宣帝の北伐(対北斉)
 
和睦  

 天嘉二年(561年)、北斉の孝昭帝は、王林(「王/林」)を合肥へ出し、陳を攻撃する準備を進めた。
 当時の陳の合州刺史裴景徽は、王林の兄の娘婿である。彼は、道案内役となることを申し出た。そこで孝昭帝は、王林へ命じた。
「行台左丞の盧潜へ兵を与えて、合州へ向かわせろ。」
 だが、王林は考え込んで、なかなか決心がつかない。そのうち裴景徽は、陰謀がばれるのを恐れて北斉へ亡命してきた。
 孝昭帝は、王林を驃騎大将軍、開府儀同三司、揚州刺史として、寿陽を鎮守させた。
 十一月、北斉の孝昭帝が崩御し、武成帝が立った。 

 王林は屡々南侵を欲したが、北斉の尚書廬潜は、まだその時ではないとして、却下していた。
 陳の文帝は、寿陽へ書を遣り、北斉と和親を求めた。廬潜は、これを北斉の朝廷へ持ち込み、今は和平をして兵卒を休める時であると説いた。武成帝は、これを許し、散騎常侍の崔瞻を陳へ派遣した。
 これ以来、王林は、廬潜を怨むことになる。
 武成帝は王林を業へ呼び戻し、廬潜を揚州刺史、領行台尚書とした。
 三年、四月。北斉は陳へ使者を派遣して、挨拶をした。 

  

北伐決定 

 陳の宣帝の太建五年(573年)、北斉は後主の暴虐が激しくなっていた頃。宣帝は北斉討伐を提唱した。公卿達は異議を唱えたが、ただ鎮前将軍呉明徹のみ、決行を請うた。
 宣帝は公卿へ言った。
「朕の心は決まった。卿は元帥を選出せよ。」
 皆は官位が高いとゆう理由で中権将軍淳于量を推したが、尚書左僕射の徐陵だけは呉明徹を推した。すると、都官尚書の裴忌もこれに賛同した。徐陵は、裴忌を副将に推した。
 三月、呉明徹を都督征討諸軍事に、徐陵を監軍事に任命し、十万の軍で北斉討伐を命じた。
 四月、北斉は、秦郡を秦州と変え、揚子江からジョ水まで掘で繋いで防衛線として、水中には大木の柵を築いた。
 辛亥、呉明徹は、豫章内史程文季を先鋒として、驍勇の士卒を与えた。程文季は柵を抜き、敵を撃破した。程文季は、程霊洗の子息である。
同月、前の巴州刺史魯廣達が合肥の南で北斉軍と戦い、撃破した。 

  

北斉の対応 

 北斉の朝廷は、陳軍への対策を協議した。すると、開府儀同三司の王絋が言った。
「官軍は屡々破れ、人々は浮き足立っています。もしも、江・淮へ軍を動かせば、北狄や西寇が、この隙に来襲するでしょう。ここは、賦税を薄くして、民を休め士を養い、国家への忠誠心を掻き立てるべきでございます。天下の心が一つになれば、陳氏など、恐れるに足りません。」
 しかし、これは却下された。
 北斉朝廷は、歴陽救援軍を派遣したが、これは黄法毛に撃破された。そこで、次に開府儀同三司尉破胡と長孫洪略へ秦州救援を命じた。
 趙彦深が、秘書監の源文宗へ、私的に尋ねた。
「呉の連中が、ここまでつけ上がりおった。賢弟は、かつて秦・ケイ州刺史となったことがあるから、江・淮地方の情勢には精通しているだろう。今、どうゆれば防げるかな?」
 すると、源文宗は答えた。
「数千の兵力では、敵の餌食となるばかり。それに、尉破胡の為人はご存知でしょう?今日明日にでも、敗戦の報告が届くでしょうよ。我等が淮南をどのように扱ってきたかを考えるなら、あの地方を失っても不思議はありません。
 そんな状況の中での、私の計略ですが、王林に全てを委ね、淮南で三・四万の兵士を召募させます。王林ならば、江淮の人間と心が通じますので、彼等へ死力を尽くさせることができます。我々は、旧将の将兵を淮北で屯田させましょう。王林が陳氏へ臣従することなど、絶対ありえません。これが、上計です。もしも王林を信じられなくて、誰かを派遣して彼を掣肘させれば、再び禍が起こり、収拾がつかなくなるでしょう。」
 それを聞いて、趙彦深は感嘆した。
「賢弟のこの策は、まさしく千里を制勝する。」 

