風俗
 
 貞観二十三年(649)十月乙亥、上は大理卿唐臨へ投獄されている囚人の数を問うた。臨は答えた。
「五十余人です。死んだのは二人だけです。」
 上は悦んだ。
 上は、かつてかつて囚人を見回ったところ、前任の大理卿から投獄された囚人達の大半が冤罪だと言い立てていたのに、臨から投獄された囚人と一人も冤罪を訴えなかった。上が怪しんで理由を尋ねると、囚人は答えた。
「唐卿の裁判に冤罪はありません。」
 上は暫く感嘆した後、言った。
「彼以上の裁判官はいない!」 

 永徽元年(650)、正月。太宗の娘衡山公主が長孫氏へ嫁ぐのに、既に服喪は終わったと天下に公表しているので今秋にでも成婚させたい、と、役人が上奏した。すると、于志寧が上言した。
「漢の文帝は、天下の百姓を本にして制度を立てました。公主の服喪の期間は次第に短くなっております。服喪は慣例に従って終わるものであり、心情に従って慣例を改めてはなりません。どうか三年待って喪が終わってから成婚させてください。」
 上は、これに従った。 

 九月己未、監察御史の陽武の韋思謙が、”中書令猪遂良が中書の通訳の土地を買い叩いた”と弾劾した。大理少卿の張叡冊は、見積もりに基づいたと判断し無罪とした。だが、思謙は上奏した。
「国家の必要に備える為に、見積もりが設定されているのです。臣下の交易が、どうして見積価格に準じられましょうか!叡冊の判決文は下とグルになって上をめくらますものです。誅するべきです。」
 この日、遂良は同州刺史へ、叡冊は循州刺史へ左遷された。
 思謙の名は仁約。だが、字の方が有名である。 

 金州刺史王元嬰は驕奢放縦。無節操に狩猟をして、屡々夜中に城門を開ける有様。百姓は疲れ果てた。或いは、弾き弓で人を撃ったり、雪の中へ人を埋めて戯笑した。
 二年四月、上は書を賜下して切にこれをたしなめ、かつ、言った。
「立派な人間をこそ手本とするべきだ。晋の霊王は荒君、何で手本とするに足りようか!王は朕の至親だから、法で処罰するに忍びない。今、書を王へ下し、王の心に愧を思わせよう。」
 元嬰と蒋王ツは、共に金をかき集めるのが好きだった。上は嘗て諸王へ各々帛五百段を賜下したが、ただこの二王へは渡さず、敕して言った。
叔と蒋兄は切り盛り上手だから、賜物の必要はない。車二台分の麻を給付するから、これを銭を貫く紐としなさい。」
 二王は大いに恥じ入った。 

 閏月、長孫無忌等が策定した律令式を上納した。
 甲戌、これを四方へ頒布する。 

 十一月癸酉、詔した。
「今後、京官や外州で鷹や隼や犬馬を献上する者がいれば、これを罰する。」 

 三年七月丁丑、上は戸部尚書高履行へ問うた。
「去年の戸数の増減はどうか?」
 履行は答えた。
「去年は十五万増えました。」
 そこで、隋代と今日の戸数を比べさせると、履行は上奏した。
「隋の開皇年間は八百七十万戸でしたが、今は三百八十万戸です。」
 履行は、士廉の子息である。 

