陳の後主
 
始興王の乱 

   太建十四年(581年)、己酉、宣帝は重病になった。皇太子と始興王及び長沙王叔堅が、側について看病に努めた。始興王は、密かに大逆を企んでおり、薬吏へ言った。
「切薬刀が、なまっているぞ。しっかりと研いでおけ。」
 甲寅、宣帝は崩御した。
 倉猝の時、始興王は側近達へ剣を持ってくるように命じた。しかし、彼等は始興王の真意が判らずに木剣を持ってきたので、始興王は怒った。長沙王は、その有様を見て始興王へ不審を抱き、彼を監視するようになった。
 乙卯、小斂。哭の儀式で、皇太子がうつ伏せになって哭していると、始興王が薬刀で皇太子へ斬りつけた。それは皇太子のうなじを傷つけ、皇太子は悶絶した。母親の柳皇后が、皇太子を救おうと駆けつけたが、始興王は、彼女へも何度も斬りつけた。だが、その間に乳母の呉氏が皇太子を抱き起こした。始興王は皇太子の衣を握ったが、皇太子は死力を振るって逃げおおせた。
 長沙王が、始興王を取り押さえた。そして刀を奪うと柱の所まで引っ張って行き、始興王の服で、彼を柱へ縛り付けた。長沙王は、始興王を処罰する許可を得ようと思ったが、皇太子は呉氏が連れ去っていた。そこで、長沙王は皇太子を探しに行った。
 ところが、始興王は怪力だったので、長沙王がいなくなると、袖を振るって戒めを破った。彼は脱出すると東府へ帰り、側近を集めて青渓道を遮断した。そして、東城の囚人達を釈放して戦士に抜擢し、金帛を振る舞って志気を鼓舞した。
 継いで始興王は、自ら武装し白布を頭に被って城西門へ登り、百姓を招き諸王や将帥を召集した。しかし、だれもこれに応じる者はいない。ただ、新安王だけが、単身駆けつけてきて始興王を助けて兵を指揮した。この時、始興王の兵力は千人ほど。始興王は、守備を固めて籠城した。
 この頃、陳の正規軍は縁江の守備に駆り出されており、台内には、兵卒は殆ど残っていなかった。そこで、長沙王は柳后へ言った。
「皇太子の名前で、右衛将軍蕭摩訶を呼びましょう。」
 太子舎人の司馬申を使者として、蕭摩訶のもとへ派遣した。
 蕭摩訶が騎兵を率いて西門へ屯営すると、始興王は畏れ、蕭摩訶の元へ使者を出した。
「我が勝ったら、公を台輔にするから。」
 蕭摩訶は答えた。
「王の腹心の将軍が来たら、ご命令に従いましょう。」
 そこで始興王は親任している戴温と譚麒麟を蕭摩訶の元へ遣った。蕭摩訶は、彼等を捕らえて台へ送り、首を斬って東城へ見せつけた。
 始興王は、逃げ場がないことを知り、妃の張氏と七人の寵妾を井戸へ沈めて殺した。そして数百の兵を率いて強行突破を試みた。行く先は新林そこから舟に乗って隋へ逃げ込む算段だった。
 だが、白楊路にて、官軍に追いつかれた。新安王は巷へ逃げ込もうとしたが、始興王が刀を抜いて追いかけてきたので、仕方なく戦列へ戻った。彼等の部下の多くは、武器を棄てて逃げ散った。遂に始興王は首を斬られ、新安王も乱戦の中で戦死した。
 始興王の諸子は全て殺されたが、新安王の諸子は庶民へ落とすだけで赦された。始興王の側近数名が誅殺された。
 丁巳、皇太子が帝位へ即いた。これが、後の長城公である。(後世、「後主」と呼ばれている。ここでも、以後は「後主」と記載する。)
 癸亥、長沙王を驃騎将軍、開府儀同三司、揚州刺史とした。蕭摩訶は車騎将軍、南徐州刺史となり、綏遠公に封じられた。始興王は巨万の富を蓄えていたが、それらは悉く彼等へ賜下された。司馬申は中書通事舎人となった。
 乙丑、皇后が皇太后となった。この時、公主はまだ傷が重くてふせっていたので、太后が執政したが、やがて公主の傷が癒えると、政権は返還された。
 丁卯、皇弟の陳叔重が始興王となり、昭烈帝を祀ることになった。
 四月、永康公胤を皇太子に立てた。 

  

