則天武后 その四   恐怖政治
 
 弘道元年(683)十二月、上は貞観殿で崩御した。詳細は、「高宗皇帝」に記載する。
 太子は柩の前で即位し、まだ決定していない軍国の大事は天后と共に決定するよう遺詔する。また、萬泉・芳桂・奉天等の宮殿を廃止する。
 甲子、中宗が即位する。天后を尊んで皇太后とし、政事は全て皇太后の裁決を仰ぐ。澤州刺史韓王元嘉は重要な土地におり人望もあるので、太后は彼が変事を起こすことを懼れ、三公等の官を加えて、その心を慰めた。
 甲戌、劉仁軌を左僕射、裴炎を中書令とする。戊寅、劉景先を侍中とする。
 故事では、宰相は門下省にて事を議論した。だからこれを政事堂と言っていた。長孫無忌が司空となり、房玄齢が僕射となり、魏徴が太子太師となったが、彼等は皆、知門下省事だった。裴炎が中書令に遷るに及んで、始めて政事堂も中書省へ遷った。
 壬午、左威衞将軍王果、左監門将軍令狐智通、左金吾将軍楊玄倹、右千牛将軍郭斉宗を并・益・荊・揚州の四大都督府へ派遣し、府司と共に鎮守させる。
 中書侍郎同平章事郭正一を国子祭酒として、政事を辞めさせる。 

 光宅元年(684年)、正月甲申朔、嗣聖と改元し、天下へ恩赦を下す。
 太子妃の韋氏を皇后に立てる。后父の玄貞を普州参軍から豫州刺史へ抜擢する。
 癸巳、左散騎常侍の杜陵の韋弘嗣を太府卿、同中書門下三品とする。
 中宗は韋玄貞を侍中に、乳母の子を五品官にしたがった。裴炎が固く争うと、中宗は怒って言った。
「吾は天下を韋玄貞へ与えることもできるのだ。なんで侍中程度を惜しむのか!」
 炎は懼れ、太后へ密告して密かに廃立を謀った。
 二月戊午。太后は乾元殿へ百官を集め、裴炎と中書侍郎劉韋(「示/韋」之、羽林将軍程務挺、張虔助(「日/助」)へ兵を率いて入宮させ、太后の令を宣して中宗を廃して廬陵王とし、肩を支えて下殿させた。
 中宗は言った。
「吾に何の罪があるのだ?」
 太后は言った。
「汝は天下を韋玄貞へ与えようとした。何で罪が無いのか!」
 そして、別所に幽閉した。
 己未、ヨウ州牧の豫王旦を皇帝に立てた(睿宗皇帝)。しかし、政事は太后が決裁する。睿宗は別殿に居り、何にも関与できなかった。
 豫王妃の劉氏を皇后に立てた。后は、徳威の孫である。
 飛騎十余人が坊曲で酒を飲んでいるうちに、一人が言った。
「今まで勲功の褒賞がなかった。廬陵王を推戴するか。」
 すると、一人が立って北門を詣でて密告した。彼等が解散する前に、全員捕らわれ、羽林獄へ繋がれた。発言した者は斬罪、それ以外は造反を知って告発しなかったとして絞首刑、告発した者は五品官に除された。この事件以来、密告の風習が生まれた。
 壬子、永平郡王成器を皇太子とする。睿宗の長男である。天下へ恩赦を下し、文明と改元する。
 庚申、皇太孫重照を廃して庶人とする。劉仁軌へ、西京留守事を専知させる。又、韋玄貞を欽州へ流す。
 太后が劉仁軌へ書を与えた。
「昔、漢は関中の事を蕭何へ委ねた。今、公へこのように託す。」
 仁軌は上疏して、老衰して職務に耐えきれないことを訴え、併せて呂后が敗れたことを述べて規戒とした。太后は、秘書監の武承嗣へ璽書を抱かせ、慰諭した。
「今、皇帝は暗愚で口もきけない有様。ですから細身ながらも代わって政治を執っているのです。戒訓を勧めてくれたことと、老衰で辞退したことを労います。卿は言いました。『呂氏が後世から嗤われたのは、呂禄や呂産が漢朝に禍したからです。』この喩えは穿っており、深い。愧と安堵をこもごも感じます。公の忠貞の操は、終始変わらず、剛直の風は古今稀です。始めてこの言葉を聞きましたが、説得力があります。静かにこれを想い、これを亀鏡としましょう。ましてや公は先朝からの旧臣、遠近を共に良く見通せます。どうか民を救う想いを胸に抱き、年をとったからと言って退職したりしないでください。」
 甲子、太后が武成殿へ御幸した。皇帝が王公以下を率いて尊号を献上する。
 丁卯、太后が軒へ臨み、礼部尚書武承嗣を派遣して皇帝へ政権を授与した。
 これ以後、太后は常に紫宸殿へ御し、薄紫の帳を垂らして朝廷を視るようになった。
 五月丙申、高宗の霊駕が西へ還った。
 八月庚寅、天皇大帝を乾陵へ葬った。廟号は高宗。 

