東 莱 博 議

騰と薛と席を争う。

(春秋左氏伝)

 魯の隠公の十一年、騰候と薛候が魯公のもとへ来朝したが、儀式の時になって二人で席次を争った。
 薛候は言った。
「俺の国の方が歴史が古い。騰候の下には就けん。」
 騰候は言った。
「俺の国は周王や魯公と同姓(同族)だ。薛候の下には就けん。」
 どちらも我を張って譲らなかったので、隠公は臣下の羽父に裁定を命じた。そこで、羽父は薛候に言った。
「本日は騰候と共にお越しいただき、誠にありがとうございます。
 さて、席次の件ですが、『山の木は樵に選ばせ、客の作法は主人に選ばせる。』と、諺にもあります。どうか、当方の裁定にお任せ下さい。
 そもそも、周の一族では、異姓の者を後にするとゆう決まりがあるのです。もしも当方がそちら様へ参りました折りには、貴公方の一族である任姓の方々よりも下の席次に就きましょう。ですから、この場では、騰候へ席次を譲られますよう、何とぞお願い申し上げます。」
 薛候は承諾し、騰候の下へ就いた。

(博議)

 他人を説得する時には、非理曲直を主体に置く。それが世の中の通例である。しかし、私は一言言っておきたい。筋道の通った理屈は、確かに人を説得することができる。しかし、同様に諍いを起こす原因にもなるのだ。

 こう言うと否定する人が多いだろう。

「冗談じゃない。天下の理は筋道を糺すことにあるのだ。今、却ってそれが騒乱の元になると言う。納得できんぞ。」

 成る程判りにくいかも知れない。しかし、突っ込んで考えてみよう。
 自分の過失を聞いて喜ぶ人間は君子である。大半の人間は、自分の過失を指摘されると怒るものである。
 君子にとっては理屈と感情は一つだが、大半の人間にとっては理屈は理屈、感情は感情である。君子は理屈と感情が一つだから、話しているうちに自分の過失に納得すればそれ以上何も言わない。しかし、普通の人間は理屈で判っても感情が収まらずに更に口を出す。そうゆう訳で、正しい理屈は君子を説得させることができる。しかし、衆人と話す時、こちらが正しく相手が間違っているような場合にその正しさを振りかざして相手の過失を攻め立てれば、何で相手が恐れ入ってくれようか。相手は必ず屁理屈をこねて言い返し、言い負けてしまえば心中に不満を鬱屈させる。憤怒の心が生じれば、その禍は言葉にできないほど酷いものにもなりかねない。
 ところで、世の中には君子は滅多にいない。数が多いからこそ衆人と言うのだ。そうゆうわけで、理屈がその場を巧く収めることなど非常に稀で、大半の場合は理屈から諍いが起こってしまうのである。

もしもそのようなものだとすれば、道理に叶った言葉を言ってはならないのですか?

 いいや、これは正しさが悪いのではない。正しさを振りかざすのが悪いのだ。もしも道理を振りかざして相手を非難しなければ、どうして諍いが起こるだろうか。

 昔、騰候と薛候が魯へ来朝した。騰候は魯公と同姓だから、席次は当然薛候の上になるし、薛候は異姓だから謙るのが当たり前である。この二人が席次を争ったのだから、騰候が正しく薛候が横車を押していることは、魯の人間なら誰でも判っていた筈である。
ここで魯公が、もしも騰候の正しさを認め薛候の無茶を非難したらどうなっただろうか?多分、騰候は自分の正しさを拠り所に益々驕り、薛候は自分の不明を恥じて憤怒を益々募らせることになっただろう。そう、もしも魯公が正論を振りかざしたら、両国の争いを解くことができないばかりか、却ってこじれさせせてしまうに違いない。
 しかし、魯の隠公は正論を振りかざさなかった。羽父は婉曲な表現に終始して、結局、薛候の横車を非難しなかったのである。
「もしも当方がそちら様へ参りました折りには、貴公方の一族である任姓の方々よりも下の席次に就きましょう。ですから、この場では、騰候へ席次を譲られますよう、何とぞお願い申し上げます。」
 騒がず、迫らず、誇らず、揚がらず。この言い回しの、なんと腰の低いことか。そしてそう言われた時、薛候はどう思っただろうか?きっと次のように思ったことだろう。
゛主人がこのように謙遜されたのだから、客としてはどうするべきか?魯のような大国が下手に出ているのだから、我が国のような小国はどうするべきか?゛と。
 例え忿戻の思いがあったとしても、この言葉を耳にすれば、春風に吹かれるように、芳醇な酒に酔うように、陶然となっただろう。彼は、魯公の恭しさを見て騰候の傲慢を忘れ、魯公の謙遜を見て騰候の争心を忘れただろう。虐気驕色は雲散霧消し跡形もない。だからこそ、騰候の下位に甘んじることを薛候は承諾したのである。
 この過程と結果を見て、私は魯公を賞賛する。実に善い言葉を使われた。

 嗚呼、腰を低くして相手に屈服するとゆうのは、弱いように見える。他人を屈服させてふんぞり返るのは強いように見える。
凡そ、弱を恥じて強を喜ぶのが人情である。しかしこれでは、自分は相手を屈服させたがり、相手も又自分を屈服させたがっていることになる。
互いに強さを求めて謙らなかったら、諍いはいつ終わるのだろうか?
 隠公は尊い大国でありながら、卑しい小国に謙った。情けないほどに弱いように見える。しかし、たった一言で二国の争いを治めたのだ。その強いことは比類ない。
だから、強くなる為の方法は弱くなることから始まる。弱者への道は誇ることに始まる。強弱を忘れた者こそ、強弱の理を悟れるのだ。

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