禿髪、廣武に據る。

 

 禿髪烏孤

 晋の哀帝の興寧三年(364年)、十月。鮮卑の禿髪椎斤が卒した。享年百十。子息の思復建(「革/建」)が、父に代わって部族を統率した。 椎斤は、 樹機能の従弟の孫である。(樹機能は、西晋の武帝の頃、涼州にて造反した。)
 思復建が死んで、子息の烏孤が立った。
 烏孤は雄勇で、野望を抱いていた。
 ある時、烏孤は、大将の紛施へ、涼州奪取の方略を問うた。すると、紛施は答えた。
「公が涼州を奪取したいのならば、まず農業に務め、兵卒を訓練し、俊賢を礼遇し、政刑を修めなさい。それができてこそ、涼州を奪取できます。」
 烏孤はこれに従った。

 

 後涼との外交

 武帝(東晋の孝武帝)の太元十九年(349年)。三河王光(呂光)が禿髪部へ使者を派遣し、烏孤へ「冠軍大将軍、河西鮮卑大都統」の称号を与えた。烏孤は、部下へ尋ねた。
「拝受しようか?」
 すると、皆、言った。
「我等には大勢の兵卒や軍馬があります。なんで奴の部下になどなりましょうか!」
 この時、石眞若留が黙っていたので、烏孤は言った。
「卿は呂光を畏れているのか?」
 石眞若留は答えた。
「我等の根本は、まだ固まっていません。小は大に勝てぬもの。もしも奴等が総攻撃を掛けてきたら、対抗できましょうか!今は、恭順に出て、奴を驕らせるべきです。そうすれば隙もできますので、それを狙って攻撃すれば、必ず勝てます。」
 烏孤はこれに従った。

 二十年、七月。禿髪烏孤が、乙佛、折掘等諸部を攻撃し、これらを全て降伏させた。そこで、烏孤は廉川堡へ城を築き、ここを都とした。
 さて、廣武に趙振とゆう男が居た。彼は若い頃から機略に富んでいたが、烏孤が廉川に都を築いたと聞き、彼の元へ駆けつけた。
 烏孤は大いに喜んだ。
「趙生が、吾が許へ来た。天下を奪ったも同然だ!」
 そして、趙振を左司馬とした。
 呂光は、烏孤を廣武郡公に封じた。

 二十一年、呂光が烏孤のもとへ使者を派遣し、彼へ「征南大将軍、益州牧、左賢王」の称号を与えた。烏孤は使者へ言った。
「呂王の諸子は貪淫、三人の甥は暴虐。民はみんな怨んでおる。民衆の心を無視して不義の爵位を受けるなど、とんでもない!帝王の事は、我が自ら行う!」
 そして、使者を追い返した。

 

 後涼の衰弱

 安帝の隆安元年(397年)、正月。呂光は西秦を攻撃し、大敗した。(詳細は、「乞伏、金城に據る」に記載)
 烏孤は「大都督、大将軍、大単于、西平王」を自称した。大赦を下し、太初と改元する。そして廣武の兵を出動し、涼の金城を攻撃、これに克つ。
 涼王呂光は将軍の竇苟を派遣してこれを討伐させたが、この戦役でも涼軍は大敗した。

 涼で沮沐(「水/巨/木」)蒙遜が造反した。
 五月、呂光は太原公呂簒(呂光の息子)へ蒙遜討伐を命じた。蒙遜は敗北し、涼の建康太守段業のもとへ逃げ込んだ。呂簒は、引き続き段業を攻撃するよう命じられた。(詳細は、「蒙遜、張掖に據る」に記載。)