 二月丁丑、太常卿、検校豫王府長史王徳眞を侍中とする。中書侍郎、検校豫王府司馬劉韋(「示/韋」)之を同中書門下三品とする。 

 三月丁亥。杞王上金を畢王、バン陽王素節を葛王とする。
 四月辛酉、畢王上金を澤王へ移して、蘇州刺史とする。葛王素節を許王として絳州刺史とする。
 癸酉、廬陵王を房州へ移す。丁丑、今度は均州のもとの濮王の居宅へ移した。
 この頃、もとの太子賢を殺す。(この件の詳細は、既に記述した。)
 閏月、礼部尚書武承嗣を太常卿、同中書門下三品とする。 

 初め、尚書左丞馮元常が、高宗から委任されていた。高宗は晩年病気がちで、いつも言っていた。
「朕が病気の間は政事のことは元常と共に決裁せよ。」
 元常はかつて密かに言った。
「中宮の威権は重すぎます。少し削るべきです。」
 高宗は用いることはできなかったが、その意見には深く賛同した。
 やがて太后が政務を執るようになると、四方が争って符瑞を言い立てた。祟陽令の樊文が瑞石を献上すると、太后は朝堂にて百官へ示すよう命じた。すると、元常は上奏した。
「これは偽りです。天下を騙してはいけません。」
 太后は不機嫌になった。八月、元常を隴州刺史として出向させた。
 同月丙午、太常卿・同中書門下三品武承嗣を罷免して、礼部尚書とした。 

 九月甲寅、天下へ恩赦を下し、改元した。旗幟を皆、金色にする。八品以下はもともと青い服だったが、碧の服にした。東都を神都、宮を太初と改称する。また、尚書省を文昌台、左右の僕射を左右相、六曹を天、地、四時の六宮と改称する。同様に、門下省は鸞台、中書省は鳳閣、侍中は納言、中書令は内史とする。御史台を左粛政台とし、右粛政台を増設する。その他、省、寺、監、率の名を悉く類似の名前に改称する。 

 武承嗣が、その先祖を王へ追封して武氏の七廟を立てるよう、太后へ請願し、太后はこれに従う。裴炎が、諫めて言った。
「太后は天下へ母として臨むのです。ですから民へ至公を示すべきで、親しい者へ偏愛してはいけません。呂氏の敗北をご存知ありませんのか!」
 太后は言った。
「呂氏は、権威を生きている者へ委ねた。だから敗れたのだ。今、吾は死んだ者を追尊している。何で悪いことがあろうか!」
 対して言った。
「事は、微小なうちに防ぎ、大きくさせないのです。長じさせてはいけません!」
 太后は従わなかった。
 己巳、太后の五代の祖先克己を魯靖公とし、その妻を夫人とした。高祖の居常を太尉・北恭粛王、曾祖の倹を太尉・金城義康王、祖の華を太尉・太原安成王、考の士護を太師・魏定王とし、彼等の妻を皆、妃とした。
 この件で、裴炎は罪に落とされた。
 また、文水に五代の祠堂を作る。 