 五年は大豊作で、洛州の粟米は一斗が二銭半で、うるち米は一斗十一銭だった。 

 顕慶元年(656年)九月、括州で暴風が起こり、海が溢れて四千余家が流された。 

 話は遡るが、山東の士人は自分の家格に驕り、婚姻では沢山の資財を責め取っていた。太宗はこれを疾み、氏族志を編修させ、彼等の格を一等降格させ、王妃や主婿は皆勲臣の家から取り、山東の族は議しなかった。
 しかし魏徴、房玄齢、李勣等の一族は皆、山東の士と通婚して常にこれを助けたので、旧家の名望は衰えるところか、或いは一姓の中で”某は房、某は眷”と更に分けて高下が懸け隔たるような有様となってしまった。
 さて、李義府はかつて山東の子と通婚を求めて断られたので、これを恨み、先帝の旨を言い立てて、その弊害を矯正するよう上へ勧めた。
 四年、十月壬戌、後魏の隴西の李寶、太原の王瓊、栄陽の鄭温、范陽の盧子遷、盧渾、盧輔、清河の崔宗伯、崔元孫、前燕の博陵の崔懿、晋の趙郡の李楷等の子孫はかってに婚姻してはならないと詔した。また、娘を嫁へやる時の結納金を天下へ規定し、家門の高い者が多額を受け取ることを禁じた。
 だが、族望は時の人々から尚ばれていたので、遂に禁じきれなかった。ある者は娘を載せてこっそりと夫の家へ送ったり、あるいは娘が年老いても嫁にやらずに遂に異姓と婚姻させなかったりした。家門が衰えて系図があやふやになってしまった者は、往々にして却って婚姻を禁じられた家柄だと自称し、ますます多くの結納金をせしめる有様だった。 

 麟徳元二年(665)傅仁均の戊寅暦と季節とのズレが次第に大きくなってきたので、秘閣郎中李淳風が劉卓(「火/卓」)の皇極暦を増損して麟徳暦を選定した。
 五月、辛卯、これを施行する。 

 乾封元年(666)正月、封禅を行う。詳細は「宗教」に記載する。 

 五月庚寅。乾封泉寶銭を鋳造した。それ一枚が十銭に相当し、一年の猶予で旧銭を悉く廃止する予定となっていた。しかし、乾封泉寶銭が流布されてから、穀帛の価格が騰貴し、商売が滞るようになった。
 二年正月癸未、これを廃止するよう詔が降りる。 

 総章元年(668)、京師及び山東、江、淮で旱が起こり、飢饉となった。
 二年、九月庚寅、大風で海が溢れ、永嘉、安固の六千余家が流された。 

 この頃は太平が久しく、選人はますます多くなった。この年、司列少常伯裴行倹が員外郎張仁韋(「示/韋」)と、始めて長名姓歴傍(ほんとうは片偏)、引銓注の法を設ける。また、州県の升降、官資の高下を定めた。これはその後、遂に永制となり、改革できる者が居なかった。
 大略、唐の選法は、身、言、書、判で人を取り、資質や功労を計って官を決定する。最初に集めて試験をする。これは、その書と判を観る。試験が終われば、その身、言を察する。これを銓と言う。銓が終われば、その能力にあった役職を選ぶ。これを注と言う。注が終われば衆を集めて告知する。これを唱と言う。その後、これを甲としてまず僕射が考課して門下へ上げ、給事中が読み、侍郎省、侍中がこれを審じ、不当な者は却下する。この審判がすんだ後、上聞する。主は旨を受けて奉行し、各々へ割符を給付する。これを告身と言う。
 兵部の選出も同様である。課試の方法としては騎射、翹関、負米がある。
 資質の限界で出世できない者には、宏詞とゆう三篇の試文と抜萃とゆう三篇の試判がある。これに入選した者は、限度なく出世できる。
 黔中、嶺南、虫(「門/虫」)中の州県の官吏は、吏部の管轄外で、都督が土人を選んで官職を授ける。
 およそ官に就いている者は毎年考課があり、六品以下は四回の考課で満期となる。 

 咸亨元年(670)三月、甲戌朔。旱が起こったので、天下へ赦を降し、改元する。
 この年、関中が旱害のせいで飢饉となった。 

 四年三月丙申。劉仁軌等へ国史を改修するよう詔する。許敬宗等の記載に虚偽が多かった為である。 

 七月、務州で大水が起こり、五千人が溺死した。 

 開輝元年(681)七月、夏州群牧使安元壽が上奏した。
「調露元年九月以来、馬十八万余匹を失い、監牧吏は八百人が虜に殺掠されました。」 

 永淳元年(682)五月、東都に長雨が降った。
 乙卯、洛水が溢れて民の住居千余家が水浸しとなった。
 関中は、先は水害で後に旱害、蝗害と続き、更に疾疫が追い打ちをかけ、米が一斗で四百銭にもなった。両京の間には、死者が道を埋め、人々は人肉まで食べるようになった。 

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