  

石梁の戦い 

 北斉軍は、体が大きくて膂力のある人間を選んで先鋒とした。中でも西域胡は、射撃が巧くて百発百中だったので、皆は一目置いていた。
 辛酉、北斉と陳は石梁で戦った。
 戦う寸前、呉明徹は巴山太守蕭摩訶へ言った。
「もしも、あの胡を殺せば、敵軍の志気は崩れる。君の軍才は、関羽にも負けまい。」
 すると、蕭摩訶は答えた。
「やってみましょう。」
 そこで呉明徹は降伏した敵兵を呼んできて、誰が西域胡か指し示させ、自ら蕭摩訶へ酌をして酒を飲ませた。蕭摩訶は飲み終わると、馬を馳せて北斉軍へ突撃した。
 西域胡は、陣から十余歩前方へ出てきた。だが、彼が弓を射るより早く蕭摩訶が投げた手裏剣が、彼の額へ突き刺さり、即死した。
 北斉軍からは、十余人の力自慢が飛び出したが、蕭摩訶は彼等も斬り殺した。
 これによって北斉軍は大敗し、尉破胡は逃げ出し、長孫洪略は戦死した。 
 尉破胡が出陣した時、侍中の王林も従軍させていた。王林は、尉破胡へ言った。
「呉軍は士気が高い。持久戦へ持ち込むべきだ。軽々しく戦ってはならぬ!」
 しかし、尉破胡は聞き入れず、敗北してしまった。
 王林は単騎で、どうにか彭城まで逃げ延びた。北斉朝廷は、彼を寿陽へ差し向け、兵を募集して陳軍を防ぐよう命じた。また、盧潜を揚州道行台尚書とした。
 甲子、南焦太守徐曼が石梁城を落とした。 

  

快進撃 

 五月、瓦梁城が降伏した。
 癸酉、陽平郡が降伏した。
 甲戌、徐曼が廬江城を落とした。
 歴陽城は、降伏を申し込んだ。そこで黄法毛が攻撃の手を緩めると、彼等はそれに乗じて守備を固くした。黄法毛は怒り、猛攻してこれを落とし、守備兵を皆殺しにした。
 陳軍は合肥まで進軍した。合肥は陳軍を見ると、降伏した。黄法毛は、略奪を禁じて、敵の守備兵を慰撫した。

 己卯、北高唐郡が降伏した。
 辛巳、黄法毛を歴陽の鎮守へ廻した。
 乙酉、南斉昌太守黄詠が斉昌の外城を落とした。
 丙戌、廬陵内史任忠が東関にて戦い、東・西の二城を落とした。更に進んで二つの城を落とす。すると、秦州城が降伏した。癸巳、瓜歩・胡墅の二城が降伏した。
 秦郡は、呉明徹の郷里だった。そこで宣帝は、彼の先祖を祀らせた。  

 五月、北斉の後主は、蘭陵王長恭を殺した。(この時期に、勇猛な将を殺すとは!) 

