陳の宣帝
 
臨海王即位  

 天康元年(566年)癸酉、文帝が崩御した。
 太子が即位した。大赦が降る。
 (訳者、曰く)
 文帝の嫡子は、後に廃され、後世「臨海王」と呼ばれている。だが、現状では帝位についているので、彼のことを便宜上「陳帝」と表現する。 

  五月、皇太后が太皇太后となり、皇后が皇太后となる。
 安成王が驃騎大将軍、司徒、録尚書、都督中外諸軍事となった。中軍大将軍、開府儀同三司徐度が司空、袁枢が左僕射、呉興太守沈欽が右僕射、御史中丞徐陵が吏部尚書となる。 

 ところで、梁の末期以来、官位や官職が乱発されるようになっていた。そこで徐陵は皆へ言った。
「梁の元帝は、侯景の乱の荒れ果てた時代を受け継ぎ、王太尉(王僧弁)は江陵が陥落した後を何とか復興させようとした。だから、官位や官職がこんなに氾濫してしまった。
 陳が建国した時には、金がないから官位が溢れた。銭や絹の代わりに官階を賜下したのである。今や、員外・常侍は路上で肩を並べ、諮議・参軍は市中に無数にいる。これがどうして常態だろうか!
 今、衣冠も礼楽も、日々華やかになって行く。どうして今までのような非常事態をいつまでも続ける必要があるのか!」
 皆、これに感服した。 

 六月、文皇帝を永寧陵に葬った。廟号は世祖。 

 光大元年(567)。正月。日食が起こった。同月、左僕射袁枢が卒した。 

  

やぶ蛇 

 陳の高祖(陳覇先)が梁の宰相となった時、劉師知を中書舎人とした。劉師知は工文を漁り学び、儀礼を練習し、世祖の時代に官位こそ上がらなかったが、委譲された権限は非常に重く、揚州刺史安成王や到仲挙等とともに、遺詔にて輔政を任された。
 劉師知と到仲挙は常に禁中に居て衆事を参決し、安成王は左右三百人と尚書省へ入居した。ところが、安成王の勢力は朝廷でも野でもずば抜けている。それを見て、劉師知は将来が不安になり、安成王を地方へ出そうと、尚書左丞の王進等と共に謀った。だが、皆は躊躇して、なかなか実行しない。
 ここに、東宮通事舎人の殷不佞は、もともと節義正しい人間と自認していた。また、文帝からも東宮のことを任されていたので、彼は詔をでっち上げ、尚書省へ行って告知した。
「今、四方は無事なので、王は任地の揚州へ戻るように。」
 詔を受けて安成王が任地へ出立の準備をしていると、中記室の毛喜が駆けつけてきて言った。
「陳が天下を取って、まだ日が浅く、国禍は立て続けに起こっており、中外は危惧しています。太后に深い計略があれば、王には尚書省へ詰めていて欲しいと考えるはずです。今日の命令は、太后の意向とは思えません。社稷の重さについて、どうか三慮してください。そうでなければ姦人の陰謀が跋扈してしまいます。今、地方へ出れば、他人の言うままになってしまいます。それは曹爽が国を失ったようなもの。馬鹿げたことですぞ!」
 安成王は、毛喜を呉明徹のもとへ派遣して意見を聞いた。すると、呉明徹は言った。
「嗣君は惰弱。国家は多難。殿下は朝廷にあって、かつての周公や召公のように、社稷を補佐なさるべきです。」
 そこで安成王は病気と言い立てて、劉師知を呼び出し、彼と共に語ったが、その間に毛喜を太后のもとへ走らせて、真実を尋ねた。すると、太后は言った。
「宗伯は、まだ幼少です。朝廷のことは安成王が頼り。これが私の想いです。」
 毛喜は、陳帝にも尋ねてみた。陳帝は言った。
「それは、劉師知の独断だ。朕は知らぬ。」
 毛喜は、戻ってありのままを復命した。そこで安成王は、そのまま劉師知を捕らえ、宮殿へ出向いて太后と陳帝へ謁見し、劉師知の罪状を言い立てた。劉師知は獄吏へ引き渡され、その夜、獄中で自殺を強要された。
 到仲挙は、官職を解かれて金紫光禄大夫となった。
 王進、殷不佞は、裁判にかけられる。
 ところで、殷不佞は殷不害の弟である。幼い頃から孝行者で名高く、安成王も目をかけていた。だから、彼だけは死を免れ、罷免だけですんだ。王進は誅殺される。
 以来、国政は全て安成王が握ることになった。 

