則天武后 その五   恐怖政治 その2
 
 垂拱二年(686)四月、太后は大儀を鋳造して北闕へ置いた。 

 岑長倩を内史とした。
 六月辛未。蘇良嗣を左相、同鳳閣鸞台三品韋待價を右相とした。
 己卯、韋思謙を納言とした。
 蘇良嗣が朝堂にて僧懐義と遭った時、懐義はびっこを引いて礼をしなかった。良嗣は大怒して左右へ彼を引き出させ、その頬を数十回叩かせた。懐義が太后へ訴えると、太后は言った。
「阿師は北門から出入りしなさい。南牙は宰相が出入りするところです。犯してはなりません。」
 太后は、懐義は小才が効くと言い訳して、禁中へ入れて営を造らせた。補闕の長社の王求禮が上表した。
「太宗の時、羅黒黒とゆう琵琶の名手がおりました。太宗はこれを去勢して給使として、宮人へ教えさせました。陛下がもし懐義に才知があるので宮中にて使いたいというのであれば、これを去勢してください。そうすれば、後宮を乱しません。」
 だが、何の返答もなかった。 

 九月己巳、新豊県の東南に山が盛り上がった、と、ヨウ州から報告が来た。そこで新豊県を慶山県と改称した。四方から祝賀が集まる。
 江陵の人ユ文俊が上書した。
「天気が調和しないと寒暑が同時にやって来て、人気が調和しないと疫病が流行り、地気が調和しないと丘が盛り上がる。今、陛下は女主なのに陽の位に座り、易の柔剛に反しています。だから地気が塞がり山ができるとゆう禍が起こったのです。陛下はこれを『慶山』と名付けられましたが、臣は非慶と判じます。臣は、身を慎み徳を修めて天の譴責に答えるべきとかと愚考いたします。そうでなければ、殃禍がやって来ますぞ!」
 太后は怒り、文俊を嶺外へ流した。後、六道使に殺させた。
(訳者曰く。)
 太后が怒るだろうな。殺されるのも当然。もっとも、文俊も覚悟の上だったのでしょうが。
 ところで、昭和新山が隆起したのは、確か戦争中でした。この時は、「国家隆盛の瑞兆」とか宣伝されたのだろうか?秋の島新島は戦後のことで、既に天皇は単なる象徴になっていましたから、瑞兆だの何だのと言い出す人は居なかったのですが。
 ところで、資治通鑑全編を通じて「山ができた」とゆう記述は他に覚えがありません。昭和新山や秋の島新島は、よほど珍しいことだったのだろうか?まあ、日本は火山国だから起こりやすいのかも知れませんが。 

 同月、狄仁傑が寧州刺史となる。
 左台監察御史の晋陵の郭翰が隴右を巡察したが、至る所で地方官の失点を摘発弾劾した。ところが寧州へ入ると、刺史の美徳を讃美して歌を歌う老人が路に溢れていた。翰はこれを朝廷へ推薦したので、冬官侍郎に抜擢された。 

 三年閏正月丁卯。皇子成美を恒王に封じる。隆基を楚王に封じる。隆範を衞王に封じる。隆業を趙王へ封じる。
 三月乙丑、納言韋思謙を太中大夫として退官させる。 

 四月、蘇良嗣へ西京の留守を命じる。
 この時、尚方監裴匪躬へ京苑を検校させ、苑中でとれる果実や野菜を売って利益を得ようとした。良嗣は言った。
「昔、公儀休が魯の宰相となった時、菜園を造らせず、婦人へは機織りもさせず、言いました。『我は既に禄を食んでいる。その上に農夫や織婦の職を奪うのか!』と。ましてや万乗の君が野菜や果実を売るなどとゆう話は、聞いたことがありません。」
 そこで、中止した。 

 鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品劉韋之が、鳳閣舎人の永年の賈大隠へ密かに言った。
「太后は既に混迷な主君を廃して明君を立てられたのに、どうしていつまでも朝廷へ臨んで制を称しておられるのか!政権を陛下へ返して天下の心を安心させるべきだ。」
 大隠は、これを密かに上奏した。太后は不機嫌になり、左右へ言った。
「韋之は、我が引き立てた男なのに、我へ背くのか!」
 するとある者が、韋之が帰誠州都督孫萬栄から金を受け取ったと誣告し、別の者は、韋之は許敬宗の妾と密通していると誣告した。太后は、粛州刺史王本立へ、これを詮議させた。本立が敕を宣べてこれを示すと、韋之は言った。
「鳳閣鸞台を経由しないのに、何で敕と言うのか!」
 太后は大怒して、太后の命令に従わなかったとし、庚午、家にて自殺させた。
 韋之が獄に下された当初、睿宗は彼の為に上疏して理を述べた。韋之の親戚や友人達は、これを聞いて韋之を祝賀したが、韋之は言った。
「これは、却って我が死を速めるだけだ。」
 刑に臨んで沐浴したが、立ち居振る舞いは自若としていた。自ら謝表をしたためたが、たちどころに数枚書き上げた。麟台郎の郭翰と太子文学の周思鈞は、その文章を賞嘆した。太后はこれを聞き、翰を巫州司法へ、思鈞を播州司倉へ左遷した。 

 七月壬辰。魏玄同を検校納言とした。魏玄同へ西京の留守を命じた。 

 四年、六月、東陽大長公主の封邑を削り、併せて二子を巫州へ流す。
 公主は高履行へ嫁いでいた。高氏は長孫無忌の舅の一族である。だから太后は彼女を憎んだのだ。 

 九月丁卯、左粛政大夫騫味道と夏官侍郎王本立をともに同平章事とした。
 騫味道は、もともと殿中侍御史周矩を礼せず、しばしば、彼は何もできないと言っていた。味道を密告する者がおり、矩へ取り調べるよう敕が降りた。
 矩は味道へ言った。
「公はいつも、矩が事を完遂しないと責めていた。今日は、公の為に完遂してやろうじゃないか。」
 十二月乙亥、味道とその子辞玉は誅に伏した。 

 十二月、裴居道へ西京留守を命じる。 

 太后は、梁、鳳、巴の蛮を徴発して、雅州の山を開き道を通そうとした。出撃して生キョウを撃ち、そのまま吐蕃を襲撃する為である。
 正字陳子昴が上書した。
「雅州の辺キョウは、わが国の建国以来、まだ掠奪を行ったことがありません。今、無罪の民を殺戮すれば、絶対、強く怨まれます。それに、一族の誅殺を懼れれば、彼等は必ず蜂起して盗賊となります。西山に盗が起これば、蜀の辺邑は兵を連ねて守備しなければならなくなります。臨戦態勢が長年続くと、西蜀の本格的な禍が勃発すると愚考いたします。『吐蕃は豊かな蜀を求め、長い間これを侵略しようと望んでいたが、険しい山川に邪魔されて兵を送れず、動くことができなかったのだ。』と、臣は聞いております。今、国家が辺キョウを乱した上に隘道を開けば、吐蕃は辺キョウからの逃亡者を受け入れて道案内とし、我が辺域を攻撃します。これは寇兵を借りて賊の為に道を開いてやるようなもの。蜀を全て奪われかねません。蜀は国家の宝庫で、その富で他の地方を救済できるのです。今、当事者達は僥倖の利を図って西キョウを討伐しようとしていますが、その土地を得ても、あそこは何も生み出しません。手に入る財は国家を富ませるに足らず、いたずらに戦費をろうしするだけで、聖徳を増すこともありません。ましてや敗北してしまったらどうなりましょうか!それ、蜀が恃んでいるのは険阻な地形です。人々が安んじているのは、労役が少ないからです。今、国家がその険を開きその人々をこき使います。険を開けば蛮人の来寇に便利になりますし、労役が酷くなれば租税が減ります。臣は、キョウ戎を見る前に、姦盗が勃発することを恐れます。それに、蜀の人々は虚弱で戦争の訓練もしていませんし、山川が険阻で中夏から遠く離れています。今、理由もなしに西キョウ、吐蕃の患を生みますと、百年と経たないうちに蜀は戎の物になってしまいます。国家は最近安北を廃し、単于を領土から抜き、クチャを棄て、疏勒を放ちました。それを天下の人々が徳の盛りだと褒めそやかしていますのは、陛下の勤めが人を養うことにあり、領土を広めることにはないからです。今、山東は餓えていますし、関、隴も疲れ切っておりますのに、貪夫の議論に無理に従って無闇に兵を動かし大工事を興されますのか。古から、国を亡し家を滅ぼすのは、無益な戦争でした。どうか陛下、これを熟慮なさってください。」
 結局、工事は起こらなかった。 

