宣帝の北伐(対北周)
 
  

  

 太建九年(577年)、北周の武帝が、北斉を滅ぼした。
 十月、陳の宣帝は、北周が北斉を滅ぼしたと聞き、徐・コンを争おうと考え、南コン州刺史、司空の呉明徹へ諸軍を督して北伐するよう命じた。南コン州の政治は、彼の世子の呉戎昭と将軍恵覚に委ねる。
 呉明徹の軍が呂梁まで来ると、北周の徐州総管梁士彦が兵卒を率いて防戦したが、呉明徹はこれを撃破した。敗北した梁士彦は籠城し、呉明徹はこれを包囲した。
 十一月、北周は上大将軍王軌を、徐州救援に派遣した。 

 宣帝は、河南を平定できると意気込んでいたが、中書通事舎人の蔡景歴は諫めた。
「兵卒達は疲れ切っており、将軍は勝ちに奢っています。今遠征するのは宜しくありません。」
 宣帝は怒り、戦意を挫いたとして、蔡景歴を豫章内史に飛ばした。しかし、出立前に差出人不明の文書が、蔡景歴を弾劾した。
「蔡景歴は、汚職をしました。」
 宣帝は、蔡景歴を罷免して、爵位と領土を奪った。 

 十年二月。呉明徹は北周の彭城を包囲した。城下に船艦を並べ連ね、短兵急に攻めまくる。
 これに対して北周の王軌は、淮口へ急行した。ここで長囲を結び、鉄の鎖で連ねた車輪を清水へ沈めて陳水軍の退路を断ったので、陳軍の兵卒は浮き足立った。
 焦州刺史蕭摩訶が、呉明徹へ言った。
「『王軌が下流の両岸に城を築いて、鎖を張り渡そうとしているが、まだ城は完成していない』と聞きました。今のうちに攻撃すれば、きっと、奴等は迎撃もせずに逃げ出すでしょう。水路が断たれるまでは、敵方の意気も挙がりません。しかし、奴等の城が完成すれば、我等は敵の捕虜になってしまいますぞ。」
 すると、呉明徹は髭を奮わせて言った。
「将軍の役目は、旗を振るって敵陣を落とすこと。軍略は老夫の領分だ!」
 蕭摩訶は、色を失って退出した。
 それから十日もしないうちに、水路は遮断されてしまった。
 北周の援軍は、続々とやって来る。陳の諸将は、堰を壊して、溢れる水の勢いに乗って退却しようとした。この時、軍馬は船に乗せたままにしておこうと考えていたのだが、馬主の裴子烈は言った。
「その水流の勢いでは、船が傾く。軍馬は、全て下船させておくべきだ。」
 この頃、呉明徹は背中に腫れ物ができて非常に苦しんでいた。蕭摩訶は、請願した。
「今、戦いを挑んでも敵は挑発に乗りませんし、進退に窮しております。この状況なら、密かに敵の包囲を破って退却しても恥ではありません。どうか、公は歩兵を率いて行かれてください。私は鉄騎数千を率いて前後を駆け巡り、公だけはきっと安全に帰京させて見せます。」
 すると、呉明徹は言った。
「賢弟の策は、良計だ。しかし、歩兵は数が多い。我は総督となり、後方で指揮を執ろう。賢弟は騎馬を率いて先駆けするが良い。遅滞してはならん。」
 そこで蕭摩訶は、馬軍を率いて夜半に出発した。
 甲子、呉明徹は堰を壊し、流出する水の勢いに乗って淮河へ入ろうとした。だが、水勢は次第に弱くなり、清口まで来ると、鎮められていた車輪に引っかかってしきい、通過できなかった。 王軌が、これを襲撃したので、陳軍は総崩れとなった。呉明徹は北周軍に捕らえられ、将士三万及び多量の器械輜重が捕獲された。ただ、将軍任忠、周羅侯は、無傷で帰還した。
 北周の武帝は、捕らえた呉明徹を懐徳公へ封じて大将軍としたが、呉明徹は憂憤の余り卒した。 

 話は遡るが、宣帝は彭・ベンを奪取しようと考えた時、五兵尚書毛喜へ下問した。すると、毛喜は答えた。
「淮左は占領したばかりで、まだ民衆が懐いておりません。対して周は斉を滅ぼしたばかりで意気盛ん。真っ向から戦ってはなりません。それに、彭・ベンへ攻め込めば陸戦になります。我等は水戦を得意としておりますので、不利です。臣の愚見ですが、今は占領した土地を慰撫しながら、兵を休めて国力を蓄えるべき時です。それこそ、長久の策と言えましょう。」
 呉明徹が敗北するに及んで、宣帝は毛喜へ言った。
「卿の言い分が正しかった。」
 即日、蔡景歴を呼び戻して征南諮議参軍に任命した。 

 三月、中軍大将軍、開府儀同三司淳于量を大都督としして陸水の諸軍事を総督させた。又、鎮西将軍孫場を都督荊・郢諸軍とし、平北将軍樊毅へ清口から荊山までの諸軍を都督させ、寧遠将軍任忠には寿陽・新蔡・霍を都督させた。全て、北周への備えである。 

  

 六月、北周の武帝が病死した。
 後を継いだ宣帝は、斉王憲を始め、重鎮達を次々と誅殺した。
 十一年、九月。北周は韋孝寛を行軍元帥として、再び淮南攻撃を命じた。
 十一月、韋孝寛の命令で、杞公亮が黄城を、梁士彦が廣僚を攻撃した。戊戌、周軍は進軍して寿陽を包囲した。対して陳軍は、淳于量、樊毅、任忠等を動員した。
 戊申、韋孝寛は寿陽を、杞公亮が黄城を、梁士彦が廣僚を抜いた。辛亥、今度はカク州を取った。
 乙丑、周軍は焦州、北徐州を落とした。これによって、江北の土地は、全て周の領土となった。

 十二年、正月。任忠を南豫州刺史として、揚子江の防備を都督させた。 

 十三年、楊堅の簒奪により、北周は滅亡した。

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