竇建徳    河北の群盗
 
エピローグ 

 大業七年(611年)、全国的に群盗が蜂起した。重税、苛酷な労役、高麗出兵のための徴兵、そして飢饉により追い詰められた民衆が盗賊になったのだ。その詳細は、「群盗」に記載する。ここでは、主に河北の動乱を中心に記載しよう。 

 鄒平の住民王薄は、衆人を集めて長白山へ立て籠もり、斉や済の近辺で略奪して回った。「知世郎」と自称し、”遼東へ向かって浪死することなかれの歌”を作って、民の感動を誘ったので、徴兵から逃げ出して彼へ帰順する者も多かった。 

 平原の東に豆子鹵とゆう場所があった。海を背にして、河が流れ、険阻な地形だ。だから、北斉以来、ここには大勢の群盗が逃げ込んだ。その近辺に、劉覇道とゆう男が住んでいた。彼は代々官吏の家柄で、家財は豊富だった。劉覇道は遊侠を喜び、食客は常に数百人たむろしていた。あちこちで群盗が蜂起するようになると、遠近から大勢の人々が彼に庇護を求めに来て、いつの間にか十余万の大所帯へ膨れ上がった。彼等は、「阿舅賊」と号した。 

  

竇建徳 

 章南の住人竇建徳は、若い頃から任侠の士で、胆力は人並みはずれ、近隣の人々から頼られていた。高麗討伐の時、彼は勇敢だったので、二百人を率いる長になった。
 竇建徳と同じ県に、孫安祖とゆう男が居た。彼も驍勇だったので、征士に選ばれたが、孫安祖は、これを辞退した。彼の家が水害に遭い、ここで徴発されたら妻子が飢え死にしてしまうからだ。だが、県令は怒り、彼を鞭打った。孫安祖は、県令を刺殺して竇建徳のもとへ逃げ込んだ。竇建徳は、彼を匿ってやった。
 官吏がこれを逐捕に来ると、竇建徳は孫安祖へ言った。
「国力が充実していた文帝陛下の頃に百万の大軍を動員して高麗を討伐したが、それでも敗北してしまったのだ。今、災害が頻発して百姓は困窮している上、往年の西征では大勢の兵卒が戦死し、負傷兵はその傷が癒えてはいない。それなのに主上は情け容赦なく更に兵卒を徴発して高麗を親征するとゆう。これでは、天下は必ず乱れる。丈夫は生きていれば大功が建てられるのだ。捕まって囚人となるなど馬鹿げているぞ!」
 そして無頼の少年を集めると、数百人がやって来た。孫安祖は彼等を率いて高鶏泊へ入って盗賊となった。孫安祖は、自ら将軍と名乗った。
 この頃、河曲には張金称が、清河には高士達が、手下を集めて盗賊となった。郡県の官吏達は、竇建徳がこれらの群盗と内通していることを疑い、彼の家族を捕らえて皆殺しにした。竇建徳は麾下の二百人を率いて高士達のもとへ逃げ込んだ。高士達は東海公と自称し、竇建徳を司兵とした。
 その頃、孫安祖は張金称に殺され、彼の兵卒達も高士達のもとへ逃げ込んだ。こうして高士達は更に勢力を拡大し、兵卒は万余になった。竇建徳は身を謙って人へ接し、士卒達と辛苦を共にしたので、大勢の兵卒が彼へ心酔し、彼の為になら命まで捨てようとゆう男達が大勢できた。 

 八年、高麗討伐軍が大敗して帰国した。 

  

