宗教
 
 永徽二年(651)七月癸巳、諸礼官の学士へ明堂の制度を議論するよう詔が降りた。高祖へ五天帝を配置し、太宗へ五人帝を配置する。 

 十一月。辛酉、上が南郊を祀った。 

 顕慶元年(656年)六月辛亥。礼官が奏上した。
「太祖、世祖の配祀をやめて、高祖は圜丘にて昊天を配し、太宗は明堂にて五帝を配してください。」
 上はこれに従った。 

 王玄策は天竺を破った後、方士の那羅邇娑婆寝を得て帰った。彼は、自ら長生の術を得ていると吹聴し、太宗はこれを信じ、深く礼敬を加えて長生薬を調合させた。四方へ使者を発して奇薬異石を求め、バラモンへ使者を出して諸国へ薬を取りに行かせた。
 だが、那羅邇娑婆寝の言葉は皆、迂誕無実で、ただ時間稼ぎをしているだけ。薬は遂に手に入らず、結局太宗は、彼を追い出した。
 上が即位すると、那羅邇娑婆寝は再び長安へやって来たが、上はこれを追い返した。
 この時、玄策は道王の友人となっていた。顕慶二年七月辛亥、玄策は上言した。 
「このバラモンは、長年薬を調合しており、必ずできると言っております。今追い返したのは、惜しむべき事です。」
 玄策が退出すると、上は侍臣へ言った。
「昔から、神仙なぞどこにいるか!秦の始皇帝や漢の武帝がこれを求めたが、民を疲弊させただけで何も手に入らなかった。もしも不死の人が居るのなら、彼等は今何処に住んでいるのだ!」
 李勣が言った。
「まこと、聖言の通りです。このバラモンは久しぶりに再来しましたが、顔はしわくちゃで髪は白くなり、以前とはずいぶん変わりました。何で長生ができるものですか!陛下がこれを追い返したので、内外は皆喜んでおります。」 

 八月己巳、礼官が上奏した。
「四郊で気を迎えるのは、太微五帝の祀です。南郊の明堂は緯書の六天の義に背いております。その方丘で地を祭る以外、別に神州があります。どうか、これを合わせて一祀としてください。」(かなり判りにくい文章です。どなたか翻訳してください。)
 これに従う。 

 二年、詔が降りた。
「今後、父母及び尊者の礼拝を受けていない僧尼は、法制によって禁止する。」 

 三年、正月戊子。長孫無忌等が新しい礼式を制定した。詔して中外にこれを施行させる。
 もともと、議者は貞観の礼節文が不完全であるとしたので、無忌等へ修正するよう命じていたのである。
 この時、許敬宗、李義府が実権を握っており、損益したものの多くは彼等の希望に沿っていたので、学者はこれを非難した。
 太常博士蕭楚材等は、凶事に預かることは、臣子が述べるべきではないとした。敬宗も義府もこれに得心し、遂に國恤一篇を焼き捨てた。これ以来、凶時の礼式が欠落してしまった。 

