造反  その他
 
   

 顕慶元年(656年)四月壬子、矩州の人謝無霊が挙兵して造反した。黔州都督李子和が討平する。 

  

 龍朔三年(663)五月、壬午。柳州蛮の呉君解が造反した。冀州長史劉伯英、右武衞将軍馮士羽(「歳/羽」)を派遣し、嶺南の兵を徴発して討伐させた。 

  

 弘道元年(683)綏州の歩落稽の白鐵余が、銅仏を地中に埋めた。しばらくすると草がその上へ生い茂ったが、その時、同郷の者へ言った。
「我は、ここで度々仏光を見るのだ。」
 そして日を選んで人々を集め掘り返したが、果たして仏を得た。そこで、鐵余は言った。
「聖仏が見つかった。百疾は全て快癒するぞ。」
 これが噂になり、遠近から人々がやってきた。鐵余は雑色の袋でこれを数十にも覆い、たくさんの施しを貰うと、袋を一つ取り外した。
 数年の間に、大勢の信者が帰心したので、遂に謀反を起こした。城平県を占拠し、光明聖皇帝と自称して百官を設置する。次いで綏徳・大斌の二州へ進攻して官吏を殺し、民の住居を焼き払った。
 右武衞将軍程務挺と夏州都督王方翼を派遣して、これを討伐する。
 三月甲申、その城を攻め抜き、鐵余を捕らえて、余党も悉く平定する。 

  

  

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