竇建徳    その二
 
 義寧元年(617年)、七月、煬帝はタク郡留守の薛世雄へ燕の兵三万を率いて李密を討伐するよう命じた。また、王世充等の諸将へは、薛世雄の麾下へ入り、通過する場所の盗賊達を誅してゆくよう命じた。
 薛世雄が河間へ到着し七里井へ陣営すると、竇建徳の士衆は震え上がってしまった。彼等は皆、占領した城を棄てて逃げだし、豆子鹵へ逃げ帰ると宣伝した。
 薛世雄は、賊徒が自分を懼れているのだと思い、防備もしなかった。そこで竇建徳は、薛世雄を襲撃しようと軍を返した。まず、決死隊二百八十人が先行し、他の者共は後続となる。この時竇建徳は、士衆へ約束した。
「夜の間に敵陣へ行き着いたら戦おう。しかし、明け方になってしまっていたら、降伏しよう。」
 まだ敵陣まで一理の所で、夜が白々と明け始めた。竇建徳は懼れて降伏しようと思ったが、折から濃霧が出てきて、一寸先も見えないほどになった。竇建徳は大喜びで言った。
「天佑だ!」
 こうして竇建徳は突撃した。薛世雄軍は大混乱に陥り、皆、柵を壊して逃げ出した。薛世雄は、これを制止できず、左右数十騎と共にタク郡へ逃げ出した。やがて彼は、憤りの余り憤死した。
 竇建徳は、遂に河間を包囲した。河間郡丞の王宗は、包囲されながらも一年以上も孤軍奮闘した。
 唐の武徳元年(618年)、四月、煬帝が弑逆された。
 煬帝の訃報を聞くと、王宗は吏士を率いて喪を発した。城へ乗った者は、皆、哭した。竇建徳が弔問の使者を派遣すると、王宗は降伏を持ちかけた。竇建徳は軍を少し退き、宴席を準備してこれを接待した。王宗は、隋の滅亡について語る時、首を項垂れて涙を零し、竇建徳も貰い泣きした。
 諸将は言った。
「王宗は、長い間我が軍を拒戦し、我等の仲間を大勢殺しました。そして、力尽きて降伏したのです。煮殺してください。」
 だが、竇建徳は言った。
「王宗は忠臣だ。我は彼を賞して、主君への忠勤を奨励しようと思っている。殺すなどとんでも無いぞ!かつて高鶏泊にて盗賊をやっていた頃は、妄りに人を殺しもした。しかし、今は天下を平定して百姓を安らげようとしているのだ。なんで忠良の人間を殺せようか!」
 そして、全軍へおふれを出した。
「王宗への怨みから妄りに私刑を行う者は、三族を誅殺する。」
 そして、王宗を瀛州刺史に任命した。
 この一件が評判になると、河北の郡県は争うように竇建徳へ帰順した。 

 話は前後するが、以前竇建徳が景城を落とした時、戸曹の張玄素を捕らえたので殺そうとした。すると、県民千余人が号泣して身代わりに死ぬことを望み、言った。
「戸曹様は比類無いほど清廉で慎み深い方です。代王が彼を殺されるのなら、何を以て善を勧めるのですか!」
 そこで竇建徳は彼を赦し、治書侍御史に任命したが、張玄素は固辞した。やがて煬帝が誅殺されると、彼を黄門侍郎に任命した。今度は、張玄素も出仕した。
 饒陽令の宋正本は博学で才気走っており、竇建徳へ河北を平定する計略を献策した。竇建徳は、彼を謀主とした。
 竇建徳は、都を楽寿に定め、居城を金城宮と称し、百官を設置した。
 十一月、楽寿に五羽の大鳥が集まった。群鳥数万羽が、これに従う。この鳥達は、数日して、去っていった。竇建徳は、これを瑞兆と考え、五鳳と改元した。
 宗城の住民が、玄圭を手に入れたので、竇建徳へ献上した。宋正本と景城丞の孔徳紹が言った。
「これは、天が大禹へ賜ったものです。国号を『夏』と改めましょう。」
 竇建徳は、これに従った。宋正本を納言とし、孔徳紹を内史侍郎とする。 

