突厥の凋落
 
我が世の春 

 陳の宣帝の太建四年(572年)。突厥の木杆可汗が死んだ。突厥の民は、可汗の子息の大邏便を棄てて、木杆可汗の弟を立てた。これが、佗鉢可汗である。
 佗鉢可汗は、摂図を爾伏可汗として、東面を統治させた。又、その弟の褥但可汗の子息を歩離可汗として、西面を統治させた。
(土門可汗が死んだ時、その子の摂図を棄てて、弟の木杆可汗が立った。土門、木杆、佗鉢と兄弟相続が続いたことになる。)
 北周は、彼等と和親して、毎年錦綾十万段を与えた。錦を着て肉を食べている突厥人が、長安には千人以上も居た。北斉もまた、彼等の来寇を畏れて、彼等へ厚く贈賄した。そうゆう訳で、佗鉢可汗はだんだん驕慢になって行った。
 ある時、佗鉢可汗は部下へ言った。
「南に孝行息子が二人も居るのだ。何で貧乏を憂えようか!」
 突厥から北周へ嫁いだ阿史那后は、北周の武帝から寵愛されていなかった。すると、神武公の竇毅が武帝へ言った。
「今、中国は三国鼎立の時代ですし、突厥は強盛です。どうか民を想い、曲げて阿史那后を寵愛なさいませ。」
 武帝は、これに従った。 

 九年、北周が北斉を滅ぼした。しかし、北斉の一族の高紹義は北周に抗戦した。突厥は、高紹義を支援して、北周の変域を荒らし回った。
 十年、北周の武帝が崩御した。
 十一年、二月。佗鉢可汗が北周へ講和を求めた。北周の宣帝は趙王招の娘を千金公主として、佗鉢可汗へ娶せると共に、高紹義の引き渡しを要求した。佗鉢可汗は、これを断った。
 十二年、突厥は北周へ入貢し、千金公主を迎えた。
 楊堅は、千金公主を突厥へ送ると共に使者を派遣して多額の賄賂を贈り説得もして、高紹義を求めた。佗鉢可汗は、遂に高紹義を捕らえ、北周へ送った。(この項、詳細は「北周、北斉を滅ぼす。3.北斉その後」に記載。)
 十三年、楊堅が簒奪して隋を建国した。北周は滅亡する。 

  

分裂 

 十三年、佗鉢可汗が病気で伏せった。佗鉢可汗は子息の菴邏を呼び、言った。
「我が兄は、自分の子供を立てずに、我へ位を譲った。だから、我が死んだらお前達は兄の子の大邏便へ位を譲るのだ。」
 佗鉢可汗が死ぬと、子息達は大邏便を立てようとした。だが、大邏便の母親は賤しい身分だったので、衆人が承服しない。逆に菴邏の母親は貴かったので、突厥では重んじられていた。
 後継者会議には、摂図が一番最後にやって来たが、彼は国人へ言った。
「菴邏が立ったら、我等は臣従しよう。しかし、大邏便が立ったら、我が境内を武力で守り抜くぞ。」
 摂図は年長で勇敢だったので、国人は誰も逆らえなかった。こうして、遂に菴邏が立った。
 大邏便は可汗になれなかったので内心不満だらけ。菴邏のもとへ、事毎に使者を出して罵り侮辱した。菴邏は、これをどうすることもできず、遂に国を摂図へ譲ろうと考えた。この件について、国中で相談して、結論を出した。
「四可汗(逸可汗、木杆可汗、褥但可汗、佗鉢可汗)の子息達の内で、摂図が一番の賢人だ。」
 こうして、皆で摂図を擁立した。これが沙鉢略可汗である。菴邏は、第二可汗となった。
 すると、大邏便が沙鉢略可汗へ言った。
「俺もお前も可汗の息子で、各々父親の部落の後を継いだ。今、お前は可汗なのに、俺が無位なのは何故だ?」
 沙鉢略可汗はこれを患い、本拠地へ戻ってしまった。
 また、沙鉢略可汗の叔父も西面に住んで達頭可汗と号した。
 こうして、各可汗は自分の部族を率いて四面に別れて住むようになった。ただ、沙鉢略可汗は勇猛で衆心を得ていたので、北方の民は、皆、彼へ畏附した。 

  

