天元崩御
 
杞公の乱 

 江南攻撃の行軍総管杞公亮は、天元の従祖兄である。その子の西陽公温の妻は、尉遅氏。彼女は蜀公迥の孫で、とても美しかった。
 十二年、宗族の婦人が入朝した時、天元は尉遅氏と酒を飲んで、姦淫を迫った。杞公亮は、それを聞いて懼れた。
 三月、遠征軍が帰国し、豫州まで戻った。杞公亮は、造反を密かに企てた。その計画は、まず韋孝寛を襲撃して彼の兵力を吸収し、趙王招か、又はその兄弟を推戴して西進する、といった手順だった。しかし、杞公亮の国官如寛がこれを知り、韋孝寛へ密告した。韋孝寛は、密かに備えをした。
 夜、杞公亮は数百騎を率いて韋孝寛を攻撃したが、勝てずに逃げた。韋孝寛は、追撃して、杞公亮を斬る。西陽公温もまた、縁座で誅殺された。天元は、西陽公温の妻を後宮へ迎え、長貴妃とした。なお、杞公亮の弟の永昌公椿が、杞公となった。 

  

天元崩御 

 同月、天元は五人の皇后を立てようと考え、小宗伯辛彦之へ諮問した。すると、辛彦之は言った。
「皇后は、天子と一体です。五人も立てるなど、宜しくありません。」
 だが、太学博士何妥は言った。
「むかし、帝コクは四人の妃を持ち、虞舜は二人の妃を持っていました。これは時代と共に変わるもの。決まった数など有りません!」
 天元は大いに喜び、辛彦之を罷免した。
 やがて、詔が降りる。
「徳を考えるに、土の数は五。よって、四太后の他に、天中太皇后一人を増設する。」
 これにより、陳氏が天中太皇后、尉遅妃が天左太皇后となる。 