 話は遡るが、王須抜が幽州を掠奪した時、流れ矢に当たって死んだ。すると、麾下の将魏刀児が彼に代わって部下を統率した。魏刀児は、深沢を拠点にして冀州や定州を荒らし回った。やがて部下の数は十万にまで膨れ上がり、魏刀児は魏帝を自称した。
 竇建徳は、偽って彼と講和した。魏刀児が警戒を解くと、竇建徳はこれを襲撃し、遂に深沢を包囲した。魏刀児の部下達は、魏刀児を捕らえて降伏する。竇建徳はこれを斬り、その部下達を吸収した。
 易州や定州も全て竇建徳へ帰順した。ただ、冀州刺史の麹稜だけは降伏しなかった。
 麹稜の婿の崔履行は、崔進の孫だが、自ら不思議な術を使えると吹聴し、攻め込む者は全て法術で打ち破ってみせると豪語しており、麹稜はこれを信じ込んだ。
 崔履行は城の守備兵へ、全員座り込んで妄りに戦わないよう命じて、言った。
「賊が城へ登ってもお前達は恐がらなくても良い。我が賊徒を金縛りにしてみせる。」
 そうして崔履行は祭壇を造り、夜、祈祷の服装で竹を杖にして北楼へ登り、慟哭した。
 竇建徳がこれを急襲すると、麹稜は迎撃しようとしたが、崔履行は固く止めた。城は忽ち陥落したが、崔履行は慟哭をやめなかった。
 竇建徳は麹稜を見て、言った。
「卿は忠臣だ!」
 そして厚く礼遇し、内史令とした。 

 二年、二月。聊城の宇文化及を攻撃し、これを滅ぼした。宇文化及は襄国にて斬る。詳細は、「宇文化及、隋を滅ぼす」に記載。
 竇建徳は、城を落とすごとに、戦利品は全て部下へ分配してやり、自分は一つとして取らなかった。また、肉を食べず、食事は粗末な野菜と粟ご飯等だった。妻の曹氏もきらびやかな衣は着ないで、使役している婢妾もわずか十人ばかりだった。
 宇文化及を撃破すると千人からの隋の宮女を得たが、竇建徳は即座に全員を解放してやった。隋の黄門侍郎裴矩を左僕射、兵部侍郎崔君粛を侍中、右司郎中柳調を左丞、虞世南を王門侍郎など、隋の官吏達をそれぞれ抜擢し、政事を委ねた。竇建徳のもとに留まりたがらない者は、東都でも長安でも好きなところへ行かせてやり、それらの人々へは旅行中の兵糧を与え、国境まで兵卒に護送させた。
 竇建徳は、王世充とは和親を結んだ。使者を派遣して皇太主へ表を奉じたので、皇泰主は竇建徳を夏王に封じた。
 竇建徳は、群盗から身を起こして建国したが、文官や法規には不自由していた。今回、裴矩が臣下となると、朝廷での儀礼を定め律令を制定したので、竇建徳は甚だ悦んだ。 

 四月、王世充が帝位へ即いた。それを聞いた竇建徳は、王世充と断交し、始めて天子の旌旗を建てた。以来、出入には警備兵が付き、下書は詔と称するようになる。隋の煬帝を閔帝と諡した。
 隋の斉王東は江都の難で死んでいたが、その遺子の楊政道がいたので、これを建てて員公とした。
 隋の義成公主が使者を派遣して来て、蕭皇后と南陽公主を求めた。(彼女達は、竇建徳が宇文化及を滅ぼして以来、竇建徳の庇護のもとにいた。)竇建徳は、千余騎を護衛として彼女達を義成公主のもとへ送った。また、宇文化及の首も、彼女へ献上した。 