 同月、李敬業が造反した。その詳細は、「李敬業の乱」に記載する。 

 垂拱元年(685)正月丁未朔、天下へ恩赦を下し改元する。
 庚戌、騫味道を守内史とした。
 戊辰、文昌左相・同鳳閣鸞台三品の楽城文献公劉仁軌が卒した。
 二月乙巳、春官尚書武承嗣、秋官尚書裴居道、右粛政大夫韋思謙を皆、同鳳閣鸞台三品とした。 

 二月癸未。制ほ下した。
「朝堂の登聞鼓と肺石の設置場所には、防守がない。今後、鼓石をつま弾く者は御史から許可を得て上聞せよ。」 

同月丙辰、廬陵王を房州へ移す。辛酉、武承嗣を罷免する。 

 辛未、垂拱格を頒布する。 

 左遷された朝士が、宰相のもとへ出向いて自ら訴えた。すると内史の騫味道は言った。
「これは太后の処分なのだ。」
 同中書門下三品劉韋之は言った。
「縁坐による処分だ。臣が上奏して請願した。」
 太后がこれを聞き、夏、四月丙子、味道を青州刺史へ貶し、韋之へ太中大夫を加え、侍臣へ言った。
「君臣は同体です。悪行を主君へ押しつけて一人だけ良い子ぶってよいものか!」 

 壬戌、内外の九品以上及び百姓へ、才能のある者は自薦せよと、制した。 

 壬申、韋方質を同鳳閣鸞台三品とした。
 六月、天官尚書韋待價を同鳳閣鸞台三品とした。
 七月己酉。文昌左丞魏玄同を鸞台侍郎・同鳳閣鸞台三品とする。 

 十一月、麟台正字の射洪の陳子昴が上疎した。その大意は、
「朝廷は使者を派遣して四方を巡察しておりますが、これは有能な人間を選ばなければなりません。刺史、県令にも人材を選ばなければなりません。このごろ百姓は戦争に疲れております。休ませなければなりません。」
 詳細では、
「それ人を選ばなければ、黜陟や刑罰が不適切になり、徒党を組む者が出世し、貞直な者は排斥されます。いたずらに百姓をこき使って道路を飾り付けて送迎を盛大にしても、御国の為には何の役にも立ちません。諺にも言います。『人間性を知ろうとしたら、その使う所を観よ。』慎まなければなりません。」
 又、言う。
「宰相は陛下の腹心。刺史、県令は陛下の手足。腹心手足が無くて一人で治められる者はいまだおりません。」
 又曰く、
「天下には禍福を生じる危ない機があります。その機が静まれば福となり、機が動けば禍となります。百姓がそれです。百姓は安らかならば生きることを楽しみますが、不安ならば死ぬことさえ軽んじます。彼等が命を粗末にすれば、どんなことでもやってのけます。そして、妖逆がその隙に乗じ、天下が乱れるのです!」
 又言う、
「隋の煬帝は天下に危ない機があることを知らず、貪欲奸佞の臣下を信じ、夷狄の利を収めることを冀い、遂に滅亡しました。なんと大きいではありませんか!」 

 太后はかつての白馬寺を修復し、僧侶の懐義を寺主とした。
 懐義はガクの人で、本の姓は馮、名は小寶。洛陽市にて薬を売っていたが、千金公主の斡旋で太后の寵愛を得た。太后は彼を禁中へ出入りさせたくて僧侶にし、懐義と名付けたのだ。又、彼の家が寒微だったので、フバ都尉の薛紹の一族とゆうことにして、紹に父親代わりとなるよう命じた。
 懐義が禁中へ出入りする時には、乗馬したままで、十余人の宦官を侍従させた。士民は、これに遭うと皆、逃げ出した。道を避けずに近くにいる者がいたら、たちまち流血するほどその首を打ち据え、そのまま放置して去って行く。死のうが生きようがお構いなしだ。道士を見ればメチャクチャに殴りつけ、その髪を丸坊主にして去る。朝廷の貴臣達も皆、匍匐するほど頭を下げ、武承嗣や武三思も僮僕のように彼へ仕えた。彼等が懐義の為に馬の轡を取っても、懐義は当然のようにふんぞり返っていた。
 又、懐義は無頼の少年を大勢集めて僧侶の資格を与え、縦横に法を犯した。それでも、敢えて非難する者は居なかった。ところが、右台御史の馮思昴だけは、屡々法律通りにこれを裁いた。ある時、懐義は路上で思昴と遭った。この時懐義は、従者に思昴を殴らせて、瀕死の重傷を負わせた。 

