東平為善

 後漢の東平憲王の劉蒼は、顕宗(二代皇帝)の同母弟である。幼い時から経書を好み、智恵があって思慮深かった。それで顕宗は彼を愛し、驃騎将軍に任命、その位は三光の上に置いた。
 やがて王は封国へ帰ったが、しばらくして再び上京した。
 この時、顕宗は尋ねた。
「封国で暮らしている間、何が一番楽しかったかね?」
 すると王は答えた。
「善い事をするのが最も楽しかったです。」

 やがて、顕宗は崩御し粛宗が立った。粛宗は、顕宗以上に、劉蒼を礼遇した。
 王の死後、粛宗が東へ巡守した時、東平の王宮へ御幸した。すると、蒼のことが思い出されて止まない。そこで、粛宗は蒼の息子へ言った。
「故人を偲んで彼の故郷へ来てみたが、住居だけあって故人は居ない。」
 粛宗の瞳から涙が零れた。
 そして、粛宗は蒼の墓を詣り、太牢(羊・牛・豚の肉を供える)で祀った。

 

 司馬称好

 後漢の司馬徽、字は徳操。穎川の生まれである。
 彼は、他人の短所を絶対に口にしなかった。又、人と話す時は、好悪を問わず、皆、「好し」と言った。
 同郷の人が徽の安否を問うと、「好し」と答えたし、ある人が、自分の子供が死んだことを告げると、「大いに好し」と答えた。
 これを聞いて、妻が言った。
「貴方が有徳の人と思うから、自分の不幸を告げられたのですよ。それなのに『好し』とは何事ですか。」
 すると、司馬徽は答えた。
「うむ。お前の言葉も大いに好いぞ。」

 

(訳者、曰)

 昔、封建制の弊害を説いた文章を読んだことがあるが、その中に次の一文があった。
「宗族の中で立派な人間といえば、僅かに後漢の東平王等数名を数えるに過ぎない。」と。(出典は忘れてしまった。)
 中国四千年の歴史では多くの皇帝が生まれた。皇帝の息子と言えば、更に多い。その中で、人格では随一に推されているだけあって、慕わしい人格を忍ばせるエピソードである。
 ただ、東平王に関しては、余りにもエピソードが少ない。(後漢書「光武十王列伝」参照。)人格が高邁なら、全ての事変を未然に防げるので、赫々たる功績を建てれるような大事件が起こらないのだろう。「大功は無功なり」とは彼の事か。

 司馬徽は、「三国志」にも登場していた。後漢時代と書いてあるが、三国時代の方が通りがいい。(勿論、曹操の時代なので、「後漢時代」が正しいのではあるが。)劉備玄徳に諸葛孔明を紹介した人間で、「司馬徽」よりも、「水鏡先生」の方が分かり易いと思う。
 人形劇の三国志では、とぼけた声で「好いぞ好いぞ」と連発し、いい雰囲気を出していた。

 この二人を並べると、ピッタリとタイアップする。
 片や、「善いことをするのが楽しい。」。片や、「人の短所を語らない。」
 この二つは、簡単なことではあるが、時々思い出してわが身を顧みてみると恥じることが多い。一生誦しても、なお飽きない言葉ではないか。