 六月、竇建徳は倉州を落とした。
 七月、竇建徳は十余万で名(「水/名」)州へ攻め込んだ。唐の淮安王神通は諸軍を率いて相州まで撤退した。竇建徳は、名州を陥し、総管の袁子幹は降伏した。
 竇建徳は、更に相州へ向かった。淮安王はそれを聞いて、黎陽の李世勣のもとへ逃げ込んだ。
 九月、竇建徳は相州を落とし、刺史の呂aを殺した。
 淮安王は、慰撫使張道源に趙州を鎮守させた。庚寅、竇建徳は趙州を落とし、総管の張志昴と張道源を捕らえた。竇建徳は、この二人とケイ州刺史陳君賓がいつまでも降伏しなかったので、殺そうと思った。すると、国子祭酒の凌敬が言った。
「人臣となったら、各々自分の主君の為に働くのです。彼等は堅守して降伏しませんでした。忠臣です。今、大王が彼等を殺したら、これから何を以て群臣を励ますのですか!」
 竇建徳は怒って言った。
「我が城下へ来ても、奴等は降伏しなかったのだ。力屈して捕らえられただけ。捨てて当然だ!」
「今、大王は大将の高士興を易水へ派遣して羅芸を拒がせています。羅芸が進軍した途端に高士興が降伏したら、大王はどう思われますか?」
 竇建徳は悟り、これを赦すよう命じた。
 ちなみに、その羅芸は、十月、李淵から李氏の姓を賜わり、燕郡王に封じられた。そして辛丑、羅芸は竇建徳を衡水にて撃破した。 

 竇建徳は兵を率いて衞州へ向かった。建徳の行軍は、常に全軍を三道から進ませ、輜重や弱兵は中央に置き、歩兵騎兵が左右を挟むようにして進む。それぞれの軍は、互いに三里ほど離れていた。
 今回、建徳は千騎を率いて先頭に立ち、黎陽から三十里の場所を通過した。李世勣は、騎将丘孝剛へ三百騎を与えて偵察に出した。孝剛は驍勇で、馬槊の名人。建徳軍と遭遇して、これを攻撃し、建徳は敗走した。だが、そこへ右兵が救援に駆けつけ、孝剛を撃って斬った。
 建徳は怒り、黎陽へ引き返して、これを攻撃し、勝った。淮安王、李世勣の父の蓋、魏徴及び李淵の妹の同安公主を捕らえる。ただ、李世勣は数百騎を率いて黄河まで逃げ出した。しかし、父親を捕らえられたので、数日後、建徳のもとへ出向いて降伏した。衞州は、黎陽陥落を聞いて降伏した。
 建徳は、李世勣を左驍衞将軍として、黎陽を守らせた。ただし、父親の蓋は、人質として自分に随行させた。魏徴は起居舎人とした。
 滑州刺史王軌の奴隷が、王軌を殺し、其の首を持って建徳の陣営へやって来た。建徳は言った。
「奴隷のくせに主人を殺すのは大逆だ。我がどうしてこれを愛そうか!」
 たちどころに、その奴隷を斬るよう命じ、王滑の首は滑州へ返した。吏民は感激して即日降伏を請うた。ここにおいて、其の近辺の徐圓朗などが、風を望んで帰属した。
 己未、建徳は名州へ戻った。萬春宮を築き、遷都する。淮安王は下博へ置き、客分として礼遇した。 

