宗室の乱
 
 垂拱四年(688年)
 太后は、ひそかに革命を謀っていたので、宗室を少しずつ除いて行くつもりだった。中でも、絳州刺史の韓王元嘉、青州刺史の霍王元軌、ケイ州刺史の魯王霊ドウ、豫州刺史の越王貞及び元嘉の子の通州刺史黄公巽(「言/巽」)、元軌の子金州刺史江都王緒、カク王鳳の子の申州刺史東完(「草/完」)公融、霊ドウの子范陽王藹、貞の子の博州刺史琅邪王沖等は宗室の中でも才覚行跡に美名があったので、太后は特に忌んでいた。元嘉等は内心不安で堪らず、ひそかに匡復の志を持った。
 巽は、誤って貞へ書を送った。
「内人の病気は次第に重くなっています。速やかに治療をしなければ、今冬になれば重症になります。」
 太后が宗室を朝堂に集めると、諸王は共に書状をやり取りし、驚き合った。
「神皇は饗応の時に人へ密告させ、宗室を囚えて一人残らず滅ぼすつもりだ。」
 巽は皇帝の璽書を偽造して沖へ渡した。その偽書の内容は、
「朕は幽閉されている。諸王、各々兵を発して我を救え。」
 沖は又、皇帝の璽書を得たと偽った。その書は、
「神皇は李氏の社稷を武氏へ授けようとしている。」
 八月壬寅。沖は長史蕭徳j等を召して兵を募らせた。そして、韓、霍、魯、越及び貝州刺史紀王慎へ各々兵を起こして神都へ赴くよう命じた。太后はこれを聞き、左金吾将軍丘神勣を清平道行軍大総管として、これを討伐させた。
 沖は募兵して五千余人を得た。河を渡って済州を取ろうと思い、まず武水を襲撃した。武水令の郭務悌は魏州へ行って救援を求めた。辛(「草/辛」)令の馬玄素は千七百人を率いて隠岐を途上で襲おうとしたが、兵力不足を恐れ、結局は武水へ入って城門を閉じて拒守した。
 沖は草車を押してその南門を塞ぎ、風を利用してこれを焚き、火に乗じて突入しようとした。ところが、火を付けたら風向きが変わり、沖軍は進めなかった。この一件で、志気が衰えた。
 堂邑の董玄寂は、沖の将となって兵を率いて武水を攻撃していたが、人へ言った。
「琅邪王は国家と交戦した。これは造反だ。」
 沖はこれを聞くと玄寂を斬って見せしめとした。すると衆人は恐れて草沢の中へ逃げ込んだ。沖はこれを制止できず、ただ家僮や左右の数十人が残るだけとなった。沖は、博州へ逃げ帰った。
 戊申、城門へ至って、門番に殺された。およそ、起兵して七日で敗北した。
 丘神勣が博州へ至ると、官吏は素服で出迎えたが、神勣はこれを皆殺しとした。およそ千余家を破る。
 越王貞は沖の起兵を聞き、また、豫州にて起兵した。兵を派遣して上蔡を陥す。
 九月丙辰。左豹トウ大将軍麹祟裕を中軍大総管、岑長倩を後軍大総管として十万の兵を与えてこれを討伐させる。また、張光輔へ諸軍節度を命じる。沖の属籍を削り、姓を 氏と変える。
 貞は沖の敗北を聞くと、自ら鎖で縛り上げて闕を詣でて謝罪しようと思ったが、麾下の蔡令傳延慶が募兵して勇士二千余人を得たので、貞は衆へ宣言した。
「琅邪王は既に魏、相数州を破り、その兵力は二十万。朝夕にでもここへ駆けつけて来るぞ。」
