杜伏威
 
 大業九年(613年)、章丘の杜伏威と臨済の輔公石(「示/石」)は刎頸の交わりをしており、共に亡命して群盗となった。杜伏威は、まだ十六才だったが、戦う時には先陣を切り、退く時には殿となったので、みんなから推されて頭領となった。
 下ヒの苗海潮も衆人をかき集めて盗賊となっていたが、杜伏威は、彼へ書状を送った。
「我等は共に隋の苛政に苦しむ者。各々大義を掲げてはいるが、今のままなら各個撃破され、いつも擒にされることに怯えなければならない。しかし、力を合わせれば強くなる。隋を滅ぼすことだってできるぞ。手を取り合おうではないか。もしも君が我が主人になれるのなら、我は臣下となろう。しかし、そうでなければ我が臣下となれ。一戦して雌雄を決しても良いぞ。」
 苗海潮は恐れ、部下を率いて杜伏威へ降伏した。
 杜伏威は淮南へ転戦し、将軍と自称した。
 江都留守は、校尉の宋景へ討伐させた。杜伏威は負けたふりをして葦の中へ誘い込み、風上から火を放った。宋景の兵は全員焼け死んだ。
 この頃、海陵に趙破陳とゆう賊帥がいた。彼は、杜伏威の兵力が少ないのでこれを軽んじており、力を合わせようと呼び寄せた。
 杜伏威は、輔公石へ武装兵を率いて外に控えさせ、自身は十人ほどの左右を連れ、酒肉を持って中へ入った。座が定まると、杜伏威は即座に趙破陳を殺し、その部下を奪った。 

 東海の李子通は力が強く勇気があった。彼は、最初は長白山の賊帥左才相の部下となった。
 ところで、群盗は大体残忍な人間が揃っているのだが、李子通だけは寛仁な人間だった。だから大勢の人間から慕われ、半年も経たないうちに一万人の兵力に膨れ上がった。
 大業十一年、左才相が彼を忌んだので、李子通は彼のもとを去り、淮水を渡って杜伏威と同盟を結んだ。
 杜伏威は軍中の壮士を選んで養子とした。その数凡そ三十余人。王雄誕、敢(「門/敢」)稜などがその筆頭である。
 やがて、李子通が杜伏威を殺そうとして襲撃した。杜伏威は重傷を負って落馬したが、王雄誕がこれを背負って逃げ、葦の中へ隠して難を逃れた。杜伏威は逃げ出した民を呼び集めて再び勢力を盛り返した。 

 将軍の来整が杜伏威を襲撃して、これを撃破した。杜伏威の麾下に西門君儀とゆう将がいたが、その妻の王氏は肝が据わって力自慢。彼女が杜伏威を背負って逃げた。そして王雄誕が壮士十余人でこれを守り、隋軍相手に力戦したので、なんとか逃れることができた。
 来整は、李子通も攻撃し、これも撃破した。李子通は敗残兵を率いて海陵へ逃げた。そこでふたたび二万人の兵力を得たので、将軍と自称した。 

 義寧元年(617年)、右禦衞将軍陳稜が、杜伏威討伐を命じられた。杜伏威は、兵を率いて迎撃に向かった。ところが陳稜は、城門を堅く閉めて戦わない。そこで杜伏威は婦人の服を贈り、彼を「陳姥」と呼んだ。陳稜は怒って出撃したが、杜伏威の伏兵にあって大敗し、体一つで逃げ出す有様だった。
 杜伏威は、勝ちに乗じて高郵を撃破し、兵を率いて歴陽に據った。総管と自称し、輔公石を長史に任命する。また、諸将を各県へ下向させた。すると、江・淮で暴れていた小勢力の群盗達が、先を争って彼の麾下へ入った。
 杜伏威は、常に敢死の士五千人を選んで、これを「上募」と名付け、非常に優遇した。戦争の時は、上募を先鋒とした。そして戦争が終わったら全員整列させて、背中に負傷した者が居たら処刑した。戦利品は皆、部下へ分け与え、戦死した者は妻や妾を殉死させた。だから、杜伏威軍の戦意は高く、向かうところ敵がなかった。 