 三年、李世勣は唐へ帰順したかったが、竇建徳に捕らわれている父親が殺されることを懼れ、郭孝恪へ相談した。すると、郭孝恪は言った。
「我等は竇建徳へ仕えたばかりです。何かしようとすると、すぐに疑われてしまいます。ですから、まずは信頼されること。全てはその後です。」
 李世勣は、これに従った。
 後、王世充の所領の獲嘉を襲撃して撃破した。入手した得物は全て竇建徳へ献上したので、竇建徳は李世勣へ心を許した。
 話は前後するが、章(「水/章」)南の劉黒闥は、若い頃から驍勇狡猾と評判だった。もともと竇建徳と仲が善かったが、やがて盗賊となり、赤(「赤/里」)孝徳、李密、王世充と主君を転々とした。王世充は、彼を騎将へ抜擢したが、劉黒闥は王世充のやることを見る度に、密かに嘲笑していた。
 王世充は、劉黒闥へ新郷を守備させたが、李世勣はこれを襲撃して捕らえ、竇建徳へ献上した。竇建徳は、劉黒闥を将軍にして、漢東公の爵位まで賜下した。
 李世勣は再び使者を派遣して、竇建徳へ説いた。
「曹、載の二州は人口の多い土地です。この土地を領有しております孟海公は、鄭(王世充)へ上辺こそ臣従していますが、内実は離間しています。もしも大軍でこれへ臨めば、簡単に奪えます。既に海公を得て、徐・?に臨めば、川南は戦わずに定まります。」
 竇建徳も同意し、自ら河南へ進軍しようと欲したが、それに先だって、行台の曹旦へ五万の兵を与えて河を渡らせた。李世勣は、三千の兵を率いて、これに合流した。
 四年、正月。李世勣は、竇建徳への造反を計画した。その内容は、”竇建徳が河南へ来るのを待って、その陣営を襲撃して殺し、父親と竇建徳の領土を奪ってから唐へ帰る”とゆうものである。だが、竇建徳の妻が出産したので、竇建徳はなかなかやってこなかった。
 さて、曹旦は、竇建徳の妻の兄である。河南では勝手放題にやることが多く、麾下へ編入された賊徒達は、皆、彼を怨んでいた。
 賊帥の魏郡の李文相は、李商胡と号して五千余人をかき集め、孟津の中単(「水/単」)に據っていた。母親の霍氏は、騎射の名手で、霍総管と自称していた。李世勣は李商胡と義兄弟となり、彼の拠点へ行って霍氏へ拝礼した。すると、霍氏は泣いて李世勣へ言った。
「竇氏は無道です。どうしてやりましょうか!」
 李世勣は言った。
「母上、憂えなさいますな。一ヶ月以内に奴を殺し、共に唐へ帰順しましょう!」
 李世勣が帰った後、霍氏は李商胡へ言った。
「東海公は、我等と共にあの盗賊を殺すと言った。時間が経てば、何が起こるか判らない。なんで、奴が来るのを待つ必要があろうか。早く決起した方がよい。」
 その夜、商胡は曹旦の正副の将達二十三人を呼んで酒を飲ませ、皆殺しにした。曹旦の別将高雅賢と阮君明はまだ河北にいて河を渡っていなかった。商胡は四艘の巨舟で河北の兵三百人を渡河させたが、流れの半ばで皆殺しにした。ただ、獣医が泳いで南岸へ逃げ登り、曹旦へ告げた。曹旦は、厳重に警備を強いた。
 商胡は既に決起してから、始めて李世勣へ使者を出してこれを告げた。李世勣と曹旦は、並んで布陣していた。郭孝恪は、曹旦を襲撃するよう李世勣へ勧めたが、李世勣は躊躇った。やがて、曹旦が守備を固めていると聞き、遂に郭孝恪と共に数十騎を率いて唐へ来奔した。
 商胡は、精兵二千を率いて北方の阮君明を襲撃して、これを破った。高雅賢は、敗残兵を集めて撤退した。商胡は追撃したが、追いつけずに、帰った。
 竇建徳の群臣は、李蓋を誅殺するよう請うたが、竇建徳は言った。
「李世勣は唐の臣下だ。我に捕らえられても本朝を忘れない。忠臣ではないか。その父親に、何の罪があるか!」
 遂に、これを赦した。
 甲午、李世勣と郭孝恪は長安へ到着した。曹旦は、遂に済州を取り、名州へ帰った。 