 六月、郢州刺史李宗が摂口城を落とした。任忠が合州外城を落とす。淮陽郡とジュツ陽郡は、城を棄てて逃げた。
 程文季が、ケイ州を抜いた。宣毅司馬の湛陀は、新蔡城を落とした。
 黄法毛は合州に勝ち、呉明徹は仁州を抜いた。
 七月、北斉は、尚書左丞陸騫へ二万の兵を与えて、斉昌救援に派遣した。この軍は、陳の西陽太守周日(「日/火」)と遭遇した。周日は、老人兵や弱兵だけを陣地に留めて対峙させ、自身は精鋭を率いて間道から敵の背後へ回り、大勝利を収めた。
 周日は、その余勢で巴州に勝った。
 呉明徹は峽口まで進軍し、北岸城を撃破した。すると、南岸城の守備兵達は、城を棄てて逃げた。
 これらを背景にして、淮北、絳城及び穀陽の士民が、城主を殺して降伏してきた。
 八月、山陽城、于台城そして青州の東海城と次々に降伏してきた。又、戎昭将軍徐敬弁が海安城に勝ち、侯敬泰等が晋州に勝った。
 九月、陽平城、斉安城が降伏した。高陽太守沈善慶が馬頭城に勝ち、左衛将軍樊毅が楚子城に勝った。
 前のバンヨウ内史魯天念が黄城で勝った。郭黙城が降伏した。 

  

王林(「王/林」)の最期 

 この頃、北斉の揚州刺史王貴顕と王林が、寿陽外郭の守備にやってきた。呉明徹は、王林が衆心を結束させる前に討つべきだと考え、夜襲を掛けて撃破した。寿陽の兵卒は、相国城まで退却した。
 呉明徹は、寿陽を攻撃した。彼は肥水を堰き止めて、城を水浸しにする。城内には病気が流行り、六・七割の人間が死んでしまった。
 北斉の行台右僕射皮景和が、寿陽救援に向かった。しかし、尉破胡が敗北したばかりなので怖じ気づいており、淮口に屯営したまま進まない。勅使が屡々催促にやってきて、彼等はようやく淮水を渡った。その軍勢は数十万。しかし、寿陽から三十里のところに留まって、それ以上進まなかった。
 呉明徹の諸将が言った。
「堅城を抜く前に、大軍が救援に来ました。どうしましょうか?」
 すると、呉明徹は言った。
「兵は神速を尊ぶ。それなのに、奴等は屯営したまま進まない。自ら戦意を挫いているのだ。奴等には、戦う気はない。」
 乙巳、呉明徹は自ら武装して四面から寿陽へ猛攻を加えた。遂に、その一角が崩れ、王林、王貴顕、廬潜及び扶風王可朱渾道裕を捕らえ、建康へ送る。皮景和は北へ逃げた。陳軍は、彼等が残した輜重を奪った。
 王林は、雅やかな外見で、喜怒を顔に出さなかった。記憶力に優れ、軍府の佐吏の姓名は全て覚えていた。刑罰は妄りに下さず、財かを軽んで士を愛した。そうゆう訳で、王林は兵卒達の心を掴んでいた。彼は本拠地を失って流浪の身となっていたが、北斉の人々は、彼の忠義を重んじていた。
 呉明徹の陣中には、王林の元の部下だった将兵が大勢いた。彼等は、王林が捕らわれるとこれを伏し拝み、仰ぎ見ることのできる者はいなかった。そして、彼等は争うように逐う林の助命を嘆願した。
 呉明徹は、造反が起こることを恐れ、使者を派遣して寿陽の東二十里で王林を斬った。これを知って慟哭する者が大勢居り、その泣き声は雷鳴のように轟いた。そんな中、一人の老人が酒とおそなえをもってやって来て、哀しみを尽くして哭し、王林の血を収めて去って行った。
 田夫野老達は、王林を知る者も知らぬ者も、彼の死去を聞いて涙を零した。 

