天后僭称
 
 顕慶五年(660)十月、上は始めて風眩頭重に苦しんだ。目が見えなくなることもある。百司の上奏は、上はあるいは皇后へ決裁させた。后は明敏な性で、文史を読み漁っており、諸事皆、皇帝の御意にかなっていた。ここにおいて始めて政治が委ねられ、権力が人主と等しくなった。 

  

 初め、武后はよく身を屈して辱を忍び、上意を奉順した。だから上は群議を排してこれを立てたのである。
 だが、志を得ると、もっぱら威福を作るようになり、上がやりたいことがあっても、ややもすると后に抑制された。上は怒りに我慢できなかった。
 ここに、郭行眞とゆう道士が禁中に出入りしていた。ある時、彼は呪術を為し、宦官の王伏勝が告発した。上は大いに怒り、西台侍郎、同東西台三品上官儀を密かに召して、これを議した。だがこの時、儀は言った。
「皇后の専横は、海内が怒っております。どうか廃立してください。」
 上の意向も同じだったので、すぐに儀へ草詔の作成を命じた。
 左右が慌てて后へ告げた。后はすぐさま上のもとへ出向いて弁明した。詔草はまだ上の手元にあったので、上は恥ずかしくて堪らず、再び元のように大切にするようになった。それでもなお、后の怨怒を恐れ、言った。
「我はもともとそんなつもりではなかった。皆、上官儀が我へ教えたのだ。」
 儀はもとは陳王の諮議で、王伏勝と共にもとの太子忠に仕えたこともあった。そこで后は、儀が伏勝や忠と大逆を謀ったと、許敬宗へ誣告させた。
 麟徳元年(664年)十二月、丙戌。儀を獄へ下し、その子の庭芝、王伏勝と共に死刑にし、その家財を没収した。戊子、忠へ配所で死を賜る。
 右相劉祥道は儀と仲が良かったので有罪となり、政事をやめて司禮太常伯となった。左粛機鄭欽泰等流貶された朝士は大勢いた。これは全て儀と交遊があったためである。
 これ以来、上の視事のたびに后は御簾を垂らして背後に控えた。政は大小となく、皆、彼女の意向を尋ねる。天下の大権は悉く中宮へ集まり、黜陟、殺生は全て其の口で決まった。天子はただ手を拱いているだけで、中外はこれを二聖と言った。 