 二年、正月。太后が、皇帝へ政権を返すと詔を下した。だが睿宗は、それが太后の本心ではないことを知っていたので、表を奉じて固辞した。太后は再び朝廷へ臨んで制を称した。
 辛酉、天下へ恩赦を下す。 

 三月戊申。太后は銅を鋳造して箱を作らせた。その東を「延恩」と言い、賦や頌を献上して仕官を求める者がこれに投書する。南は「招諫」と言い、朝政の得失に関しての意見を投書する。西は「伸冤」と言い、冤抑された者が投書する。北は「通玄」と言い、天象災変から軍機の秘経などを投書する。
 正諫、補闕、捨遺一人にこれを管理するよう命じ、まず識官を責めてから投書された表疏を聞いた。
 徐敬業が造反した時、侍御史魚承華(「日/華」)の子の保家が敬業へ刀車及び弩の製作法を教えた。敬業は敗北したが、彼等は何とか懲罰から免れていた。今回、太后が人々の情報を全て知りたがると、保家は銅で箱を鋳造して天下から密奏を受けることを提案した。その器は一体ではあるが、中が四つに仕切られており、各々の上方に隙間があって表疏を受け入れ、入れることはできるが出すことはできなかった。太后は、これを気に入った。だが、これが完成してすぐに、魚家を怨む者が、投書して告げた。
「保家は敬業の為に兵器を造り、その為に多くの官軍が殺傷されました。」
 遂に、保家は誅に伏した。
 太后は、敬業が造反して以来、天下の大勢の人間が自分を図ろうとしていると疑った。又、国事を独占して久しく、内行が正しくないことも判っており、宗室や大臣が彼女を怨んで心では服していないことを知っていたので、大勢を誅殺して威権を保とうとした。そこで太后は密告の門戸を盛大に開いた。
 密告する者が来ると、臣下は尋問できない。彼等は皆、駅馬へ乗せて五品の食を与え、行在所へ連れて行く。農夫や木こりでさえ、皆、謁見を許され、客館で持てなされた。密告した内容が気に入られたら即座に官位が与えられ、事実無根でも罰されなかった。ここにおいて密告する者が四方から蜂起し、人々は皆、息をひそめて生きるようになった。
 ここに、胡人の索元禮とゆう者が居た。太后の意向を知り、密告によって謁見され、游撃将軍へ抜擢され、裁判を司った。元禮は残忍な性格で、一人の被疑者が居ると必ず数十百人を取り調べた。太后は屡々召し出して賞を賜り、その権威を後押しした。ここにおいて、尚書都事の長安の周興や萬年の人来俊臣など、これに倣う者が次々と現れた。興は累遷して秋官侍郎まで出世し、俊臣も累遷して御史中丞となった。共に無頼の徒を数百人も蓄え、密告に専念した。一人を陥れようとしたら何人もが密告したが、その内容は同じだった。
 俊臣は司刑評事の洛陽の萬國俊と共に羅識経数千言を編纂した。これは、無辜の者を蜘蛛の巣に引っかけて造反へでっち上げる為の方法を、彼等の部下へ教えるためのものだった。
 太后は、密告を得るとすぐに元禮等へ詮議させた。彼等は競うように衆人を拷問へ掛けた。その方法には、「定百脈」「突地吼」「死猪愁」「求破家」「反是実」等と名付けられた。あるいは、手足を縛って転がす、これを「鳳皇麗(「日/麗」)翅」と言う。あるいは腰を物に縛って枷で前へ引っ張って前を向かせる。これを「驢駒抜蕨(本当は手偏)」と言う。或いは棒の枷で跪かせて重石を重ねて行く。これを「仙人献果」と言う。或いは高木に立たせ、枷で引いて後ろを向かせる。これを「玉女登梯」と言う。或いは逆さまにして首を重石で引っ張る。或いは鼻へ酸を注ぐ。或いは鉄を首に巻き付けて枷とする。脳が裂けて髄が出る者も居た。(ここら辺、今一判りません。図解して欲しい。)囚人毎に、まずは拷問の道具を見せつけて尋問する。大抵は戦慄して汗を流し、言われるままの事を自白した。恩赦が降りると、俊臣はまず重罪人を処刑するよう獄卒に命じてから、赦令を宣事した。太后は、これを忠義として、ますます彼等を寵任した。中外は、この数人を虎や狼のように恐れた。