 永昌元年(689)二月丁酉。魏忠孝王を尊んで周忠孝太皇、比(「女/比」)を忠孝太后と改称する。また、文水陵を章徳陵、咸陽陵を明義陵と改称し、祟先府官を設置する。
 戊戌、魯公を尊んで太原靖王、北平王を趙粛恭王、金城王を魏義康王、太原王を周安成王と改称する。 

 三月甲子。張光輔を納言とする。
 癸酉、天官尚書武承嗣を納言、張光輔を内史とした。 

 壬申、太后が正字の陳子昴へ当今の政務の要点を問うた。子昴は退出した後、上疏した。
「刑を緩めて徳を祟び、兵革を休めて賦役を省き、宗室を慰撫し、おのおの自ら安んじさせるのが宜しゅうございます。」
 上疏文はおよそ三千字。その辞は懇切丁寧で文章は美しかった。 

 七月戊寅、王本立を同鳳閣鸞台三品とした。 

 徐敬業が敗北した後、弟の敬眞は粛(「糸/粛」)州へ流されたが、逃げ帰って突厥へ亡命しようとした。洛陽を過ぎた時、洛州司馬弓嗣業と洛陽令張嗣明が物資を援助した。
 定州まで来て、吏に捕まった。嗣業は首吊り自殺した。嗣明と敬眞は、罪を免れようと、海内の知識を動員して異図を全て白状した。これによって、朝野の士が連座で大勢殺された。
 嗣明は内史張光輔を誣て言った。
「豫州を征伐した時、私的に図纖、天文を論じ、密かに二股を掛けました。」
 八月甲申、光輔と敬眞、嗣明等は皆、誅殺され、その家族は官奴となった。
 乙未、秋官尚書の太原の張楚金、陜州刺史郭正一、鳳閣侍郎元萬頃、洛陽令魏元忠が皆、死を免じて嶺南へ流罪となる。楚金等は皆、敬眞が、敬業と通謀したと言い立てたのである。
 彼等は最初は死刑の予定だったが、刑に臨んで太后の気が変わり、騎を馳せて刑の中止を大呼させるよう、鳳閣舎人王隠客へ命じた。その声が市まで聞こえると、刑に臨んでいた者皆、躍り上がって喜んだ。ただ、元忠一人、座り込んだままだった。ある者が助け起こすと、元忠は言った。
「まだ、本当かどうか判らない。」
 隠客が到着すると再び助け起こされたが、元忠は言った。
「敕が公表されるのを待っているのだ。」
 敕が公表されると、彼は静かに立ち上がり、感謝の舞踏と再拝を形通り行ったが、ついに嬉しそうな顔をしなかった。
 この日、どんよりとした雲が四方を覆っていたが、楚金等の処刑が赦されると、カラリと晴れ上がった。 

 高宗の御代、当時河陽令だった周興を召見して抜擢しようとしたが、ある者が、彼は清流ではない、と指摘したので、お流れとなったことがあった。興はそれを知らず、何度も朝堂にて辞令を待った。諸相は皆無言だったか、この時同平章事だった地官尚書、検校納言魏玄同が彼へ言った。
「周明府、立ち去りなさい。」
 興は、玄同が邪魔をしたのだと思って、これを怨んだ。
 玄同は、もともと裴炎と仲が善く、そのつき合いが終始変わらなかったので、時の人々はこれを”耐久朋”と呼んでいた。そこで周興は玄同を誣て奏した。
「これは、『太后は年老いたので、嗣君へ仕えて耐久となった方がよい。』とゆう意味です。」
 太后は怒り、閏月甲午、家にて自殺させた。
 監刑御史房済が玄同へ言った。
「丈人、どうして密告して召見を冀い、弁明しようとしないのですか!」
 玄同は嘆いて言った。
「人を殺すのも、密かに殺させるのも、変わりはしない。なんで人を密告したりできようか!」
 そして、自殺した。
 また、夏官侍郎崔 を隠所にて殺す。その他、内外の大臣で有罪となり、死刑になったり流罪となった者が大勢いた。
 彭州長史劉易従もまた、徐敬眞から告発された。戊申、州にて誅殺された。易従は仁孝忠謹な為人で、市にて処刑される時、吏民はその無辜を憐れみ、遠近から駆けつけてきて、競って衣を脱ぐと地面に投げ捨て、言った。
「長史の冥福をお祈りします。」
 役人がこれを銭に勘定したら、十余萬にも値した。
 周興等は、右武衞大将軍・燕公黒歯常之が造反を企てたとして投獄した。冬、十月戊午、常之は首を吊って死んだ。
 己未、宗室のガク州刺史嗣鄭王敬(「王/敬」)等六人を殺す。
 庚申、嗣トウ王修奇(「王/奇」)等六人を、死を免じて嶺南へ流す。 