王陽明曰く(「読通鑑論」より)
 非常に惰弱な主君は、必ず突発的に激怒することがあり、非常に暗愚な主君には、必ず小賢しい智恵がある。
 もしも惰弱や暗愚な主君が、たまに小賢しさを出したりヒステリーを起こしたりしなければ、巨姦は彼等の限界を測りきれないので、敢えて主君の無能に凌乗して我欲を逞しくしようとはしないものだ。聡明さが発せられるけれども、容易にごまかせる。突然激怒することがあるが、なだめすかすことができる。そうなれば、主君の人格は全て底が見えてしまう。その上で初めて迫駕することができるし、忌む所もなくなるのだ。
 君子が、このような主君を補佐して素晴らしい時代を築こうとしても、とても難しい。だが、それでもやり方はあるのだ。
 智恵が小賢しいだけで遠くまで見通すことができなく、また、怒りも一時的に暴発しながらすぐに後悔してしまうような人間だと知ったならば、あらかじめ、その小賢しい智恵や一時の怒りを出させるのを防ぎ、長い間に少しずつ触発して智恵や怒りを厚くさせて行く。そしてこれを爆発させる時でも、緩やかにさせて行けば、なんとか救済できるに近いだろう。もしも救済できなくても、補佐する側としてはまだ地位を保つ余地があり、後日新しく謀略を巡らすことができる。巨姦側としては威厳を増長させて逆らうことのできない勢力をつくることができない。
 だから、ただ慎重で、自分の影響力を維持できる人間だけが、暗君に仕えることできるのだし、乱朝に宰相となっても険阻を消すことができるのだ。そしてこれこそ、大臣がなかなか得られない理由なのだ。
 高宗が、一時的な嫌悪で武氏へ怒りを発し、これを廃立しようとした。
 もしも彼女を廃することができたなら、社稷の幸いである。しかし、そうは言っても、皇后を廃するとゆうのは一大事である。どうして突発的な怒りですぐに口に出し、即日廃立するものだろうか。
もしも突発的な怒りですぐに口に出し、即日廃立できるようなものだったならば、こうゆう事をしたところで、国害や家凶はない。喩え皇后を廃立しなかったとしても、だ。だが、しかし、武后のように奸悪な女性であったとしても、突発的な怒りでアッとゆう間に廃立できるようなものではないのだ。
 突発的に激怒した時、それを隠忍自重してゆっくり状況を待つことができない。それこそが、惰夫の惰夫たるゆえんである。上官儀は、上の突発的な激怒へ対し、それがどのような想いなのか見極めようともしなかった。例えるならば、集中暴雨で街が水浸しとなった時、これ幸いと舟を浮かべて海を目指して棹さしたようなもの。愚の骨頂である。
 この時に、上官儀は自重して対処し、機を見て少しずつ導いて行くべきだった。だから、この時には、物静かな顔で、こう言うべきだったのだ。
「皇后が天下の母となれるような女性ではないことは、臣等には判っておりましたが、敢えて口には出さなかったのです。今、幸いにして上はそれと悟られました。ですが、皇后廃立とゆう重大なことは、軽々しく行えるものではありません。今しばらくは、彼女のさせるがままにして皇后の傲慢な態度を御観察ください。少しずつ彼女へつれなくして、その怨む有様をご覧ください。
 そうやって御自分の心の中でゆっくりと考えてから、郡臣達へ正しく告知し、武氏を皇后とした過去の過ちを悔いていると表明し、その後に祖宗の家法を正し、天下の人々と共に后を斥けましょう。そうなったら臣は、公忠で国の要職の大臣達へ上意を伝えます。皆は祝いの言葉で天下の公論を示してくれるでしょう。
今、ただ一枚の詔書で一時的な怒りを暴発させるべきではありません。」
 このようにすれば、高宗の意志は固まるし、武氏の奸悪は明白に顕れてしまうし、忠直の言葉は文書で届いて納れられるし、佞幸の党も判明して解任できる。惰夫の怒りも暴発させずに心の中に鬱屈させれば、武氏の涕泣も為す術が無く、心が挫ける危機も阻まれる。
 こうやって武氏を廃立できたならば当然社稷は安寧だけれども、もしも廃立までできなかったとしても、このやり方だったなら、武氏の反撃を触発して、彼女が群臣を脅かし疑獄事件を起こして却って権力を確固たるものにしてしまったような結果に陥るようなことにはならなかった筈だ。
 上官儀がこのような行動をとらなかったのは、知識が浅く守りが甘い。軽率に動き、一朝に事を成し遂げようとしたから、自身は殺され、国へ大きな禍を残した。儀は、その咎を責められても当然である。
 しかしながら、論客は言う。
「彼は暗愚だったから、高宗のような人間とは共に謀略を起こしてはいけないことが判らなかった。儀が愚かしさで身を滅ぼしたのは、京房の失敗と同じ様なものだ。」
 これは、間違いだ。
 彼は大臣となっていた。だから、宗社の責任がある。口を閉じて一身のみを保とうとするのは、賤しい人間である。儀は忠義だけれども、愚かだっただけである。酷評するべき人間ではない。 

  

 二年十月癸丑。皇后が表した。
「封禅の旧儀では、皇を祭り地を祀り、太后が昭配しますが、公卿の行事については、まだその礼が完全に定まってはいません。その日が来たら、妾は内外の命婦を率いて酋献いたします。」
(武皇后の表が降りたのは、資治通鑑ではこれが最初です) 

