代宗皇帝   その1
 
  

 寶應元年(762)四月己巳、代宗が即位する。
 甲戊、皇子奉節王舌(しんにょうが有る)を天下兵馬元帥とする。
 内飛龍厩副使程元振を左監門衞将軍とする。
 知内侍省事朱光輝及び内常侍啖庭瑶、山人李唐等二十余人を皆黔中へ流す。
 壬午、李輔国を司空兼中書令とする。
 五月乙酉、奉節王舌を魯王とする。(八月にはヨウ王となる)
 上の母呉妃を皇太后と追尊する。翌年正月己卯、章敬皇后と追諡する。
 丁酉、天下へ恩赦を下す。
 皇子益昌王貌(本当は、しんにょうあり)を鄭王、延を慶王、迥を韓王に立てる。 

 六月壬戌、兵部侍郎厳武を西川節度使とした。
 乙亥、通州刺史劉晏が戸部侍郎兼京兆尹として、充度支、転運、塩鉄、鋳銭等使とした。十一月には河南道水陸転運都使を兼任させる。 

 廣徳元年(763)閏月、史朝義が敗死する。
 七月壬辰、郭子儀を都知朔方、河東、北庭、路(「水/路」)・儀・沢・心(「水/心」)・陳・鄭等節度行営度、及び興平等軍副元帥とした。
 八月己巳、郭子儀が河東から入朝した。
 この頃、程元振が実権を握っていたが、彼は子儀の功績が高く任務が重いことを忌み、屡々上へ讒言した。子儀は不安になり、副元帥と節度使の解任を上表にて請願した。上はこれを慰撫する。子儀は、遂に京師へ留まった。 

 廣徳元年(763)正月癸未、国子祭酒劉晏を吏部尚書、同平章事とした。度支等使は従来通り。 

 三月辛酉、至道大聖大明孝皇帝を泰陵に葬る。廟号は玄宗。
 庚午、文明武徳大聖大宣孝皇帝を建陵へ葬る。廟号は粛宗。
 群臣が何度も上表して太子を立てるよう請うた。五月、癸卯、秋になったらこれを協議すると、詔が降りる。
 七月壬寅、群臣が寶應元聖文武孝皇帝の尊号を献上した。
 壬子、天下へ恩赦を下して改元する。
 史朝義を討伐した諸将は官位が進み、各々の軍功によって爵邑を加えた。回乞可汗を頡咄登蜜施合倶録英義建功毘伽可汗、可敦を娑墨光親麗華毘伽可敦とした。左、右殺以下、皆へ封賞を加える。 

