唐 建国
 
 唐の武徳元年(618年)、正月。隋の恭帝は、唐王へ剣履上殿、贊拝不名の特権を与えた。
 唐王は長安を落としてから、諸郡県へ書を渡して諭した。すると、東は商洛から南は巴、蜀までの郡県の長史や盗賊の賊帥、テイ、キョウの酋長達などが、先を争って子弟を人質に出して唐王へ降伏してきた。
 その頃、李密は王世充軍を破り東都へ迫っていた。李淵は、李建成を左元帥に、李世民を右元帥に任命し、十万の軍を与えて東都救援へ派遣した。 

 三月、恭帝は、秦公李世民を趙公とした。
 同月、恭帝が詔を降ろした。
”唐国へ十郡を増やし、唐王を相国として、全ての権限を掌握させる。また、唐国に丞相以下の官を設置させ、九錫を加える。”
 李淵は幕僚へ言った。
「この詔は、我へ阿諛追従する者のしわざだ。孤は既に政権を掌握している。この上寵錫まで加えて良いものか!それでは魏や晋の真似ではないか。あいつらは、上辺を飾って天を欺き人をなみした。その実質は五覇にも及ばないくせに、名声は三王以上のを求めていた。孤はいつもこれを笑っていたのだ。なんでこのように恥ずかしいことができようか。」
 すると、ある者が言った。
「歴代の慣例です。どうして廃止できましょうか!」
「堯、舜、湯、武は、各々その時代に合わせて違うやり方で政治を行ったが、皆、誠意を推して天に応じ人に従っていた。夏や商の末期が唐や虞の頃の禅譲を真似たとは聞いていないぞ。もしも幼帝がこの事を知っているのなら、九錫を加えるなど許しはしないだろう。それに、上辺を飾って偉く見せることは、孤は平素から嫌いなのだ。」
 こうして、丞相府を相国府と改称したが、九錫の殊礼は受けなかった。 

 陳国公竇抗は、唐王の妃の兄である。李淵が関中を平定したと聞き、霊武、塩川等数郡を率いて帰順した。 

 李建成が東都へ到着し、芳華苑へ陣営した。東都は、門を閉じたまま。使者を派遣して招諭したが、応じなかった。李密が攻撃してきたので小競り合いが起こったが、やがて互いに兵を退いた。
 東都城内では、内応する者が大勢出た。しかし、李世民は言った。
「我等は関中を平定したばかり。まだ根本が固まっていないのだから、東都を得ても守り通すことができない。」
 そこで、この申し出は断り、軍を返すことにした。
 李世民は言った。
「我等が退却するのを見たら、城内から追撃が掛かるぞ。」
 そこで、三王陵へ伏兵を置いた。
 果たして、段達が一万余の兵力で追撃してきたが、伏兵に遭って敗北した。李世民はこれを城下まで追撃し、四千の首級を挙げた。
 遂に新安、宜陽の二郡を設置し、行軍総管史萬寶、盛彦師に宜陽を、呂紹宗、任壊に新安を鎮守させて帰った。
 辛丑、李密の将王君廓が、李淵へ来降した。
 王君廓は、もとは群盗で、数千人の部下を率いており、賊帥の韋賢、登豹等と連合して虞郷へ陣取っていた。そこへ、李淵も李密も使者を派遣して、共に彼等を招いた。この時、韋賢も登豹も李淵へ帰順したがっていたので、王君廓は、上辺は彼等へ賛同したが、彼等が油断して防備を解いたところへ襲撃を掛け、二人を殺して李密へ帰順した。
 しかし、李密は王君廓を冷遇したので、今回彼は李密を見限って、李淵のもとへ帰順したのだ。李淵は、彼を上国柱、仮河内太守とした。 