 丁卯、春官尚書范履冰と鳳閣侍郎ケイ文偉を共に同平章事とする。 

 太穆神皇后、文徳聖皇后を皇地祇へ配して、忠孝太后へ従配するよう詔が降りた。 

 右衞冑曹参軍陳子昴が上疏した。
「周では成王、康王が、漢では文帝、景帝が称賛されていますのは、刑罰を緩くしたからでございます。今、陛下の政治は善を尽くしてはおりますので、朝廷は泰平、上も下も教化されて楽しんでおり、乱臣賊子が出ても日を置かずに天誅が下されます。それなのに、この時期に大獄が増え続け、逆徒として処刑される者がますます多くなっています。頑迷な愚臣達は、彼等は皆有罪だと言っております。しかし、先月の十五日に陛下が囚人の李珍等の無罪を看破された時、百僚は悦び慶い、皆、聖明を祝賀しました。ですから臣は、疏網に引っかかっている無罪の者もいると知ったのです。寛大な心を広めるのが陛下の務めです。しかし獄吏は刑罰を厳しく行う事に務め、陛下の仁を傷つけて泰平の政治を破っております。臣はこれを密かに恨んでいるのです。又、九月二十一日に楚金等の死を赦免すると敕がおりました。この日、初めは風雨でしたのに、この敕が降りた途端、晴れ上がりました。臣は、『刑は陰惨で徳は陽舒』と聞いております。聖人は天を手本とし、天は聖人を助けます。天の意向がこのようですから、陛下はどうしてこれに従わずにおられましょうか!今、また陰雨が続いています。臣は獄官に過があるのではないかと恐れるのです。およそ囚人を牢へ繋ぐのは、多くは極刑の結果ですから、道行く人々でさえ話題にして、あの『繋獄は正しい』だの、『あの繋獄は誤りだ』などと議論しています。それなのにどうして陛下は、囚人を引き出して自ら詰問なさらないのですか!その罪が事実でしたら刑罰が正しいことを顕示できますし、無罪の者でしたら獄吏を厳重に懲らしめられます。そうすれば天下を感服させられますし、人々は政刑を思い知ります。これこそ至徳克明ではありませんか!」 

 天授元年(庚寅、690年)十一月庚辰朔、日が南へ至った。太后は萬神神宮で恵みを受けて、天下へ恩赦を下した。始めて周の正朔を用い、永昌元年十一月を載初元年正月とする。十二月を臘月とし、夏正月を一月とする。周と漢の子孫を二王の後とし、舜、禹、成王の子孫を三恪とした。後周、隋の嗣は列国と同列とした。
 乙未、司刑少卿周興が、唐の親族の官籍を除くよう上奏した。
 臘月辛未。僧懐義を右衞大将軍として、ガク国公の爵位を賜下した。
 一月戊子、武承嗣を文昌左相、岑長倩を文昌右相・同鳳閣鸞台三品、鳳閣侍郎武攸寧を納言とし、ケイ文偉は内史に留任、左粛政大夫・同鳳閣鸞台三品王本立はこれをやめさせて地官尚書とする。
 攸寧は、武士カクの兄の孫である。
 この頃、武承嗣と三思が専断し、宰相は皆、これの部下のようになっていた。地官尚書、同鳳閣鸞台三品韋方質が病気になった時、承嗣と三思が見舞いに行くと、方質はベットに横になったままで答礼しなかった。あるものが彼を諫めると、方質は言った。
「死ぬも生きるも天命だ。大丈夫がなんて近戚へ媚びへつらってまで生きながらえる気はない!」
 やがて周興等が告発し、甲午、僻地へ流され、家族は皆官奴となった。
 韋方質は、流地にて十月丁卯に殺された。 