長沙王失脚 

 九月、長沙王を驃騎将軍、揚州刺史のまま、司空とした。
 後主のケガが癒えるまでは、政治のことは大小となく長沙王が決裁した。やがて、長沙王の権勢は朝廷を傾けた。長沙王は次第に驕慢になり、後主も彼を疎んじるようになった。
 都官尚書孔範や中書舎人施文慶は、長沙王を嫌っており、しかも後主から寵愛されていた。そこで彼等は毎日のように長沙王の短所を後主へ吹聴した。
 至徳元年(583年)、後主は長沙王へ、江州刺史として下向するよう命じた。しかし、長沙王が江州へ下向する前に、都へ留めて司空とすることになった。だが、その実、長沙王の実権は奪われていた。
 長沙王は、敬遠されてから不安になり、妖しげな呪いに懲りだした。ある者がそれを密告したので、後主は長沙王を召し出して西省(中書省。ちなみに、門下省が東省)へ幽閉した。そして、処刑しようとすると、長沙王は言った。
「私は、ただ昔のように親任されたかっただけで、呪殺などの大それたことを企んでいたのではありません。ですが、臣は既に天憲を犯してしまいました。この罪は万死に値します。臣は死んだ後、始興王叔陵へ会うことでしょう。どうか、詔を下してください。あいつめをあの世でとっちめて見せます。」
 それを聞いて、後主は罪一等を減じてやり、罷免だけに留めた。 

  

  

司馬申と毛喜 

 右衛将軍兼中書通事舎人司馬申は、後主の顔色を窺うのが巧みで、自分に逆らう者は必ず讒言して左遷させたし、媚びる者は機会を見て栄進させた。これによって、朝廷内外の皆が、風に従うように彼へ靡いた。
 ある時、後主は侍中・吏部尚書の毛喜を僕射にしようと思った。しかし司馬申は、剛直な毛喜が嫌いだったので、上言した。
「毛喜は、臣の妻の兄でございますが、奴目は高宗帝の頃、陛下のことを『酒を徳と讃える程酔狂な人間です、』と称して陛下付きの職を解任して欲しいと請願したことがありました。陛下はもうお忘れですか?」
 それを聞いて、後主は中止した。
 二月、後主の傷は漸く癒えたので、後殿で酒宴を開いた。吏部尚書の江総などが詩を賦し、楽を奏でた。
 酔いが回った後、後主は毛喜へ命じた。ところが、宣帝の葬儀を済ませたのが、同月のこと。まだ月日もそれ程経っていないのにこの乱痴気騒ぎ。毛喜は喜ばなかった。諫めたくなったが、後主は既に酔っている。そこで毛喜は、階段を昇る最中に心臓の発作が起こった振りをして、階下へ転げ落ちた。皆は慌てて毛喜を省中へ連れていった。
 後主はすっかり酔いも醒め、江総へ言った。
「毛喜など、呼ぶんじゃなかった。あれは仮病だ。我を暗に非難して、宴会を中止させたのだ。」
 そこで、司馬申へ言った。「あいつは手に負えん。バン陽王兄弟が奴に報復したがっていたから、引き渡そうか?(毛喜は、宣帝擁立の首謀者。その一件で、始興王伯茂が誅殺された。バン陽王は、それを怨んでいた。)」
 すると、司馬申が言った。
「ええ、奴は陛下の臣下にはなれません。思いのままに。」
 だが、中書通事舎人の傅縡が言った。
「それは良くありません。あの事件は先帝を即位させる為のもの。それで報復を許したら、本当の首謀者である先帝をどうなさるのですか?」
「それなら、どこか僻地の小郡へ追い払ってしまえ。」
 こうして毛喜は永嘉内史となった。 

  