対隋 

 隋の文帝が即位すると、突厥への賜が少なくなった。又、千金公主は祖国が滅亡したことを悲しんで、沙鉢略可汗へ日夜泣きついて復讐をせがんだ。そこで、沙鉢略可汗は臣下達へ言った。
「我は、北周の親戚だ。今、隋が簒奪を行ったのに、手を拱いていては、可敦へ対しても顔向けができぬぞ。」
 そして、もとの北斉営州刺史高寶寧と兵を合わせて隋の辺境を荒らし回った。
 隋の文帝はこれを患い、長城を改修し、上柱国陰需に幽州を、京兆尹虞慶則にヘイ州を鎮守させ、数万の兵を屯営して、これに備えた。 

 話は前後するが、千金公主が突厥へ入る時、車都尉の長孫晟が、彼女を護衛していた。彼は弓の名手だったので、突厥の可汗は気に入って、一年以上も彼を留め、自分の子供や兄弟、或いは貴人達と親交を深めさせてその射法を会得させようとした。
 ところで、沙鉢略可汗の弟の処羅侯は、突利設と号していた。彼は人望を集めていたので、沙鉢略可汗は彼を忌んでいた。そこで、突利設は密かに長孫晟と結託した。だから、長孫晟は突利設と共に狩猟に回る時、地形を調べたり、各部落の強弱を調べたりして、突厥の軍備を知り尽くすことができた。
 突厥が入寇すると、長孫晟は上書した。
「今、中国本土はようやく安寧になりましたが、戎狄が暴れ回っております。軍を起こして討ち滅ぼすには時期尚早ですが、放置しておいたら奴等は調子に乗って略奪を繰り返します。ここは、術策を以て対するしかありません。
 まず、奴等の内情を詳述いたしましょう。占厥は兵力が強いのに、その地位は摂図の下です。ですから、上辺は一枚岩ですが、既に隙があります。いずれは内紛を起こすでしょう。また、摂図の弟の処羅候は、姦策は多いのですが、勢力は強くありません。そこで、衆人の人気取りに走りました。そうゆう訳で国人からは愛されているのですが、その人気故に摂図は彼を忌んでいます。彼等は互いに繕っていますが、内心では猜疑しあっております。阿波は、この状況で、両者に二股を掛けております。
 この状況で、我等は遠交近攻の策を執り、強者を捨てて弱者と結びましょう。具体的には、占厥のもとへ使者を派遣し、阿波を説き伏せるのです。そうすれば摂図は兵を返して西面へ配置しなければならなくなります。又、処羅を味方に引き込み、奚、シュウと連合します。そうすれば摂図は兵を分散して東面へ備えなければなりません。
 このようにして互いに猜疑させ、腹心を離間させ、十数年の後に隙に乗じて討伐すれば、一挙にして国を滅ぼすことができます。」
 文帝は、これを読んで大いに悦び、召し出して共に語った。長孫晟は、この機会に突厥の地形を語り、山川を地図に描き示し、敵の虚実に至るまで克明に語ったので、文帝は賞嘆して献策を全て受け入れた。
 隋は、達頭のもとへ使者を派遣した。達頭から使者が来れば、これを沙鉢略可汗の使者の上座へ据えた。長孫晟を車騎将軍として、奚・シュウ・契丹へ賜を届けさせ、彼等を道案内として処羅侯のもとへ行かせた。処羅侯は、隋との内応を承諾した。このようにして、反間が行われ、突厥の心はバラバラになってしまった。 

  

突厥の跳梁 

 十四年、四月。隋の大将軍韓僧寿が、鶏頭山にて突厥を撃破した。上柱国の李充は河北山にて突厥を撃破した。
 五月、高寶寧が突厥を率いて隋の平州へ来寇した。突厥は、五可汗総出で四十万の兵力を揃え、長城内へ侵入した。
 六月、隋の上柱国李光が馬邑にて突厥を撃退した。突厥は、今度は蘭州へ来寇した。しかし、涼州総管賀婁子幹が、これを撃退した。
 十月、隋は突厥に備えて、太子の楊勇を咸陽に屯営させた。十二月には、沁源公虞慶則を弘化へ屯営させた。