 二月辛酉。太后が洛城殿にて貢士の試験を行った。貢士の殿試は、これから始まった。 

 同月丁卯、地官尚書王本立が卒した。
 三月丁亥。特進、同鳳閣鸞台三品蘇良嗣が卒した。
 四月丁巳。春官尚書、同平章事范履冰が、かつて反逆者を出した罪で下獄され、死んだ。 

 醴泉の人侯思止は、初めは餅売りを生業としていたが、後に游撃将軍高元禮に仕えて従僕となった。彼は、もともと嘘つきの無頼漢だった。
 恒州刺史裴貞が、一判司を杖で打った。するとその判司は、「貞が舒王元名と共に造反を謀っている。」と、思止へ告発させた。
 秋、七月辛巳。元名はこの罪で廃されて和州へ流された。壬午、その子の豫章王亶を殺す。貞もまた、一族誅殺された。思止は游撃将軍に抜擢された。
 この頃、密告者は往々にして五品となったので、思止も御史となることを求めた。すると、太后は言った。
「卿は字が読めない。何で御史の仕事ができますか!」
 対して言った。
「解(「犬/解」)豸は字を知りません。ただ角に掛けることができるだけです(解豸は空想上の動物。一本の角があり、忠直な性格。争っている人を見れば、非のある者を角に掛ける)。」
 太后は悦び、朝散大夫・侍御史とした。
 他日、太后が先に没収した邸宅を賜下したところ、思止は受け取らず、言った。
「臣は反逆者を憎みます。その住居には住みたくありません。」
 太后は、彼を益々称賛した。
 衡水の人王弘義は、もともと素行が悪かった。かつて隣の者へ瓜を乞うたが貰えなかったので、県官へ告げた。
「隣の瓜田に、白兎がいました。」
 県官は、これを捕らえようと人を派遣し、隣の瓜田はめちゃめちゃに荒らされてしまった。
 又、趙、貝へ旅行した時、里の長老達が村で室を作っているのを見て、謀反を謀っていると告発し、二百余人を殺させた。
 やがて游撃将軍に抜擢されたが、すぐに殿中侍御史へ出世した。
 ある者が勝州都督王安仁が造反を謀っていると告発したので、弘義へ詮議するよう敕が降った。安仁が屈服しないと、弘義は枷の上でその首を刎ねた。また、その子が捕らえられて連行されたので、その首も刎ねて、箱へ入れて帰京した。途中、汾州にて司馬の毛公と食事をしたが、すぐに毛公を叱りつけて階からおろし、これを斬り、その首を槍に掲げて入洛した。これを見るものは、皆、戦慄した。
 この頃、麗景門に牢獄が設置されており、これに入れられた者は死ぬまで出られなかった。弘義はこれを戯れて「例音(「音/儿」)門と呼んだ(音は、盡の意味。命が尽きるまで出られない、の意味。)」
 朝士達は各々危険を感じ、互いに言葉を交わしあうことがなく、路上で目くばせしあうだけになった。 入朝すれば、いわれのない密告で捕らえられるかも知れない。だから、彼等は毎朝家人へ訣別を告げた。
「もう会えないかも知れないな。」
 この頃の法官は競うように酷薄になっていったが、ただ司刑丞の徐有功と杜景倹だけは平恕だった。だから、被告達は皆、言った。
「来、侯に遭ったら必ず死ぬ。徐・杜に遭ったら必ず生きる。」
 有功は文遠の孫である。名は弘敏だが、字の方が有名だ。
 彼は、初めは蒲州司法となった。寛大な心で治め、杖で叩いたりしなかった。そこで官吏達は、徐司法の杖を犯す者が居たら皆で排斥しようと約束しあった。結局、任期が満ちるまで杖打たれた者は一人も居なかったし、それでいて政治は巧く修まった。
 順次出世して司刑丞となる。酷吏が罪をでっち上げた者は、彼が正しく裁き直し、こうして数十百家が殺されずに済んだ。
 かつて朝廷で疑獄事件を争った時、太后が顔色を変えて詰め寄ったので左右は皆戦慄したが、有功は自若としていよいよ切に争った。太后は、殺人が好きだったけれども、有功が正直だったので、彼を非常に敬して憚っていた。
 景倹は武邑の人である。
 司刑丞の栄陽の李日知も、また、平恕だった。少卿の湖元禮が、ある囚人を殺したがったが、日知はそれを不可とした。四、五回のやりとりの後、元禮は怒って言った。
「元禮が刑曹である限り、この囚人は絶対殺してやる!」
 日知は言った。
「日知が刑曹から離れない限り、この囚人を無法には殺させない!」
 ついに両方の言い分を上奏したところ、果たして日知が正しかった。 

