吐谷渾   
 
 至徳二年(584年)、四月。隋の上大将軍賀婁子幹が五州の兵を徴発して吐谷渾を攻撃した。吐谷渾の男女一万余人を殺し、二十日余りで帰国した。
 隴西は、屡々遊牧民族から襲撃を受けていたが、民は防備をしていなかった。そこで隋の文帝は、民衆を使役して堡を築き屯田を営んで穀物を蓄えるよう、賀婁子幹へ命じた。すると、賀婁子幹は上書した。
「隴右や河西は、土地は広大で人口が少なく、その辺境は戦闘続きですから、新田の開墾など、とてもできません。現在屯田を営んでいる場所と比べましても、費用ばかりかかる上、土地の人々は農業になれていないので、結局は失敗するでしょう。それよりも、隴右の人々は牧畜を事としております。一ヶ所へ集めるだけでも、その生活は破綻します。彼等へは、狼煙台を築かせるべきであります。そうすれば、彼等が散居していても安心でしょう。」
 文帝は、これに従った。また、賀婁子幹が辺境に精通しているとして、楡関総管とした。 

 吐谷渾可汗の夸呂は、在位して百年。その間、喜怒の感情で、皇太子の廃立や殺害を屡々行っていた。皇太子は恐れ、夸呂を捕らえて隋へ降伏しようと考え、隋の辺域の官吏に援軍を請うた。隋の秦州総管の河間王弘は、これを朝廷へ伝えて許可を願ったが、文帝は許さなかった。
 太子は、陰謀がばれて夸呂に殺された。夸呂は末っ子の訶を太子とした。
 畳州刺史の杜粲は、この隙を衝いて吐谷渾を攻撃しようと請願したが、文帝はこれも許さなかった。
 四年、訶も誅殺されることを畏れ、麾下の部落五千戸を率いて隋へ降伏しようと考え、出兵して迎え入れてくれるよう請願した。これを聞いて、文帝は言った。
「吐谷渾の風俗は、余りに異常だ。父親は慈愛を知らず、子も不孝。朕は今まで、徳で人を教えてきた。どうして悪逆を助勢できようか!」
 そして、使者へ言った。
「父親に過失が在れば、これを諫めるのが子の務め。密かに陰謀を巡らせて親不孝の悪名を取って良いものか!この天の下に住む者は、全て朕の臣妾である。皆が善事を為すことこそが、朕の望み。太子が朕へ帰順したいと言うのなら、朕はただ、太子へ臣下として子としての心構えを教えよう。兵を出して其の悪行を助成させることなど、できぬ。」
 太子は、降伏を中止した。 

 禎明二年(588年)、吐谷渾の裨王の拓跋木彌が千家を率いて隋へ降伏を申し込んだ。すると、隋の文帝は言った。
「この天の下に住む者は、一人残らず朕の臣である。朕は、これを仁と孝の想いで撫育している。今、吐谷渾の賊は混迷凶暴で、妻や子息でさえ命惜しさに帰化を願う。しかし、夫に背き父に背いた人間を受け入れることはできない。だが、ただ死にたくない一心ならば、これを断るのも余りに不仁だ。もしももう一度願い出るようなら、一身だけ受け入れろ。出兵の必要はない。」 

 開皇九年(589年)、隋が陳を滅ぼした。吐谷渾可汗の夸呂は大いに懼れ、険阻な土地へ逃げ込んで、隋へ来寇しようとしなくなった。夸呂が卒すると、子息の世伏が立った。
 十一年、吐谷渾は、隋へ入貢した。
 世伏は、甥の無素を使者として、藩と称して数々の献上物を捧げ、後宮の為に女性をかき集めるとまで申し出た。
 文帝は言った。
「卿が入貢したことを聞けば、近隣の国々もそれに倣ってくれるだろう。どうして拒んだりしようか。しかし、朕の想いは、民が安らかに暮らすことにある。子女をかき集めて後宮を満たすことなど、朕の望みではない。」 

 十七年、吐谷渾で大乱が勃発した。国人は世伏を殺し、その弟の伏允を立てて主君とした。彼等は事の次第を随へ報告し、勝手に主君を殺した罪を詫びたけれども、彼等の風習に従って伏允を王と認めるよう請願した。
 文帝は、これを許諾した。以来、吐谷渾から随への朝貢が絶えなくなった。 

