東海
 大業三年(607年)、三月、煬帝は羽騎尉の朱寛を、海外へ派遣した。彼は多くの国を訪れ、流求国へ到着した。(この流求国には、諸説がある。琉球、台湾、宮崎先生などは、フィリピンのルソン島ではないかと述べられていた。) 

 五年、煬帝は再び朱寛を派遣して琉球を招撫したが、琉球は従わなかった。そこで煬帝は虎賁郎将陳稜、朝請大夫張鎮周へ一万余の兵を与え、討伐隊として派遣した。
 遠征軍は義安から出航し、一月余りで琉球国へ到着した。張鎮周が先鋒となる。
 琉球王渇刺兜は、迎撃軍を派遣したが、屡々敗北し、遂に隋軍は国都へ迫った。渇刺兜は自ら出陣したが敗北し、柵内へ逃げ込んだ。陳稜は勝ちに乗じてこれを攻め落とし、渇刺兜を斬る。琉球国の国民一万余を捕らえて、帰国する。
 六年二月、陳稜は捕虜を献上した。煬帝は、これを百官へ頒賜する。稜を右光禄大夫とし、張鎮周を金紫光禄大夫とする。 

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