高宗即位
 
  

貞観十七年(癸卯、643年)、四月。皇太子承乾の造反が発覚した。紆余曲折を経て、皇子治が皇太子に立てられた。詳細は、「皇太子の乱」へ記載する。
 己丑、長孫無忌を太子太師、房玄齢を太傅、蕭禹を太保、李世勣を・事として、禹と世勣は併せて同中書門下三品とするよう詔が降りた。同中書門下三品は、これから始まった。
 また、左衞大将軍李大亮を領右衞率、前の・事于志寧、中書侍郎馬周を左庶子、吏部侍郎蘇助(「日/助」)、中書舎人高李輔を右庶子、刑部侍郎張行成を少・事に、諫議大夫猪遂良を賓客とした。
 李世勣がかつて病気になった時、「髭の灰が良く効く。」と処方された。すると上は、自らの髭を切って、これで薬を作った。李世勣は、出血するほど頓首して泣いて感謝したが、上は言った。
「社稷の為にしたのだ。卿の為にしたのではない。何でそこまで感謝するのか!」
 世勣がかつて宴会に参加していた時、上はくつろいだ様で言った。
「朕は、群臣の中に我が子を託せる者を探したが、公以上の者はいない。公はかつて李密に背かなかった。どうして朕へ背こうか!」
 世勣は泣きじゃくって辞謝し、指を囓って出した血を酒へ入れてのみ、酔いつぶれた。上は、自分の服を脱いで、その体へかぶせてやった。
 庚子、太子の、見三師の儀式を定める。
 太子は殿門外にて三師を迎える。まず太子が拝礼し、三師が答礼する。殿へ入るまでは、門毎に三師へ譲る。三師が坐れば太子も座る。太子が三師へ渡す書には名前の前後に「惶恐」と記載する。
  五月、黄門侍郎劉自が上言した。その大意は、
「太子は学問を勧め、師友に親しませましょう。今、太子は宮殿内へ入侍しますと、ややもすれば十日も一月も働きづめで、師保以下の人々との対面が、ほとんどできません。伏してお願い申し上げます。どうか下々を愛する想いを少し抑えて、遠大な人格を広められましたら、海内の幸いでございます!」
 上は自と岑文本、猪遂良、馬周へ交代で東宮へ詣で、太子と楽しく談論するよう命じた。
 六月、己卯朔、日食が起こった。 

 閏月、辛亥。上が侍臣へ言った。
「朕は皇太子を立ててから、事に触れるごとに太子を諭している。飯を見れば、言う。『汝が稼穡の艱難を知れば、いつでもこの飯が手に入るのだ。』乗馬を見れば、言う。『汝がその労逸を知り、労力以上にこき使ったりしなければ、いつでもこれに乗ることが出来るのだ。』その乗舟を見れば、言う。『水は舟を載せるが、また、舟を覆すのも水だ。民は水のようなもの。そして主君は舟なのだ。』木の下で休んだら、言う。『木も、縄で矯正しなければ真っ直ぐにはならない。君主も、諫言に従えばこそ聖人になれるのだ。』」
 丁巳、太子へ左、右屯営兵馬事を管轄させ、その大将軍以下は皆、太子の指揮下へ入るよう詔が降りた。 

 十一月、良家の女を選んで東宮へ入れるよう敕がくだった。
 癸巳、太子は左庶子于志寧を派遣して、これを辞退した。上は言う。
「吾は、微賎生まれの子孫を持ちたくなかったのだ。だが、今、辞退されたからは、思う通りにやりなさい。」 

 十八年、四月。上が両儀殿へ御し、皇太子が侍った。上は群臣へ言った。
「太子の人格挙動は、外人へ知られているか?」
 司徒無忌が言った。
「太子は宮門を出ていませんが、天下には聖徳を欽仰しないものはおりません。」
 上は言った。
「吾は治の年には鹿爪らしいことが苦手だった。治は幼い頃から寛大温厚だ。諺にも、『狼を生んで、なお羊のようだと恐れる。』と言う。太子が成長して変わってくれることを願うばかりだ。」
 無忌が言った。
「陛下の神武は乱に発揮される才覚です。太子の仁恕は実に守文の徳です。趣は異なりますが、各々その分に当たります。これこそ、皇天が大唐の民へ福を与える祥瑞でございます。」
(胡三省、曰く。無忌はここまで太子を保護した。それなのに、後になって、元舅の親でありながら、婦人から間され、その身も家も保てなかった。そのうえ、唐も滅亡寸前まで行ったのだ。これでは太子は寛厚とは言えない。これは闇弱と言うのだ。) 