  

 初め、武士護(本当は尋偏)は相里師を娶って、元慶と元爽を生んだ。次に楊氏を娶って三女を生んだ。長女は越王府法曹賀蘭越石へ嫁ぎ、次女が皇后となり、三女は郭孝慎へ嫁いだ。
 士護が卒すると、元慶、元爽及び士護の兄の子の惟良、懐運は皆楊氏を粗末に扱うようになったので、楊氏はこれを深く根に持った。
 越石、孝慎及び孝慎の妻は皆、早くに死んだ。越石の妻は敏之と一女を生んで寡婦となった。
 武后が立つと、楊氏は栄国夫人、越石の妻は韓国夫人と号した。惟良は、始州長史から司衞少卿へ抜擢され、懐運は瀛州長史からシ州刺史となり、元慶は右衞郎将から宗正少卿となり、元爽は安州戸曹から累進して少府少監となった。
 栄国夫人が、かつて酒を飲みながら惟良へ言った。
「昔のことを良く憶えておいでかえ?今日の栄貴はどうだえ?」
 対して言った。
「惟良等は幸いにも功臣の子弟で早くから宦籍へ登りましたが、自ら凡庸なのを知っていたので、栄達を求めませんでした。それが皇后のおかげで身に余る朝恩を蒙り、夙夜憂懼するばかり。とても栄達とは思えません。」
 栄国は悦ばなかった。
 皇后が上疏して、惟良を遠州刺史として出向させるよう請願した。これは、上辺は謙抑しているように見えたが、実は憎んだのである。
 此処に於いて、惟良は検校始州刺史、元慶は龍州刺史、元爽は濠州刺史となった。
 元慶は州へ至ると、憂えて卒した。元爽は事に坐して振州へ流され、死んだ。
 韓国夫人とその娘は皇后の縁故で禁中へ出入りし、共に上に可愛がられた。韓国夫人が卒すると、娘は魏国夫人の号を賜下された。上は魏国を内職としたがったが、皇后を憚って躊躇していた。皇后は、これを憎んだ。
 やがて、惟良、懐運と諸州刺史が泰山を詣でて朝覲した。その後彼等は京師まで随従し、惟良等は食を献上した。后は、塩漬けの中へ密かに毒を仕込み、魏国へ食べさせた。すると彼女は急死したので、その罪を惟良と懐運へなすりつけた。
 乾封元年(666)八月丁未、彼等を誅殺して、蝮氏と改姓させた。
 懐運の兄の懐亮は早死にしていたが、その妻の善氏は栄国へ対して最も無礼だった。彼女は懐運等の連座で掖庭へ没入された。后は、栄国の命令で、他のことにかこつけて彼女を棘鞭で打った。善氏は、肉がそげ落ちて骨まで露わになって、死んだ。 

  

 咸亨元年(670)九月甲申、皇后の母魯国公忠烈夫人楊氏が卒した。文武官の九品以上及び外命婦は夫人宅を詣でて弔哭するよう敕が降った。
 閏月癸卯。旱害が続くので、皇后が位を降りると請願したが、上は許さなかった。
 壬子、司徒周忠公武士護へ太尉、太原王を加贈し、夫人を王妃とした。 

  