 麾下の県兵を徴発して合計五千人を五つの陣営に分け、汝南県丞裴守徳等へこれを率いさせ、九品以上の官五百余人を配置した。これらの官人は全て脅迫されたもので、闘志はなかったので、ただ守徳のみと謀議を練った。貞は彼の娘を娶り、彼を大将軍として、腹心とした。
 貞は、道士と僧侶へ経を読ませ、事の成就を求めた。左右及び戦士へは、皆、兵を倒す護符を持たせた。
 麹祟裕等の軍が豫州城の東四十里まで到着した。貞は末子の規と裴守徳を派遣して拒戦させたが、軍が潰れて帰還した。貞は大いに懼れ、閣を閉じて守備に徹した。
 祟裕等が城下へ至ると、左右が貞へ言った。
「王は坐したまま戮辱を待たれてよいものでしょうか!」
 貞、規、守、徳及びその妻は皆自殺した。
 初め、范陽王藹は、使者を派遣して貞及び沖へ語った。
「もし、四方の諸王が一斉に蜂起したら、絶対成功する。」
 諸王は往来して約束を結んだ。だが、計画が定まる前にまず沖が起兵した。ただ貞だけが狼狽してこれに応じたが、諸王は皆、敢えて動かなかった。だから敗れたのだ。
 貞は起兵する直前、使者を派遣して壽州刺史趙壞(ほんとうは王偏)へ告げた。壞の妻の常楽公主は使者へ言った。
「私の為に、越王へ語ってください。昔、隋の文帝が周室を簒奪しようとした時、周帝の甥の尉遅迥が挙兵して社稷を救おうとしました。功は成らなかったけれども、その威は海内を震わせ、忠烈となすに充分でした。ましてや汝は王、先帝の子息です。社稷のために働く心をなくして、どうしてよいものでしょうか!今、李氏は朝露のように危ういのです。汝諸王は生きることを求めず、義を取りなさい。もし猶予して起兵しなければ、一体何を待つのですか!禍はやって来ます。大丈夫なら忠義の鬼となりなさい。無為のまま犬死にしてはなりません。」
 貞が敗北するに及んで、太后は韓、魯等の諸王も悉く誅殺したがった。そこで、監察御史の藍田の蘇向(「王/向」)へ彼等の密約を取り調べさせた。向が尋問したが、明確な証拠は見つからない。するとある者が、向は韓、魯と内通していると密告した。太后は向を召し出して詰問したが、向は抗弁して自説を曲げなかった。すると、太后は言った。
「卿は大雅の士です。朕は別の任務を与えましょう。この疑獄には、卿は不用です。」
 そして向を河西監軍として、周興等へ取り調べさせた。すると興は韓王元嘉、魯王霊ドウ、黄公巽、常楽公主を東都へ収容し、脅し迫まって皆、自殺させた。彼等の姓を皆 と変え、親戚も皆誅殺した。
 文昌左丞狄仁傑を、豫州刺史とする。この時、越王貞の一味として連座される者が六、七百家もあり、五千人が官奴とされ、司刑が刑の執行にやってきた。すると、仁傑は密奏した。
「彼等は皆、無罪です。臣は顕奏したかったのですが、それでは逆人を弁護することになります。ですが、知っていて言わないのでは、陛下の仁恕の御心に背くことを恐れます。」
 太后は特にこれを赦して、皆、豊州への流罪とした。
 彼等が寧州を行き過ぎると、寧州の父老が迎え出て、労った。
「我等の狄使君が、君らを生かしたのか?」
 そして彼等は徳政碑の下で抱き合って慟哭し、斎を三日設けてから送り出した。
 この時、張光輔は、まだ豫州に居た。将士は功績を恃んで、多くの物を求めたが、仁傑は応じなかった。光輔は怒って言った。