 周興が、武承嗣の命令を受けて、隋州刺史澤王上金と舒州刺史許王素節が造反を企んでいると告発した。彼等は行在所へ呼び出される。
 素節は舒州を出発して行在所へ向かう途中、喪中の傍らを通りがかった。この時、哭する声を聞いたので、彼は嘆いて言った。
「病死できたのに、何が悲しいのか!」
 丁亥、龍門にて縊り殺す。上金は自殺した。その諸子および党類を皆殺しとする。
 八月甲寅、太子少保、納言の裴居道を殺す。癸亥、尚書左丞張行廉を殺す。辛未、南安王穎等宗室十二人を殺す。また、もとの太子賢の二子を鞭で打ち殺す。
 唐の宗室は、ここにおいて殆ど殺された。幼弱でまだ生きている者は嶺南へ流す。また、その親党数百家を誅する。ただ、千金長公主は巧みに媚びて無傷だった。彼女は太后の養女となって武氏と改姓することを自ら乞うた。太后はこれを愛し、延安大長公主と改称した。 

 太后は太平公主を、彼女の伯父の士譲の孫の攸曁へ娶せたかった。この時攸曁は右衞中郎将だったが、太后は密かに彼の妻を暗殺させた。
 公主は方額で頤が広く謀略が多い女性。太后は、彼女が自分に似ていると思って特に寵愛しており、いつも天下のことを密かに相談していた。
 従来の制度では食邑は諸王でも千戸に過ぎず、公主は三百五十戸だったが、太平だけは食邑が何度も加増され、遂に三千戸にまで至った。 

九月丙子。侍御史の汲の人傅遊藝が関中の百姓九百人を率いて闕を詣で、国号を周と改め皇帝へ武氏の姓を賜うよう上表した。太后は許さない。だが、遊藝を給事中へ抜擢する。
 ここにおいて百官及び皇帝の宗戚、遠近の百姓、四夷の酋長、沙門、道士達が合計六万余人で共に上表して遊藝と同様に請願した。皇帝も又、武氏の姓を賜うよう自ら請願する。
 戊寅、群臣が上言した。
「鳳凰が明堂から上陽宮へ飛び込み、左台梧桐の上へ戻って集まり、しばらくして東南へ飛び去りました。また、朝堂へ赤雀が数万羽集まりました。」
 庚辰、太后は皇帝と群臣の請願を受けた。
 壬午、則天楼へ御幸して、天下へ恩赦を下し、唐を周と改称して改元した。
 乙酉、上を尊んで聖神皇帝と号し、皇帝を皇嗣として武氏の姓を賜る。皇太子は皇孫とする。
 丙戌、神都へ武氏の七廟を立てる。周文王を始祖文皇帝と追尊し、妣の以(「女/以」)氏を文定皇后とし、平王の末子の武を睿祖康皇帝、妣の姜氏を康睿皇后とする。太原靖王は厳祖成皇帝、妣は成荘皇后。趙粛恭王は粛祖章敬皇帝、魏義康王は烈祖昭安皇帝、周安成王は顕祖文穆皇帝、忠孝太皇は太祖孝明高皇帝として、各々の妣は皆考諡の皇后とした。武承嗣を立てて魏王とし、三思は梁王、攸寧は建昌王、士カクの兄の孫の攸帰、重規、載徳、攸曁、懿宗、嗣宗、攸宜、攸望、攸緒、攸止を皆、郡王とし、諸姑妹は皆長公主とした。
 又、司賓卿の栗(「水/栗」)陽の史務滋を納言、鳳閣侍郎宗秦客を検校内史、給事中傅遊藝を鸞台侍郎、平章事とした。遊藝と岑長倩、右玉今衞大将軍張虔助(「日/助」)、左金吾大将軍丘神勣、侍御史来子旬(「王/旬」)等へ武の姓を賜下する。
 秦客は、太后へ密かに革命を勧めていた。だから内史の筆頭となる。遊藝は一年の間に衣が青、緑、朱、紫と出世したので、人々はこれを「四時仕宦」と言った。
 州を郡と改めるよう敕した。ある者が、太后へ言った。
「陛下が革命したばかりなのに州を廃するのは、不祥です。」
 そこで、太后はすぐに追敕してこれを止めた。
 史務滋等十人へ諸道を巡撫するよう命じた。
 太后は、兄の孫の延基等六人を立てて郡王とした。
 十月、天下の武氏の課役を減じると制を降した。 

