竇建徳    その三
 
 武徳四年、三月、唐軍が洛陽を包囲した。
 竇建徳は、その将范願に曹州を守らせると、孟海公と徐圓朗の手勢を総動員して洛陽救援に向かわせた。滑州へ至ると、王世充の行台僕射韓洪が城門を開いて迎え入れた。己卯、酸棗に陣を布く。
 竇建徳が管州を陥して刺史の郭士安を殺す。また、栄陽県、陽擢(ほんとうは、手偏がありません)県等を陥し、水陸から並進する。兵糧は舟で運び、河をさかのぼって西進した。
 王世充の弟徐州行台世弁は、その将郭士衡へ数千の兵を与えて派遣し、竇建徳と合流させた。これによって、その兵力は十余万となったが、三十万と号する。成皋の東原へ陣取り、板渚に宮を築き、王世充へ使者を派遣して軍情を伝えた。
 これ以前に、建徳は秦王世民へ書を遣り、占領した鄭の領土を返還して軍を潼関まで撤退し以前の修好を復興するよう請願していた。世民は将佐を集めて軍議を開いた。皆は一旦退くよう請うたが、郭孝恪は言った。
「世充は追い詰められて捕縛寸前だ。そこへ建徳が遠方から救助に駆けつけてきたのは、天が両方とも滅ぼそうとしているのだ。武牢関(唐では虎が諱となっているので、虎牢関のことを武牢関と言った。)の険に據ってこれを拒み、敵の隙を見て動けば、必ず撃破できる。」
 記室の薛収は言った。
「世充は東都に保據しています。府庫には財宝が満ちておりますし、麾下の兵卒達は皆江・淮の精鋭です。今日の奴等の急所は、ただ、糧食が不足していることだけです。ですから、我等が持久戦に出て戦わなければ、奴等は長く持ちません。建徳は、自ら大軍を率いて遠方から駆けつけました。その兵卒も、又選りすぐりの精鋭達です。彼等をここまで来させて、河北の兵糧を洛陽へ運び込ませれば、彼等は勢いを盛り返し、天下平定はいつのことになるか判りません。今は、兵を分けて一隊は洛陽を守り、溝を深く塁を高くし、世充が出兵しても戦わないことです。大王は驍騎を率いてまず成皋へ據ってください。そして兵卒達を鍛錬しながら、敵が来るのを待つのです。逸を以て労を待てば、必ず勝てます。建徳を破ったら、世充は二旬を過ぎないうちに自ら降ります。これで両首を捕縛できますぞ!」
 世民は、これを善しとした。収は、道衡の子息である。
 蕭禹(「王/禹」)、屈突通、封徳彝は、皆、言った。
「我が軍は疲弊しており、世充は堅城を頼んで守っております。なかなか抜くことはできません。建徳は怒濤の如く迫っており、その意気は盛ん。我等は、腹背に敵を受けるのは得策ではありません。ここは新安まで撤退して奴等が疲れるのを待つべきです。」
 すると、世民は言った。
「世充軍は食糧が尽きて上下が離間している。力攻めをしなくても、座して勝ちを得られる。建徳は、海公を破ったばかり。将は驕り兵卒は疲れている。我等は武牢に據って、その喉元を締め上げてやろう。奴等がもしも険を犯して攻めてきたら、我等は簡単に撃破できる。もし、躊躇して戦わなければ、旬月のうちに世充は自潰してしまう。城を破れば、兵は強くなり、気勢は倍増する。この手ならば、一挙に両勝できる。もしもグズグズして賊軍が武牢へ入ったら、新参の諸城は絶対に守れない。両賊が力を合わせれば、その勢力は強くなるぞ。何で奴等が疲れようか!我が計略は決まった!」
 通等は包囲を解いて険に據り状況の変わるのを観望するよう再び請うたが、世民は許さなかった。麾下を二つに分け、通等を斉王元吉の副官として東都を包囲させ、世民は驍勇三千五百人を率いて武牢へ向かった。正午に出兵して北亡(「亡/里」)、河陽を経て鞏の彼方へ去る。王世充は、城へ登って望見したが、打つ手が無く、結局出兵しなかった。
 癸未、世民は武牢へ入る。
 甲申、世民は驍騎五百を率いて武牢の東方二十里へ出て、建徳の陣営を窺った。道毎に兵卒を分けて留め、李世勣、程知節、秦叔寶らへそれぞれを指揮して伏兵とさせた。こうして兵卒が減っていったので、最期には、わずか四騎となった。
 世民は尉遅敬徳へ言った。
「我が弓矢を執り、公が槊を執って共に進むのだ。百万の大軍でも何もできんぞ!」
 また、言った。
「賊が我等に会ったなら、逃げ帰るのが上策だ。」
 建徳の陣営から三里ほど離れたところで、建徳の遊兵と遭遇した。彼等が斥候と思ったところ、世民は大呼した。
「われは秦王なり。」
 弓を引いて、これを射ると、一将が射殺された。
 建徳の軍中は大いに驚き、五・六千騎を出して追撃させた。世民の従者は顔色を失った。すると、世民は言った。
「お前達は先へ行け。われと敬徳が殿となろう。」
 そして、轡を押さえて徐行した。追撃者が追いつきそうになると、世民等は弓を引いて射た。すると、たちまち一人が死んだ。追撃者は懼れて止まったが、しばらくすると、また追撃を始めた。こんな事が再三起こったが、彼等が近づくたびに、必ず誰か射殺された。世民は、合計数人射殺し、敬徳は十人ばかり殺した。そこまでくると、追撃者はもう敢えて近づこうとしなくなった。すると世民はゆっくりと歩き廻って、遂に伏兵の圏内まで誘い込んだ。そこで世勣等が襲撃して、敵を大いに破った。三百余の首級を挙げ、驍将の殷秋、石贊(「王/贊」)を捕らえて帰った。そして、建徳へ書を出して諭した。
「趙、魏の土地は、長い間我が領有していたのに、足下に侵奪されてしまった。ただ、捕虜とした淮安王を礼遇してくれたし公主も返してくれたので、怨みを解いて修好したのだ。世充はかつて足下と修好したが、後に反覆した。今、世充は滅亡が朝夕に迫っているので、言葉を飾って足下の三軍を誘ったのだ。死にかけた他人の為に千金の費をドブに棄てるのは、上策ではない。今、我等が前哨戦をやっている間にも、彼は崩壊するだろう。近郊での盟約の労が結べなくても、恥じることはない。ここで我等の請願に従って矛を収めるがよい。もし、これに従わなければ、悔いても及ばないことになるぞ。」 