 麟台正字の陳子昴が上疏して言った。
「政務を執る者は、徐敬業が乱を起こし禍を唱えたので、その余党を窮治して姦源を絶とうとて、遂に陛下へ詔獄を大いに開かせました。厳刑を重く設け、ほんの少しでも嫌疑の跡が有れば、すぐにしょっ引いて一人残らず拷問にかけます。今では、姦人がこれに乗じて、手柄を建てて爵賞をようと、誣告まがいの事でも糾弾しております。これでは、罪人を伐り人を弔うとゆう本来の意向から外れております。
 臣がひそかに当今の天下を観ますに、百姓は安久を望んでいます。ですから揚州にて造反が起こった時も、五旬と経たないうちに海内は静まり、国家は揺るぎませんでした。陛下は玄黙を旨として疲れた民を救うべきですのに、これに務められず、かえって威刑に任せ、民を失望させております。臣は愚昧ではありますが、これは大きな惑いだと思います。
 伏して見ますに、諸方の密告で百千者が下獄されましたが、これらほほとんどでっちあげで、百に一つも真実はありません。陛下は仁恕な人柄ですから、法を曲げてでも彼等密告者達を受け入れて居られますが、おかげで彼等は姦悪の党を造り、私憤をもこれで晴らすようになりました。彼等は、少しでも腹を立てますと、すぐにその相手を密告させます。一人が訴えられますと百人が下獄され、使者が往来して街中は役人の冠で溢れ返っております。
 ある者は、陛下が一人を愛して百人を害するなどと、ヒソヒソと言い合っていますが、それが陛下の本意とは思えません。
 臣は、聞いております。隋の末期、天下は未だ平和だったのに、楊玄感が造反したから、一月も経たずに敗北した。この頃、天下の弊害はまだ土崩まで至って居らず、衆人はなお生業を楽しんでいたからです。ですが煬帝は悟らず、遂に兵部尚書樊子蓋へ屠戮を専横させ、賊の余党を徹底的に糾明したので、海内の豪士達は兢々としました。遂に麻のように殺人が起こり、流血が沢を成す程になりますと、天下は騒然となり、人々は始めて造反を思うようになりました。ここに於いて英雄豪傑が並び立ち、隋皇室は滅亡したのです。
 それ、大獄が一度起こりますと、誅殺が濫発されずには済みません。 冤人のうめき声は和気を感傷し、疫病が群発して水害旱害がこれに従います。人々が生きてゆく術を失うと、禍乱の心が生まれるのです。古の明王が刑法を重く慎んだのも、この為です。
 昔、漢の武帝の時に巫蠱の獄が起こりました。太子を奔走させ兵卒は宮闕で戦い、千万の無辜の民が害を被り、宗廟は滅亡寸前となったのです。武帝が壺関の三老書を得て豁然として感悟し、江充の三族を皆殺しとして余獄を問わなかったので、どうにか天下は安んじたのです。
 古人は言います。『前事を忘れなければ、後事の師匠となる。』と。どうか陛下、これを肝にお命じください!」
 太后は聞かなかった。 

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