 四月、煬帝の訃報が長安へ届いた。李淵は慟哭し、言った。
「我は北面して臣下となったのに、主君を救うことができなかった。どうして哀しまずにいられようか!」
 五月、隋の恭帝が唐へ禅譲して、代邸へ隠居した。
 甲子、唐王李淵は太極殿にて即位した。これが、高祖である。大赦を下し、改元する。郡を廃止して州を設置し、太守のかわりに刺史とした。五運を推して土徳とし、黄色を尚んだ。
 辛未、突厥の始畢可汗が使者を来朝させたので、太極殿にて宴会を開いた。
 壬申、李淵は、裴寂と劉文静へ律令を修定するよう命じた。また、国子、太学、四門生を設置した。学生の数は、併せて三百余名。各郡県にもそれぞれ学校を設置する。
 六月、李世民が尚書令、裴寂を右僕射・知政事、劉文静を納言とした。
 高祖は政務を執る時、いつも自分の名前を言っていたし、貴臣達とは同席していた。そこで、劉文静が諫めた。
「昔、王導が言いました。『もしも太陽が万物と同じ位置にあったなら、どうやって万物を照らすことができるのか。』今、貴賤の序列が乱れています。これは平常のあり方ではありません。」
 しかし、高祖は言った。
「昔、漢の光武帝が厳子陵と共に寝たところ、寝ている間に厳子陵の足が光武帝のお腹の上に乗っていたとゆう。今、諸公達は皆名士で長い古馴染みだ。旧交をどうして忘れて良いものか。公も固いことを言うな!」
 李建成を皇太子に立て、李世民を秦王、李元吉を斉王とした。また、従兄弟や甥などの一族を七人も王に封じた。
 もとの隋帝は、国公へ封じた。この時、詔に言う。
「近世以来、風俗は移り変わり、前代の皇室は皆殺しにそれるようになった。しかし、国の興亡が、どうして人力だけで決まろうか!隋の蔡王楊智積等の子孫で才覚のある者は、これを登庸せよ。」
 七月、隋氏の離宮や別荘を全て閉鎖した。
 九月、隋の太上皇へ、煬帝と諡した。
 なお、禅譲した恭帝は、武徳二年の八月に崩御した。 

  

 五月、山南撫慰使馬元規が、冠軍にて朱粲軍を撃破した。七月には、宣州刺史周超が朱粲を破った。 

 唐が禅譲を受けると、南陽郡丞の呂子藏や相州の呂民、信都郡丞麹稜等が帰順してきた。
 呂子蔵は、山南では一人だけ降伏せずに頑張っていた。高祖は何度か使者を派遣し帰順を勧めたが、呂子蔵は承知せず、使者を殺すこともあった。だが、煬帝が弑逆されたと聞くや、喪を発して礼を尽くした後、唐へ降伏した。高祖は、彼をトウ州刺史に任命し、南郡公へ封じた。
 呂民は相州刺史に、麹稜は冀州刺史に任命された。
 また、楡林の賊帥郭子和も降伏してきた。高祖は、彼を霊州総管とした。 

 高祖は太僕卿宇文明達へ山東を招慰させ、永安王李孝基を陜州総管とした。
 この頃、まだ天下は動乱のまっただ中だったので、辺境の要地には皆、総管府を置き、数州の兵を統治させた。
 ところで、呂民を相州刺史とした時、相州刺史だった王徳仁を、巖州刺史へ変更していた。王徳仁は、これに不満だったので、宇文明達を誘い出して殺し、王世充へ帰順した。 

 万年県法曹の孫伏伽が上表した。
「隋は、過失を聞くことを憎んだ為に天下を失いました。さて、陛下が晋陽にて龍飛するや、遠近は響きに応じるように馳せ参じ、一年も経たないうちに帝位へ登りました。ですから陛下は、これを得ることの容易さのみを知っておられます。しかし、隋が天下を簡単に失ってしまったことをご存知ないでしょう。天下の転覆を押しとどめたいのならば、どうか下情へ通じてください。
 およそ人君は、言動を慎まなければなりません。ひそかに見ますに、陛下が即位すると、すぐに禽獣を献上する者が現れました。しはかし、これは児戯に等しく、聖主の所業ではありません。それに、百戯や散楽は亡国の淫乱な歌です。最近、太常が民間から婦女の襦袢五百余襲を借りて妓衣に充てたと聞きます。また、五月五日に玄武門にて遊技をしたとも聞きます。これらは子孫の法となりません。この類のことはことごとく廃止するべきでございます。善悪の慣習は、朝夕次第に染まって行き、いつしか人心を動かしてしまいます。皇太子や諸王の左右には、どうか立派な人物をお選びください。古より今に及ぶまで、骨肉の争いは必ず国を滅ぼしました。そして、それは近習達が煽り立てていたのです。どうか陛下、これを慎んでください。」
 高祖は大いに悦び、治書侍御史へ抜擢して帛三百匹を賜り、この表を遠近へ示した。 