 武元慶が死んだ後、皇后はその姉の子の賀蘭敏之を士護の嗣ぎとして周公を襲爵し、姓を武氏と改め弘文館学士、左散騎常侍へ累遷させるよう上奏した。
 魏国夫人が死ぬと、上は敏之を見て、悲泣して言った。
「吾は朝廷でこそ何気なく振る舞っているが、退朝したら悲しみが止まらない。それなのに、お前はどうしてそんなに平然としているのか!」
 すると、敏之は号哭して答えなかった。
 皇后はこれを聞いて言った。
「この児は、吾を疑っているのか。」
 以来、彼を憎むようになった。
 敏之は美貌の士で、太原妃と密通していた。妃が死ぬと、衰至(「糸/至」)や奏妓へ手を出すようになった。
 司衞少卿楊思倹の娘は殊に美しく、上と皇后が自ら太子妃へ選び、婚礼の日取りまで決めたのに、敏之はこれへ迫って姦通した。
 ここにいたって皇后は、敏之の前後の悪行を上表し、糾明するよう請うた。
 二年六月丙子、雷州へ流し元の姓へ復するよう敕が降った。敏之は韶州へ至って、馬のたづなで縊れ死んだ。
 敏之と交遊していた罪で、大勢の朝士が嶺南へ流された。
 賀蘭敏之が処罰されると、皇后は武元爽の子承嗣を嶺南から呼び出して周公を襲爵させ尚衣奉御とするよう上奏した。上元元年(674)四月辛卯、正卿となる。 

  

 八月壬辰。宣簡公を宣皇帝、妣の張氏を宣荘皇后、懿王を光皇帝、妣の賈氏を光懿皇后、太武皇帝を神堯皇帝、太穆皇后を太穆神皇后、文皇帝を大層文武聖皇帝、文徳皇后を文徳聖皇后と追尊した。
 皇帝を天皇、皇后を天后と称し、先帝、先后の呼称を避けた。 

  

 話は遡るが、左千牛将軍の長安の趙壊(本当は王偏)が、高祖の娘の常楽公主を娶り、生まれた娘を周王顕の妃とした。
 公主は上からとても厚遇されたので、天后はこれを憎んだ。
 二年、四月辛巳、妃は罪に問われて廃され、内侍省へ幽閉された。食糧は生ものが配給されたが、防人がその煙突を覗いてみると、数日間も煙が立たない。そこで部屋を開けてみたら、既に死んでおり、死体は腐っていた。
 壊は定州刺史から括州刺史へ左遷され、公主も彼に随従して任地へ下向させ、朝謁をできないようにした。 

  

 太子弘仁は仁孝謙謹だったので、上はこれをとても愛していた。士大夫へ対しても礼儀を以て接していたので、中外の衆望を得ていた。だが、天后はその野望が逞しく、太子の奏請がしばしば彼女の想いに逆らっていたので、太子への愛情が薄れていった。
 義陽、宣城の二公主は蕭淑妃の娘だが、母の罪に連座して掖庭へ幽閉されたまま、三十年も嫁げなかった。太子はこれを見て驚き、哀れにも想い、即座に嫁がせるよう奏請した。上はこれを許す。天后は怒り、公主をその日のうちに上翊衞の権毅と王遂古へ嫁がせた。
 己亥、太子が合璧宮にて卒した。時人は天后が毒殺したと噂した。
 壬寅、車駕が洛陽宮へ還った。
 五月、戊申、詔が降りる。
「朕はそろそろ皇太子へ位を譲るつもりだったが、突然の病で卒してしまった。これへ尊名を加え、孝敬皇帝と諡しよう。」
 六月、戊寅。ヨウ王賢を皇太子に立て、天下へ赦恩を下した。
 八月、庚寅、孝敬皇帝を恭陵へ葬った。 

  