 右衛将軍の韓子高は領軍府を掌握しており、建康にいる将軍の中では最大の兵力を持っていた。彼は到仲挙とつるんでいたが、まだ決起していなかった。毛喜は、彼の麾下の兵馬を増強し、鉄や炭を与えて器械を整備させるよう、安成王へ請うた。安成王は、驚いて言った。
「韓子高は謀反人だ。捕らえようと思っていたのに、却って兵力を増強させるとは、どうゆうつもりだ?」
 毛喜は言った。
「先帝は崩御なさったばかり。辺寇は隙を窺っている。そして韓子高は先帝から親任され、国家の杖とまで呼ばれていた男です。もしも彼を捕らえようとしたら、却って患を大きくします。奴を安心させて足下をすくえば、一人の刺客で片が付くではありませんか。」
 安成王は納得した。
 到仲挙は、役職を解かれて自宅へ戻ってから、不安な日々を送っていた。韓子高もまた、不安になり、地方への出向を請願した。
 安成王は、皇太子を立てると言って文武の百官を全て呼び出した。そして、到仲挙と韓子高がやって来たところを捕らえ、牢獄へぶち込んで自殺させた。ただし、彼等以外の人間は、全て不問に処した。
 文帝が死んだ時、後を委ねたのは到仲挙、孔奐、安成王、袁枢、劉師知の五人だった。先に袁枢が卒し、今、到仲挙と劉師知が死を賜った。 

 東揚州刺史の始興王伯茂が中衛大将軍、開府儀同三司となった。
 始興王は、陳帝の同母弟であり、到仲挙と劉師知の造反に関与していた。安成王は、中外で同時に煽動されては堪らないので、始興王を朝廷へ呼び戻したのである。 

 辛亥、南豫州刺史余孝頃が、謀反の一味とみなされ、誅殺された。
 四月、湘州刺史華皎が造反した。九月に鎮定される。(詳細は、「華皎の乱」に記載。 

  

宣帝即位 

 二年、安成王が太傅、領司徒となり、殊礼を加えられた。
 安成王が政治を専断するので、始興王伯茂は面白くない。彼は、屡々安成王の悪口を吹聴した。
 十一月、安成王は太皇太后へ陳帝を誣告させた。
「伯宗は劉師知や華皎と手を結んでいた。」と。
 かつ、言う。
「先帝は、子息の人格を知っていたから、堯に倣って帝位を立派な人へ伝えようとした。弟へ帝位を伝えることは、太伯の故事にも符合する。今、その志を尊重し、賢君を立てよう。」
 遂に皇帝を廃して臨海王とした。こうして、安成王が入纂する。
 また、伯茂を温麻侯として、別館へ移るよう命じた。その途中、刺客を使って、殺した。
 十二月、北斉の世租(武成帝)が崩御した。
 太建元年(569年)、安成王が即位した。これが宣帝である。太建と改元し、大赦を下す。太皇太后を皇太后へ戻し、皇太后を文皇后とする。妃の柳氏を皇后に立て、世子の叔寶を太子とする。
 皇子の叔陸を始興王に封じ、かつての始興王伯茂の代わりに昭烈王を祀らせる。
 皇子の叔英を豫章王、叔堅を長沙王に封じる。
 七月、皇太子は沈氏を妃とした。彼女は、吏部尚書君理の娘である。
 十二月、章昭達が卒した。(章昭達については、「華皎の乱」に詳しく記載。) 