 四年六月。許敬宗が、封禅儀を議し、己巳、上奏した。
「高祖、太宗を共に上帝へ配し、太穆、文徳の二皇后を共に地に配して祀りましょう。」
 これに従う。 

 龍朔二年、(662)六月乙丑。始めて僧、尼、道士、女官へ父母を敬するように命じた。 

 同年、十月癸丑。四年の正月に泰山にて封禅をし、それに先だって来年二月に東都へ御幸すると、詔があった。
 十二月、戊申。高麗、百済討伐の詔が降りる。河北の民が征役で疲れきったので、泰山の封禅と東都御幸は共に中止となった。
 麟徳元年(664年)七月丁未朔、三年の正月に岱宗にて祀ると詔した。
 二年、十月癸丑。皇后が表した。
「封禅の旧儀では、皇を祭り地を祀り、太后が昭配しますが、公卿の行事については、まだその礼が完全に定まってはいません。その日が来たら、妾は内外の命婦を率いて酋献いたします。」
 詔が降りた。
「社首山の封禅は皇后を亜献とし、越国太妃燕氏を終献とする。」
 壬戌、詔した。
「封禅の壇所に上帝、后土の位を設ける。今までは藁、陶などを用いていたが、布団、罍(古代の酒かめ)爵を用いるよう改めよ。その諸郊祀もこれに準じる。」
 又、詔する。
「今後郊廟での享宴では、文舞は功成慶善の楽を武舞は神功破陣の楽を用いる。」
 丙寅、上は東都を発した。従駕や文武の儀杖は数百里続いた。原野に幕を置いて営とする。東は高麗から、西は波斯、鳥長諸国へ至るまで、朝会するものは各々その属の扈従を率い、テントや幔幕、牛羊駝馬が道を埋めた。
 この時、例年より豊作で、米は一斗五銭、麦、豆は市場に列ばなくなった。
 十一月戊子。上は濮陽へ至る。
 竇徳玄が騎馬で随従していた。上は問うた。
「濮陽を帝丘と言うが、何故かな?」
 徳玄は答えきれなかった。すると、許敬宗が後方から馬を踊らせて前へ来て、言った。
「むかし、ズイ項がここに住んでいたので、帝丘と言うのです。」
 上は善しと称した。敬宗が退くと、人へ言った。
「大臣は無学ではならない。我は徳玄が返答できないのを見て実に恥ずかしかった。」
 徳玄はこれを聞いて言った。
「人には各々長所短所がある。我は知ったかぶりはしない。これが我の長所だ。」
 李勣は言った。
「敬宗は多くのことを知っている。これは確かに美点だが、徳玄の言葉もまた善いな。」
 壽張の人張公藝は九世同居していた。斉も隋も唐も、皆、その門を旌表(扁額を掛けるなどして、礼教を守った者を表彰すること。)した。上は壽張を通過するとき、その宅へ御幸し、どうすれば共居することができるのか尋ねた。すると公藝は「忍」の字を百余書いて献上した。上はこれを善として、帛を賜った。
 十二月丙午。車駕が斉州へ到着した。十日留まる。
 丙辰、霊巖頓を出発して泰山の下へ到着した。役人は山南を円壇とし、山上を登封壇とし、社首山を降禅方壇とする。
 乾封元年(丙寅、666年)正月、戊申朔。上が泰山の南にて昊天上帝を祀った。
 己巳、泰山へ登り、玉牒を封じる。上帝へは玉匱で冊蔵し、配帝へは金匱で冊蔵する。皆、金縄を纏い、金泥を封じ、玉璽で印をし、石カンにしまう。
 庚午、社首にて降禅し、皇を祭り地を祀る。上の初献が終わると、執事は皆小走りに駆け下りた。宦官が帷を執り、皇后が壇を昇って亜献する。帷などは全て錦繍で作られていた。酒を酌み、爼豆を奉げ、歌を登らせる。これは皆宮人を使った。
 壬申、上は朝覲壇へ御して朝賀を受け、天下へ赦を下し、改元する。文武の三品以上は爵一等を賜り、四品以下は一階を加える。これまでは、階の貶加はなく、年功序列で五品から三品へ至って頭打ちになっていた。今回、初めて貶階が起こった。これから末年へ及び、緋を纏う者が朝廷に満ちることになる。
 この時の大赦は、長流人は対象外だった。李義府は、憂憤して病死する。義府が流されてからは、朝士は皆、彼が復帰することを憂えていたので、彼が卒したと聞いて、皆は安心した。
 丙戌、車駕が泰山を出発した。
 辛卯、曲阜へ到着する。孔子へ太師を贈り、少牢で祭りを執り行う。
 癸未、毫州へ到着し、老君廟へ謁した。上は老君を尊んで太上玄元皇帝と号した。
 丁丑、東都へ到着し、六日留まる。
 甲申、合璧宮へ御幸する。
 四月甲辰。京師へ到着し、太廟へ謁する。 

 二年、十二月甲午。詔が降りた。
「今後、昊天上帝、五帝、皇地祇、神州地祇を祀り、高祖と太宗を配して明堂にて昊天上帝、五帝と合祀する。」 

 総章元年(668)朝廷が議論していた明堂の制度がほぼ制定した。三月庚寅、天下へ赦を下して改元した。
 二年、三月丁亥、詔して明堂の制度を定める。
 その基礎は八觚で、宇は上円。清陽玉葉で覆った。その門牆の階級や窓のれんじ、かもい、柱、杭などは全て天地陰陽律暦の数に法った。
 詔が下った後も、衆議はなお続いた。そのうちに飢饉にあったので、遂に建造されなかった。 

 儀鳳元年(676)二月、天后が、中嶽で封禅するよう、上へ勧めた。
 癸未、祟山にて今冬封禅すると詔が降りる。
(訳者、曰)この時の封禅に関しては、行ったとも、中止されたとも、記載されていない。 

 十月丁酉。祖先を太廟へ合わせ祭った。太学博士史粲(「王/粲」)の建議を用い、帝(「示/帝」)の三年後に合(「示/合」)を行い、合の二年後に帝を行う。 

 二年、顕慶の新禮が古と違いすぎるので、その五禮と共に周禮にも基づいて事を行うよう詔が降りた。これ以来、禮官はますます基準が無くなり、臨時に選定するようになった。 

 調露元年(679)七月己卯朔、今年の冬祟山にて封禅をすると詔した。
 十月庚申、突厥が背いたので、祟山の封禅を中止すると詔した。 

 永淳元年(682)上は泰山で封禅をすると、次には□□(「五嶽」とゆう説がある。)にても封禅をしたくなった。
 秋、七月。祟山南に奉天宮を作る。すると、監察御史裏行の李善感が諫めた。
「陛下は泰山で封禅を行い、天へ太平を告げ、数多の瑞祥がやって来ました。三皇五帝にも列ぶ盛徳です。ですが、数年来五穀は稔らず餓死者が相継ぎ、四夷は次々と侵略して来て戦争の絶え間もありません。このような時期ですから、陛下は恭黙にて道を思い、禍を払うべきですのに、更に宮室を造営されました。労役は止まず、天下の人々は失望しております。臣は忝なくも国家の耳目の職を頂いておりますので、これを憂わずにはいられません!」
 上は諫言を納めなかったけれども、彼を大切にした。
 猪遂良、韓爰(「王/爰」)が死んで以来、中外は言葉を自主規制し、敢えて直諫する者はいなくなってから二十年が経った。善感が二十年ぶりに諫めたので、天下の人々は皆喜んで、これを「鳳凰が朝陽に鳴いた」と言った。
 弘道元年(683)七月庚辰、今年十月に祟山にて封禅を行うと詔したが、次いで上の病気で来年正月まで延期となった。
 八月己丑、祟山にて封禅する為に、太子を東都へ呼び寄せた。唐昌王重福を留めて京師を守らせ、劉仁軌をその副官とする。
 十月己卯、太子が東都へ到着した。
 十一月丙戌、来年の祟山での封禅を中止すると詔する。上の病気が重篤になった為である。

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