代宗皇帝   その2
 
  

 大暦元年(766)二月、四鎮、北庭行営節度使馬リンへ、分寧節度使を兼任させる。リンは段秀実を三使都虞候とする。
 二百四十斤の弓を引くことができる兵卒が盗みを行い、死刑に相当した。リンは彼を殺したがらなかったが、秀実は言った。
「将が愛憎で法を変えたら、韓信や彭越でさえも治められません。」
 リンはその議を善しとして、ついにこれを殺した。
 リンの裁断うち、或いは理にそぐわないものがあれば、秀実は力争した。
 ある時、リンは激怒し、その有様に左右は戦慄したが、秀実は言った。
「秀実が殺されるべき罪を犯したのなら、どうして怒るのですか!無罪の者を殺すのなら、非道に陥りますぞ。」
 リンが衣を払って席を立つと。秀実は静かに歩いて退出した。しばらくして、リンは酒を準備して秀実を呼び出し、彼へ謝った。
 以来、軍州の事は全て秀実へ諮問してから実行するようになった。これによって、リンは分寧にて称賛された。 

 五月、河西節度使楊休明を鎮沙州へ移す。 

 八月、京兆尹黎幹が、南山から長安へ水を引き込む為の水路を造ろうとしたが、結局失敗した。 

 十月乙未、上の誕生日。諸道の節度使が金帛、器服、珍玩、駿馬などを献上して寿いだ。それらを銭に換算すると、二十四万緡になる。
 常コンが上言した。
「節度使は、男は耕さず、女は織りません。これらは全て人から取ったものです。苛税を課して媚びを取る。こんな風潮を増長させてはいけません。これを全て返してください。」
 上は聞かなかった。 

 十一月甲子の日南至、恩赦が下り、改元された。 

 河中軍の食料が欠乏したので、郭子儀は自ら百畝を耕した。将校はこれを手本にした。こうして、士卒は皆強制されなくても耕した。
 この年、河中に荒れた土地はなく、軍には兵糧が余った。 

 隴右行軍司馬陳少遊を桂管観察使とした。
 少遊は博州の人である。官吏となっては強敏で賄賂を好んだ。権貴と強く闕託して出世した。
 桂州を得てみると、京師から遠く離れていおり、気候も蒸し暑かったので、嫌った。宦官の董秀が枢密を掌握していたので、少遊は毎年五万緡を贈賄すると約束した。又、元載の子息の仲武にも賄賂を贈った。内外の引き立てにより、数日すると宣歙観察使に改められた。 

 二年二月丙戌、郭子儀が周智光の討伐を終えて入朝した。上は、元載、王縉、魚朝恩等へ、彼等の第にて交互に宴会を開くよう命じた。その費用は、一度で十万緡。
 上は、子儀を重んじており、いつも彼のことを「大臣」と呼んで、名前を呼ばなかった。
 郭曖がかつて昇平公主と言い争った。曖は言った。
「お前の父は、どうして天子になれたのか?我が父が天子になりたいとも思わなかったからではないか!」
 公主は憤り、車を走らせてこれを奏上した。すると、上は言った。
「これはお前が知る必要のないことだ。実際、彼の言うとおり、もしも彼が天子になりたがったなら、天下はお前の家族のものではなくなるのだぞ!」
 慰め諭して、帰らせた。
 子儀はこれを聞くや、曖を捕らえ、入って罪を待った。
 上は言った。
「諺にも言う。『痴でも聾でもなければ、老いぼれではない。』児女子の夫婦喧嘩の言葉など、何で聞くほどのことがあろうか!」
 子儀は帰ると、曖を杖で数十ぶっ叩いた。 

 八月庚辰、鳳翔等道節度使、左僕射、平章事李抱玉が入朝した。僕射の返上を固く請うた。断固とした口調だったので、上はこれを許した。
 癸丑、また、鳳翔節度使を返上したが、許さなかった。 