 七月吐蕃が大震関へ入寇した。
 十月、吐蕃が州へ来寇した。刺史の高暉は城を以てこれに降り、彼の為に道案内となって、吐蕃を深く引き入れる。辛未、吐蕃が奉天、武功へ来寇し、京師はパニックとなる。 上は兵を動員しようとしていたが、吐蕃は既に便橋を渡ったので、慌てふためいて為す術を知らなかった。丙子、上は陜州へ疎開する。官吏はあちこち逃げ回り、六軍は逃げ散った。これらの詳細は、「吐蕃」に記載する。
 驃騎大将軍、判元帥行軍司馬程元振は横暴に振る舞い、人々は李輔国以上に畏れた。そして元振は、大功を建てた諸将全員を忌疾し、彼等を害そうと思っていた。
 吐蕃が入寇した時、元振はすぐには上奏しなかったので、結局は上が慌てふためいて疎開する羽目となったのだ。上が詔を発して諸道の兵を徴発しても、李光弼等は元振が居ることを忌み、だれも駆けつけなかった。中外は歯がみしたが、敢えて口に出す者はいなかった。
 そんな中で、太上博士柳伉が上疏した。その大意は、
「犬戎が隴を渡って闕を犯し、刃に血塗らずして京師へ入りました。そして、宮殿で掠奪を働き、陵寝を焼き払うような暴行を行ったのに、武士に力戦する者は一人もいませんでした。これは、将帥が陛下へ背いたのです。陛下は元功を疎外して近習へ権限を委ねました。そのような状況が長く続いて大禍を成したのです。その時、朝廷には群臣がおりましたのに、面と向かって諫める者は一人も居ませんでした。これは、公卿が陛下へ背いたのです。陛下が都から出た時、百姓は府庫にて押し合いへし合いして掠奪し、死人さえ出る有様。これは、三輔が陛下へ背いたのです。十月朔に諸道の兵を召集したのに、四十日経っても、隻輪さえ関へやって来ませんでした。これは、四方が陛下へ背いたのです。内外が離反した今日の状況を、陛下は安泰、危険、いずれと思われますか?もしも危険と思われるなら、天下の為に罪人を討伐もしないまま枕を高くしていて良い筈がありませんぞ!『良医は、治療が早い。病気になってから薬を飲んだとて、既に手遅れなのだ。』と、臣は聞きます。陛下は、今日の病がここまで酷くなったことは何が原因だと思われますか?宗廟社稷を存続させるおつもりならば、ただ一人元振の首を斬って天下へ早馬で告知し、諸宦官を悉く内宮から出して諸州へ隷属させ、神策兵を大臣の管轄下へ置き、その後に尊号を削って自ら咎を引き受けて詔を下してください。『天下の人々は、朕が心を改めたことを認め、士を募って朝廷へ集まれ。朕の悪が改まらないと思うのなら、帝王の大器を天下の聖賢へ譲ろう。』このようにして、それでも兵がやって来ず、人々も感動せず、天下が服従しないのでしたら、どうか臣を宮門にて一寸刻みに切り刻んで謝罪とさせてください。」
 上は、”元振にはかつて自分を保護した功績がある。”として、死刑は免除した。
 十一月辛丑、元振の官爵を削り、田里へ放帰する。
 十一月丁亥、吐が去ったので、車駕が陜州を出発し、京師へ向かった。
 この時、左丞顔眞卿は、まず陵廟へ謁してから宮へ帰るよう上へ請うた。元載は従わない。眞卿は怒って言った。
「相公が再び壊れることに、朝廷がどうして耐えられようか!」
 載は、これを根に持った。
 甲午、上が長安へ到着する。
 魚朝恩を天下観軍容宣慰置使として、禁兵を統率させた。寵用すること比類ない。ガク県と中渭橋に城を築き、兵を駐屯させて吐蕃に備えた。駱奉仙をガク城築城使とし、遂にその兵を指揮させる。 

 乙未、苗晋卿を太保、裴遵慶を太子少傅として、共に政事をやめさせる。宗正卿李見(「山/見」)を黄門侍郎、同平章事とする。
 遵慶が去ってしまうと、元載の権勢は益々盛んになった。賄賂を贈って内侍董秀や使主書卓英倩と密かに往来する。だから載は、上が望んでいることを必ず先に知り、細かく心を配って迎合したので、発言は全て意向に叶った。それ故、上はますます載を愛した。
 英倩は金州の人である。
 程元振は、罪を得た後は三原へ帰っていたが、上が宮殿へ帰ったと聞くと、布陣の衣を着て私的に長安へ入り、密かに復帰の機会を窺った。
 京兆府が、これを捕らえて報告した。
 二年正月壬寅、敕にて、程元振が変装して潜伏し不軌を図ったと称し、湊州へ長流する。
 だが、上は元振の功績を想い、再び令を下して江陵へ安置した。 

 乙卯、ヨウ王舌を皇太子へ立てる。 

 吐蕃が長安へ入った時、諸軍の逃亡兵や里の無頼の子弟が集まって盗賊となった。吐蕃が去ってしまっても、彼等は南山や子午等の五谷に逃げ込んでいた。
 正月丁巳、太子賓客薛景仙を南山五谷防禦使として、これを討たせた。
 しかし、数ヶ月掛けても鎮圧できない。上は、李抱玉へ討伐を命じた。
 群盗の中では、賊師の高玉が最強だった。抱玉は兵馬使李祟客へ四百騎を与えて派遣した。洋州から入って桃カク川にてこれを襲撃し、大いに破る。玉は成固へ逃げた。
 十一月庚申、山南西道節度使張献誠が玉を捕らえて献上した。余盗も悉く平定した。 

 二月癸亥、劉晏を太子賓客、李見を・事として、共に政事をやめさせた。
 晏は程元振と行き来したことで有罪となったのだ。
 元振が有罪となった事件では、見が活躍した。これによって、見は宦官達から憎まれた。だから、晏と共にやめさせられたのだ。
 右散騎常侍王縉を黄門侍郎、太常卿杜鴻漸を兵部侍郎とし、共に同平章事とする。 