 二月、竇建徳は李商胡を攻撃し、これを殺した。
 竇建徳は名州に農桑を奨励した。境内に盗賊がいなくなったので、行商人が野宿できるほどになった。 

 五月、竇建徳は、高士興を幽州へ派遣して、李芸を攻撃させた。しかし、勝てずに籠火城まで退却した。李芸はこれを攻撃し、大勝利を収め、首級五千を挙げた。
 竇建徳の大将軍王伏寶の勇略は、軍中に冠たるものだった。諸将はこれを妬き、造反すると言い立てたので、竇建徳は彼を殺した。この時、王伏寶は言った。
「大王は、どうして讒言を聞き入れ、自ら左右の手を斬られるのか!」 

 七月、唐が、王世充討伐の大軍を起こした。
 八月、李淵は、竇建徳と連合しようと、使者を派遣した。竇建徳はその使者が帰る時、同安公主を送り返した。 

 同月、己亥、竇建徳の共州県令唐綱が刺史を殺して、州ごと唐へ来降した。 

 十月、竇建徳が幽州を包囲したので、李芸は高開道へ急を告げた。開道が二千騎を率いて救援に来たので、竇建徳は退却した。高開道は、李芸のつてで、長安へ使者を派遣して唐へ来降した。
  竇建徳は、二十万の大軍を率いて、再び幽州を攻撃した。建徳の兵が(城壁へ飛びつくと?)、薛萬均と薛徹が決死隊百人を率いて、地下道から彼等の背後へ廻って、これを襲撃した。建徳軍は潰走し、官軍は千余の首級を挙げた。李芸は、勝ちに乗じてその陣へ肉薄した。建徳は、営中に陣を布いた。彼等は堀を埋めて出撃し、奮戦して李芸軍を大いに破った。そして、敗走する李芸軍を城下まで追撃したが、攻撃しても勝てないので、退却した。 

 十一月、竇建徳は黄河を渡って孟海公を攻撃した。
 以前、王世充が竇建徳の黎陽を攻撃した時、竇建徳は報復として殷州を襲撃して破った。それ以来、この両国は国交を断絶していた。だが、唐軍が洛陽へ迫るに及んで、世充は建徳へ使者を派遣して救援を求めた。すると、建徳の中書侍郎劉彬が建徳へ説いた。
「天下大乱で、唐は関西を得、鄭は河南を得、夏は河北を得、この三者で鼎足の勢力図を成したのです。今、唐が挙兵して鄭へ臨みました。秋から冬へかけて、唐軍はますます兵力を増強しており、鄭の領土は日々削り取られています。唐は強く、鄭は弱い。このままでは鄭はささえ切れません。しかし、鄭が滅亡すれば、夏も独立できません。ここは、仇を解き忿を除き、兵を動員して救援へ向かうべきでございます。夏がその外を撃ち、鄭がその内を攻めれば、唐を必ず破れます。唐軍が退却したら、状況の変化を静観し、もしも鄭を取れるようならば取り、二国の兵を合わせて戦争で疲弊した唐を攻撃すれば、天下を取ることもできますぞ!」
 建徳はこれに従い、世充の元へ使者を派遣し、救援に赴くことを告げた。また、麾下の礼部侍郎李大師を唐へ派遣し、洛陽の兵を退却させるよう請うた。しかし秦王世民は、彼を抑留し、返事を出さなかった。
 
 壬辰、燕郡王李芸が籠火城にて、再び竇建徳軍を攻撃して、これを破った。 

 十二月、竇建徳の行台尚書恒山の胡大恩が、降伏を請うてきた。 

 四年、二月、竇建徳が周橋に勝ち、孟海公を捕虜にした。 

 三月、行軍総管劉世譲が竇建徳の黄州を攻撃して、これを抜いた。だが、名州は軍備が厳重で、世譲は進軍できなかった。やがて突厥が入寇しようとしたので、上は世譲を呼び戻した。
 竇建徳麾下の普楽令平恩の程名振が来降した。そこで上は、名振を永寧令として、兵を与えて河北を守らせた。
 名振は、業(「業/里」)へ夜襲を掛けて、男女千余人を捕らえた。業を八十里ほど離れたところで、授乳中の婦人九十余人を釈放してやった。業の人々は、その仁徳に感じ、彼等へ食糧を贈った。 

  

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