 この頃、北斉の朝廷で権力を握っていたのは、穆提婆と韓長鸞である。彼等は、寿陽の陥落を聞いても、平然としていた。
「あそこは、もともと呉のものだった。取り返されても、もともとだ。」
 後主は、寿陽陥落を聞いて憂いを含んだ。すると、穆提婆は言った。
「まだ、淮河以南が奪われたに過ぎません。もしも黄河以南を全て失っても、まだ、我が国はクチャ(西域の国)くらいの国力はあります。一生遊び暮らすには、それで充分ではありませんか。」
 その一言で、後主は大喜びして、酒と歌舞を楽しんだ。又、黎陽へ使者を出して、黄河沿いに城を築くよう命じた。又、皮景和へ対しては、部下を一人も失わなかったとして、これを賞し、尚書令とした。 

 陳では、寿陽をもとに豫州を復活し、黄城を司州とした。呉明徹は、都督豫・合等六州諸軍事、車騎将軍、豫州刺史となった。黄法毛は征西大将軍、合州刺史に任命される。
 王林の首は、一旦は建康にてさらしものとなったが、やがて、親族へ渡された。北斉は、王林へ開府儀同三司、録尚書事を追賜し、忠武王と諡して、オンリョウ車で埋葬した。(オンリョウ車は、温度調節のできる車で、漢以降、天子を埋葬する時に使われた。) 

  

その後の戦闘及び、事後処理  

 北斉は、一万の兵を穎口へ派遣したが、樊毅が撃退した。更に、蒼陵へも援軍が来たが、これも樊毅が破った。
 湛陀が斉昌城に勝った。
 十一月、淮蔭城が降伏した。陳軍は、更に二つの城を落とす。
 魯廣達は、北斉の南徐州を攻撃して、落とした。宣帝は、魯廣達を北徐州刺史に任命し、そこを鎮守させた。
 北斉の北徐州の民が、陳へ呼応して決起し、その州城へ迫った。祖廷(「王/廷」)は、城門を閉めるよう命じ、住民の外出を禁じた。おかげで、城内は静まり返った。造反した連中は、そんな事とは知らず、城内があまりに静かなので、てっきり逃げだしてしまったものと思い、スッカリ油断しきってしまった。それを見て、祖廷は一斉に金鼓や軍鼓を鳴り響かせたので、造反者達は仰天して逃げ出してしまった。
 だが、やがて彼等は軍を立て直し、陳軍と連合して再び北徐州城へやって来た。祖廷は、これの防戦を録事参軍王君植へ命じ、自ら騎乗して陣へ臨んだ。造反者達は、どうせ籠城するだろうか高を括っていたら出撃してきたので、大いに驚いた。
 ところで、祖廷はかつて北斉朝廷の高官だったが、穆提婆等佞臣達との権力争いに敗北して地方へ追い出された人間だった。だから穆提婆は、造反者達に祖廷を殺させようと、わざと援軍を送らなかった。そんな中で祖廷は戦いつつ守り、十日余りの後、遂に造反者は逃げ出した。(祖廷については、北朝の「北斉受難」参照。知謀はあっても性悪で、主君をそそのかして悪行ばかり働いていた佞臣だった筈なのに、ここではかなりの忠臣に感じられる。)
 十二月、焦城が降伏する。
 任忠が霍州に勝つ。
 六年、金陵城が降伏する。
 五月。北斉は、陳軍が淮河を渡ることを恐れ、皮景和を西コン州へ屯営させた。 

  

 十二月、陳では度支尚書孔奐が吏部尚書となった。対北斉勝の論功行賞の為である。孔奐の視点は広く精密で、しかも賄賂に流されなかったので、事は凝滞なく進み、人々は皆、感服し、悦んだ。 

  

 七年、北周の武帝が大軍で北斉へ親征した。九月、北斉の右丞高阿那肱が、晋陽から救援へ向かう。
 同月、車騎大将軍呉明徹が北斉の彭城を攻撃し、数万の斉軍を撃破した。
 八年、二月。呉明徹が司空となった。
 九月、呉明徹は南コン州刺史となった。 

  

 ちなみに、北周は太建八年九月から、北斉を本格的に攻撃し、翌九年には北斉を滅してしまった。(北朝の、「北周北斉交々闘う」参照)

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