 安禄山の騒乱以来、ベン水の水路が壊れたので、運搬車は江、漢から梁、洋までは迂回せねばならず、労費がかかっていた。
 三月己酉、劉晏を河南、江、淮以来転運使として、ベン水の水路を再開することを計画した。庚戌、晏と諸道節度使へ賦役を割り振って工事を一任し、終了したら報告するよう命じた。
 この時は戦禍の後で、中外は食糧難に苦しみ、漢中では米一斗が千銭もした。百姓は実の入っていない穂を禁軍へ配給し、宮中の厨房にさえ余分な食糧がない。だから晏は、ベン水を浚う件を上疏する時、百官の意見をまとめて中外から応援して貰おうと、その利害について具に書に述べて元載へ渡した。
 これ以来、毎年数十万石の米が関中へ運ばれるようになった。
 唐代で、漕運の第一人者と言えば、晏が挙げられる。後世の者は、ただ彼のやり方を遵守しただけに過ぎないのだ。 

 七月庚子、天下から青苗銭とゆう税を取り、これで百官の棒給を払った。 

 李光弼は軍律厳しく、諸将は一人残らず指揮通りに動く。きちんと勝算を立ててから戦うので、少ない兵力で勝ちを制することができた。彼の威名は、郭子儀と並ぶ。
 上が陜に居た時、李光弼はぐずついて、遂にやって来なかった。上は、彼との間に隙ができることを恐れた。この時、光弼の母親は河中にいたので、上はしばしば中使を派遣して慰問した。
 吐蕃が退却すると、彼等の去就を観察させようと、光弼を東都留守に任命した。しかし光弼はこれを辞退して、江、淮糧運へ就き、兵を率いて徐州へ帰った。
 二月、上はその母を長安へ迎え、非常に厚遇した。弟の光進へは禁兵を指揮させ、これも厚遇した。
 徐州へ駐屯した後、李光弼は兵を擁したまま入朝しなくなった。すると、諸将の田神功などは、彼のことを畏れなくなった。光弼は慚愧と後悔から発病した。
 七月己酉、卒する。
 八月丙寅、王縉を光弼の代わりに都統河南、淮西、山南東道諸行営とする。
 甲午、王縉へ東都留守を加える。 

 九月丙午、河東節度使辛雲京へ同平章事を加える。 

 関中が蟲蝗と霖雨で凶作となり、米が一斗千余銭へ高騰した。 

 この年、戸は二百九十余万、人口は千六百九十余万人と、戸部が報告した。 

 上が、于眞(「門/眞」)王勝を帰国させようとした。すると勝は宿衞に留まることを固く請い、國は弟の曜へ授けると言い出した。上は、これを許す。
 勝へ開府儀同三司を加え、武都王の爵位を贈る。 

 永泰元年(765)正月癸卯朔、改元する。天下へ恩赦を下す。
 戊申、李抱玉へ鳳翔、隴右節度使を加え、従弟の殿中少監抱眞を沢路節度副使とした。
 ところで、山東に兵乱が起こり上党は戦場となったので、土地は荒れ果てて民は痩せた。抱眞は、これでは軍を養うことができないと考え、民の戸籍をもとにして三丁につき一人を選んで租と徭を免除し、弓矢を配給して、農事の合間に射撃の練習を行わせた。そして、歳暮に試験を行って、成績によって賞罰を与えた。
 こうして三年経つと、精兵二万人を得た。彼等へは特別の給料など支払っていなかったので、府庫は満ちていた。遂に、彼等は山東にて雄視された。
 これにより、天下の人々は、沢路の歩兵が諸道最強だと称するようになった。 