 十二月庚辰、盗賊が郭子儀の父の墓を暴いた。犯人を捜したが、捕らえきれない。魚朝恩はもともと子儀と仲が悪かったので、人々は彼が黒幕かと疑った。
 子儀が吐蕃を撃退して奉天から入朝する。朝廷では、この事件で憂えていた。子儀が上へ謁見すると、上がこの件に言及する前に、子儀は流涕して言った。
「臣が長い間兵を率いておりましたが、兵卒の暴虐を禁じることができず、大勢の兵卒達が墓荒らしなどを行いました。今回の事件は、天の譴責です。人の仕業ではありません。」
 朝廷は安堵した。 

 三年正月、建寧王炎(「人/炎」)へ斉王を追賜する。 

 二月甲午、郭子儀が、理由なく陣中にて馬を走らせることを禁じた。南陽夫人(子儀の妻)の乳母子が、この禁令を犯したので、都虞候がこれを杖殺した。諸子は泣いて子儀へ訴え、かつ、都虞候の横暴を言い立てた。子儀は、これを叱りつけて追い出す。
 翌日、僚佐と雑談している時、嘆息して言った。
「子儀の諸子は、皆、無能だ。父の都虞候を称賛せず、母の乳母の子を惜しむ。無能でなくて何だ!」 

 庚子、後宮の独孤氏を貴妃とする。 

 初め、上は衡山へ中使を派遣して、李を呼び出した。やって来ると、金紫を賜り、彼の為に蓬莱殿の側に書院を造った。上は時に宴会用の服装で彼に会った。給事中、中書舎人以上及び方鎮の除拝、軍国の大事などは、皆、と議した。
 また、魚朝恩へ命じて白花屯への為に外院を作らせた。彼が、親旧と会う為の院である。
 上は、を門下侍郎、同平章事にしたがったが、は固辞した。
 上は言った。
「仕事が忙しくなると、朝から晩まで顔も見れなくなってしまう。それなら、いつでも側にいてくれた方がいい。どうして敕に署名して宰相としなければならないことがあろうか!」
 後、端午の節句で、王、公、妃、主が各々服や玩具を献上した。
 上はへ言った。
「先生だけ、どうして献上してくれないのですか?」
 すると、は言った。
「臣は禁中に住んでおり、頭巾から靴まで、全て陛下からの賜。それ以外には、この体一つだけしかありません。何を献上できましょうか!」
「朕が欲しいのは、まさしくそれです。」
「臣の体が陛下のものでないならば、一体誰のものでしょうか。」
「先帝は卿を宰相にしようとして、できなかった。今からその身を献上してくれるのなら、卿の私心をなくして朕のためだけに行動してくれ。」
「陛下は、臣へ何をさせたいのですか?」
「朕は、卿へ酒肉を食べさせ、室家にあって禄位を受ける俗人になって欲しいのだ。」
 は泣いて言った。
「臣は二十余年精進していました。陛下はどうして臣のその志を捨てさせるのですか!」
「泣いて何になるのか!卿は九重の中に居て何をしたいのか?」
 そして、の両親を埋葬するよう中使へ命じ、また、濾氏の娘をへ娶わせて妻とした。その費用は全て県官から出す。光福坊へ第を賜り、沁は数日第に泊まらせて、数日は蓬莱院に泊まらせる。
 上がと語っていて、話題が斉王炎へ及んだ。上は厚く褒贈を加えたがったが、は岐、薛の故事に倣って太子と贈るよう請うた。上は、泣いて言った。
「わが弟は、先頭切って霊武の議を唱え、中興の業を成したのだ。岐や薛にこんな功績があるか!忠孝に尽くしたのに讒人から害された。もしも生きていたならば、朕はきっと太弟にしていた。今、帝号で祟るのが我が宿願なのだ。」
 乙卯、炎を承天皇帝と追諡すると、制が降りる。庚申、順陵へ葬る。 

 六月壬辰、幽州兵馬使朱希彩、経略副使の昌平の朱の弟が共謀して節度使の李懐仙を殺す。希彩は、自ら留後となった。朝廷はやむを得ず、これを追認し、希彩を領幽州留後とした。(詳細は「造反」に記載する。) 