 涼の散騎常侍の郭暦は天文数術に精通し、国人から信重されていた。火星が東井へ位置した時、郭暦は僕射の王詳へ言った。
「東井は涼の分野です。きっと大きな戦乱が起こります。今、我が国は、主上は老病、太子は闇弱。そして太原公は凶悍な人間。主上がお亡くなりになられたら、必ず禍乱が起こります。我等二人は、長い間要職に就いておりましたので、太原公は切歯扼腕しておりました。彼が乱を起こしたら、真っ先に我等二人を害します。さて、田胡の王乞基は、最強の部族。二苑(姑藏には、東苑城・西苑城があった)の人々の中にも、その配下は大勢降ります。私は、公と共に王乞基を推戴して乱を起こそうと思います。そうすれば、二苑の民衆は、我等の許へ集まるでしょう。」
 王詳はこれに従った。
 八月、郭暦は二苑の人々を指揮して洪範門を焼き払い、王詳に内応させる手筈を整えたが、機密が漏洩し、王詳は誅殺された。残った郭暦は、東苑を率いて造反した。すると人々は「聖人が造反した。きっと成功するに違いない。」と噂して、大勢の人間が彼等に従った。
 呂光は、郭暦討伐を、呂簒へ命じた。呂簒が軍を返そうとすると、諸将は言った。
「段業が追撃を掛けます。夜半にこっそりと出立するべきです。」
 すると、呂簒は言った。
「段業は臆病者だ。城に籠もって固守するのが関の山、追撃など無い。もしも夜中にコソコソと逃げ出したりすれば、却って奴目を調子づかせてしまうぞ。」
 そして、段業の許へ使者を派遣して伝えた。
「郭暦めが造反したので、我が軍は今から都に帰る。卿がもしも決着を付けたかったら、サッサとかかってこい。」
 そうして軍を退いたが、段業は追撃しなかった。
 呂簒の司馬の楊統が、従兄の桓へ言った。
「郭暦ほどの人間が造反する以上、必ず根拠がある。我は呂簒を殺して兄を盟主に推戴したい。そして、西へ進軍して呂弘(呂簒の弟)を襲撃し、張掖に據り、諸郡へ号令を掛けるのだ。今こそ千載一遇の好機だぞ!」
 これを聞いて、楊桓は怒った。
「我は呂氏の臣下となり、安寧の時にその禄を喰んだ。それなのに、危機に当たって救わないどころか、却ってその危難を増大させろと言うのか!もしも呂氏が亡ぶのならば、我は弘演となってみせるわ!(弘演は春秋時代の人。衛の懿公に殉じた忠臣)」
 番禾まで進んだ時、楊統は造反し、郭暦のもとへ走った。
 呂簒は西安太守石元良と共に郭暦を攻撃した。大勝して姑藏へ入城する。
 郭暦は、東苑城にて、呂光の孫を八人捕らえていた。この敗戦で彼はムカつき、この八人を悉く八つ裂きにしてその血を啜り、衆人と盟約を交わした。衆人は、皆、目を背けた。

 涼の人張捷、宋生等が、戎、夏三千人をかき集めて、休屠城にて造反した。彼等は、郭暦と共に涼の後将軍楊軌を推戴して盟主とした。楊軌は、略陽のてい族である。
 将軍の程肇が諫めて言った。
「龍頭を棄てて蛇尾へ就くなど、失策です。」
 だが、楊軌は聞かず、「大将軍、涼州牧、西平公」と自称した。

 呂簒は、郭暦の将王斐を城西にて撃破した。勢力が衰えた郭暦は、禿髪烏孤へ救援を求めた。九月、烏孤は、弟の驃騎将軍利鹿孤へ五千騎を与えて派遣した。

 二年、正月。西秦が涼の三城を攻撃し、これに克った。

 同月、楊軌は、西平相の郭緯へ留守を任せ、自身は二万の兵を率いて郭暦のもとへ赴いた。禿髪烏孤は、弟の車騎将軍辱檀へ一万の兵を与えて、楊軌を助けさせた。楊軌は姑藏へ着くと、城北へ屯営した。
 四月、呂簒は楊軌を攻撃した。だが、郭暦が救援に入り、呂簒は敗北した。
 六月、楊軌は、兵力に驕り、呂光と決戦しようと逸ったが、郭暦は天文を説いてこれを押しとどめた。

 さて、涼の常山公呂弘は張掖を鎮守していたが、段業は沮沐男成と王徳にこれを攻撃させた。そこで、呂光は、呂弘の兵を迎え入れるよう呂簒へ命じた。
 楊軌は言った。
「呂弘の精兵は一万。それが呂光と合流したら、姑藏は益々強くなり、奪取できなくなる。」
 そこで、禿髪利鹿孤と共に呂簒を襲撃し、大敗した。楊軌は王乞基のもとへ逃げた。
 郭暦は偏狂で残忍な性分だったので、士民からそっぽを向かれていた。楊軌が敗北すると、彼は西秦へ降伏した。西秦王乾帰は、彼を建忠将軍、散騎常侍とした。
 呂弘は兵を率い、張掖を棄てて東へ向かった。