 五人の太皇后の中でも、楊后はもの柔らかで、嫉妬もしない性格。だから、他の四皇后や嬪達からも慕われていた。
 天元の昏暴はいよいよ甚だしく、喜怒はすぐに爆発するようになった。ある時、太皇后へ罰を与えようとすると、楊后が進み出て、これを止めた。その容貌は毅然としている。天元は激怒して、楊后へ死を賜り、連行させた。楊后の母親の独孤氏が閣を詣でて叩頭流血するほど陳謝したので、どうにか赦された。
 楊后の父親の楊堅は、地位も高く、人望も厚かった。天元は憤懣に耐えず、楊后へ言った。
「お前の一族を、必ずや根絶やしにしてやる!」
 そして、楊堅を召し出し、左右へ言った。
「奴の表情が変わったら、即座に殺せ。」
 しかし、やって来た楊堅は神色自若としていたので、事なきを得た。
 内史上大夫鄭譯は、幼い頃楊堅と共に学んだが、彼の才覚を奇異として、親しく交わるようになっていた。さて、楊堅は天元から忌まれるようになると、やはり不安でならず、鄭譯へ私的に言った。
「地方官へ出るには、公の協力が必要だ。どうか心に留めていてくれ。」
 すると、鄭譯は言った。
「公は、天下の宿望を担っている。将来を考えたら、なんで忘れられようか!まあ、俺に任せておけ!」
 やがて、天元は江東への進攻に、鄭譯を派遣することにした。すると、鄭譯は言った。
「どうか、元帥をつけてください。」
「誰か意中の者が居るか?」
「もしも江東を平定するのなら、重臣でなければ、威厳が足りずに慰撫できないでしょう。それを思うなら、隋公を置いて、他におりません。寿陽総管として、全軍を指揮させては如何でしょうか。」
 天元は、これに従った。
 己丑、楊堅は揚州総管となり、寿陽へ出発することとなった。しかし、出発直前に突然足の病気になり、行軍できなかった。
 甲午、天元は天興宮へ御幸したが、重病になって、翌日戻ってきた。天元は、小御正の劉方と御正中大夫顔之儀を呼び寄せ、後事を託した。この時、天元の症状は重く、言葉も喋れなかった。
 この時、静帝はまだ幼かった。楊堅は、皇后の父であり威名も響いていた。そこで劉方は、鄭譯や御史大夫柳裘、内史大夫韋誉、御正下士皇甫績羅と共に、楊堅を輔政へ引き込もうと謀った。楊堅は固辞したが、劉方は言った。
「公がもしもやるのなら、速やかに。もしもやらないのなら、私が自ら行います。」
 遂に、楊堅は承諾した。詔を受けたと称して、中侍疾へ居する。
 この日、天元は崩じた。享年二十二。喪は隠して発しなかった。
 劉方と鄭譯は、詔をでっち上げて、楊堅を総知中外兵馬事とする。
 顔之儀は、これが天元の意向ではないことを知り、拒絶した。劉方等は、詔の草稿をつきつけて署名を強制したが、顔之儀は声を荒らげて言った。
「主上が崩御され、世継ぎは幼い。後見人は、宗室の英傑を選ぶべきだ。趙王は最年長で、徳もある。頼るべき人ではないか。公等は朝廷から恩を受けた。今、御国へ対して忠義を尽くすべきなのに、他人へ国を売るのか!之儀は死んでも先帝へ背かぬぞ!」
 劉方は屈服させきれず、しょうがないので代理人の署名で済ませた。
 諸衛は、敕を受けると、みな、楊堅の節度を受けた。
 楊堅は、地方へ下向している諸王が造反することを恐れ、千金公主を突厥へ送り出すことを口実に、趙、陳、越、代、トウの五王を入朝させた。
 楊堅が苻璽を求めると、顔之儀は顔つきを正して言った。
「これは天子のものです。宰相は、なぜ、求められるのですか!」
 楊堅は激怒して、引き出して殺そうとしたが、彼は人望があったので、西辺へ流すに留めた。
 丁未、喪を発する。静帝は正陽宮から天台へ引っ越した。
 阿史那太后を太皇太后、李太后を太帝太后、楊后を皇太后、朱后を帝太后とし、陳后、元后、尉遅后は、尼にする。
 漢王贊を上柱国、右大丞相としたが、これは虚名を与えて尊んだだけで、実質的な職務は何もなかった。楊堅は仮黄鉞、左大丞相、秦王贄は上柱国となる。
 楊堅は、後見役を引き受けると、すぐに正下大夫李徳林の元へ使者を出して、言った。
「朝廷から、文武を統べるように命じられたが、経国の責務は重い。今、公と共に事に当たりたいのだ。どうか辞退しないでくれ。」
 すると、李徳林は答えた。
「命を賭けてご奉公いたします。」
 楊堅は大喜びした。
 ところで、劉方や鄭譯は、最初は楊堅を大塚(土編がありません)宰にし、鄭譯自身は大司馬、劉方は小塚宰となるつもりだった。ところが、楊堅が李徳林へ訊ねたところ、彼は答えた。
「大丞相、仮黄鉞、都督中外諸軍事とおなりなさい。そうでなければ、衆人がついてきません。」
 喪を発表した時、彼の案を採用した。楊堅は、空き家になった正陽宮を丞相府とした。
 この頃、朝臣達は誰について行くか迷っていた。楊堅は、司武士上士盧賁を抱き込んで、正陽宮や連れていった。そして、彼の部下の武装兵達へ、公卿達を連れてくるよう命じ、言った。
「出世したければ、我等に従え。」
 朝臣達はあちこちでひそひそ話をして、誰につくか考えた。すると、そこへ盧賁が兵を率いてやって来た。衆人は、誰も動けなかった。彼等が祟陽門を出て正陽宮へ入ろうとすると、門番が入宮を拒んだ。だが、盧賁が目をつり上げて叱りつけると、彼等は逃げ出したので、楊堅は入宮できた。
 この手柄で、盧賁は丞相府宿衛となる。
 事が納まると、劉方は司馬に、鄭譯は丞相府長史に、李徳林は丞相府直属の役人となった。
 この事件で、劉方と鄭譯は、李徳林を怨んだ。
 ここに、内史下大夫の高潁(”潁”の字は、本当は、”水”ではなく、”火”です。)は、明敏で大局を見る目があり、兵法に通じて計略も多かった。楊堅は、彼を幕僚にしたくて、使者を放って説得した。潁は、喜んで言った。
「喜んで走狗となりましょう。もしも公の野望が失敗したら、私は一族誅殺されてもかまいません。」
 こうして、彼は相府司録となった。
 この頃、漢王は静帝と同じ帳に座していた。だが、劉方が、飾り立てた美妓を勧めたので、漢王は大喜びだった。そこで、劉方は漢王へ言った。
「大王は、先帝の弟で、衆望を担っています。それに対して今上の陛下は幼少。どうして大事に耐えられましょうか!今、先帝は崩御されたばかり。人々の心は動揺しています。殿下はすぐに第へ帰られ、事が静まるのを待ち、入って天子となられるべきです。これこそ、万全の計略ですぞ。」
 漢王はまだ若く、軽薄な性格だったので、この言葉にホイホイ騙され、これに従った。
 楊堅は、苛酷だった宣帝時代の政治を改め、刑法の適用を寛大にしようと刑書要制を作成して施行した。そして、自ら倹約を実践したので、中外は悦んだ。
 ある夜、楊堅は太史大夫ユ季才を召しだして問うた。
「我は凡才なのに、後見役を命じられた。天の時や人々の反応など、卿はどう見るか?」
「天道は精微で、なかなか測りがたいもの。しかし、人事を卜すると、兆しは既に見えております。それに、私が不可と言ったら、公は隠遁なさるのですか!」
 楊堅は暫く黙っていたが、やがて言った。
「卿の言うとおりだ。」
 独孤夫人もまた、楊堅へ言った。
「大事は既に定まっています。虎の背中に乗ったのならば、どうして途中で降りられましょうか!どうか勉めてください。」 

 陳王純は、この時斉州を鎮守していた。楊堅は、門正上士崔彭を使者として、彼を徴召した。
 崔彭は、従者と共に伝舎へ泊まり、そこから使者を出して陳王を呼び出した。陳王が来ると、崔彭は「密かに伝えることがある。」と言って人払いし、陳王へ近づいて、これを捕らえると鎖で縛り上げて大声で叫んだ。
「陳王は罪があるので、朝廷へ連行するのだ。皆の者、邪魔だてするな!」
 陳王の従者達は、愕然として去っていった。
 六月、五王が、皆、長安へやって来た。 

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