 八月庚午、河東節度使、同平章事辛雲京が卒した。王縉を領河東節度使とする。その他の官職は従来通り。 

 四年正月丙子、郭子儀が入朝した。魚朝恩がこれを誘って章敬寺で遊ぶ。元載は、彼等が結託することを恐れ、子儀の軍吏に、子儀へ密告させた。
「朝恩は、公の暗殺を謀っています。」
 子儀は聞かなかった。
 吏はまた、諸将へ告げた。すると諸将は、衣の下に鎧を着けた兵卒三百人を随従するよう請うた。だが、子儀は言った。
「我は国の大臣だ。彼は端子の命令なしに、どうして我を害せようか!もしも命令を受けているのなら、お前達は何をするつもりだ!」
 そして、家僕数人を連れて出かけた。
 朝恩はこれを迎えると、従者の少なさに驚いた。子儀は耳にしたことを伝え、かつ、言った。
「公の手を煩わせることを恐れるだけです。」
 朝恩は、肱を撫で、手を捧げ、流涕して言った。
「公のような長者でなければ、疑わずにはいられません!」
 乙酉、郭子儀が河中へ帰る。
 二月壬寅、京兆の好畤、鳳翔の麟遊、普潤を神策軍へ隷属させる。魚朝恩の要請に従ったのだ。 

 五月戊申、王縉が副元帥、都統、行営使を辞退すると上表した。 

 辛酉、郭子儀が、河中から分州へ移る。精兵を随従させ、その他の兵は裨将の指揮のもと河中、霊州を分守させる。
 長い間河中に済んでいた軍士は、移住するのが厭で、往々にして分から逃げ帰った。行軍司馬厳郢が府の留守を預かっていたが、彼は逃亡兵を悉く捕らえ、その渠帥を誅殺したので、衆心はようやく落ち着いた。 

 河東兵馬使王無縦、張奉璋等は、功績を恃んで驕慢だった。王縉を書生と馬鹿にして、約束など平気で踏みにじる。
 縉は、兵を発して鹽州を防備せよとの詔を受けた。そこで無縦と奉璋へ三千の歩騎を与えて派遣する。ところが、奉璋は逗留して進まず、無縦は他のことにかこつけて、勝手に太原城へ入った。縉は共に捕らえて斬り、その党類七人も処分した。これによって諸将のうち悍戻な者がいなくなり、軍府は始めて安定した。 

 十月、黄門侍郎、同平章事杜鴻漸が病気で退職を願い出た。壬申、許す。乙亥、卒する。
 丙子、左僕射裴免を同平章事とする。
 元載がまだ新平尉だった時、免は彼を推薦した。だから載は、彼を宰相としたのだ。また、免が老病だから扱いやすいとの打算もあった。
 免は任命を受けた時、踊り狂って倒れてしまった。載が駆け寄って助け起こし、代わりに謝辞を述べる。
 十二月戊戌、免が卒した。 