張須陀 

 九年、霊武の賊白瑜婆が牧馬を略奪してまわり、突厥と内通した。隴右の被害は甚大で、民は彼等を「奴賊」と呼んだ。
 三月、済陰の孟海公が盗賊となった。周橋を拠点にして数万の人数に膨れ上がった。
 この頃の主な群盗は、王簿、孟謙、張金称、北海の郭方預、平原の赫孝徳、河間の格謙、渤海の孫宣雅で、多い者は十余万、少ない者でも数万の兵力を擁していた。天下は長いこと平和だったので人々は戦いを忘れ、郡県の吏は賊と戦う度に尻に帆掛けて逃げ出した。ただ、斉郡丞の張須陀だけは士心を掴んでおり、勇敢に戦って善戦した。
 張須陀が、郡兵を率いて王簿を攻撃した。王簿は戦勝続きで驕っており、備えもしていない。張須陀は、これを急襲して大勝利を収めた。王簿は敗残兵を集めて黄河を渡ったが、張須陀は追撃して更に破った。
 王簿は、赫孝徳、孫宣雅と連合して十万の兵力で章丘を攻撃した。しかし、張須陀は二万の兵力でこれを撃破した。
 この時、賊首の裴長才が二万五千の兵で城下を襲い、略奪して回った。張須陀は、兵卒を集合させる暇がなかったので、五騎を率いてこれと戦った。賊徒達は続々と集まってきて、張須陀を百余重にも取り囲んだ。張須陀は体中傷だらけになりながらも、勇気は益々激しかった。
 やがて城中の兵が到着したので、賊徒達は逃げ出した。張須陀は軍兵を指揮して追撃し、裴長才は敗走した。
 庚子、郭方預等が連合して北海を攻め落とし、略奪の限りを尽くして去った。張須陀は官属へ言った。
「賊軍は自分の強大さを恃み、我が救援できないと多寡を括っている。急行してこれを襲撃すれば、絶対勝てる。」
 そして精鋭兵だけで、通常の倍の速度で急行し、大勝利を収めた。斬った首は数万。張須陀の武勲は、数え切れぬほどだった。
 歴城の羅士信は、十四才。張須陀のもとで維水にて賊軍と戦った。賊軍が陣を布くと、羅士信は陣の前へ駆けて行き、数人を刺殺した。一人の首を斬ると宙へ放り投げ、矛へ刺して自陣の前へ晒した。賊徒達は度肝を抜かれ、張須陀の陣へ近づこうともしなかった。そこで張須陀は奮戦し、賊軍は壊滅した。羅士信はこれを追撃し、賊徒を殺すごとにその鼻を軌って懐へ入れ、賊を殺した証とした。張須陀は感嘆し、側近とする。以来、戦う度に張須陀が先頭を切り、羅士信がこれの介添えとなった。
 煬帝は、使者を派遣して彼等を慰諭した。 

 斉郡の賊帥左孝友が十万の兵力で蹲狗山に籠もっていた。郡丞の張須陀がこれへ迫ると、左孝友は降伏してきた。
 張須陀の威名は東夏に轟き、功績によって斉郡通守、領河南道十二郡黜陟捕大使となつた。
 タク郡の賊帥廬明月が十万の兵力で祝阿へ陣を布いた。張須陀は、数万人を率いて攻撃した。十日余対峙すると、張須陀軍の兵糧が尽きかけたので、張須陀は退却しようとして、諸将へ言った。
「我等が退却するのを見たら、敵は必ず全軍で追撃してくる。その隙に千人で敵の本陣を攻撃したら、大きな戦果が挙がる。危険だが、やる者は居ないか?」
 誰も応じる者は居なかったが、ただ、羅士信と歴城の秦叔寶のみがこれに応じた。そこで張須陀は策を払って逃げ、二人へは千人の兵を預けて伏兵とさせた。
 果たして、廬明月は全軍で追撃してきた。羅士信と秦叔寶は突撃し、残っている敵兵を殺して陣内へ火を放った。炎は天まで立ち上る。廬明月が慌てて帰ろうとしたところを、張須陀も軍を返して憤戦し、大勝利を収めた。
 廬明月は、数百騎で逃げ去った。ただ、一年もすると勢力を盛り返し、十一年の末には、陳、汝地方で十万の兵力を蓄えるようになった。対して張須陀は、李密との戦争へ駆り出され、敗死した。(その詳細は、「李密」に記載する。) 

  