「州は元帥を軽く見るのか?」
 仁傑は言った。
「河南を乱したのは越王貞ただ一人だ。今、一人の貞は死んだが、一万人の貞が生まれた!」
 光輔がその言葉を詰ると、仁傑は言った。
「明公は三十万の兵を率いてきたのに、誅殺したのは越王貞ただ一人だけ。城中では官軍が来たと聞いて城壁を乗り越えて降伏してきた者で、四面は道が埋まるほどだった。明公が将士へ暴虐を許し既に降伏した者を殺して手柄とするなら、流れる血は野を朱に染める。これが一万人の貞でなくて何だ!わしの斬馬刀を明公の頸へ加えられないのが恨めしい。もしもそれができたなら、命を無くしても本望だ!」
 光輔は詰問できずに帰ったが、仁傑が不遜だと上奏し、復州刺史へ左遷させた。 

 太后が宗室を朝堂へ集めた時、東完公融は密かに使者を派遣して成均助教の高子貢へ問うた。すると子貢は言った。
「来たら、必ず死ぬ。」
 そこで融は病気と称して赴かなかった。
 越王貞が起兵すると、使者を派遣して融へ呼応の約束を取り付けた。しかし融は突然のことで呼応できなかったばかりか、官属から迫られて、使者を捕らえ上聞した。その功績で右贊善大夫に抜擢される。だが、それからすぐに、支党から告発された。
 十月己亥。市にて殺戮され、その家は官奴となる。
 高子貢もまた連座して誅殺された。
 済州刺史薛豈(「豈/頁」)、豈の弟緒、緒の弟フバ都尉紹は皆、琅邪王沖と通謀していた。豈は沖が起兵したと聞くと、兵器を造って人を募った。沖が敗北すると録事惨事高纂を殺して口を封じた。
 十一月辛酉。豈、緒が誅に伏した。紹は太平公主の縁故なので、杖で百叩きで済んだが、獄中で餓死した。
 十二月乙酉。司徒、青州刺史霍王元軌が越王と連謀したとの罪で廃されて黔州へ流される。檻車に載せられて護送される途中、陳倉にて殺された。江都王緒や殿中監成(「成/里」)公裴承先は市にて殺戮された。承先は寂の孫である。 

 永昌元年(689)四月甲辰、辰州別駕汝南王韋(「火/韋」)、連州別駕バン陽公エン等宗室十二人を殺し、家族は 州へ移した。韋はツの子で、エンは元慶の子である。
 己酉、天官侍郎の藍田のトウ玄挺を殺した。
 玄挺の娘はエンの妻で、彼は韋とも仲が善かった。エンが廬陵へ中宗を迎えようと謀った時、玄挺へも諮問した。韋も又、かつて玄挺へ言った。
「計画を急ぎたいが、どうかな?」
 玄挺は皆、答えなかった。だが、造反を知っていて告発しなかった罪により、彼等と共に誅殺された。 

 諸王の起兵の時、貝州刺史紀王慎だけが陰謀に預からなかったが、彼も又牢獄へぶち込まれた。
 七月丁巳、檻車にて巴州へ移し、姓を 氏と変える。途中、蒲州にて卒する。
 八男の徐州刺史東平王続等が相継いで誅殺され、家族は嶺南へ移される。
 娘の東光県主楚媛は、幼い頃から孝廉との評判が高く、司議郎裴仲将と結婚して、互いに敬愛していた。姑が病気になった時、彼女は自ら薬膳を舐め、実の娘のように養ったので、皆の歓心をかった。
 この頃、宗室の諸女は皆、驕慢豪奢になっていたが、楚媛だけは倹素だったので、彼女達は言った。
「皆が富貴を貴ぶのは、好き勝手ができるからです。今、貴女ひとり勧苦を守っていますが、何を求めているのですか?」
 すると楚媛は答えた。
「妾は幼い頃から礼が好きでした。今、このように暮らしているのは、好き勝手にやっているのじゃないですか!古の子女を見ると、皆、恭倹を美徳、縦侈を悪徳としていました。妾は親を辱めることを懼れます。他に何を求めましょうか!富貴はただで貰った物。何で人に驕るに足りましょうか!」
 衆は皆、慚愧して服した。
 慎の凶報が届くに及び、楚媛は慟哭し、数升吐血した。喪を免れても二十年に亘って御膏沐をしなかった。 

 長安二年(702)敕が降りた。
「今後揚州及び豫、博の残党について告発されることがあっても、全て聞き流せ。内外の官司はこれを糾問してはならぬ。」 

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