 仁寿四年(604年)、隋の文帝が死んで煬帝が立った。 

 西域の諸胡の多くは、張夜(「手/夜」)(隋の西の端にある郡。唐代の甘州)へ交易に来ていた。煬帝は、その交易に関しては、吏部侍郎裴矩へ掌握させていた。
 ところで煬帝は見栄っ張りな性格で、隋の威光を遠方まで輝かせたがっていた。裴矩はこれを知っていたので、胡人の商人が来る度に彼等を呼び寄せて、諸国の地理風俗、王や庶民の服装などを聞き取った。
 大業三年(607年)、裴矩は西域図記三巻を作成し、献上した。これには四十四国の風俗が記載されていた。また、それとは別に地図を作った。これには要害と、敦煌から西海へ至る二万里の三つの道(北道は伊吾を通り、中道は高昌を通り、南道はゼンゼンを通る。)が記載されていた。
 裴矩は言った。
「我が国は、徳は盛んで将士は驍勇。西域を服属させるなど掌を返すようなもの。ですが、突厥と吐谷渾がキョウ、胡の領域を二分して邪魔しておりますので、彼等の朝貢が来ないのです。西域の酋長達は、商人を派遣して、彼等の心情を述べ立てております。彼等は、我が国の臣妾になりたがっているのです。ですから、彼等へ使者を派遣するだけで、西域諸国は挙って我等の属国になるでしょうし、軍隊を動かさなくても突厥や吐谷渾を滅ぼせます。そうすれば陛下の業績は、前代のどんな皇帝をも抑えて青史に燦然と輝くでしょう。」
 煬帝は大いに悦び、裴矩へ帛三百段を賜下して謁見し、西域の事情を聞き取った。すると裴矩は頻りに言った。
「西域には珍宝が多く、吐谷渾などすぐにでも滅ぼせます。」
 煬帝は秦の始皇帝や漢の武帝の功績に憧れ、西域の経略を裴矩へ任せた。裴矩は黄門侍郎となって、張夜へ戻る。そこで裴矩は西域諸国へ使者を派遣し、彼等を利で誘って朝貢させた。
 西域の酋長達はこの誘いに乗り、以来、西域諸国から多くの使者がやってくるようになった。その度に隋は彼等へ多くの金帛を賜下し盛大に持てなしたので、その費用は億にものぼり、隋の民は、その負担に苦しむようになった。
 この年、鉄勒が辺域で略奪を働いた。煬帝は将軍馮孝慈を敦煌から出撃させる。鉄勒が降伏してきたので、煬帝は裴矩を使者として、これを慰撫した。 

 四年、七月。裴矩は鉄勒をそそのかして吐谷渾を攻撃させ、大勝利を収めた。吐谷渾の伏允可汗は東へ逃げ、西平へ入って、隋へ降伏の使者を派遣した。
 煬帝は彼等を迎え入れようと、安徳王雄と宇文述を派遣した。しかし、宇文述があまりに大軍だったので、吐谷渾は降伏しないで更に西へ逃げた。宇文述は曼頭、赤水の二城を抜き、三千の首級を挙げた。王公以下二百人と、男女四千人を捕虜として凱旋する。
 伏允可汗は南方雪山へ逃げた。
 こうして吐谷渾の領土は空き地となった。その広さは、東西四千里、南北二千里。隋は、ここに郡を設置して軽犯罪人の流刑地とした。 