 

楊軌の投降

 九月、楊軌は廉川へ屯営した。そして、夷・夏の衆万余をかき集める。
 王乞基は楊軌へ言った。
「禿髪氏は、才覚があり、兵力も多い。それに、乞基の主人でもあった。これに帰順するのが一番だ。」
 そこで、楊軌は使者を派遣し、烏孤へ降伏した。
 やがて、楊軌はきょう酋の梁飢に敗北し、零海まで逃げた。しかし、ここで乙佛鮮卑を襲撃し、どうにかその地に據ることができた。
 烏孤は群臣へ言った。
「楊軌も王乞基も、我へ本気で帰順しようとしている。卿等の救援が遅れれば、彼等はきょう族に滅ぼされてしまうぞ。そうなったら、我の名折れだ!」
 すると、平西将軍の渾屯が言った。
「梁飢は、深謀遠慮がありません。一戦で捕らえて見せましょう。」
 梁飢は西平へ進攻した。すると、住民の田玄明が太守の郭倖を捕らえて、民衆を掌握した。そして、梁飢軍と防戦し、息子を人質として烏孤へ差し出したのである。
 烏孤はこれを救援に向かおうとしたが、臣下達は梁飢の強力な軍隊を懼れた。すると、左司馬の趙振が言った。
「楊軌は敗残の兵。呂氏は、今が盛り。ですから、洪池以北は、手を出せません。しかし、嶺南の五郡は、奪取することができましょう。もしも大王に、領土拡大の野望がなければ、私は何も言いません。しかし、四方を経営しようと思われているのなら、この好機を逃してはなりません。あのきょう族が西平を占領すれば、華・夷共に震動します。それは、我等にとっては不利なことです。」
 烏孤は喜んだ。
「我は、好機を掴んで大功を建てたい。なんで、こんな窮谷で安閑としていようか!」
 そして、群臣へ向かって言った。
「もしも梁飢が西平を制圧して山河の険に據ったなら、もう手がつけられん。梁飢の軍団は、確かに勇猛。しかし、その軍規は整っていない烏合の衆だ。撃破するなど容易いぞ!」
 遂に進軍して梁飢と戦い、これに大勝した。梁飢は退いて龍支堡に屯営したが、烏孤は進攻してこれを抜く。梁飢は単騎で澆河まで逃げた。
 この戦いで、数万人の敵兵を、捕らえ又は斬り殺した。烏孤は、田玄明を西平内史に任命した。又、楽都太守田瑶、湟河太守張周、澆河太守王稚が、領地ごと帰順してきた。こうして、嶺南のきょう、胡数万落が烏孤の傘下へ入った。
 十一月、楊軌と王乞基が数千戸を率いて烏孤へ帰順した。
 十二月、禿髪烏孤は、武威王と名乗った。

 

 烏孤の隆盛

 三年、正月。烏孤は楽都へ移動した。又、領内の要地については、次のように統治させた。
 弟の西平公利鹿孤に、安夷を鎮守させる。同じく弟の廣武公辱(「人/辱」)檀に、西平を鎮守させる。叔父の素屋に、湟河を鎮守させる。若留に澆河を鎮守させる。従弟の替引に嶺南を鎮守させる。洛回に廉川を鎮守させる。従叔の吐若留に浩畳を鎮守させる。
 おおよそ、夷族と中国人とを問わず、才能に従って職務を任せたので、国は大いに治まった。
 烏孤は群臣へ言った。
「隴右、河西は、もともと数郡の土地だった。(漢代、隴右は隴西・金城の二郡、河西は武威・張掖・酒泉等四郡だった)それが、この乱世で、今では十余国が乱立している。その中では、呂氏・乞伏氏・段氏の勢力が強い。今、これを攻略しようと思うが、この三者の内、どこから先にすればよいか?」
 すると、楊統が言った。
「乞伏氏は、もともと我等の部族でした。最後には服従してくるでしょう。段氏は書生あがり。将来の禍根にはなりませんし、我等と好を通じております。これを攻撃するのは不義と言うものです。呂氏については、呂光は耄碌しており、嗣子は微弱、呂簒・呂弘は有能ですが、互いに猜疑し合っております。もし、奴等の虚に乗じて浩畳、廉川から攻め込めば、奴等は奔命に疲れ果てます。二年のうちに滅ぼせましょう。してみるなら、姑藏こそ攻略するべきです。姑藏を占領すれば、乞伏氏・段氏は攻撃せずとも、自ら降伏してくるでしょう。」
 烏孤は言った。
「善し!」