 五年正月壬辰、河南尹張延賞を姚興留守とする。河南等道副元帥をやめ、その兵を留守の指揮下へ入れる。 

 観軍容宣慰處置使、左監門衞大将軍兼神策軍使、内侍監魚朝恩は、禁兵を独占しており、寵恩は比類なかった。上はいつも彼と軍国の事を議し、その権勢は朝野を傾ける。
 朝恩は、広座にて時政を放談して宰相を凌侮するのが好きだった。元載は弁が立ったけれども、手を拱いて黙りこくり、反論しなかった。
 神策都虞候劉希進(「日/進」)、都知兵馬使王駕鶴は、共に朝恩から可愛がられていた。希進は、北軍へ牢獄を設置するよう、朝恩へ説いた。市井の悪少年に密告させて罪人を誣い、牢獄へ繋いでその家財を没収して軍費に充てる為である。告発者には、没収品から恩賞を与える。その牢獄は極秘とされ、誰も口にしない。
 朝恩は、奏事ごとに期日を決める。調停の決議で陣が関与しないものがあると、すぐに怒った。
「我に無断で何をするのか!」
 上はこれを聞いて、不愉快になった。
 朝恩の養子の令徽はまだ幼かったが、内給使となって緑衣を着ていた。ある時、同列の者と言い争い、帰って朝恩へ告げた。翌日、朝恩は上へ謁見して言った。
「臣の子息の官位が卑しく、つまらぬ者から馬鹿にされます。どうか紫衣を賜下してください。」
 上が返答しないうちに、役人が紫衣を御前へ持ってきた。令徽はこれを着て、拝謝する。上は強いて笑い、言った。
「子息の紫衣は、よく似合っているぞ。」
 だが、その心中は益々穏やかでなかった。
 元載は、上の心を知り、合間を見て朝恩の専横不軌を上奏し、これを除くよう請うた。上も亦、天下の人々が朝恩を怨怒していると知り、遂に、載へ方略を決めさせる。
 朝恩は入殿ごとに射生将周皓へ百人の兵を与えて自分を護衛させていた。また、その仲間の峡州節度使皇甫温は外にて兵を握り、援護している。載は、彼等へ重く贈賄して結託した。だから朝恩の陰謀や密かに語ったことは全て上の耳に入ったが、朝恩は全く悟らなかった。
 五年正月辛卯、載は上の為に謀って、李抱玉を山南西道節度使、温を鳳翔節度使とした。上辺は朝恩の権力を重くしたようだったが、実は温を近くへ置いて助けとしようとゆうのだ。また、眉(「眉/里」)、カク、竇鶏、ガク、  を割いて抱玉へ隷属させ、興平、武功、天興、扶風を神策軍へ隷属させた。朝恩は、領地が増えたことを喜び、載のことを意に留めず、驕横なままだった。
 二月、戊戌、李抱玉を鎮チッシへ移す。軍士は怒り、鳳翔の市街にて大いに掠奪した。数日で収まる。
 劉希進は上意が代わってきたのに気が付き、朝恩へ告げた。朝恩は始めて疑懼する。しかし、上は彼へ会う度に恩礼はますます厚かったので、朝恩はやや安心した。
 皇甫温が京師へ来ると、元載はこれを留めて任地へ帰さず、朝恩の誅殺について、温や周皓と密かに謀った。
 計略が定まると、載は上へ言った。上は言う。
「用心して行い、却って禍を受けるな!」
 三月癸酉は寒食(火の通った物を食べない日)だった。上は酒を準備して禁中にて貴近と宴会を開いた。載は中書省を守る。宴会が終わって朝恩が営へ帰ろうとすると、上は議事を理由に彼を留め、その席で異図を責めた。朝恩は弁明したが、その言葉はとても悖慢だった。皓は左右と共にこれを捕らえて、絞め殺した。外朝の者は、誰も知らぬ間に終わった。
 上は詔を下して、朝恩の観軍容等使をやめさせた。内侍監は従来通り。そして、偽って言った。
「朝恩は、詔を受けると首吊りした。」
 その屍を家へ返し、銭六百万を賜って葬らせる。
 丁丑、劉希進、王駕鶴へ御史中丞を加えて北軍の兵卒達を安心させた。
 丙戌、恩赦を下し、京畿の衆人を釈放する。また、朝恩の与党も全て赦し、かつ、言った。
「北軍の将士は、皆、朕の爪牙だ。従来通りに遇する。今からは朕自らが指揮する。憂懼することなかれ。」
 皇甫温へは、帰って陜を鎮じるよう敕する。
 劉希進は、かつて魚朝恩の一派だったので不安でならず、不遜なことも口にするようになった。王駕鶴がこれを上聞する。
 九月辛未、希進へ自殺を命じる。 