 唐の武徳元年(618年)、四月。宇文化及が煬帝を弑逆し、兵を率いて北へ帰っていった。この時、宇文化及は杜伏威を歴陽太守に任命したが、杜伏威は受けず、東都の皇泰主へ上表した。皇泰主は、杜伏威を東道大総管に任命し、楚王に封じた。 

 二年、八月。杜伏威は唐へ降伏した。李淵は、彼を淮南安撫大使、和州総管とした。
 三年、六月、壬辰。和州総管、東南道行台尚書令楚王杜伏威へ詔して使持節、総管江・淮以南諸軍事、揚州刺史、東南道行台尚書令、淮南道安撫使とし、呉王へ進封して、李姓を賜下した。
 輔公石を行台左僕射として舒国公へ封じる。 

 ところで李子通は、二年に皇帝位へ即き、国号を「呉」と定め、明政と改元した。三年、李士通は沈法興を攻撃し、丹陽、毘陵羅を占領した。
 杜伏威は、行台左僕射輔公石へ兵卒数千を与えて李子通を攻撃させた。将軍の敢稜と王雄誕を副将とする。公石は揚子江を渡って丹陽を攻撃し、これに勝った。更に進軍して栗(「水/栗」)水に屯営する。子通は、数万の兵を率いてこれを拒んだ。公石は精鋭千人へ長刀を与えて先鋒とし、また、千人をすぐその後方へ付けて、言った。
「退く者が居たら、即座に斬れ。」
 そして自身は、残りの兵を率いてその背後に控えた。
 子通は方陣を作って前進したが、公石の前鋒千人は、決死で戦った。公石は、さらに左右翼を張り出して敵を攻撃したので、子通は敗走した。公石は追撃したが却って敗北したので、退却して壁を閉じて戦わなかった。すると、王雄誕が言った。
「子通軍には、塁壁がありませんし、緒戦の勝利で油断しています。この無防備につけ込んで攻撃すれば、破れます。」
 しかし、公石は従わない。そこで雄誕は、その手勢数百人を率いて夜襲を掛けた。風が出たのを幸い火を放ったので、子通は大敗し、数千人の兵卒が降伏した。
 子通は、食糧が尽きたので、江都を棄てて京口を保った。こうして江西の地は、全て伏威が領有した。伏威は、丹陽へ遷都した。
 子通はまた、太湖へ東走した。敗残兵をかき集めて二万人を得ると、呉郡の沈法興を攻撃し、これを滅亡させた。子通の軍勢は再び勢力を盛り返し、餘杭へ遷都した。法興の領土を全て奪ったので、その領土は北は太湖から南は嶺へ至り、東は会稽を包み、西は宣城を距てた。 

 四年正月、杜伏威はその将陳正通、徐紹宗へ精鋭二千を与えて派遣し、秦王世民と合流して王世充を攻撃した。
 甲申、梁を攻撃して、これに勝つ。 

 十一月、杜伏威は、李子通を滅ぼした。その詳細は、「李子通」へ記載する。
 ところで、汪華は黒(「黒/多」)、歙を拠点に、十余年に亘って王を潜称していた。王雄誕は、遠征の帰りに、これも討伐した。対して華は、新安洞口にて拒戦した。その兵は、強力に武装されていた。
 雄誕は、精鋭を山谷へ伏せ、老弱の兵数千を率いてその陣を犯した。そして、僅かばかり戦うと、かなわないふりをして自陣へ逃げ帰った。華は追いかけて戦ったが、勝てなかった。日が暮れて引き返してみると、既に伏兵が洞口を占拠しており、華は入ることができず、打つ手もなくて降伏した。
 聞人遂安は、崑山に據り、どこにも帰属せずに自立していた。杜伏威は、これも王雄誕に攻撃させた。崑山は険しい。雄誕は、力攻めでは攻め落とせないと考え、単騎でその城下へ向かい、唐国の威霊を述べ、禍福を示して説得した。すると遂安は感悦し、諸将を率いて降伏した。
 ここにおいて杜伏威は淮南、江東の全域を領有し、その領土は南は嶺へ至り、東は海へ達した。雄誕は、この功績で歙州総管となり、宜春郡公の爵位を賜った。 