後主の毎日 

 この歳、後主は光昭殿の前に臨春、結綺、望仙の三つの楼閣を建設した。各々、高さは数十丈、数十間へ連なり、建材は全て沈・檀を使用し、金・玉で飾り付けた。外側には珠で簾を造り、内側には宝で床を造る。その贅を凝らしたことは古今未曾有だった。微風が吹く度に数里に香る。その下は石を積んで山を造り水を引いて池を造り、珍奇な草木で埋め尽くした。
 後主は臨春閣に住み、張貴妃は結綺閣に、襲・孔の二貴嬪は望仙閣に住んだ。それぞれの楼閣は、渡り廊下で往来できる。その他、王・李の二美人、張・薛の二淑媛、袁昭儀などが寵愛され、この楼閣で遊んだ。宮人で文学に長けた袁大捨等は女学士となる。
 幕舎の江総は宰輔だが政務を執らず、毎日、都官尚書の孔範、散騎常侍王差等文士十余人と共に後主を囲んで宴遊に耽っていた。彼等には尊卑の序列などなく、「狎客」と呼ばれていた。
 後主は酒を飲む度に諸妃嬪や女学士・狎客と共に詩賦を贈答した。もっとも艶麗な詞には節を付け、選りすぐりの宮女千余人に練習の上、歌わせた。その曲には、「玉樹後庭花」や「臨春楽」などがあるが、大概は諸妃嬪の麗しい容色を歌ったものだった。君臣は夕方から明け方まで酔いつぶれ歌いまくる。それが彼等の日常だった。
 張貴妃の名は、麗華。もともとは武官の娘だったが、襲貴嬪の児女となったところを後主に見初められ、寵愛されて太子の陳深を生んだ。貴妃の髪は、七尺有り、鏡のように艶やかに光っていた。彼女は敏恵なたちで、神彩があり、挙止には華があった。流し目を使う度に光彩が目から溢れ左右を照らした。人主の顔色を窺うのが巧く、宮女達を推薦したので、後宮の女性達は彼女を崇め、競って彼女を褒めちぎった。また、媚惑の術も使い、宮中にて常に淫祀を行い、女巫をかき集めては鼓舞を行った。
 後主は政治に倦み、百官の上奏は宦官の蔡脱児、李善度に対処させた。後主は、張貴妃の膝の上で共に決議する。だから政治のことも彼女は一言一事全て知った。これによって、寵愛は益々篤くなり、他の追従を許さなかった。宦官や近習は内外で結託して親戚を抜擢し、不法が横行した。官職は売買され、裁判は金で左右され、賄賂は公行する。賞罰の命令も中書省は関与できず、大臣でも追従しない者は讒言を受けた。こうして孔・張の権勢は四方を焼き、大臣も執政も、彼女達へ媚びへつらった。
 孔範と孔妃嬪は、兄妹の契りを結んだ。後主は自分の過失を指摘されることを嫌がったので、何か失徳があっても孔範が巧みに飾って褒めちぎった。これによって、彼等も益々寵遇された。諫める者は罪に陥れられる。
 中書舎人の施文慶は歴史に詳しく、後主へは皇太子の頃から仕えており、抜群の記憶力で吏職にも精通していたので、大いに親任された。彼は仲の善い沈客卿や陽恵朗、徐哲などが有能な官吏だと吹聴したので、後主は彼等も抜擢した。
 後主は宮室を際限なく飾り立てたので、官庫は空になり、常に財政に苦しんだ。従来、陳では軍人や士人には税を掛けなかったが、沈客卿はこれを破棄して彼等にも重税を掛けるよう上奏した。陽恵朗は財政を命じられた。彼はもともと小役人で、帳簿を計算させたら毫ほどの間違いもなかったが、大礼を知らず、税はただ強引にかき集めた。士民の間に怨嗟がわだかまったが、税収は数十倍になり、後主は大いに悦び彼等を益々親任した。
 孔範は、自ら文武の才を自慢し、朝廷には自分に勝る者が居ないと吹聴とした。
「百戦錬磨の将軍とても、匹夫の働きしかできません。深謀遠慮を巡らせるなど、彼等にはできませんぞ!」
 後主が施文慶に訊ねたところ、彼は孔範を畏れ、これに頷いた。司馬申もまた、これに賛同する。それ以来、将帥に僅かな過失があれば、すぐにその兵を奪い文吏の指揮下へ入れるようになった。任忠の部隊も孔範や蔡徴の麾下へ配分する。こうして、文武ともに壊滅の一途を辿っていった。 

  

章大宝の乱 

 章昭達は、陳の高祖、世租、高宗に仕え、全ての御代に戦功を建てた。その子息の章大宝は、順次出世して、遂には豊州刺史となった。
 章大宝は、豊州に居る時は貪欲で勝手放題にやっていた。至徳三年(585年)、朝廷は、太僕卿の李暈を豊州刺史に任命し、章大宝と交代させた。だが、李暈が豊州へ入る直前、章大宝は彼を襲撃して殺害し、朝廷へ対して造反した。
 章大宝は、麾下の将楊通へ建安を攻撃させたが、勝てなかった。台軍が進軍してくると、豊州軍は総崩れとなった。
 章大宝は山へ逃げ込んだが、追撃してきた兵卒に捕まり、三族皆殺しとなる。 

  