 

南涼成立。(付、烏孤卒す。)

 二月、段業が涼王を名乗った。(北涼の成立。詳細は、「蒙遜、張掖に據る」に記載。)
 六月、烏孤は、利鹿孤を涼州牧と為し、西平を鎮守させた。又、車騎将軍の辱(「人/辱」)檀を、録府国事へ入れた。
 八月、烏孤が酔っぱらって乗っている馬を傷つけて事故を起こし、それが元で卒した。臨終の際、烏孤は、年長の主君を立てるよう遺言したので、重鎮達は弟の利鹿孤を立てて、武威王とした。
 烏孤の諡は武王。廟号は烈祖。利鹿孤は大赦を下した。

 

禿髪利鹿孤

 四年、正月。禿髪利鹿孤は大赦を下し、「建和」と改元する。

 五月、楊軌と田玄明が利鹿孤暗殺を企てたので、利鹿孤は彼等を殺した。

 五年、正月。利鹿孤は帝号を僭称したがった。群臣もこれを勧めたが、安国将軍の輸勿崙が言った。
「我が国では、上古よりザンバラ髪で左袵(胡の服装)しており、冠帯の飾りなどなかったものです。そして、水や草を追って移り住むのが我等が生活。城郭や家屋に定住など、したことがない。だからこそ、この砂漠で暴れ回れ、中夏とも対等に戦えたのです。
 今、大号を挙げることは、全く、我等が願いに叶うこと。しかし、都を建て邑を立てれば、それは後々、患いとなりましょう。倉庫を造って宝物を蓄えれば、敵を招き寄せることとなりましょう。ですから、華人は城郭に住まわせて、農桑を奨励して穀物を作らせ、我等は今まで通り戦射を習わせるべきです。そして、隣国が弱くなればそれに乗じ、強ければ逃げる。これこそ、長久の良策です。それに、虚名無実な位など、何の役に立ちましょうか!」
 利鹿孤は頷いた。
「その言葉は正しい。」
 そこで、河西王と改称するに留めた。(武威は一郡のみ。河西は四郡の総称)
 廣武王の辱檀を「都督中外諸軍事、涼州牧、禄尚書事」とする。

 六月、利鹿孤は、群臣へ忌憚ない意見を述べるよう命じた。すると、西曹従事の史高が言った。
「陛下が出征なされば、負けたことがありません。しかし、戦勝の後は民の慰撫に留意せず、敵の住民を略奪して連れ帰ることに専念しております。おおよそ、民は自分の生まれ故郷を恋しがるもの。ですから、離反する者が後を絶たないのです。そしてこれこそが、敵将を斬り敵城を抜きながらも、我が領土がなかなか増えない原因でございます。」
 利鹿孤は、これを善とした。

 

辱檀、即位。

 元興元年(402年)、三月。利鹿孤は病に伏せった。国事の全てを弟の辱檀へ譲るよう遺言する。
 話は遡るが、禿髪思復建は、辱檀を溺愛しており、かつて、諸子へ言った。
「辱檀の器識は、お前達の及ぶところではない。」
 それで、諸兄は、自分の息子へ位を伝えず、弟へ伝えていったのだ。
 利鹿孤は、王位に即いていた時、ただ手を拱いていただけで、軍国の大事は全て辱檀へ任せていた。
 利鹿孤が卒すると、辱檀は王位を継ぎ、「涼王」と改称した。(南涼の成立。)弘昌と改元し、楽都へ遷都する。利鹿孤へは、康王と諡した。

 この年、後秦は南涼へ使者を派遣し、禿髪辱檀を車騎将軍、廣武公とした。
 二年、辱檀は後秦の国力を畏れ、弘昌の年号を取り下げ、尚書や丞といった官職名も改称した。

 