楊義臣  

 張金称、赫孝徳、孫宣雅、高士達、楊公卿等が河北で寇掠し、郡県を次々と奪っていった。隋の将帥は大半が敗北し、張須陀も戦死。ただ、虎賁中郎将王弁と清河郡丞楊善會のみが、戦功を建てた。とくに楊善會は、賊徒と七百回から戦い、負け知らずだった。
 十二年、煬帝は、太僕卿楊義臣へ張金称討伐を命じた。張金称は平恩の東北へ陣取った。楊義臣は、清河の西へ進み永済渠へ據った。そこは、張金称の陣から四十里の場所である。
 楊義臣は深く溝を掘り塁を高く築き、持久戦を決め込んだ。張金称は毎日兵を率いてやってきて徴発するが、楊義臣はいっかな出撃しない。たまに戦いの約束はするが、実際にその時が来ても戦わない。張金称が明け方やって来ては日暮れに帰り、そのような毎日が一月ほども続いた。それでも楊義臣が戦わないので、張金称は、楊義臣のことを臆病者と蔑み、陣営近くまで接近して口汚く罵るようになった。
 そんなある日、楊義臣は言った。
「明日朝早くやってくるなら、必ず戦おう。」
 張金称は、楊義臣を馬鹿にして、守りも固めなかった。
 楊義臣は、精鋭二千を選ぶと夜中に河を渡り、張金称が出陣すると、彼の陣営を襲撃した。張金称は、これを聞いて引き返したので、楊義臣軍は園は以後を襲撃し、賊軍は大敗した。張金称は、左右と共に清河の東へ逃げる。
 それから一月余りして、楊善會が張金称を討伐して、これを捕らえた。官吏は、彼を市場に磔にして、彼を仇とする者へ、その肉を食べさせた。張金称は、大勢の人間から食い殺された。
 タク郡の通守郭旬が、一万人を率いて高士達を攻撃した。高士達は、自分の才覚が竇建徳に及ばないので、竇建徳を軍司馬として、全ての兵を彼へ預けた。
 竇建徳は、高士達へ輜重を守って貰い、自身は七千の精鋭兵を率いて、郭旬のもとへ出向いた。
「高士達と喧嘩別れしたのです。降伏させてください。そうすれば、先鋒となって高士達を討伐してみせましょう。」
 郭旬はこれを信じて、竇建徳と共に長河を渡った。この時、郭旬は竇建徳へ対して全く備えていなかったので、竇建徳はこれを襲撃して数千人を殺捕した。郭旬の首を斬って、高士達へ献上する。張金称の部下達は、皆、竇建徳の麾下へ逃げ込んだ。
 楊義臣は、勝ちに乗じて平原まで進軍し、高鶏泊の盗賊達を討伐しようとした。竇建徳は高士達へ言った。
「隋の将軍を見るに、楊義臣は一番の用兵上手。それが今、張金称を滅ぼして進軍しています。その鋭気には当たるべからざるものがあります。兵を率いて非難して、敵が逸っても戦わさせず、歳月が経って連中の将士が疲倦した時に攻撃すれば、撃破できます。まともに戦えば、勝ち目はありません。」
 高士達は従わず、竇建徳を守備に留め、自分は精鋭兵を率いて楊義臣を迎撃した。そして、ちょっとした勝利を収めたので、大いに気をよくして宴会を開いた。
 それを聞いて竇建徳は言った。
「まだ敵を破ってもいないのに、そんなに驕慢になったのか。これなら敗北の日も遠くない。」
 五日後、楊義臣は大勝利を収め、戦陣にて高士達を斬り殺した。勝ちに乗じて逃げる賊軍を追い、陣営までやって来た。守備兵達は壊滅した。
 竇建徳は百余騎にて逃げ出した。饒陽まで逃げると、守備が手薄だったので、それに乗じて攻め落とした。そうすると、兵も集まり、三千ほどの勢力となった。
 楊義臣は、既に高士達を殺したので、竇建徳など小物に過ぎないと思い、引き返した。(楊義臣の兵力が強大となることを懼れた煬帝が、彼を呼び戻したとゆう事情もあった。その詳細は、「煬帝」へ記載する。)
 ともあれ、楊義臣はこの時賊徒を掃討しなかった。だから、河北の盗賊達は勢力を盛り返すことができた。そこで竇建徳は平原へ戻ってきて、高士達の敗残兵達をかき集め、戦死者を供養して高士達の喪を発表した。勢力は再び増大した。竇建徳は将軍と自称した。
 話は前後するが、群盗達は隋の官吏や士族の子弟を捕まえると、これを皆殺しにしていた。だが、竇建徳だけ、彼等を良く優遇した。だから、隋の官吏達は、城ごと降伏するようになた。こうしてその勢力は日増しに増大し、やがて十余万人を数えるようになった。
 義寧元年(617年)、竇建徳は長楽王と自称し、百官を設置して改元した。 

  

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