 十月甲子。検校内史宗秦客が、贈賄の罪で遵化尉へ降格された。弟の楚客もまた、姦を隠した罪で嶺外へ流される。
 辛未、内史ケイ文偉が宗秦客の党類として、珍州刺史へ降格された。
 それからすぐに、制を受けた使者が珍州へやって来た。文偉は自分を誅殺しに来たのだと思って、首吊り自殺した。 

 この年、右衞大将軍泉献誠を左衞大将軍とした。
 太后が金宝を出し、南北牙から射撃の巧い者五人を選ばせて、賞金とした。献誠が第一の呼び声があった。彼が右玉今衞大将軍薛咄摩へ譲ると、咄摩もまた献誠へ譲った。すると、献誠は上奏した。
「陛下が射撃上手を選びましたが、その大半は漢人ではありません。(献誠は高麗人、咄摩は薛延陀)これでは、四夷が漢を軽く見るのではないかと恐れます。どうかこの射撃を中止してください。」
 太后はその言葉を善として、これに従った。 

 二年正月癸酉朔、太后が萬象神宮にて、始めて尊号を受けた。ただ、旗幟は依然として赤いまま。
 甲戌、社稷を神都へ改置した。
 辛巳、太廟へ武氏の神主を納める。長安にある唐の太廟は、享徳廟と改称する。四時に、ただ高祖以下を享し、その他の四室は皆閉鎖して享しなくなった。また、長安の祟先廟を祟尊廟と改称する。
 乙酉、日が南へ至ると、明堂にて大享し、天上帝を祀昊し、百神を従祀し、武氏と唐の三帝を配饗した。
 饒陽尉の姚貞亮等数百人が、上表して上の尊号を上聖大神皇帝とするよう請願したが、許さなかった。 

 一月己亥、唐の興寧(元帝の陵)、永康(景帝の陵)、隠陵の署官を廃止し、ただ守戸のみを置いた。
 二月甲子、太后は、始祖の墓を徳陵、睿祖の墓を喬陵、厳祖の墓を節陵、粛祖の墓を簡陵、烈祖の墓を靖陵、顕祖の墓を永陵と名付けるよう命じ、章徳陵を昊陵、顕義陵を順陵と改称した。 

 一月。納言史務滋と来俊臣が共に劉行感の疑獄を取り調べさせた。
 俊臣は、務滋は行感と親密だったので、造反をもみ消そうとしていると上奏した。そこで太后は、俊臣へその件を更に調査するよう命じた。務滋は恐懼して自殺した。
 同月、左金吾大将軍丘神勣が罪を以て誅された。
 ある者が、”文昌右丞周興が丘神勣と通謀している”と告発した。太后は来俊臣へ取り調べさせた。俊臣は興を食事に招いて言った。
「告発を否認する囚人が多い。どうすれば法に充てることができるかな?」
 興は言った。
「実に簡単だ。大きな甕を準備して、周りに炭を置き、炙る。そして囚人へその中へ入るよう命じたら、誰が否認し続けようか!」
 そこで俊臣は大甕を持ってこさせ、興が言ったように火で囲むと、立ち上がって興へ言った。
「兄上が告発された。兄上、どうか甕へ入ってください。」
 興は恐惶叩頭して罪に伏した。法に照らせば死罪にあたったが、太后はこれを赦し、二月、興嶺へ流したが。しかし、その途上にて仇家が興を殺した。
 興と索元禮、来俊臣は暴虐酷薄を競い合い、興と元禮は各々数千人を殺し、俊臣は千余家を破った。元禮の残酷は最も甚だしかった。太后は、これも殺して人々の溜飲を下げた。 

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