 五年、四月、劉黒闥が、李世民と戦って大敗した。
 七月、甲申。秦王世民は徐圓朗を攻撃して十余城を下し、その名声は淮・泗を震駭させた。杜伏威は、恐れて入朝を請うた。
 丁亥、杜伏威が入朝した。上の御長椅子まで登り、太子太保を拝受し、行台尚書令を兼任する。長安へ留まらせ、官位は斉王元吉の上に置くなど、破格の寵遇だった。
 敢稜を左領軍将軍とする。
 李子通が、楽伯通へ言った。
「伏威がやって来たが、江東は未だ平定していまい。我等が行って昔の兵卒達をかき集めたら、大功を建てることができるぞ。」
 遂に、共に逃亡したが、藍田関で官吏に捕まり、誅殺された。
 六年、正月、唐は劉黒闥を滅ぼした。
 庚子、呉王杜伏威を太保とした。 

 八月、壬子、淮南道行台僕射輔公石が造反した。
 初め、杜伏威と公石は仲が善く、公石が年長だったので、伏威は弟として接しており、軍中では「伯父」と呼ばれ、伏威らから畏敬されていた。だが、伏威は次第にこれが疎ましくなり、やがて養子の敢稜を左将軍、王雄誕を右将軍として、ひそかに輔公石の兵権を奪った。公石はこれを知って、怏々と不満を持ったが、旧友の左遊仙と共に道学を学んだりヘキ穀(穀物の摂取を避ける、道教の修業の一種。)をしたりして韜晦していた。
 伏威が入朝する時、公石を留めて丹陽を守らせた。そして、雄誕を副官として、密かに言いつけた。
「我が長安へ行っている間に公石が変事を起こしたら、官職を剥奪されてしまうぞ。よく監視しておけ。」
 伏威が出発すると、左遊仙は公石へ謀反を説いた。だが、雄誕が兵卒を握っていたので、公石は実行できなかった。そこで公石は、伏威から書を貰ったと詐称し、”伏威は雄誕の裏切るのではないかと、心配している。”と吹聴した。雄誕はこれを聞いて不快になり、病気と称して公務を見なくなった。その隙を衝いて公石は兵権を奪った。そして、一党の西門君儀を雄誕の元へ派遣して、造反への加担を諭した。そこで始めて雄誕は騙されていたことを覚り、後悔して言った。
「天下は既に平定されたのだ。そして呉王は京師に居る。大唐の軍隊は向かうところ敵なしだ。なんで一族を滅ぼすような真似を、理由もないのに自ら行うのか!雄誕は、死んでも命令を聞かないぞ。今、公に従って叛逆したところで、たかだか百日寿命が延びるだけだ。大丈夫が、なんで僅かの生を貪って不義に陥ったりするものか!」
 公石は屈服させられないと覚り、縊り殺した。
 雄誕は、士卒を善く慰撫し、彼等へ死力を尽くさせることができた。又、約束は厳正で、城邑を破っても秋毫も犯さなかった。だから彼が死んだときは、江南の軍中も民間人も、みんな涙を零した。
 公石は、今度は”伏威は江南へ帰って来られない。そこで密かに書を遣って造反を指示したのだ。”と詐称して、武器を大いに整備し、兵糧を蓄えさせた。
 次いで公石は、丹陽にて帝と称し、国号を「宋」とした。陳時代の宮殿を修復して居城とする。百官を設置して、左遊仙を兵部尚書、東南道大使、越州総管とした。張善安と連合し、善安を西南道大行台とした。
 乙丑、輔公石討伐の詔がおり、襄州道行台僕射趙郡王孝恭は水軍を率いて江州へ赴き、嶺南大使李靖は交・廣・泉・桂の兵を率いて宣州へ赴き、懐州総管黄君道は焦(「言/焦」)・亳から出陣し、斉州総管李世勣は淮・泗から出陣するよう命じた。
 孝恭は、出発前に諸将と宴会を開いた。その時、水を持ってこさせたら、その水が、突然、血に変わった。一同は顔色を失ったが、孝恭はまるで動じないで言った。
「これは、公石の首を取れる前兆だ!」
 そして、その血を全て飲み干したので、衆人は皆、悦び感服した。
 九月、戊子。輔公石が、その将徐紹宗へ海州を、陳政通へは寿陽を攻撃させた。
 十一月、黄州総管周法明が、兵を率いて輔公石を攻撃した。対して、張善安が夏口に據って、これを拒んだ。法明は荊口鎮に屯営する。
 壬午、法明が戦艦に登って酒を飲んだ。善安は刺客数人を漁船に乗せて近づかせた。監視者は、別に不審にも思わなかった。遂に、彼等は法明を殺して去った。
 甲申、舒州総管張鎮周等が、輔公石の将陳當世を猷州の黄沙にて攻撃し、大いに破った。 