後秦との外交

 三年、二月。参軍の関尚を使者として後秦へ派遣した。
 すると、後秦王姚興は言った。
「車騎は我が国の藩塀となることを申し入れてきたが、勝手に兵を動かして、城を築いて居る。これが臣下のやることか?」
 関尚は答えた。
「王公は、険阻な地形に砦を築いて国を守るものでございます。それが、先王の定めた制度ではありませんか。車騎将軍はこの国の西の端に領土を持っておりますので、敵の侵入を挫いて、御国の為に防波堤となる所存。どうか陛下、お疑いになられますな。」
 姚興は、これを善しとした。
 辱檀は領涼州を求めたが、姚興は許さなかった。

 義煕二年(406年)、六月。辱檀が北涼王沮沐蒙遜を攻撃し、蒙遜は籠城した。

 辱檀は、赤泉まで行き、引き返した。そして、後秦へ馬三千匹、羊三万匹を献上する。姚興は、これを忠義と受け取り、辱檀へ「都督河右諸軍事、車騎大将軍、涼州刺史、鎮姑藏」の称号を賜下し、姑藏を鎮守している王尚を長安へ呼び戻した。
 すると、涼州の住民申屠英等が、主簿の胡威を長安へ派遣し、王尚を涼州へ留めるよう請願した。姚興は許さない。それでも胡威は姚興へ謁見し、涙を零して言った。
「私達の州が陛下の領土となってから、五年経ちました(隆安五年に、呂隆が後秦へ降伏した)。辺境の土地で、陛下の御威光からは遠く離れておりましたが、それでも士民が肝胆凝らし、力を合わせて孤城を守り抜いてきたのでございます。我等一同、陛下の聖徳を仰ぎ、賢良な代官の仁政のおかげで、どうにか土地を保ち、今日へ至ったのでございます。
 それが、陛下は馬三千匹と羊三万匹との引き替えに、我等を涼王へ売られるのでございますか?これでは人を賤しみ、畜生を貴ぶ事に他なりません。とんでも無いことではありませんか!もしも馬によって朝臣を贖うことができるなら、涼州三千余戸が、各々一匹ずつ馬を献上しましょう。そうすれば、三千匹の馬など、一日にして揃うではありませんか!
 昔、漢の武帝は天下の資力を傾けてまで河西を開拓し、匈奴の右膂を断ち切りました。今、陛下は理由もなく五郡の土地と、そこに住まいする良民華族を放棄し、暴虜の資けとなさいます。これは、涼州の民が塗炭の苦しみに陥るだけではありません。聖朝にとっても、自分の首を絞める行為となることを、私は憂うのです。」
 ここまで言われて、姚興は後悔した。そこで、車普を使者として派遣して王尚を途中で留め、別の使者を派遣して、辱檀を諭した。
 しかし、辱檀は承服せず、三万の軍を率いて、五間まで進んだ。車普は姚興の書状を示したが、辱檀はこれに迫り、王尚を追い出して姑藏へ入城した。
 別駕の宋敞が、王尚を長安まで送り届けようとした。すると、辱檀は言った。
「我は涼州三千余家を手にしたが、卿一人が頼みだった。どうして我を捨てて去って行くのか!」
 宋敞は言った。
「今、私の旧君を送って行きます。それが殿下への忠誠でございます!」
「我はこの州を手にしたばかり。領民を手懐ける良策はないか?」
「今でこそ涼州は疲弊しきっておりますが、もともと形勝の土地。殿下がその民を慰撫し、俊賢を抜擢すれば、民は殿下に懐きます。」
 そして、涼州の文武の名士十余名を列挙した。辱檀は大いに喜んだ。
 長安へ帰った王尚を、姚興は尚書に任命した。

 辱檀は、宣徳堂へ群臣を集めて盛大な宴会を開いた。
 宴たけなわの時、彼は天を仰いで嘆じた。
「『作る者は居らず。居る者は作らず』とは古人の言葉だが、よく言ったものではないか。まさしく、この言葉の通りだ。」
 すると、孟緯が言った。
「昔、張文王(前涼の張駿)がこの宮殿を建ててから、百年が経ちました。その間、主も移り変わり、殿下で十二人目でございます。その中で、信義を履行し正しいことを行った者は、その統治も長続きいたしました。」
 辱檀は、その言葉を善しとした。

 八月、辱檀は、姑藏の鎮守を文支へ委ね、楽郡へ帰った。
 辱檀は、後秦の爵位を拝受していたが、その車服礼儀は、皆、王者のそれだった。
 十一月、辱檀は再び姑藏へ戻った。