 五年、三月。煬帝は河右へ西巡した。黄河を渡り、西平へ至り、ここで練兵を行い吐谷渾攻撃の姿勢を見せた。
 五月、抜延山にて盛大に狩猟を行う。この時の包囲陣は、二十里もあった。
 更に進むと浩畳川へ出たが、橋が架かってなかったので、急遽架けさせ、更に進んだ。
 伏允可汗は、部下を率いて覆袁川を確保した。対して隋は、内史元寿を南方の金山へ、兵部尚書段文振を北方の雪山へ、太僕卿楊義臣を東方の琵琶峡へ、将軍張寿を西方泥嶺へ配置し、これを包囲した。
 伏允可汗は数十騎で逃げ出し、部下の一人を身代わりにして伏允可汗と名乗らせ、車我真山へ立て籠もらせた。隋は右屯衞大将軍張定和へ、これを攻撃させた。張定和は敵を甘く見て、鎧も着ないで進軍した。吐谷渾は、伏兵を置いて、彼を射殺した。しかし、副将の柳武建が吐谷渾を攻撃し、撃破した。
 甲午、吐谷渾の仙頭王が力尽き、男女十万人を率いて降伏した。
 六月、左光禄大夫梁黙が伏允を追討したが、伏允軍の反撃にあって敗北。梁黙は戦死した。
 衞尉卿の劉権が伊吾道から進軍して吐谷渾を攻撃。青海まで進軍して千余人を捕虜とし、勝ちに乗じて更に進軍。伏俟城まで至った。
 煬帝は、張夜まで進む。
 今回、煬帝が西巡するに先だって、裴矩を高昌王麹伯雅や伊吾の吐屯設のもとへ派遣し、利益で誘って入朝させようとした。煬帝が燕支山まで来ると、麹伯雅や吐屯設及び西域二十七国の酋長達がズラリと道の左に並んで謁見した。煬帝は、彼等へ金玉を佩服させ錦で着飾させ、香を焚いて音楽を奏で、舞姫に踊らせた。そして、武威・張夜の士女達に着飾って見物するよう命じた。
 吐屯設が、西域数千里の地図を献上したので、煬帝は大層御満悦だった。
 癸丑、西海、河源、ゼンゼン、且末等の郡を設置し、天下の罪人達を集めて守備兵とした。劉権には河源郡の積石鎮を鎮守させ、屯田させた。これによって、吐谷渾を防ぎ、西域との通路が開けた。
 煬帝は、裴矩には招懐の才覚があるとして、銀青光禄大夫とした。
 伏允可汗は、子息の順を使者として、降伏を申し入れた。しかし煬帝は、順を軟禁した。伏允可汗は敗走し、戦力も抵戦不能なところまで追い込まれたので、数千騎を率いて党項(タングート)へ亡命した。すると煬帝は順を可汗に立てて玉門へ送り、吐谷渾の遺民達を統制させた。大寶王尼洛周を、彼の補佐とする。だが、西平にて部下達が尼洛周を殺した。順は玉門へ入ることができず、引き返した。
 吐谷渾には青海があり、ここに牝馬を置いておくと竜の種を身籠もるとゆう俗説があった。そこで煬帝は、青海にて牝馬二千匹を放牧したが、効果がなかったので中止した。
 車駕が隋へ帰る途中、寒波に遭い、士卒の大半が凍死し、馬驢も八・九割は死んだ。
 十一月、煬帝は東都へ戻った。 

 八年、隋は高麗へ出兵し、大敗北を喫した。 

 十一月、煬帝は、宗女を華容公主として、高昌へ嫁がせた。 

  武徳五年(622年)六月癸丑、吐谷渾が兆(「水/兆」)、旭、畳の三州へ来寇した。岷州総管李長卿が、これを撃破する。
 八月、甲戌、吐谷渾が岷州へ来寇し、総管の李長卿を破る。益州行台右僕射竇軌と渭州刺史且洛生へ、これを救うよう詔が降りた。
 同月、吐谷渾が兆(「水/兆」)州へ入寇した。武州刺史賀亮を派遣して防御させた。 

 六年、正月、唐が劉黒闥を滅ぼした。
 夏、四月。吐谷渾が芳州へ来寇した。刺史の房當樹は松州へ逃げた。

 丙寅、吐谷渾が、兆(「水/兆」)、岷二州へ来寇した。
 五月、庚辰、唐は岐州刺史柴紹を、岷州救援に派遣した。
 同月、吐谷渾と党項が河州へ来寇した。刺史の盧士良がこれを撃破する。
 六月癸酉、柴紹が吐谷渾と戦い、包囲されてしまった。虜は、高いところから射撃したので、矢は雨のように降ってきた。
 すると、紹は人を派遣して胡琵琶を弾かせた。それに併せて二人の女子が舞う。虜は怪しみ、弓矢を休めてこれを注視した。紹は、敵方が油断したことを察し、精騎を密かに虜の背後へ廻らせて、攻撃した。虜軍は大いに潰れた。 