 三月壬辰朔、左僕射裴免(「日/免」)、右僕射郭英乂等文武の臣十三人を集賢殿へ待機させる。
 左捨遣の洛陽の独孤及が上疏した。
「陛下が免等を詢問に備えて待機させて居られますが、これこそ五帝の盛徳であります。ですが最近、陛下は彼等の直言を入れながらも、その言葉を記録させず、上辺は下を受け入れているように見せかけながら、実は諫言を聞き入れておりません。これでは、諫者を集めて彼等の口を塞ぎ飼い殺しとしているに他なりません。これは忠義硬骨の人間なら嘆きましょう。臣もまた、恥ずかしく思います。
 今、内乱は十年も続いており、人々はおちおち働くこともできません。兵を擁する者は邸宅を町中に並べ、奴婢でさえ酒肉を飽食していますが、貧しい者は飢えに苦しみながら労役に就き、皮を剥がれるどころか骨の髄までしゃぶられる有様。長安の城内にて白昼堂々と追い剥ぎを行っても、役人は見て見ぬふり。官は乱れ職務など行われず、将は堕落し兵卒は横暴。全ては頽廃しきっており、まるでお湯が煮えたぎっているような混沌状態です。民はもう、役人へ訴えようとはせず、役人は陛下へ上聞しません。茹でた毒を痛飲するような窮状も、告発する先がないのです。このような時なのに、陛下は救済の術を行わない。臣には実に驚きなのです。
 今、天下はただ朔方、隴西のみに吐蕃、僕固の憂いがありますが、分、、鳳翔の兵力だけでその鎮定には十分です。これ以外には、東は海、南は番禺、西は巴蜀へ至るまで、鼠賊程度の相手もいないのに、武装は解除されていません。天下の財貨を傾け、天下の穀物を尽くして不用の軍へ給付していますが、臣にはその理由が判りません。仮に、『安泰な時にも危急を忘れない。』とゆうのなら、要害の地に僅かの兵を配置すれば事足ります。その他の兵卒は休ませて、余った兵糧で疲れた人民の貢賦へ充てるのです。そうすれば、毎年国租の半ばは減らすことができます。
 どうか陛下、改革に躊躇して民の苦痛を放置するようなことをなさらないでください!」
 上は、採用しなかった。 

 丙午、李抱玉を同平章事とする。鎮鳳翔は従来通り。 

 この春は雨が降らず、米一斗が千銭に高騰した。 

 四月丁丑、御史大夫王翊を諸道税銭使とした。
 河東道租庸、鹽鐵使裴胥(「言/胥」)が入奏した時、上は問うた。
「酒の利益で、歳入はいくらになるかな?」
 胥が黙り込んでいたので、上は再び問うた。すると、胥は答えた。
「臣が河東から来る途中、行き過ぎる場所では田畑に種もまけずに農夫が愁え怨んでおりました。ですから臣は、陛下が臣を見た時に、まず民の疾苦を真っ先に問うと思っておりました。それなのに、臣を営利で責められました。ですから臣は返答しなかったのです。」
 上はこれへ陳謝し、左司郎中を授けた。
 胥は寛の子息である。 

 辛卯、剣南節度使厳武が卒した。
 武は剣南を三回鎮守したが、いつも重税を課して奢侈を窮めた。ある時は、梓州刺史章彝のことが少し意に添わなかったので、呼び出して杖で殴り殺した。だが、吐蕃は彼を畏れて、敢えて国境を犯そうとしなかった。
 母は、彼の驕暴をしばしば戒めたが、武は従わない。彼が死ぬ時、母は言った。
「これでようやく、官の婢とならずに済みました!」
 五月癸丑、右僕射郭英乂を剣南節度使とする。 

 七月甲午、上は、娘の昇平公主を郭子儀の子息曖へ下嫁した。 

 太子の母の沈氏は、呉興の人間である。
 安禄山が長安を陥した時、彼女を掠奪して洛陽宮へ連れ込んだ。上が洛陽に勝った時に彼女と再会したが、まだ長安へ連れて帰れないうちに史思明が再び洛陽を陥し、遂に行方不明となってしまった。
 上が即位すると、あちこちへ使者を派遣して探し求めたが、見つからなかった。
 己亥、壽州の祟善寺の尼廣澄が太子の母と詐称した。だが、検分してみると、もとの少陽院の乳母だった。これを鞭で打ち殺した。 

 始め、粛宗は陜西節度使郭英乂を領神策軍、内侍魚朝恩をその監軍としていた。やがて英乂が入って僕射となると、朝恩が神策軍を独占した。
 上が陜へ御幸した時には、朝恩は陜に居た兵と神策軍を動員して迎えに行き、その兵卒全てを神策軍と号して天子をその陣営へ迎えた。
 京師が平定すると、朝恩は軍を全て禁中へ帰し、自分はこれを指揮した。しかし、まだ北軍は指揮下に入れていなかった。
 ここに至って朝恩は、神策軍を上に随従して苑中へ駐屯させ、その勢力は次第に強くなっていった。これを左右の廂に分け、北軍の右へ置いた。 

 十月、僕固懐恩の乱が平定し、戒厳令が解かれた。詳細は「僕固懐恩の乱」に記載する。 閏十月乙巳、郭子儀が入朝した。
 子儀は、霊武を恢復したばかりで、百姓は疲弊し戎の人々もまだ不安がっているので、朔方軍糧使の三原の路嗣恭へこれを鎮守させるよう請うた。また、河西節度使楊志烈が既に死んだので、使者を派遣して河西を巡撫させ、涼、甘、粛、瓜、沙等の州へ長史を設置するよう請うた。
 上は、全て従った。
 己酉、郭子儀は河中へ帰った。
 丁未、百官が、職田を撤廃して、その分を軍糧へ充てるよう請うた。これを許す。
(訳者、曰く)官吏が、自ら俸禄の返上を請願したのかな?紆余曲折が書いてない! 