 三年、七月。辱檀は後秦へ対して二心を抱き、西秦の乞伏熾磐のもとへ使者を派遣した。しかし、熾磐はその使者を斬り殺し、首級を長安へ送った。(この頃の西秦は、まだ後秦の属国だった。後秦の衰弱につけ込んで自立を目論むのは、翌年のこと。「乞伏、金城に據る」参照)
 九月、辱檀は五万の軍兵を率いて北涼を攻撃した。北涼の蒙遜は、均石にて迎撃し、辱檀軍を大いに破った。

 この頃、赫連勃勃の勢力が増大し、夏国を建国した。(詳細は、「赫連、朔方に據る」参照)

 

赫連勃勃

 赫連勃勃は、辱檀へ通婚を求めたが、辱檀は断った。
 十一月、勃勃は騎兵二万を率いて辱檀を攻撃し、支陽まで進んだ。万余人を殺傷し、二万七千余人の人間と牛馬羊数十万を略奪して帰る。
 辱檀は、衆を率いて追撃した。
 焦朗が言った。
「勃勃は、英雄の姿を持ち、その軍は整然と整っています。軽々しくは扱えません。ですから、まず、温囲から河を渡り、万斗堆へ赴いて、水源地を掌握して陣を張りましょう。そうすれば、百戦百勝疑い在りません。」
 すると、辱檀の部将賀連が怒って言った。
「勃勃など、滅亡した部落の死に損ない。その部下は烏合の衆。それを相手に迂回するなど、天下へ弱みを示すようなもの。このまま追撃するべきです!」
 辱檀はこれに従った。
 勃勃は、陽武にて、車を道へ埋めて即席の砦とし、辱檀を迎撃して大勝利を収めた。八十余里程追撃し、一万以上の兵卒を殺す。この戦いで、辱檀麾下の名臣勇将が、十六、七人戦死した。
辱檀は、わずか数騎にて、逃げ帰った。勃勃は、殺した敵兵の死体を積み重ね、「ドクロ台」と名付けた。
 辱檀は、外寇を畏れて、国境付近三百里以内に住む住民を、姑藏へ移住させた。この処置に国人は驚き、怨んだ。そこで、成七児とゆう男が決起したところ、一夕にして数千人の人間が集まった。
 だが、殿中都尉の張猛が衆人へ向かって、叫んだ。
「主上の今回の敗北は、大軍を恃んで軽率に動いた為だ。しかし、我が身を責めて過ちを悔いたなら、その聡明さの汚点とはならない。それなのに、諸君はこんな小人へ従って乱を為すのか!今に殿中兵がやって来たら、禍は目前に在るぞ!」
 これを聞いて、衆人は、皆、散っていった。七児は晏然へ逃げたが、追っ手が出て、斬り殺した。
 又、勃勃は、後秦の将張佛生を青石原にて破り、五千余人を捕らえ、或いは殺した。
軍諮祭酒の梁哀、輔国司馬の辺憲などが造反を謀ったが、辱檀はこれを皆殺しとした。

 