 十二月、癸卯、安撫使李大亮が張善安を誘って、これを捕らえた。
 大亮は洪州にて善安と戦い、川を距てて陣を布いていた。川越しに語り合い、大亮が禍福を諭したところ、善安は言った。
「善安は、もともと造反するつもりはなかったが、将士から誤らされたのだ。だが、今更降伏しても、罪を免れないのではないか?」
 大亮は言った。
「張善安に降伏する心があるのなら、もう、お前は俺の家族同然だ。」
 そして単騎で川を渡って敵陣へ入り、善安の手を執って共に語り、信頼していることを示した。善安は大いに悦び、遂に降伏を許諾した。
 善安が数十騎を率いて大亮の陣へやって来ると、大亮は騎兵達を門外へ待たせて、善安だけを陣内へ引き入れ、共に語った。しばらくして善安が帰ろうとすると、大亮は武士達へ、これを捕まえさせた。従者の騎兵達は、皆、逃げ帰った。
 善安の営中は、これを聞いて大いに怒り、大亮へ総攻撃を掛けようとしたが、大亮が使者を派遣して言った。
「我が総管を留めたのではない。総管が本心から帰国したかったから、我へ言ったのだ。『もしも陣営へ帰ったら、反対する将士が我を力尽くで抑留するかも知れない。』そして、自ら留まって去らなかったのだ。お前達は、何で俺を怒るのか!」
 すると、敵方の党類は大いに罵った。
「張総管は、我等を売って自分だけ媚びるのか。」
 遂に、皆、潰れ去った。大亮はこれを追撃して、大勢の将士を捕らえた。
 善安は、長安へ送られた。彼は、輔公石とは交遊がなかったと自称したので、上はその罪を赦し、善く優遇した。だが、公石が敗北した後、彼とやりとりした書簡が見つかったので、これを殺した。 

 七年、正月。壬午、趙郡王孝恭が輔公石の別将を樅陽にて撃破した。 

 二月、輔公石が兵を派遣して猷州を包囲した。刺史の左難當が籠城する。安撫使李大亮が兵を率いて公石を撃破した。
 趙郡王孝恭が公石の鵲頭鎮を攻撃して、抜いた。
 壬子、行軍副総管権文誕が輔公石の党を猷州にて破り、その枚回(「水/回」)等四鎮を抜いた。 

 二月、太保の呉王杜伏威が卒した。
 輔公石は、造反した時、杜伏威の命令だと詐称して民をかき集めていた。公石が平定すると、趙郡王孝恭は、それが詐称だと知らずにありのままを上奏した。そこで、伏威の名を追除してその妻子は官奴とすると、詔が降りた。
 太宗が即位した後、冤罪が判明したので、これを赦して官爵を復した。 