 十九年、上が朝鮮へ親征した。正月乙卯、詔が降りる。
「朕が定州を出発した後は、太子を監国とせよ。」
 太子は、高士廉を同じ寝椅子へ引き入れて政務を執った。また、士廉を設案へ変えようとしたが、士廉は固辞した。
 上は遠征からの帰路、非常に悪性のできものができたので、御歩輦にて進んだ。十二月戌申、車駕は并州へ到着した。太子は、上のできものの膿を吸い取り、数日間、歩輦を助けて進んだ。辛亥、上の病が癒えた。百官は皆祝賀した。
 二十年、三月。車駕は京師へ還った。だが、上の病気は完治していなかったので、保養に専念することにした。
 庚午、軍国の機密の決裁を太子に委ねると、詔した。ここに於いて太子は、日中は東宮にて政務を執り、それが終わってからは上の側で薬膳の世話をして、片時も離れなかった。上が太子へ、暫く外へ出て遊んでくるよう命じても、太子は外へ出ることを願わなかった。そこで上は寝殿のそばに別院を設置して、太子をそこへ起居させた。
 猪遂良が、旬日に一度は太子を東宮へ帰し、師傅から道義を教わるように請願し、これに従った。
 かつて、上が未央宮へ御幸したとき、辟杖(前触れの兵士へ、露払いさせること)しながら進んでいると、帯刀した男が草むらの中に隠れているのを見つけた。上が詰ると、彼は言った。
「辟杖が来たのが聞こえたので、恐くて隠れ、見つからないように動かなかったのです。」
 上は引き返すと太子へ言った。
「この事を糾明したら、数人が死罪になる。汝は、すぐに逃がしてやれ。」 

 四月、甲子、太子太保蕭禹の太保を解任したが、同中書門下三品は従来通りとした。 

 九月、薛延陀を滅ぼしたので、上は霊州まで御幸した。
 十月、己丑。車駕が京師へ還る。
 上は霊州への往還で寒さにやられ疲労もし、今年いっぱいは保養に専念したくなった。十一月乙丑。祭祀、表疏、胡客、宿衞、行魚契給駅、五品以上の授官及び除解、死罪の決定については上聞し、それ以外は全て皇太子へ決裁させるよう詔が降りた。。 

  二十一年、二月丁丑、太子が国学にて使者への礼を講釈した。
  九月己丑、斉州の住人段志沖が上封し、上が政務を皇太子へ委ねるよう請願した。太子はこれを聞くと憂いが顔に現れ、口を開くと涙が零れた。
 長孫無忌等が、志沖を誅殺するよう請うと、上は自ら詔を降ろした。
「五岳に雲が懸かり、四海は土に連なる。汚れを納め疾を蔵しても、それらの高さや深さを損なわない。志沖は匹夫の身でありながら天子を退位させようとしたが、朕にもしも罪があるのなら彼は剛直なのだ。朕が無罪なら、彼は狂人だ。一尺の霧が天にかかったとて、天の広大さを汚せはしない。寸雲が日の前にあろうとも、なんで明が損なわれようか!」 

 二十二年、十二月庚午。太子が文徳皇后の為に大慈恩寺を造っていたのが、落成した。 

 二十二年の冬は旱だったが、二十三年三月に至って始めて雨が降った。
 辛酉、上は病をおして顕道門外まで出て、天下へ赦を下した。
 丁卯、太子が金液門にて政治を執るよう敕した。 