 八月、吐谷渾が内附した。 

 七年、五月、甲戌、キョウと吐谷渾が連合して松州へ来寇した。益州行台左僕射竇軌を翼州道から、扶州刺史蒋善合を芳州道から派遣して、これを撃たせる。
 六月、丙辰、吐谷渾が扶州へ来寇したが、蒋善合が撃退した。
 七月、吐谷渾が岷州へ来寇した。辛巳、吐谷渾と党項が松州へ来寇した。
 甲申、蒋善合が松州の赤磨鎮にて吐谷渾を撃ち、これを破った。
 八月、己巳、吐谷渾が善(「善/里」)州へ来寇した。
 十月、吐谷渾及びキョウが畳州へ来寇して、合川を落とした。 

 八年、正月、吐谷渾が畳州へ来寇した。
 同月、突厥と吐谷渾が各々交易を求めてきた。これを許す詔が降りる。
 冬、十月、壬申。吐谷渾が畳州へ来寇した。扶州刺史蒋善合が、これを救う。
 十一月、丙午、吐谷渾が岷へ来寇した。
 九年、三月癸巳、吐谷渾、党項が岷州へ来寇した。
 五月丙午、吐谷渾と党項が河州へ来寇した。丙辰、平道将軍柴紹へ兵を与えて派遣し、胡を撃たせた。
 六月、吐谷渾が岷州へ来寇した。
 八月壬戌、吐谷渾が使者を派遣して講和してきた。 

 貞観二年(628年)、癸丑、吐谷渾が岷州へ来寇した。都督の李道彦がこれを撃退した。
 六年、三月庚午、吐谷渾が蘭州へ来寇したが、州兵が撃退した。 

 はじめ、吐谷渾の伏允可汗が使者を派遣して入貢したが、彼が未だ帰国しない内に、善(「善/里」)州にて大いに掠めて去った。上は使者を派遣して略奪行為については赦してやり、伏允へ入朝を命じた。伏允は病気と称して来朝しなかったが、息子の尊王の為に通婚を求めた。上はこれを許し、自ら迎えに来るよう命じたが、尊王も又来朝しなかったので、婚姻は頓挫した。伏允は、また派兵して、蘭、廓二州へ来寇した。
 伏允は年老いており、その臣の天柱王の謀略を信じ、屡々唐の辺境を侵した。又、唐の使者趙徳楷を捕らえた。この時は、上が使者を派遣して説諭すること十回、ようやく返還した。上は吐谷渾の使者を謁見して自ら禍福を以て諭したが、伏允は遂に改悛しなかった。
 八年六月、左驍衞大将軍段志玄を西海道行軍総管、左驍衞将軍樊興を赤水道行軍総管に任命し、辺境の兵と契必、党項軍を率いてこれを攻撃させた。
 十月辛丑、段志玄が吐谷渾を攻撃し、これを撃破。八百余里追い散らし、青海から三十余里の所まで去らせた。吐谷渾は牧馬を駆り立てて逃げた。 

  丁亥、吐谷渾が涼州へ入寇した。己丑、大挙して吐谷渾を撃つよう詔が降る。
 上は李靖を将軍にしたがったが、彼が老齢なので気を遣っていた。すると李靖がこれを聞きつけ、行軍を請うた。上は大いに悦ぶ。
 十二月、辛丑。靖を西海道行軍大総管、節度諸軍とする。兵部尚書侯君集を積石道、刑部尚書任城王道宗を善善道、涼州都督李大亮を且末道、岷州都督李道彦を赤水道、利州刺史高生を鹽澤道行軍総管とし、突厥、契必の衆と合流して吐谷渾を攻撃させた。 