 竇建徳は、武牢へ迫ったが進軍できないままに数カ月経った。戦っても旗色が悪く、将士は帰りたがった。
 丁巳、秦王世民は王君廓へ軽騎千余を与えて敵の輜重隊を攻撃させた。君廓はこれを撃破し、その大将軍張青特を捕らえた。
 凌敬が建徳へ言った。
「私に策があります。大王は全軍を挙げて黄河を渡り、壊州や河陽を攻め取るのです。そして重将へこれを守らせましょう。更に軍鼓を鳴らし旌旗を並べ、太行を越えて上党へ入り、汾・晋から蒲津へ行くのです。このようにすれば、三つの利点があります。一つは、無人の地域を踏破するので必勝間違いありません。二つには、領土は広まり領民は増えるので形勢はますます強くなること。三つには、関中が震駭し、鄭の包囲はおのずと解けてしまうこと。 現状では、これ以外の策はありません。」
 建徳はこれに従おうとしたが、王世充の使者が相継いでやって来る。王宛(「王/宛」)や長孫安世は朝夕涕泣し、洛陽救援を乞うた。また、建徳の諸将へ密かに金玉を贈り、彼等の意見を一致させた。諸将は、皆、言った。
「凌敬は書生。なんで戦争のことを知っていますか。そんな言葉が、何で役に立ちましょうか!」
 そこで、建徳は凌敬へ謝った。
「今、衆の戦意は高い。天の助けだ。これを資けに戦えば、必ず大勝利だ。公の提言には従えんよ。」
 しかし、敬は固く争ったので、建徳は怒り、つまみ出させた。
 建徳の妻の曹氏が建徳へ言った。
「祭酒の言葉に違えてはなりません(凌敬は、国子祭酒)。今、大王は釜口から唐国の不意に乗じて攻め込み、陣営を連ねて漸進して山北を取るのです。更に突厥を関中へ暴れ込ませれば、唐は必ず都の救援の為に軍を退きます。鄭の包囲は解けないはずがありません!しかし、もしもここに屯営するならば、兵卒は疲れ財産は消耗します。成功を求めても、いつ成就しますか?」
 建徳は言った。
「女子供は口出しするな!我は鄭の救援に来た。鄭は滅亡寸前だ。我がこれを棄てて去れば、これは敵を畏れて信義を棄てたとゆうことだ。そんなことはできぬ。」
 片や唐軍では、間者が秦王世民へ告げた。
「建徳は唐軍を伺っているうちにまぐさが尽きました。河北にて馬を養って武牢を襲撃するもようです。」
 五月、戊午。世民は北進して黄河を渡り、廣武を南から臨んだ。敵の形勢を察すると、馬千余匹を留め、これを河渚にて放牧して敵を誘い、夕方に武牢へ帰った。
 己未、建徳は果たして総出動してきた。板渚から牛口へ出て陣を布く。北は大河を隔て、西は水へ迫り、南は鵲山まで連なる。二十里に亘って軍鼓を鳴らして行進した。
 諸将は皆懼れたが、世民は数騎を率いて高みへ登ってこれを望み、諸将へ言った。
「賊は山東で決起してから、今まで大敵と当たらなかった。今回、その行軍はガヤガヤと騒がしい。これは規律がないのだ。城へ迫って陣を布いたのは、我等を軽く見ているのだ。我等が出撃を我慢すれば、奴等の戦意も衰えて行くし、長く陣を布けば兵卒は餓えて退却して行く。そこを追撃すれば、必ず勝てる。公等へ約束するぞ。今日中に必ず撃破するぞ!」
 建徳は、唐軍を軽く見ており、三百騎に水を渡らせて、唐の陣営から一里の所で止めさせた。そして、使者を派遣して世民へ伝えた。
「精鋭数百人を選んで決闘しよう。」
 世民は、王君廓へ長槊の名手二百人を与えて応戦させた。両軍は交戦したが、一進一退で勝負がつかずに痛み分けした。
 すると、建徳軍から王宛が飛び出した。隋の煬帝の名馬に乗り、鎧も武器も鮮やかで、陣の前にて威容を誇る。それを見て、世民は言った。
「彼の乗馬は、真の良馬だ!」
 尉遅敬徳が、行って馬を奪ってこようと請うたが、世民は止めた。
「たかが馬の為に猛士を失うなど、とんでもないぞ。」
 だが、敬徳は従わず、高甑生、梁建方の三騎と共に敵陣へ駆けつけ、宛を捕らえ馬を引いて馳せ帰った。敵兵には、相手できる者が居なかった。
 世民は、河北の馬を集めさせた。戦闘が始まるまで、陣で待機させる為だ。
 建徳が陣を布いたのは辰の刻。それが午の刻になると、士卒も飢えと疲れで座り込んだ。また、争って水を飲み、フラフラ歩いて退却したがり始めた。
 世民は、宇文士及へ三百騎を与えて建徳の陣の西側から南へ回り込むよう命じ、戒めて言った。
「賊軍がもしも動かなければ、そのまま引き返せ。もしも動いたら、兵を率いて東へ進め。」