 戊申、戸部侍郎路嗣恭を朔方節度使とする。嗣恭は軍府を立てる時、荊棘を肩に引っかけて示威を行った。これによって、威令は大いに行われた。 

 華原令顧ヨウが、”元載の子息の伯和等が賄賂を受け取っている”と上奏した。十二月戊戌、ヨウは有罪となって錦州へ流された。 

 丙戌、戸部尚書劉晏を都畿、河南、淮南、江南、湖南、荊南、山南東道転運、常平、鋳銭、鹽鐵等使とし、侍郎第五gを京畿、関内、河東、剣南、山南西道転運等使として、天下の財賦を分掌させた。 

 安史の乱によって、国子監室堂が荒れ果て、大勢の軍士がここを借りて住んだ。祭酒蕭マが上奏した。
「学校は、なくしてはいけません。」
 大暦元年(766)正月乙酉、国子学生を復補すると、敕が降りた。
 二月丁亥朔、国子監にて、釈迦へ供え物をする。宰相へ、常参官を、魚朝恩には六軍の諸将を率て聴講するよう命じる。子弟は皆、朱紫の服を着て諸生とする。
 朝恩は既に貴い地位になっていたが、ここで講経を学んで学を身に付けたと為した。実際には、ようやく筆を持てるくらいの能力しかないのに、自ら文武の才を兼ねたと吹聴したが、敢えて逆らう者は居なかった。 

 元載は専横していたが、自分の横暴を上奏して攻める者が出る事を恐れ、請うた。
「百官の論事は、まず長官へ伝え、長官が宰相へ伝えてから、奏聞するようにしましょう。」
 そこで、上は旨で百官を諭して言った。
「近日、諸司の奏事が煩雑になり、しかも誹謗に類するものが多い。そこでまず長官と宰相へ、上奏するものを選定させる。」
 刑部尚書願眞卿が上疏した。その大意は、
「郎官、御史は陛下の耳目です。今、論じるものをまず宰相へ伝えるのでは、 耳目を覆うことになります。陛下は群臣の讒言を患っておられますが、どうしてその言葉の虚実を察しないのですか!もしも述べることが果たして虚言なら、これを誅するべきです。果たして事実なら、これを賞するべきです。それを勉めずにこのような手だてを取るのでは、天下の人々は、『陛下は聴覧が煩雑なので厭になり、この様な言葉に託して諫争の道を閉ざそうとしている。』と言い合うでしょう。臣はひそかに、陛下の為にこれを惜しむのです!
 太宗が著した門司式の中に、次の一節があります。『門番を置かないのは、急ぎの報告のある者が、門司と杖家を率いて上奏する時、遅疑させない為である。』と。これは、覆い隠されるのを防ぐ為です。天寶年間に李林甫が宰相となり、真実を述べる者を深く憎んだ為、百官は道路にて目で語るようになりました。上意は下へ伝わらず、下情は上へ達せず、真実は覆い隠されて人々は呻くだけ。そして遂に蜀へ逃げ出すとゆう禍が起こったのです。夷狄の跋扈が今日へ至ったのは、長い間に積み重なった原因があるのです。
 そもそも、人主が諫争を大いに嘉しても、群臣はなお、敢えて言葉を尽くさないもの。ましてや宰相や大臣がこれを裁くのなら、陛下はただ数人の意見しか見聞できません。天下の士がこの旨に従って口を閉ざしてしまったら、陛下へ不首尾を語る者は居なくなります。それを以て天下が無事だと論じるのなら、これは林甫が今日に復活したのと同じですぞ!
 昔、林甫が権力を専断していた時は、群臣の中に大臣へ諮問せずに上奏する者がいれば他事にかこつけて密かに中傷されていましたが、それでもなお、百司の上奏を全て先に宰相に言上せよとゆう規則は制定されませんでした。陛下がこのままいつまでも悟らなければ、次第に孤立してしまいます。後悔しても及びませんぞ!」
 載はこれを聞いて恨み、眞卿を誹謗した。
 二月乙未、眞卿を峡州別駕へ降格する。 

元へ戻る