 九年春、正月。今まで党項から内附していた者が、皆、造反して吐谷渾へ帰順した。
 夏、閏五月、癸酉。任城王道宗が庫山にて吐谷渾を敗った。
 吐谷渾可汗の伏允は、野草を悉く焼き払い、軽騎で磧へ逃げ込んだ。
 諸将は言った。
「草がなければ馬は痩せ疲れます。深入りできません。」
 だが、侯君集は言った。
「そうではありません。かつて段志玄軍が軍を返した時、奴等は善州まで追いやられていたのに、今では城下へ迫っています。まだ余力があって、戦いもできるのです。今、奴等は一敗の後で鼠や鳥のように逃げ散っており、斥候さえおりません。君臣は離ればなれとなり、親子も互いに見失う有様。今なら奴等を捕らえるのも塵や埃を払うようものです。この機に乗じなければ、必ず後悔します。」
 李靖はこれに従った。軍を二つに分ける。靖と薛萬均、李大亮は北道から、君集と任城王道宗は南道から進む。
 戊子、靖の部将薛孤児が、曼頭山で吐谷渾を敗り、その名王を斬って沢山の家畜を捕らえ、軍食に充てた。
 癸巳、靖等が牛心堆にて吐谷渾を敗り、また、諸赤水源を敗る。
 侯君集、任城王道宗は、兵を率いて無人の土地を人背余里進軍した。この地方は、盛夏なのに霜が降りる。破邏眞谷を経たが、この地には水がない。人々は氷を食べ、馬は雪を噛んだ。
 五月、伏允を烏海へ追い詰め、これと戦って大いに破り、その名王を捕らえる。
 薛萬均、薛萬徹もまた、赤海で天柱王を敗る。
 赤水の戦いで、薛萬均と薛萬徹は軽騎で先行し、吐谷渾に包囲された。兄弟皆、敵の槍で傷つき、馬を失って徒歩で戦い、従う騎兵も六七割が戦死した。だが、そこへ左領軍将軍契必何力が数百騎を率いて救援に来て全力で奮戦し、向かう敵を次々となぎ倒したおかげで、萬均、萬徹はどうにか助かった。
 李大亮は蜀渾山にて吐谷渾を敗り、名王二十人を捕らえた。
 将軍執失思力は居茹川にて吐谷渾を敗った。
 李靖は諸軍を指揮して積石山河源を経て且末へ至り、吐谷渾を西境まで追い詰めた。伏允が突倫川に居ると聞いたので、于眞(「門/眞」)と契必何力に襲撃させようとしたが、薛萬均は前回の敗北に懲りて、強く不可とした。すると何力が言った。
「虜には城郭があるわけではなく、水や草を求めて移り住んでいるのです。もしも奴等が集まっている時に襲撃しなければ、一朝にして雲のように散ってしまいます。そうしたら、どうしてその巣穴を潰せましょうか!」
 そして自ら驍騎千余を選び、突倫川を直撃した。萬均は兵を率いてこれに従う。
 磧中には水が乏しく、将士は馬を刺してその血を飲んだ。こうして伏允の牙帳を襲撃し、撃破。首級数千を挙げ、家畜二十余万を捕らえる。伏允は単身脱出し、その妻子を捕らえる。
 侯君集等は星宿川を通過して柏梅へ至り、引き返して李靖と合流した。
 大寧王順は、隋氏の甥であり、伏允の嫡子である。隋で侍中となり(人質となったとゆう事)、長い間帰国できなかった。その間に伏允は侍子を太子に立てたので、順は帰国してから常に怏々としていた。李靖がその国を敗るに及んで、国人は切羽詰まり天柱王を怨んだ。順はこれに乗じて天柱王を斬り、国を挙げて降伏を請うた。
 伏允は千余騎を率いて磧中へ逃げ込んだが、十余日もすると衆は逃げ散ってしまい、伏允は左右に殺された。国人は、順を可汗へ立てた。
 壬子、李靖が、吐谷渾平定を上奏した。
 乙卯、その国を復すと詔が降りる。慕容順を西平郡王、出(「走/出」)故呂烏甘豆可汗とする。上は、順が国民から未だ心服されていないのではないかと慮り、李大亮へ精騎数千を与えて声援するよう命じた。
 だが、甘豆可汗は長い間中国で人質となっていたので、国人がなつかなかった。遂に、臣下から殺された。子の燕王諾曷鉢が立った。しかし、諾曷鉢は幼かったので、大臣達が権力を争い、国中が大いに乱れた。
 十二月、兵部尚書侯君集等へ兵を率いて援助に行くよう詔が降りた。まず、使者を派遣して諭し、詔を奉じない者は討伐するように命じた。
 十年三月、丁酉、吐谷渾王の諾曷鉢が使者を派遣し、中国の暦を奉じ年号を使用し、子弟を入侍させたいと、請うてきた。全て許す。
 丁未、諾曷鉢を河源郡王、烏地也抜勤豆可汗とした。 