 永隆元年(680)宮中で、太子の賢は天后の姉の韓国夫人の子供だと言い立てられていたが、太子はこれを盗み聞きして、内心疑い懼れるようになった。
 明祟儼は、呪術で天后の信頼を勝ち得ていたが、彼はいつも言っていた。
「太子は天子の重責に堪えられません。そして英王の容貌は太宗に似ております。」
 又言う、
「相王の人相が、最も貴いです。」
 天后はかつて北門学士に少陽正範と孝子伝を編纂させて太子へ賜った。又、屡々書を作って、これを譴責した。太子はいよいよ不安になった。
 祟儼が死んだ時に下手人が見つからなかったが、天后は、太子の仕業ではないかと疑った。太子は声色をとても好み、戸奴の趙道生等と狎れ親しみ、たくさんの金帛を賜下した。司議郎韋承慶が上書して諫めたが、聞かない。天后は、人にこれを告発させた。
 薛元超、裴炎と御史大夫高智周等へこれを取り調べるよう詔が降りた。すると、東宮の馬坊から武具数百領が見つかり、造反の道具だとされた。道生もまた、大使の命令で自分が祟儼を殺したと称した。
 上は太子を愛でていたので、これを宥めようとしたが、天后は言った。
「人の子となって逆謀を抱くなど、天地に容れられない人間です。大義は親をも滅す。何で赦せましょうか!」
 八月甲子、太子賢を廃して庶人とし、右監門中郎将令狐智通等を派遣して賢を京師へ護送させ、別所に幽閉する。与党は皆、誅殺された。その甲は天津橋の南で焼き払い、士民へ示した。
 承慶は思謙の子息である。
 乙丑、左衞大将軍、ヨウ州牧英王哲を皇太子に立て、改元して天下へ特赦を下す。
 太子洗馬劉訥言はいつも俳諧集を撰集して賢へ献上していた。賢が廃されるとこれが探し出された。上は怒って言った。
「六経で人を教えても、なお教化できないことを恐れるのに、俳諧鄙説を進めて、どうして輔導しているといえようか!」
 訥言を振州へ流す。
 左衞将軍高眞行の子の政が太子典膳丞となり、太子の事件に連座した。上はこれを父親へ預けて訓責させた。政が自宅の門へはいると、眞行は佩刀でその喉を刺した。眞行の兄の戸部尚書審行もまた、その腹を刺した。眞行の兄の子の旋(本当は王偏)はその首を斬って道へ棄てた。上はこれを聞いて不愉快になり、眞行を睦州刺史へ、審行を渝州刺史へ貶した。眞行は士廉の子息である。
 左庶子、中書門下三品張大安は、太子へ阿っていたとして普州刺史へ左遷させられた。 その他の宮僚は、上は皆その罪を赦してもとの官位へ復した。左庶子薛元超等は躍り上がって喜び聖恩を拝した。ただ、右庶子の李義炎(「王/炎」)だけは我が身の咎に涕泣した。時論はこれを美談とした。
 十月壬寅。蘇州刺史曹王明、沂州刺史嗣蒋王韋(「火/韋」)が、共にもとの太子の仲間として有罪になり、明は零陵郡王へ降封されて黔州へ流され、韋は除名されて道州へ流された。
 開輝元年(681)十一月癸卯。もとの太子賢を巴州へ移す。
 永淳元年(682)黔州都督謝祐が天后の意向に叶おうと、零陵王明へ迫って自殺させた。上はこれを深く惜しみ、黔府の官属を全員有罪として免官した。
 祐は後、婢や妾十余人と共に平閣に寝ていたが、夜、首を失った。
 垂拱年間、明の子の零陵王俊と黎国公傑が天后に殺されたが、役人がその邸宅を家捜しすると、祐の首を見つけた。それは、漆を塗って便器にされ、「謝祐」と名付けられていた。これによって、明の子息が刺客を雇って殺したことが判明した。
 光宅元年(684)、二月辛酉、太后が左金吾将軍丘神勣へ、巴州へ行き元の太子賢の宅を良く改めて外敵に備えて来るよう命じた。だが、その実、賢を殺しに行かせたのだ。
 神勣は行恭の子息である。
 三月、丘神勣は巴州へ到着すると、もとの太子賢を別屋へ幽閉し、迫って自殺させた。
 太后は、罪を神勣へ押しつけ、戊戌、顕福門にて哀を挙げ、神勣を畳州刺史へ左遷した。
 己亥、賢をヨウ王へ追封する。
 神勣は、すぐに朝廷へ呼び戻され、左金吾将軍へ戻った。 

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