 同月、隋の行軍総管達奚長儒は周槃にて突厥の沙鉢略可汗と遭遇した。可汗の兵力は十余万。対する奚長儒は二千。兵卒達は動揺したが、奚長儒は奮起し、戦いつつ進んだ。
 転戦すること三日。昼夜あわせて十四戦。隋軍の武器は底を尽き、兵卒は素手で相手を殴るしかなく、皆、手の皮が破けて骨が見えるほどだった。殺した敵は一万余り。突厥は戦意を無くして退却した。
 奚長儒は、五ヶ所傷を負い、そのうちの二つは身体を貫通していた。兵卒達は、八・九割が戦死した。この戦功で、奚長儒は上柱国となり、一子へは餘勲回が授けられた。
 この時、柱国馮cが乙弗泊に屯営し、蘭州総管叱列長叉は臨兆を守り、上柱国李祟は幽州に屯営していたが、全て突厥に敗北した。
 ここにおいて突厥は、木夾、石門の両道から入寇し、武威、天水、金城、上郡、弘化、延安の家畜全てを略奪した。
 沙鉢略可汗は更に南下したがったが、達頭可汗は従わず、兵を率いて退却した。長孫晟も退却を考えていたので、沙鉢略可汗の息子を説得し、嘘の情報を伝えさせた。”鉄勒等が造反して、我等の本拠地を襲撃しようとしています。”と。
 沙鉢略可汗はおそれ、退却した。 

  

隋の反撃 

 至徳元年(583年)、突厥が隋の北辺へ来寇した。 

 突厥が屡々隋の国境を荒らすので、文帝は下詔した。
「往年、北周と北斉が夏を二分して対抗していた頃は、突厥は両国へ通じていた。周も斉も、突厥が敵方と連合する事を懼れ、一方の防備を減らすべく、これと厚く交わったのである。
 だが、朕は、億兆の民へ重税を課して豺狼に等しき野蛮人共へ多く恵むことを、恩徳とは思わぬ。これは、賊を助けることに他ならない。礼を以て節度を定め、虚費を為さず、税を薄くすれば、国庫には余裕が出るのだ。
 賊どもへ与えていた物は、そのまま将士への賜下とし、道路の民は安心して耕織に専念できるようにしよう。辺境を清め勝ちを制する策は、我が心にある。
 あの凶醜な連中は、愚昧で深旨を知らない。今日、夏が平定されたにもかかわらず、未だに戦乱の時代と同様に振る舞い、かつての驕りをそのままに今時に恨みを結ぶ。
 諸将の今回の挙行の本義は含育にある。降伏する者は受け入れ、逆らう者は殺せ。彼等が我が国を侵さなければ、彼等が威厳は保たれるのだ。かつて、匈奴は漢へ人質を入れたが、なんでそこまでの必要が在ろうか!」
 此処に於いて、衞王爽等を行軍元帥とし、八道から突厥へ進軍した。
 衞王は、総管の李充等四将を指揮して朔州道から出陣した。己卯、沙鉢略可汗と白道にて遭遇した。
 李充が衞王へ言った。
「突厥は、連勝に狎れています。我等が無防備だと多寡を括っておりましょう。精鋭兵で襲撃すれば、破れます。」
 諸将は疑ったが、長史の李徹だけは賛成した。遂に、衞王はこれを採用し、五千の精鋭を率いて突撃、大勝利を収めた。
 沙鉢略可汗は金の鎧を脱ぎ捨て、九最中に潜んで逃げる。その軍中には食糧が不足し、骨を砕いて食糧とした。それに加えて疫病まではやり、大勢の者が死んだ。
訳者、曰く。近年、牛へ骨粉を食べさせた為に、狂牛病が流行った。普段食べない物を食するのは、流行病を起こす原因かも知れない。それに、食糧が無くて体力が落ちれば、免疫力もなくなる。この疫病は、食糧不足が一因かも知れない。)
 
 幽州総管陰寿は、十万の軍勢を率いて盧龍塞から出撃し、高寶寧を攻撃した。高寶寧は突厥へ助けを求めたが、突厥とて隋軍を防ぐのに手一杯で、救援できる状況ではなかった。高寶寧は、遂に城を棄てて碩北へ逃げた。こうして、和龍の諸県は全て平定された。
 陰寿は、高寶寧へ多額の懸賞金を懸け、また、人を派遣して高寶寧君臣の離間を謀った。高寶寧は、契丹へ逃げ込んだが、部下に殺された。 

 五月、隋の行軍総管李晃が、摩那度口にて突厥を撃破した。 

  

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