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垂拱三年(687年)。嶺南の俚戸は、もともと税金が半分だった。交趾都護劉延祐は、これを全額徴収したが、俚戸は従わない。そこで延祐は、その首魁を誅殺した。すると、俚戸の党類李思慎等が造反した。安南府城を攻め破り、延祐を殺す。
桂州司馬の曹玄静が兵を率いて思慎等を討ち、これを斬る。 同年九月己卯。カク州の人楊初成が郎将と詐称し、制をでっちあげて都市にて人を募り、房州へ廬陵王を迎え入れようとした。
天授二年(辛卯、691年)正月、尚衣奉御の劉行感兄弟が謀反したと、侍御史来子旬(「王/旬」)が誣告した。皆、造反罪で誅殺された。 神功元年(697)、箕州刺史劉思禮の陰謀が発覚した。詳細は、「則天武后その八」へ記載する。
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