 十月、王世充に敗北した李密が、唐へ帰順した。李密の部下は、まだあちこちに残っていたので、右翊衞大将軍淮安王神通を山東道安撫大使とし、黄門侍郎崔民幹を副使として、山東の諸軍を招撫させた。 

 十二月、隋の襄平太守トウ祟が柳城と北平二郡を率いて帰順した。李淵は、彼を営州総管とした。
 初め、宇文化及は羅芸へ使者を派遣して招いた。すると、羅芸は言った。
「我は隋の臣だ。」
 そして、使者を斬り、煬帝の為に喪を発して三日服した。
 竇建徳と高開道も、各々使者を派遣して招いたが、羅芸は言った。
「竇建徳も高開道も、威勢の良い賊に過ぎない!唐公が既に関中を平定して人望を集めていると聞くが、これこそ真の我が主君だ。我は彼へ帰順する。敢えて異議を唱える者は斬る!」
 やがて張道源が山東を慰撫してまわったので、羅芸は表を奉じ、漁陽、上谷等の諸郡と共に来降した。朝廷は、羅芸を幽州総管とする。
 薛万金は、薛世雄の子息である。弟の薛万徹と共に勇猛と機略で羅芸から親任されていた。薛万金は上国柱、永安郡公に、薛万徹は車騎将軍、武安県公になった。
 竇建徳は既に冀州を落とし、威勢は益々盛ん。十万の大軍を率いて幽州を攻撃した。羅芸が迎撃しようとすると、薛万金が言った。
「奴等は大軍で、我等は少数。出撃したら必ず負けます。そこで、私は作戦を考えました。まず、城を背にした水際に老弱の兵を布陣させます。すると、奴等は我等を侮り、これを攻撃しようと川を渡るに決まっています。私は、精鋭百騎を率いて城の脇に伏兵となりましょう。そして、敵軍が半分川を渡った時に、これを襲撃するのです。これなら勝てます。」
 羅芸はこれに従った。
 竇建徳は、果たして兵を率いて川を渡ったので、薛万金はその途中を襲撃し、大勝利を収めた。
 竇建徳は城下にも至れずに、霍堡と擁奴羅の県で掠奪した。羅芸はこれを攻撃して、撃退する。竇建徳は百日余り対峙したが、結局勝つことができずに楽寿へ帰った。
 羅芸は、隋の通直謁者の温彦博を得て、司馬としていた。羅芸が、幽州ごと李淵へ帰順しようと言うと、温彦博は賛成した。李淵は、温彦博を幽州総管府長史としたが、やがて朝廷へ呼び寄せて中書侍郎とした。彼の兄の温大雅は、この時黄門侍郎となっていたので、時の人々はこれを褒め称えた。 

 罪を犯した者が居た。死刑になるほどではなかったが、高祖は、どうしても殺せと命じた。すると、監察御史の李素立が諫めて言った。
「法は三尺に過ぎませんが、王が天下を治める道具です。法が一度揺れ動いたら、人々はどのように行動して良いか判りません。陛下は国を興しながら、どうして法を棄てられますのか!臣は忝なくも法司とさせていただきました。この詔は敢えてお受けいたしません。」
 高祖は、これに従った。
 この件で、高祖は李素立に目をかけ、清廉な人材を必要とする七品以上の重要な役を授けるよう、所司へ命じた。そこで所司は、ヨウ州司戸を候補に挙げたが、高祖は言った。
「その官職は、重要だが、清廉ではないな。」
 そこで秘書郎に推薦すると、高祖は言った。
「その職は、清廉だが、重要ではない。」
 遂に、侍御史に抜擢した。
 胡人の安比奴は、舞が巧かったので、高祖はこれを散騎侍郎にした。すると、礼部尚書の李綱が諫めた。
「昔は、楽工は賤しい者の仕事で、子野や師襄のような賢人でも、楽士だったが故に抜擢されませんでした。北斉の末期に曹妙達が王に封じられ、安馬駒は開府となりましたが、これらは反面教師とするべき事例です。今、我が国は建国したばかりで、建国の功臣でさえも、まだ褒賞を受けていない者が居ますし、大勢の高才硯学が草莽に埋もれています。それなのに、彼等に先んじて胡の舞人へ五品を授けて朝廷を闊歩させるなど、後世の手本とはなりません。」
 だが、高祖は従わず、言った。
「既に授けたのだ。取り消しはできんよ。」
(陳嶽が、論じて曰く。)
 国を受け取った主君が発した号令は、子孫の規範とならねばならない。一つでも理に合わない実例が有れば、それが綻びの端緒となるのだ。
 今、高祖は言った。
「既に授けたのだ。取り消すことはできない。」
 だが、授けるのが正しければそのままにするべきであるが、授けるのが間違いならば、どうして改めないのか!君子の道として、「もう行ったから」で済ませてしまうなど、誠意が足りない話ではないか! 