 元載が朝恩を誅してから、上の寵任はますます厚くなったので、遂に載は驕慢になった。衆の中では、いつも、自分には文武の才覚があり古今及ぶものがないと大言する。智恵を使って権力を弄び、政事は賄賂で行い、奢侈は限りない。
 吏部侍郎楊綰は、人選が公平だったが、実直な性分で、載に媚びなかった。対して、嶺南節度使徐浩は貪婪奸佞で、南方を傾けて載へ珍貨を贈った。載は、綰を国子祭酒として、浩を後任とした。浩は越州の人である。
 載の知り合いのお年寄りが宣州からやってきて、彼のツテで仕官を求めた。だが、載の見るところ、彼には仕事を任せるほどの能力はなかった。ただ、河北への書状を一枚老人へ贈り、派遣した。老人は不愉快だった。幽州まで行った時、こっそり書状を覗いてみると、ただ署名されているだけの白紙だった。老人は激怒したが、仕方なしにその書状を役人へ渡した。判官は、載から書状が来たと聞くと大いに驚き、すぐに節度使へ報告し、大校を派遣して紹介状を恭しく受け取り、老人は上舎へ宿泊させた。そのまま数日留めて宴会を催し、去る時には老人へ絹千匹を贈った。載の威権は、これほど人を動かしたのだ。 

 原節度使馬リンは、本鎮が荒れ果てており兵卒達へ報酬を出せない、と、屡々訴えていた。そこで上は、鄭、穎二州を割譲するよう李抱玉へ風諭した。
 三月乙巳、リンへ鄭穎節度使を兼任させる。 

 庚申、王縉が太原から入朝した。
 癸未、左羽林大将軍辛京杲を湖南観察使とした。 

 荊南節度使衞伯玉が母の喪に服したので、六月戊戌、殿中監王昴を後任とした。だが、伯玉は、昴を拒むよう、大将の楊ジュツ等へ風諭した。
 甲寅、伯玉を従来の鎮荊南へ復帰させると詔が降りた。 

 七月京畿が飢饉。米一斗が千銭へ高騰した。 

  上は、元載のやっていることを全部知ったが、彼へ長い間政治を任せていたので、その一生を全うさせたかった。そこで一人だけ呼び出して深く戒めたが、載は改めない。
 これによって、上は次第に彼を嫌い始めた。
 李泌が上から寵用されているので、載は彼を忌み、言った。
「泌はいつも親しい者と北軍にて酒を酌み交わしています。魚朝恩とも親しく付き合っておりました。彼の陰謀が知れますぞ。」
 上は言った。
「北軍は、泌の元の部下達だ。だから朕は旧交を温めさせている。朝恩の誅殺には、泌もその謀略に参与したではないか。卿よ、疑うな。」
 だが、載は与党と共に泌を攻めて止まなかった。
 江西観察使魏少遊が参佐を求めると、上は泌へ言った。
「元載は卿を排除したがっている。朕は今、卿を魏少遊のもとへ匿おう。朕が載を処罰したら、卿へも厚く報いよう。その時にやってくればよい。」
 こうして泌を江西判官とし、少遊に厚遇させた。 

 六年二月壬寅、河西、隴右、山南西道副元帥兼澤路、山南西道節度使李抱玉が上言した。
「掌握している兵は自ら訓練するべきです。しかしながら今、河、隴から扶、文までの二千余里は撫御が非常に困難です。もし吐蕃が、隴の両面から攻め込んで来た場合、臣が并(「水/并」)、隴を保とうとすれば、梁、を救うことができません。扶、文へ進軍したら寇は関へ迫ります。首尾が一つに纏まらず、身体が巧く行きません。どうか有能な臣下を選び、山南を委ね、臣は隴テイの守備に専念させてください。」
 詔して、これを許す。 

 三月、河北が旱害となり、米一斗が千銭へ高騰した。 

 四月庚申、典内の董秀を内常侍とした。 

 成都司録李少良が、上書して元載の陰謀を暴いた。上は、少良を客省へ泊めた。
 少良は、友人の韋頌へ上の言葉を告げた。殿中侍御史陸廷(「王/廷」)がこれを載へ告げ、載はこれを上奏した。
 上は怒り、少良、頌、廷を牢獄へぶち込んで御史へ詮議させた。御史は、”少良、頌、廷が示し合わせて君臣を離間した”と裁断した。
 五月戊申、全員杖で打ち殺すよう、京兆へ敕が降りた。
 七月丙午、元載が上奏した。
「文武の六品以下の官については、別敕にて任命し、吏部、兵部が口出しできないようにしてください。」
 これに従う。
 この頃の載の上奏は、法度を遵守しないことが多かったので、官吏から反駁されることを恐れたのである。
 上は、ますます元載のやることを厭い、彼へおもねらない士大夫を腹心として、載の権力を少しずつ削ろうと思った。
 八月丙子、内で制書を出し、浙西観察使李栖均(「竹/均」)を御史大夫とした。宰相は、これを知らない。こうして、載の権勢は削られた。 