 三月、丙戌。趙郡王孝恭が蕪湖にて輔公石を破り、梁山など三鎮を抜いた。
 辛卯、安撫使任壊(ほんとうは王偏)が揚子城を抜いた。廣陵城主龍龕が降伏する。
 戊戌、趙郡王孝恭が、丹楊にて勝った。その経緯は、以下の通り。
 輔公石は、その将馮慧亮と陳當世へ水軍三万を与えて博望山へ屯営させ、陳正通と徐紹宗へ歩騎三万を与えて青林山へ屯営させていた。梁山には鉄鎖を張り巡らせて、揚子江を遮断し、背後には南北十余里の月城を築いた。又、江西には塁を連ねて官軍を拒んだ。
 孝恭と李靖は、水軍を率いて舒州に留まり、李世勣は歩兵一万を率いて淮を渡って壽陽を抜き夾(「石/夾」)石に留まった。
 慧亮等は防備を固めて戦わなかった。そこで孝恭は奇兵を出して、敵の糧道を遮断した。慧亮等は食料が欠乏したので、兵を出して孝恭の陣営へ迫ったが、孝恭は防備を固めて動かない。
 孝恭が諸将を集めて軍議を開くと、皆は言った。
「慧亮等は強兵を擁して水陸の険に據っています。これを攻めても、なかなか抜けません。それよりも、丹楊へ直行して、その巣穴を叩きましょう。丹楊が潰れたら、慧亮等は自ずから降伏してきます。」
 孝恭がこれに従おうとすると、李靖が言った。
「公石の精鋭はこの水陸二軍にあるとはいえ、彼自身も少なからぬ精鋭兵を率いています。今、博望の諸柵をまだ抜くことができないうえ、公石は石頭に據っています。これがどうして容易に落とせましょうか!丹楊へ進攻して旬月下すことができなければ、慧亮は我等の背後に回ります。腹背に敵を受けるのは、危道です。慧亮と正通は百戦錬磨の将軍。本当は戦いたがっているのでしょう。ですが、公石が我等を疲れさせようと、持重の計略を立てて動かさないのです。今、我等がその城を攻めて挑発したら、一挙に敗れますぞ!」
 孝恭は、これに従った。
 官軍は、老弱の兵を先頭に立てて賊営を攻撃させ、精鋭兵は陣を結んで敵を待った。塁を攻めた者が勝てずに逃げ出すと、賊は兵を出して追撃した。しかし、数里進むと大軍が出てきて、これと戦ったが大敗した。
 敢稜が、兜を取って賊衆へ言った。
「お前達、我を知っているか?この俺に戦いを挑むのか!」
 賊兵の大半は、稜の元の部下達だった。皆、闘志を無くし、中には礼拝する者さえ居た。遂に、賊軍は敗北した。孝恭と靖は勝ちに乗じて追撃し、百余里を転戦した。博山、青林の両戍は共に潰れた。慧亮と正通は遁走し、戦死者溺死者は併せて一万余人を数えた。
 李靖が丹楊へ進軍すると、公石は大いに懼れ、数万の兵を擁したまま、城を棄てて東へ逃げた。会稽の左遊仙の元へ逃げ込もうとしたのだ。李世勣が、これを追撃する。
 公石が句容へ着いたときには、従う兵卒はわずか五百人に過ぎなかった。夜、常州に宿を取ったが、その将呉騒等が、これを捕らえようと謀った。公石はこれを覚り、妻子を棄てて腹心数十人を率いて関所を斬って逃げた。
 武康へ至ると、野人達から襲撃されて、西門君儀は戦死した。公石は捕らえられて丹楊へ送られ梟首される。その余党も捕らえ、江南は平定した。
 己亥、孝恭を東南道行台右僕射、李靖を兵部尚書とした。だが、すぐに行台を廃止して孝恭を揚州大都督、靖を府長史とした。
 上は、靖の功績を深く称賛し、言った。
「靖は、蕭と輔の膏肓だ。」(蕭銑も、李靖の活躍で滅ぼされた。)
 敢稜は功績が大きく、自ら誇っていた。公石は、稜が自分と内通していたと誣告した。後、趙郡王孝恭は、賊党の田宅を没収した。ところが、稜と杜伏威、王雄誕の田宅は賊領との境界にあったのだが、孝恭はこれも一緒に没収してしまった。この件で稜は、孝恭に逆らって正論を訴えた。孝恭は怒って、造反の罪で稜を誅殺した。 

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