 二年、二月。租、庸、調の税法を定める。成丁一人につき、租二石、絹二匹、綿三両。それ以外は、どんな税も課さないことにした。 

 甲辰、高祖は群臣の功績を考え、李綱と孫伏伽を第一と為した。そこで宴会を開き、裴寂等へ言った。
「隋は、主君の驕慢と臣下の阿諛追従で、天下を失った。だから朕は、即位以来虚心に諫言を求めたのだ。だが、臣下の中では李綱が忠誠から、孫伏伽が誠直から、諫言をしてくれるだけで、他の臣下達は、まだまだ弊風に犯されて、直言をしない。これがどうして朕の望むことだろうか!朕は、卿等を愛子のように思っている。卿等も朕を慈父のように思え。懐いたら、必ず尽くす。変な隠し立てはするものではない!」
 そして、宴席の間は君臣の序列を棄てるよう命じ、心ゆくまで歓を尽くしてから、解散した。 

  

 高祖が隋の殿内少監だった頃、宇文士及は尚輦奉御で、高祖は彼と仲が良かった。宇文士及と宇文化及が造反して黎陽まで北辰した時、高祖は自ら詔を書いて彼等を招いた。すると宇文士及は下男を長安へ派遣した。
 宇文化及達は、魏県へ行くとだんだん勢力が弱まった。宇文士及は唐への帰順を勧めたが、宇文化及は従わない。内史令封徳彝は、済北にて軍糧を徴発して様子を見るよう宇文士及へ進言した。
 宇文化及が皇帝となると、宇文士及を蜀王に立てた。宇文化及が死ぬと、宇文士及と封徳彝は済北から唐へ来降した。この時、宇文士及の妹が昭儀となっていたので、宇文士及は儀同となった。
 封徳彝は隋の旧臣だったが、諂いが巧いだけの不忠者だったので、高祖は彼をきつく叱りつけて無役とした。だが、封徳彝が秘策を造って献上すると高祖は大いに喜んだ内史舎人とし、すぐに侍郎となった。
 宇文化及は、隋の大理卿鄭善果を民部尚書として、聊城まで従軍させていた。彼は、宇文化及の為に戦争を指揮して、流れ矢に当たってしまった。
 竇建徳が聊城を落とした時、王宗は鄭善果を捕らえたが、彼を責めて言った。
「公は名臣の家系で、隋室の大臣となったのに、なんで主君を弑逆した賊徒の言うままになって、こんな傷まで負ったのか!」
 鄭善果は大いに慙愧し、自殺しようとしたが、宋正本が駆けつけて、これを止めた。
 鄭善果は竇建徳から礼遇されなかったので、相州へ逃げた。そこで淮安王神通が、彼を長安へ送った。鄭善果がやってくると、高祖は彼を礼遇し、左庶子、検校内史侍郎とした。(胡三省曰く、隋室の臣下の中で、宇文士及や鄭善果のような人間を、何で登庸したりするのか!)
 隋の吏部侍郎楊恭仁は、宇文化及に従って河北まで来た。宇文化及が敗北すると、楊恭仁は魏州総管元寶蔵に捕らえられ、長安へ送られた。
 高祖は、楊恭仁と古馴染みだったので、これを黄門侍郎とし、やがて涼州総管に抜擢した。楊恭仁は辺境のことに精通し、キョウや胡の風俗も知っていたので、民夷は悦び服した。以来、葱嶺(パミール)以東の国々が朝貢するようになった。
 甲寅、隋の夷陵郡丞許紹が黔安、武陵、豊陽等の諸郡を率いて来降した。彼は幼い頃高祖と共に学んだことがあるので、高祖は彼を峽終始しとし、安陸公の爵位を賜った。
 三月、隋の北海通守鄭虔符、文登令方恵整及び東海、斉郡、東平、任城、平陸、寿張、須昌の賊帥王簿がそれらの領土ごと降伏してきた。