  

  

宣帝の時代 

 太建五年、北斉の後主の暴虐につけ込んで、北斉を攻略した。連戦連破で、六年の末には、国境線が揚子江から淮河へと北上した。
 十二月、吏部尚書王場(実際は王偏)が、右僕射となり、度支尚書孔奐が吏部尚書となった。王場は、王沖の子息である。
 この頃、対北斉の戦勝の為、論功行賞に大わらわだった。しかし、孔奐の視点は広く精密で、しかも賄賂に流されなかったので、事は凝滞なく進み、人々は皆、感服し悦んだ。
 湘州刺史の始興王叔陵が三公となりたくなり、有司達へ風諭した時、孔奐は言った。
「もともと三公は、徳のある人間がなったもの。別に皇室である必要はない。」
 そして、宣帝へ上奏した。すると、宣帝は言った。
「分に過ぎた望みだ!朕の子よりも先に、まずバン陽王を三公にしなければ。」
 孔奐は言った。
「臣も、そう思います。」(始興王は、宣帝の子息で、バン陽王は文帝の子息。) 

  

馬鹿息子達 

 八年、皇太子の陳叔宝は、左戸部尚書の江総を太子・事にしたくて、吏部尚書孔奐の意向を尋ねた。すると、孔奐は言った。
「江総は、潘岳や陸機(共に晋の恵帝の時の官吏)のような文華の士で、園公や綺里季(共に、漢の文帝に仕えて、太子の廃立を阻止した。)のような実務の能力はありません。彼には、殿下の補弼など、荷が重すぎます。」
 太子はムカつき、自身で宣帝へ頼んだ。宣帝は許そうとしたが、孔奐が言った。
「江総は文華の士ですが、太子自身に文華は有り余っています。どうして江総の助力がいりましょうか!臣の見るところ、太子の補弼として必要なのは、敦重の才です。」
「それでは、卿は誰がよいと思うのか?」
「都官尚書の王廓です。」
 しかし、皇太子が固く請うたので、遂に宣帝は折れ、江総を太子・事とした。
 甲寅、尚書右僕射陸繕を左僕射とした。宣帝は、ほんとうは孔奐を抜擢したかったのだが、皇太子がこれを阻止したのだ。また、晋陵太守の王克が右僕射となった。
 このころ、江総と太子は、夜遅くまで飲み耽っていた。やがて、太子はしばしば江総の家までお忍びで遊びに行くようになったので、宣帝は怒り、江総を罷免した。  

 始興王叔陵は、皇太子の次の弟だが、皇太子とは母親が違った。彼の母は彭貴人。始興王は江州刺史となったが、性格は苛酷で狡猾で陰険だった。
 ところで、新安王伯固は諧謔が巧く、宣帝や皇太子に可愛がられていた。始興王はこれに腹を立て、新安王の過失を探って処罰しようとした。
 始興王が揚州刺史となると、その職務は中書省や尚書省と関わることが多く、発言力も増した。始興王は、少しでもムカついた相手はすぐに重罪に処するようになり、重い者は死罪となった。新安王はこれを憚り、なんとか始興王から好かれようと、阿諛追従に励んだ。
 始興王は、古い墓を暴き立てるのが好きだった。新安王は雉猟が好きだった。それで二人は共に野原を駆け回ることが多く、次第に馴れ合うようになり、それがもとで不軌を謀り始めた。
 十三年。新安王が侍中となると、知り得た秘密を全て始興王へ語るようになった。 

  

 十四年、己酉、宣帝は重病になった。皇太子と始興王及び長沙王叔堅が、側について看病に努めた。始興王は、密かに大逆を企んでおり、薬吏へ言った。
「切薬刀が、なまっているぞ。しっかんりと研いでおけ。」
 甲寅、宣帝は崩御した。 

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