傅縡 

 傅縡は、後主が皇太子だった頃から、後主へ仕えていた。後主が即位すると、出世して秘書官・右衛将軍兼中書通事舎人となったが、彼は才気走っていたので、大勢の人間から怨みを買った。
 施文慶と沈客卿は、傅縡が高麗から賄賂を貰ったと讒言すると、後主は彼を牢獄へぶち込んだ。
 傅縡は、獄中から上書した。
「それ、人君は恭しく上帝へ仕え、下民を子のように愛し、嗜欲を省き諂佞を遠ざけ、夜が明け切らぬうちに服を着て一日中食べることさえ忘れる。このようにしてこそ、その恩沢が国中に広まり、余慶は子孫へ流れるのです。ところが、最近の陛下は酒食は度を超され、郊廟の大神を敬わず、媚淫の巫に夢中です。小人は傍らに侍り宦豎は権力を弄び、忠直の志をあだ仇のように憎み、生民を雑草のように見ておられます。後宮の女性は綺羅を引きずり厩の馬は穀物を腹一杯食べておりますのに、百姓は土地を逃げ出し野には屍が累々と重なっております。その上賄賂は横行して、官庫は空っぽ。この有様に、神は怒り民は怨み、人心は離反しております。このままでは、我が国の王気が尽きてしまうことを、臣は恐れるのです。」
 書を読んで、後主は激怒した。だが、しばらくして怒りが収まると、傅縡のもとへ使者を派遣して伝えた。
「卿を助けたいのだが、卿は悔い改めるか?」
 すると、傅縡は言った。
「臣の心は顔のようなもの。臣の顔を変えることができるなら、心を改めることもできましょう。」
 後主は益々怒り、宦官の李善慶へ傅縡の罪状を窮治させ、遂に獄中にて自殺させた。 

  

外交 

 話は前後するが、至徳元年(583年)、二月、散騎常侍賀徹を修好の使者として隋へ派遣した。以後、隋とは友好関係が続いた。その詳細は、「陳併合」に記載する。
 禎明元年(587年)、八月。後梁の太傅安平王蕭巖と、弟の荊州刺史義興王蕭献が男女十万人を率いて降伏してきた。隋の文帝は、後梁を滅ぼした。その詳細は「後梁」に記載する。
 十月、蕭巖が開府儀同三司、東揚州刺史、蕭献が呉州刺史となった。
 この事件で、隋の文帝は陳を憎んだ。
 二年、隋の文帝が討陳の詔を下した。三月、文帝は陳へ璽書を送り、後主の悪業二十を暴き、詔の写し三十万枚をばらまいて江外の民を諭した。(詳細は「陳併合」へ記載。) 

  

廃立 

 皇太子の陳胤は、聡敏な質で文学を好んでいたが、過失が多かった。臣下の袁憲が切に諫めても聞かない。この頃、母親の沈后は、全く寵愛されてなかった。皇太子と皇后の間には使者が屡々往来していたので、後主は皇太子が怨んでいるのではないかと猜疑し、彼を憎んだ。張、孔の二貴妃は日夜皇太子の短所を吹聴し、孔範達は、外からこれを助勢した。
 後主は、張貴妃の息子の始安王深を立てたくて、ある時、くつろいだ有様で口にした。すると吏部尚書蔡徴等は口々に賛同したが、袁憲は顔つきを改めて言った。
「皇太子は国の儲副。億兆の民が将来を託しているのだ。そんな事を軽々しく口にするなど、お前は一体何様か!」
 だが、後主は、遂に蔡徴の意見に従った。
 五月、皇太子の陳胤を廃立して、揚州刺史始安王深を皇太子に立てた。蔡徴は、蔡景歴の子息である。
 始安王深は、聡明でしっかりしており、見てくれも儼然としていた。側近達でさえ、彼が喜怒を顔に出したところを見たことがなかった。
 後主は、袁憲が陳胤を諫めていたことを聞き、彼を尚書僕射へ抜擢した。
 後主は、もともと沈后への寵愛が薄く、後宮は張貴妃が専断していた。しかし、沈后はちっとも怨まず、倹約に身を慎み、衣服にも刺繍などしなかった。ただ、経典や歴史書などを読み、屡々上書して諫争していた。
 後主は皇后を廃立して張貴妃を立てようと思っていたが、国が滅んでしまって果たせなかった。 

(訳者、曰く)陳が滅亡した時、沈后と皇太子深の対応は立派なものだった。(詳細は、「陳併合」へ記載。)その堂々とした有様は、まるで母子のように思えたが、ここに記載している通り、皇太子深は沈后の子息ではない。立派な人格を持つ沈后の子息が不徳の故に廃され、媚びの巧い張貴妃の子息が立派な人格を持っていたとゆうのも、不思議な話だ。あるいは張貴妃は、資治通鑑に記載されていない婦徳を持っていたのだろうか? 

元へ戻る