 上の病状は益々ひどくなった。
 太子は昼夜側を離れない。数日食事を摂らない時もあり、頭には白髪も混じり始めた。上は、泣いて言った。
「汝がそんなに孝養を尽くしてくれるから、もう死んでも恨みはないぞ!」
 丁卯、病が篤く、長孫無忌を含風殿へ召し入れた。上は伏したまま無忌の顎へ手を差し出した。無忌は悲しさに耐えきれずに哭く。上は、遂に何も言えなかったので、無忌を退出させた。
 己巳、再び無忌と猪遂良を部屋へ召し入れ、言った。
「朕は今、後事を全て公輩へ託す。公輩も知っているように、太子は孝仁だ。これを善く輔導してくれ!」
 そして、太子へ言った。
「無忌と遂良がいれば、汝は天下に憂いがないぞ!」
 また、遂良へ言った。
「無忌は我へ忠節をつくした。我が天下を取れたのも、彼の助力が大きい。我が死んでも、讒言で疑ったりするな。」
 そして、遂良へ遺詔を書かせた。
 しばらくして、上は崩御した。(享年53歳)
 太子は、無忌の首を抱いて気絶するほど慟哭した。無忌は抱きかかえて、内外を安心させる為の衆事の処理を請うた。太子は哀号を止めなかったので、無忌は言った。
「衆生は、宗廟社稷を殿下へ託されたのです。なんで匹夫のように泣き濡れていて良いでしょうか!」
 そして、喪を秘して発しなかった。
 庚午、無忌等は太子が先に宮殿へ還るよう請うた。飛騎、勁兵及び旧将が皆、これに従った。
 辛未、太子が京城へ入った。大行の馬輿や侍衞はいつも通りだった。続いて太子が到着し、両儀殿へ入った。太子左庶子于士寧を侍中とし、少・事張行成へ侍中を兼務させ、検校刑部尚書、右庶子、兼吏部侍郎高李輔へ中書令を兼務させた。
 壬申、太極殿で喪を発し、遺詔を宣して太子が即位した。軍国の大事は停止することは出来ないが、平常の細務は係の役人へ一任する。
 遼東の役と諸々の土木工事を中止する。
 四夷から朝廷へ入っている者や、朝貢に来ている者が総勢数百人いたが、皆、喪を聞いて慟哭した。哀しみのあまり、あるものは髪を切り、顔を傷つけ、耳を切り落としたので、彼等の流血が地を染めた。
 六月、高宗が即位して、天下へ赦を下した。 

 丁丑、畳州都督李勣を特進、洛州刺史、洛陽宮留守とした。(ここで始めて、李世勣が李勣となった。太宗の名前を避けて、「世」の字を取り去ったのだ。)
 話は前後するが、太宗は名前が二字だったので、「世民」と二字が繋がっていなければ、名前を避けなくてもかまわない、と令していた。ここにいたって、先帝の名前を犯している官名は全て改めた。
(訳者、曰く。李世勣が、その名から「世」を削除したのは、見え見えの追従だ。太宗は崩御する間際、李世勣へ疑惑を抱いた。(「貞観の治 その六」参照)彼としては、身の危険を感じた挙げ句、ここに至ったのかも知れない。太宗が生きているうちに申し出たら、太宗としては却下するしかないだろうから、崩御の直後に請願したのは、時宜を得ていたと言える。しかし、そのおかげで、「世」の字が避けられるようになってしまったのだ。) 

 癸未、長孫無忌を太尉として、検校中書令、知尚書・門下二省事と兼任させた。しかし無忌が知尚書事を固辞したので、帝は許し、太尉同中書門下三品とした。
 癸巳、李勣を開府儀同三司、同中書門下三品とした。
 九月、乙卯。李勣を左僕射とする。 

 阿史那社爾がクシャを破ると、行軍長史節萬備は兵威で于眞王伏闍信を入朝させるよう請い、社爾はこれに従った。
 秋、七月、己酉。伏闍信が萬備に従って入朝した。詔して梓宮にて謁見する。 

 八月、癸酉、夜、地震が起こった。晋州が最も激しく、五千余人が死んだ。 

 庚寅、文皇帝を昭陵に葬った。阿史那社爾と契必何力は殉死して陵へ併葬されることを請願した。上は使者を派遣して、先帝の旨で諭し、許さなかった。
 頡利可汗を初め、先帝に捕らえられた蛮夷の君長十四人は、皆、石を磨いて像を造り、北司馬門内へ名を刻んだ。
 丁酉、礼部尚書許敬宗が弘農府君の廟を壊し、西夾室へしまうよう上奏した。これに従う。(弘農君府は魏の弘農太守重耳。高宗の七世の祖である。太廟には東西に夾室が併設されている。) 

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