 士及が敵陣の前へ行くと、果たして敵は動いた。
 世民は言った。
「撃て!」
 折しも河渚で放牧していた馬が到着したので、そのまま戦いへ駆り出した。
 世民は軽騎を率いて真っ先に進み、大軍がこれに続いた。東進して水を渡り、敵陣を直撃する。
 敵軍の群臣が、建徳へ朝謁していたところへ、唐の騎兵が突撃してきた。特に朝臣等は一気に建徳を急襲する。建徳は、騎兵を召集して唐軍を防がせた。朝臣達は、騎兵に阻まれて前進できない。建徳は、騎兵を指揮してこれを撃退しようとした。だが、揉み合っているうちに唐の本隊が到着した。建徳は切羽詰まり、退いて東陂へ依った。竇抗がこれを攻撃したが、ちょっと押され気味だった。そこへ、世民が騎兵を率いて駆けつける。彼が進むところ、敵は総崩れとなった。
 淮陽王道玄が、身を挺して敵陣を落とした。彼は、敵陣へ何度も突撃しては飛び出し、又突撃した。そのたびに矢が集まって、彼の全身に針鼠のように突き刺さったが、勇気は衰えない。道玄が弓を射ると、その弦音に応じて敵兵が倒れた。世民は、彼へ副馬を与えて自分に従わせた。
 ここにおいて両軍は大いに戦い、塵や埃が天まで舞い上がった。
 世民は史大奈、程知節、秦叔寶、宇文音(「音/欠」)羅を率い、旗を巻いて敵陣へ突入した。そして敵の陣の後方へ出ると、唐の旌旗をはためかせた。建徳の将士はこれを見て大いに潰れた。唐軍はこれを三十里追撃して、三千余の首級を挙げた。
 建徳は、槊に当たって負傷し牛口渚へ逃げ込んだが、車騎将軍白士譲と楊武威が追撃した。建徳が落馬すると、士譲は槊で刺し殺そうとしたが、建徳は言った。
「我を殺すな。我は夏王だ。お前へ高い地位をやろう。」
 しかし武威は、部下に命じて捕らえさせると、従馬へ載せて世民の元へ連れていった。
 世民は、建徳を詰って言った。
「我が王世充を討伐するのに、汝と何の関わりがある。それなのに、なんで国境を越えて我が軍と戦ったのか!」
 すると建徳は言った。
「今、こちらが来なければ、いずれ遠征を受けることになるからだ。」
 建徳の将士は、全て逃散した。五万人を捕らえたが、世民は即日解放して故郷へ帰らせた。
 封徳彝が祝賀にやってくると、世民は笑って言った。
「公の提言を用いなかったおかげで、この戦果が挙がった。智者でも、千慮に一失は免れないな。」
 徳彝はとても恥じ入った。
 建徳の妻曹氏と左僕射斉善行は数百騎を率いて名州へ逃げ帰った。 