 戊子、淮南の五州が使者を派遣して来降した。
 四月、帰順してきた王簿を斉州総管、伏徳を済州総管、鄭虔符を青州総管、基公順を淮州総管、王孝師を滄州総管とした。
 甲辰、大理卿郎楚之へ山東を、秘書監夏候端へ淮左を安撫させた。
 丁未、隋の禦衞将軍陳稜が、江都ごと降伏してきた。陳稜を、揚州総管とする。 

 二月、高祖は、殿内監の竇誕と右衞将軍宇文欠を晋陽へ派遣して、李元吉の補佐役とした。竇誕は、帝女の襄陽公主の婿である。
 李元吉は驕慢奢侈な人間で、奴隷や妾婢は数百人も持っていた。彼等を二手に分け、武装させて戦争ゴッコをするのが好きだったが、その遊びで大勢の死傷者が出ていたし、李元吉自身もけっこう傷を負っていた。乳母の陳善意が苦諫したが、その時李元吉は酔っていたため、怒り、壮士に撲殺させてしまった。また、猟が好きで、ある時、言った。
「飯を食わなくても三日は我慢できるが、一日でも猟をしないとたまらない。」
 常に竇誕と狩猟に興じ、人々の田畑を荒らし回った。左右は、民間の物を強奪する。たまには人々へ弓を射て、逃げ回る様を面白がった。
 きた、李元吉は、夜、府門を開いて他人の妻と姦淫した。
 百姓は李元吉を怨んだ。宇文欠は屡々諫めたが聞かれない。そこで、とうとう、その行状を上表した。
 壬戌、李元吉は免官された。
 そこで李元吉は、并州の父老達へ、闕を詣でて自分を留めるよう請願させた。甲申、李元吉は并州総管となった。 

 隋の末期、離石胡の劉龍児が、数万の兵を擁して劉王と自称し、子息の劉季真を太子とした。だが、唐の虎賁郎将梁徳が、これを攻撃して、劉龍児を斬った。
 五月、劉季真と、その弟の劉六児が再び挙兵して乱を起こした。劉武周の兵を引き入れて石州を落とし、刺史の王倹を殺す。
 劉季真は、突利可汗と自称し、劉六児を拓定王とした。
 劉六児が、唐へ使者を派遣して降伏を請うたので、李淵はこれを嵐州総管とした。 

 七月、始めて十二軍を設置し、関内の諸府を分けて隷属させた。これらの軍は、全て星の名前を軍名としており、車騎府がこれを統べた。軍ごとに将と副が一人づつおり、武勇高い者を抜擢してこれに任命した。彼等へは、耕作や戦争を監督させる。
 これ以来、唐の士馬は精強になり、向かうところ敵なしとなった。 