後秦の来寇

 四年、五月。南涼が内外共に多難なことを知って、姚興がこれを滅ぼそうと考えた。そこで、まず尚書郎の葦宗を使者として、南涼へ派遣し、様子を窺わせた。
 辱檀は、葦宗と経世の大略について語り合ったが、その施策は、縦横無尽で尽きることがない。退出して、葦宗は言った。
「中華の民でなくても、奇才英器は居るものだ。書を読まなくとも、明智敏識の人間が居るものだ。九州の外、五経の表にも人が居ることを、今日始めて知った。」
 帰国すると、姚興へ言った。
「涼州は疲弊したとはいえ、辱檀の才覚はずば抜けております。これと戦ってはなりません。」
 すると、姚興は言った。
「劉勃勃の烏合の衆でさえ、あれを撃破できたのだ。況や、我が天下の兵力を挙げてこれを討つのだぞ!」
「そうではありません。形勢が変われば、状況は変化するもの。驕れる者は破りやすく、畏れ戒める者を攻めるのは至難の業です。辱檀が勃勃に敗れたのは、これを軽んじていたからです。今、我等が大軍でこれに臨めば、彼は必ず懼れ、万全を期します。臣が密かに窺いますに、我が国の群臣には辱檀以上の才覚を持つ者など一人もおりません。天威を以てこれに挑んでも、万全の勝利は保証できません。」
 姚興は聞かず、子息の中軍将軍廣平公弼、後軍将軍斂成、鎮遠将軍乞伏乾帰へ歩騎三万を与え、辱檀を攻撃させた。そして、左僕射斉難には、二万の騎兵で勃勃討伐を命じた。
 吏部尚書尹昭が諫めた。
「南涼は、我が国から遠く、しかも険阻な地形。それを恃めばこそ、辱檀は傲慢に接しているのです。ここは、沮沐蒙遜と李高へ詔を下し、辱檀討伐を命じましょう。彼等が共倒れになってくれれば、何も中国の兵を動かす必要はありません。」
 姚興は、これも聞かなかった。
 姚興は、討伐に先立って、辱檀へ書を送った。
「今、斉難へ勃勃討伐を命じた。だが、奴等は西へ逃げるかも知れない。そこで、弼等を河西へ派遣し、奴等が逃げ出してきたら、討つ。」
 辱檀は納得し、後秦軍へ対して備えをしなかった。
 弼が金城から河を渡ると、姜紀が弼へ言った。
「今、辱檀は、我が軍の宣伝にウマウマと乗せられ、備えをしておりません。ですから、どうか五千の軽騎を私にお貸し下さい。あの城門を封鎖すれば、山沢の民は全て我等の物です。そうすれば、城は孤立無援。簡単に落とせます。」
 弼は裁可しなかった。
 後秦軍が漠口まで進軍すると、昌松太守の蘇覇が城を閉じてこれを拒んだ。弼が使者を派遣して降伏を勧告すると、蘇覇は言った。
「お前達は信義を踏みにじって我が国を攻撃したのだ。例え死ぬとも、降伏何ぞするものか!」
 弼は攻め込み、これを斬った。
 後秦軍は、長躯姑藏を目指す。辱檀は城門を閉ざして固守し、奇兵を使って弼を撃ち、撃破した。弼は西苑まで撤退する。
 姑藏城内では、王鐘等が内応を企てたが、その計画は未然に漏洩した。辱檀は首謀者だけを殺し、その他は赦してやろうと思ったが、前軍将軍の伊力延侯が言った。
「今、城外には強敵が控えております。この時、姦人が内応をたくらむなど、国家にとって重大な危機です。全員を穴埋めにしなければ、今後の懲戒になりません!」
 辱檀はこれに従い、五千余人を殺した。
 辱檀は、牛や羊を野へ放つよう、各郡県へ命じた。これが実行されると、斂成は牛羊の略奪の為にその兵卒を散らしてしまった。そこで、辱檀は鎮北大将軍倶延、鎮軍将軍敬帰等にこれを攻撃させた。後秦軍は大敗し、南涼は七千余級の首を挙げた。
 弼は、塁を固守して軽々しくは出撃しない。辱檀はこれを攻撃したが、勝てなかった。
 七月、姚興は、衛大将軍常山公顕へ二万の兵を与え、後続として派遣した。顕は、高平まで来たところで、弼の敗北を聞き、軍足を早めて戦場へ急いだ。
 涼風門へ到着すると、顕は、孟欽等射撃の巧者五人を出して、南涼軍へ挑戦した。だが、彼等が矢を射る前に、南涼の材官将軍宋益等が迎撃し、これを斬った。
 顕は、全ての罪を斂成へ押しつけ、使者を派遣して、辱檀へ謝罪し、河外を慰撫して帰国した。辱檀も、使者を派遣して、後秦へ謝罪した。

 なお、夏を討伐した斉難も、勃勃に大敗した。
 この敗戦によって後秦の国力は大幅に削減し、以後、西秦(乞伏乾帰)は、自立を企てることとなる。(詳細は、「乞伏、金城に據る。」に記載。)

 十一月、禿髪辱檀は、再び涼王を潜称した。大赦を下し、嘉平と改元する。
 百官を設置し、夫人の折掘氏を皇后に立てる。世子の武台を太子、録尚書事とする。又、左長史の趙亀を尚書左僕射に、右長史の郭倖を尚書右僕射に、昌松侯倶延を太尉にした。