 壬申、斉善行が洛・相・魏等の州を率いて唐へ来降した。
 この頃、建徳の残党達は、「名州へ逃げ込んで建徳の子息を盟主に立て徴兵して唐を拒ごう」と考えたり、「住民から略奪して海の片隅へ向かい、盗賊となろう」と考えたりしていた。ただ善行だけはこれらを不可として、言った。
「隋末に動乱の時代となった。だから我等は生きて行く為に草野から集まったのだ。夏王の英武のおかげで河朔を平定し、士馬は精強だったのに、それが一朝にして捕虜になってしまった。これは天命の帰属するところが決まったのではないか。いま、敗北してこれだけ喪ってしまった。守っても守りきれない。逃げても逃げ切れまい。どうせ国が滅ぶのならば、何でこれ以上民を傷つけるのか!全てを唐へ委ねて赦しを請うのが一番だ。どうしても財宝が欲しいとゆう者は、府庫の物を持って行ってもよいが、民の物を略奪してはならぬぞ!」
 こうして府庫の帛数十万段を持ち出して萬春宮の東街へ置き、将卒へ配った。すると、およそ三昼夜ですっかり無くなってしまった。彼は兵を路地や巷へ配置して吐くを得た者は追いだし、貰えなかった物も民間からの略奪ができないようにした。
 士卒がすっかり散り去ってしまうと、斉善行は僕射裴矩、行台曹旦と共に百官を率いて建徳の妻の妻氏及び伝国八璽及び宇文化及を滅ぼしたときに入手した珍宝などを奉じて唐へ降伏を請うた。
 上は、善行を秦王の左護軍とし、厚く賜下した。
 竇建徳が宇文化及を誅した時、隋の南陽公主(煬帝の娘で、宇文士及の正室)に子供がいた。名前は禅師。建徳の虎賁郎将於士澄が、公主へ問うた。
「化及は大逆です。兄弟の子は皆、連座されます。もしも禅師を棄てられなければ、ここへ留めて行きなさい。」
 公主は泣いて言った。
「虎賁は隋の貴臣ではありませんか。なんでそこまで酷いことを尋ねられるのですか。」
 建徳は、遂に禅師を殺した。そこで公主は尼になりたいと請願した。
 建徳が敗亡するに及んで、公主は長安へ帰ろうとしたが、その途上、洛陽にて宇文士及と遇った。士及は会見を請うたが公主は許さない。士及は戸外に立ち夫婦に復縁しようと請う。すると、公主は言った。
「我家と君家は仇家です。ただ、あの陰謀に君が関与していないことを知っていますから、刃だけは向けないでおいてあげます。さあ、サッサと立ち去りなさい!」
 士及が固く請うと、公主は怒って言った。
「顔を見せたら殺すからね。」
 士及はどうしようもできないと知って、辞し去った。
 竇建徳の博州刺史馮士羨が、淮安王神通を再び慰撫山東使へ推して、三十余州を巡回させた。これによって建徳の旧領は全て平定された。 

 六月、戊戌、孟海公の残党蒋善合が軍(「軍/里」)州を以て、孟敢(「口/敢」)鬼が曹州を以て来降した。敢鬼は、海公の従兄である。 

 甲子、秦王世民が長安へ到着した。世民は、黄金の甲を被り、斉王元吉や李世勣など二十五将がその後へ従った。鉄騎一万匹が、勇壮な軍楽の演奏付きで進んだ。捕虜にした王世充、竇建徳及び隋の乗輿、御物を太廟へ献上し、そこで宴会となって節度を保ったまま饗応した。
 上は王世充を見ると、その罪状を数え上げた。すると、王世充は言った。
「臣の罪は、もとより誅殺に値します。しかし、秦王は殺さないと約束してくださったのです。」
 丙寅、王世充を赦して庶民とし、兄弟子姪と共に蜀へ住ませた。
 竇建徳は、市場で斬った。 

 孟海公と竇建徳は共に誅殺されたので、戴州刺史孟敢鬼は不安になり、海公の子息の義を推戴して曹・戴の二州を以て造反した。禹城令善合を腹心としたが、善合は、その近習と示し合わせて、孟敢鬼を斬った。

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