 八月丁卯、淮西節度使李忠臣が二千の兵を率いて奉天へ駐留し、賊の侵略に備えた。 

 この年、尚書右丞韓滉を戸部侍郎、判度支とした。
 戦争が起こって以来、税の取り立てが際限なく、倉庫の出納もいい加減になって、国用が虚耗していた。滉の為人は清廉勤勉で、簿領に通じていた。徴税や出納の規則を作り、厳格に運用したので、吏は欺こうとしなくなった。
 また、連年の豊作で穀物が値下がりし、辺境も来寇されなくなったので、これ以来、倉庫が始めて充満した。
 滉は休の子息である。 

 八年二月壬申、永平節度使令孤彰が卒した。
 彰は滑、毫の離乱の後、軍を治め農業を勧めたので、府庫には穀物が満ちた。当時、藩鎮は皆跋扈していたが、彰だけ闕へのは貢賦を欠かさなかった。毎年三千の兵卒で京西を詣でて敵の侵略に備えたが、その食糧は領地から持参した。途中、民からの献上物は受け取らず、秋毫も犯さなかった。
 症状が篤くなると、掌書記の高陽の斉映を呼び出し、事後を謀った。映は、子息を私第へ帰して後任の者を請うよう勧めた。彰はこれに従い、遺言を上表して言った。
「昔、魚朝恩は史朝義を破ると滑州で掠奪しようとしましたが、臣は従わず、それ以来、朝廷と溝が生じました。朝恩が誅殺された時には臣は病身。そうゆうわけで入朝ができず、それが心残りです。臣はもう、回復できずに逝くでしょう。倉庫や牧畜には、先に封印し、軍中の将士や州県の官吏には、朝廷からの命令を待たせます。伏して見ますに、吏部尚書劉晏、工部尚書李勉には大事を委ねられます。どうか、速やかに臣の後任を派遣してください。臣の子息の建等は、今から東都の私第へ帰します。」
 彰が卒すると、将士は建を建てたがったが、建は命を誓ってこれを拒み、一家挙って西へ帰った。
 三月丙子、李勉を永平節度使とする。 

 吏部侍郎徐浩、薛邑は、共に元載、王縉の一味である。
 浩の妾の弟の侯莫陳付(「付/心」)は、美原尉となった。浩の弟分の京兆尹杜済は、権限を利用して、勝手に駅伝を使わせた。また、邑は長安尉と同じ待遇にした。
 付が参台すると、御史大夫李栖均が、この件を弾劾した。禮部侍郎の万年の于邵へ、詮議するよう敕が降る。
 邵は、邑の一件は恩赦が出る前のことなので赦すべきだと上奏した。上は怒る。
 五月乙酉、浩を明州別駕、邑を歙州刺史へ降格する。丙戌、済を杭州刺史、邵を桂州長史へ降格する。朝廷は、やや粛然とした。 

 辛卯、鄭王貌が卒した。昭靖太子と賜る。 

 九月癸未、晋州の男子旬(「旬/里」)模が麻で髪を束ね、竹籠とむしろを持って東市で哭した。人々が理由を問うと、対して答えた。
「三十字を献上し、一字ごとに一事言いたい。もしもその言葉に採るべき物がなければ、我が屍をこのむしろに包み、籠の中へ入れて野に捨ててくれ。」
 京兆が、これを上聞した。
 上は謁見し、新衣を賜下して客省へ泊まらせた。
 彼の言う「団」は、諸州の団練使をやめさせる、とゆうこと。「監」は、諸道の監軍使をやめさせることだった。 

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