。射生英武等の禁軍及び朔方、鹿坊、分寧、原諸道の蕃、漢の兵七万人を動員し、皆、子儀の指揮下へ入れ。」
 制が下って旬日経つと、魚朝恩等が再び阻み、ついに実行されなかった。 

 二年正月、史思明が李光弼と僕固懐恩を大いに破る。官軍は数千人の死者を出した。軍資器械は全て捨て去る。光弼と懐恩は、河を渡って退却し、聞喜を保つ。朝恩、伯玉は陜へ逃げ帰り、抱玉は河陽を棄てて逃げる。河陽、懐州は全て賊の手に落ちた。その詳細は「史思明」に記載する。
 朝廷はこれを聞いて大いに懼れ、陜へ増兵した。 

 李揆と呂煙は共に宰相となったが、仲が悪かった。
 煙が荊南にて善政を布いていると聞き、揆は、彼が再び宰相に返り咲くのではないかと恐れた。そこで、湖南に軍を置くのは善くないと屡々上言した。また、密かに荊、湖へ人を派遣して、煙の過失を探させた。
 煙は、上疏して、揆の罪を訴えた。
 癸未、揆を袁州長史へ降格し、河中節度使蕭華を中書侍郎、同平章事にした。 

 同月、史朝義が史思明を殺した。その詳細は「史思明」に記載する。 

 術士で長塞鎮将の朱融と左武衞将軍董如分(「王/分」)等が、嗣岐王珍を奉じて乱を造ろうと謀った。金吾将軍ケイ済が告発する。
 四月乙卯朔、珍を廃して庶民とし、湊州へ安置する。その党類は全て誅に伏した。
 珍は業の子息である。
 丙辰、左散騎常侍張鎬を辰州司戸へ降格する。鎬は、かつて珍から邸宅を買い取ったことがあったからである。 

 李光弼は史思明に大敗すると、自ら上表して降格を固く求めた。三月、制が降り、開府儀同三司、侍中、領河中節度使となる。
 五月、己丑、李光弼が河中から入朝する。
 同月、李光弼を、河南副元帥、太尉兼侍中へ復帰させ、都統河南、淮南東・西、山南東、荊南、江南西、浙江東・西八道行営節度として臨淮へ出して鎮守させる。 

 七月、試少府監李藏用を、浙西節度副使とする。 

  辛巳、殿中監李若幽を鎮西、北庭、興平、陳鄭等節度行営及び河南節度使として、絳州を鎮守させる。国貞の名を賜る。 

 壬寅、尊号を去り、ただ皇帝とのみ称すると、制を下す。また、年号を去り、ただ元年とのみ称する。建子月を年の初めとし、他の月は全て干支で数えることにする。天下へ恩赦を下す。
 京兆、河南、太原、鳳翔の四京及び江陵南都の号を廃止する。
 今後は、五品以上の清望官及び郎官、御史、刺史を叙任する度に、自分のかわりの人間を一人推挙させ、その推挙した人間を見て殿最(?)を行うことにする。 

 十一月壬午朔、この月を建子月として、年の初めとする。上は朝賀を受ける。これは、正月の儀に倣った。以後、元の月に戻すまで、一年が二ヶ月ずれることになる。 

  鴻臚卿康謙が史朝義と内通していると、ある者が密告した。事は司農卿厳荘へ連なり、共に獄へぶち込まれた。京兆尹の劉晏が吏を遣って荘の家を占拠した。
 上は、敕を出して荘を引き出した。荘は晏を怨み、言った。
「晏は臣へ、いつも禁中の事を語っております。また、今までの功績に驕って、上を怨んでおります。」
 丁亥、晏を通州刺史へ降格した。荘は難江尉となり、謙は誅に伏した。
 戊子、御史中丞元載を戸部侍郎として、句當支度、鋳銭、塩鉄兼江淮転運等使へ充てる。
 載は、最初は支度郎中だったが、上の意向を敏感に悟って応対したので、上はその才覚を愛し、江淮の漕運を委ねた。数ヶ月後、遂に晏に代わって、財利を専掌した。 

 寶應元年(762)建寅月(昨年の敕では、建子月が年の初めとする筈だが、通鑑では建寅月が年の初めとなっている。これは、この年の四月に従来の呼び方に戻る為である。)甲申、靖徳太子jを奉天皇帝、妃の竇氏を恭應皇后と追尊する。
 丁酉、斉陵へ葬る。 

 建卯月、奴刺が成固へ来寇した。
 建巳月甲午、奴刺が梁州へ来寇した。観察使李勉は城を棄てて逃げる。
 分(「分/里」)州刺史の河西のゾウ希譲を山南西道節度使とする。 

 租庸使元庸は、江淮は兵乱を経たけれども(「造反、劉展の乱」参照)、その民は他の道と比べてまだ資産が多いと判断した。過去八年間の租庸の徴収できなかった分や逃散した人間の分を計算して、全て徴発した。豪吏を選んで県令として、これを督促させる。未収分の有無や貨の高下を問わず、民が粟や帛を持っていたら全て摘発して、その半分を徴収する。甚だしい者は、八、九割を租庸として奪って行った。これを「白著」と言った。
 不服な者は厳刑へ処する。穀物を十斛も持っている民は、足枷をつけられて処罰を待つ有様だから、大勢の人間が、山や沢に集まって群盗となった。州県は、これを止められなかった。 

 建巳月甲寅、神龍殿にて、上皇が崩御した。享年七十八。上は、仲春から寝込んでいたが、上皇が崩御したと聞いて、哀慕して、ますます病状が悪化したので、太子へ監国を命じた。これらの詳細は、「李輔国」へ記載する。
 甲子、制を降ろして改元する。建寅月を正月へ戻し、月も全て旧来通り数えるようにする。天下へ恩赦を下す。 

 当初、張后と李輔国は表裏一体となって政権を専断していたが、晩年になって仲違いした。
 乙丑、輔国と程元振は、太子の命令と称して后を別殿へ移す。
 この時、上は長生殿にいた。使者は、下殿するよう后へ迫る。併せて、左右数十人を後宮へ幽閉した。詳細は、「李輔国」に記載する。
 丁卯、上が崩御する。(享年五十二)
 輔国等は、后と共に係及び?王間(「人/間」)を殺す。
 この日、輔国は始めて太子を引いて、九仙門で素服にて宰相達へ謁見させた。ここで上皇の崩御を告げて、拝哭し、始めて監国の令を行う。
 戊辰、両儀殿にて皇帝の喪を大行し、遺詔を宣する。 

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