 同月、海代の賊帥徐圓朗が数州の土地ごと降伏し来てた。?州総管を拝受し、魯国公へ封じられる。 

 劉文静は、自分では裴寂よりも殊勲を建てたつもりなのに、地位は彼よりも低かったので、心中甚だ不満だった。だから、朝廷で会議があるごとに、裴寂の意見に反対を唱え、屡々裴寂を侮辱した。こうして、二人の仲にひびが入った。
 劉文静は、弟の通直散騎常侍劉文起と酒を飲んだ時、怒りがこみ上げてきて刀を抜くと柱を撃って言った。
「裴寂の首を斬ってやる!」
 そんな折、劉文静の家で屡々妖しい事が起こったので、劉文起は巫女を呼んで呪いをさせた。すると、劉文静から寵愛されていなかった妾が、これを告発した。
 劉文静は、李淵の直参の部下である。そこで李淵は、裴寂と蕭禹を派遣してこれを詰問したところ、劉文静は言った。
「起兵当初は、私は司馬となって、長史等と共に計略を練ったものでした。ところが、今、裴寂は僕射となって甲第を持っているのに、臣への褒賞は他の人々と変わりません。また、臣は東西を討伐するのに、老母を京師へ留めておきましたが、母は、雨風にずいぶん傷められました。そんなこんなで怒りが溜まり、酒に酔ったら恨み言を述べずにいられなくなったのです。」
 それを聞いて、高祖は群臣へ言った。
「この言葉を聞くに、劉文静の造反は明白だ。」
 李綱や蕭禹は彼に叛心がないと証した。また、李世民は固く請うて言った。「晋陽にいた頃、劉文静が決起の策を提唱し、しっかりと定めてから裴寂を取り込んだのです。ところが、事が終わってみると、却って裴寂の方がずっと地位が上。だから、つい恨み言を述べただけです。決して造反を考えたわけではありません。」
 裴寂は、高祖へ言った。
「劉文静は、天下に冠たる才略を持ちながら、その性格は粗暴。今、天下はまだ定まっていません。彼を留めておくと、後々の患いとなります。」
 高祖はもともと、裴寂と仲が良かった。ついに、彼の言葉を用いて、劉文静と劉文起を殺し、その家を没収した。 

 李綱は、太子の教育係も兼ねていた。皇太子李建成は、始めは甚だ礼儀を尽くしていたが、やがて、小人達と付き合うようになっていった。また、李世民の功績が高いのを疾み、兄弟で猜疑するようになった。李綱が何度も諫めたが、聞かない。李綱は、遂に退職を願い出た。すると、李淵は罵って言った。
「卿は何潘仁の長史にはなれたのに、朕の宰相になど恥ずかしくてなれないと言うのか!それに、卿には建成の輔導も任せているのに、かたくなに退職を求めるとは、一体どうゆう訳だ?」
「何潘仁は、単なる盗賊でした。奴が妄りに人を殺そうとする度に、臣は諫めて止めさせました。ですから、彼の長史になっても愧じる所はありませんでした。それに対して陛下は創業の明主です。臣のような不才が言うことなど、何の役にも立ちません。太子へ対しても同じです。臣がどうして天台をいつまでも汚せましょうか。」
「いや、我は公が直士だと知っている。どうか、強いて残って、我が子を導いてやってくれ。」
 そうして、李綱を尚書のまま太子少保を兼任させた。
 李綱は、太子が無節操に酒を飲むこと、讒言を信じること、骨肉を疎んじることなどを上表したが、太子の行動は変わらなかった。李綱は鬱々として楽しまない。
 この年、李綱は固く退職を願い出た。李淵は、尚書を解任したが、太子少保だけは続けさせた。 

 十月、涼州総管楊恭仁に、納言を加えた。幽州総管燕公羅芸へ、李氏の姓を賜下し、燕郡王に封じた。
 辛丑、羅芸は竇建徳を、衡水にて撃破した。
 癸卯、左武候大将軍龍玉を梁州総管とした。
 この頃、集州でリョウが造反したので、龍玉が、これを討伐した。リョウは険阻な土地に據って守ったので、唐軍は進軍できないまま兵糧が尽きた。熟リョウ(リョウの中でも治政区に近いところに住んでいる者。遠方に住んでいる者は「生リョウ」)は、造反した者達に顔見知りが多く、彼等は口々に、「賊を討ってはいけない」と言い、龍玉へ帰るよう請願した。だが、龍玉は言った。
「もうすぐ、秋の穀物が実る。百姓は、これを刈り取ってはならない。全て軍用として徴発する。賊軍を平定するまで、我は帰らんぞ。」
 これを聞いた者は大いに懼れた。
「大軍が去らなければ、我等は皆、飢え死にしてしまう。」
 そこで、壮士たちが賊軍の陣営に入り込み、親しい者と密かに謀って、首謀者達を斬って降伏した。すると、残党は散り散りに逃げた。龍玉は、これを追撃してことごとく平らげた。 

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