 十三年、十一月己丑、吐谷渾王諾曷鉢が来朝した。宗族の女性を弘化公主として、これに娶せた。 

 十五年、三月丁巳。果毅都尉席君買が、精騎百二十を率いて吐谷渾丞相の宣王を襲撃した。そして、これを破って、その兄弟三人を斬る。
 初め、丞相宣王は国政を専断しており、弘化公主を襲撃して王の諾曷鉢をさらい吐蕃へ逃げ込もうとの陰謀を企てた。諾曷鉢はこれを聞き、軽騎でゼンゼン城へ亡命した。ゼンゼンの臣威信王は兵を率いて迎え入れた。だから、君買は彼の為に宣王を誅殺したのだ。
 それでも国人は驚き不安がったので、戸部尚書唐倹を派遣して、これを慰撫した。 

 二十三年、六月、太宗皇帝が崩御した。
 永徽三年(652)春、正月、己未朔、吐谷渾、新羅、高麗、百済が使者を派遣して唐へ入貢した。 

 龍朔三年(663)吐蕃と吐谷渾は互いに攻め合い、各々唐へ使者を派遣して曲直を上表し、救援を求めた。上は、どちらも許さなかった。
 吐谷渾の臣の素和貴が罪を犯して吐蕃へ逃げ込み、吐谷渾の虚実を具に語った。吐蕃は兵を発して吐谷渾を撃ち、大いにこれを破る。
 吐谷渾可汗曷鉢と弘化公主は国を棄て、数千帳を率いて涼州へ逃げ込み、内地への居住を請願した。上は涼州都督鄭仁泰を青海道行軍大総管として、右武衞将軍獨孤卿雲、辛文陵を率いて涼、ゼン州へ分屯させ、吐蕃に備えた。
 六月、戊申、又、左武衞大将軍蘇定方を安集大使、節度諸軍とし、吐谷渾の援軍とした。 

 総章二年(669)九月丁丑朔。吐谷渾の部落を涼州の南山へ移住させると詔する。
 官僚達は、吐蕃が侵略した時、自衛できないことを恐れ、まず出兵して吐蕃を撃つよう言った。だが、右相閻立本は、去年飢饉が起こったばかりなのでまだ戦争してはいけないとした。討議は長い間結論が出ず、遂に移住されなかった。 

 咸亨元年(670)、四月。吐蕃が西域十八州を陥した。
 辛亥、右威衞大将軍薛仁貴を邏婆道行軍大総管とし、左衞員外大将軍阿史那道眞、左衞将軍郭待封を副官として、吐蕃を討伐させた。また、吐谷渾へ護衛の兵を与えて故地へ還す。
 しかし、この時、唐軍は大敗を喫した。詳細は、「吐蕃」に記載する。これによって、吐谷渾の故地は全て吐蕃に併呑された。曷鉢は、僅かに親近数千帳とともに逃れることができた。
 この時、吐蕃は強盛を誇っており、ゼン州は狭いので、曷鉢は霊州へ移ることを望んだ。帝は安楽州を設置して、曷鉢を刺史とした。 

 曷鉢が死んで子息の忠が立ち、忠が死ぬと子息の宣超が立った。
 久視元年(700)、三月吐谷渾の青海王宣超を烏地也抜勤忠可汗とする。  

(補足)
 吐谷渾は、晋の永嘉年間に建国し、龍朔三年に吐蕃に国を奪われ、曷鉢は唐に内附した。その後の可汗は忠、宣超、ギコク、兆。彼等は皆、親子である。兆の時に、吐蕃は再び安楽州を奪った。
 吐谷渾の残党は、朔方、河東へ移る。貞元十四年、朔方節度使慕容復を青海国王として可汗号を襲爵させた。復が死んで、吐谷渾可汗もなくなった。ここまで、およそ三百五十年の歴史だった。

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