則天武后 その六   刑罰緩和
 
 天授二年(691)二月、左衞大将軍千乗王武攸曁を定王とした。
 もとの太子賢の子の光順を義豊王とする。 

 四月、建安王攸宜へ長安の留守を命じる。
 同月丙辰、大鐘を鋳造し、北闕へ置いた。
 八月戊申、納言武攸寧を罷免して左羽林大将軍とした。
 同月、義豊王光順、嗣ヨウ王守禮、永安王守義、長信県主らが皆、武氏の姓を賜ったが、睿宗の諸子と共に宮中に幽閉され、門庭へ十余年出れなかった。守禮と守義は光順の弟である。 

 九月癸巳、左羽林大将軍建昌王武攸寧を納言とする。洛州司馬狄仁傑を地官侍郎とし、冬官侍郎裴行本と共に同平章事とする。
 太后が、仁傑へ言った。
「卿は汝南にいた時、とても善い政治をした。卿を讒言した者の名を、卿は知りたいか?」
 仁傑は謝して言った。
「陛下が臣を過と為したなら、臣はこれを改めるよう請いますが、臣に過失がないと知られたのなら、臣の幸いです。讒言した者の名など知りたくありません。」
 太后は深く嘆じてこれを美とした。
 十一月、太学生王循之が、暇乞いして故郷に帰りたいと、上表した。太后はこれを許す。すると、狄仁傑が言った。
「『君主はただ殺生の柄だけを人へ与えず、それ以外は全て役人へ任せる』と聞きます。ですから左、右丞以下の仕事には口出しせず、左、右相が上へ流せばこれへ目を通します。それは身分が貴くなるからです。あの学生が暇を求めたことへの裁可など、丞や簿の仕事です。もしも天子がそんなことにまで一々敕を出していたら、天下のことはいくら敕を出しても片づきませんぞ!どうしてもその願いを聞き届けたくなければ、そのような制度を作ってしまうようにお願いいたします。」
 太后は、これを善とした。 

 長寿元年(692年)正月戊申朔、太后が萬象神宮にて享ける。 

 一月丁卯、太后が存撫使の推挙した者を謁見し、賢愚を問わずに悉く抜擢した。官位の高い者は試鳳閣舎人、給事中となり、次は試員外郎、侍御史、補闕、捨遺、校書郎とする。試官はこれから始まった。時人はこれについて言った。
「補闕は車に載せるほど、捨遺は升で量るほど居る。」
 沈全交とゆう挙人が、これに続けた。
「心は存撫使にべっとりとくっつき、聖皇帝など眼中にない。」
 御史の紀先知が全交を捕らえ、朝政を誹謗したと弾劾し、朝堂にて杖打ってから裁判に掛けるよう請うた。すると、太后は笑って言った。
「卿等を乱用しなければ、なんと自由に喋れることか!その罪は赦しなさい。」
 先知は大いに恥じ入った。
 太后は棒禄や官位で天下の人心を収めたが、職務に就いて無能だった者はすぐに降格したり刑誅を加えたりした。刑賞の柄は自分で握り天下を操る。政は己で行い明察で決断力があった。だから、当時の英賢が争って太后のために働いたのだ。
(訳者、曰く。シベリア送りだの粛清だのと人権蹂躙が横行したソビエトで、官僚や書記長を嘲り笑う諧謔が流行ったことを思えば、これだけ大勢の人間が誅殺された時代にも、官位の低い人間や民間人はけっこう風刺を喜んでいたのでしょうね。ただ、来俊臣が独断で人を殺していった部分とは、少し矛盾するような気がします。則天武后については、悪い記事は少し割り引いて考えた方がいいと思うのですが。) 

 寧陵丞の廬江の郭覇は、阿諛追従で太后に仕え、監察御史を拝受した。中丞の魏元忠が病気になると、覇は見舞いに行き、元忠の糞を舐めて、喜んで言った。
「大夫の糞が甘ければ憂うべきですが、これは苦い。病状は軽いですぞ。」
 元忠は露骨な追従を憎み、会う人毎にこの話を語った。
(”呉王夫差が病気になった時、奴隷にされていた句踐は、医者へ病状を教えるためにその尿を飲んだ”とゆう話を読んだことがあります。案外、このエピソードが出典かも。) 

 甲戌、補闕の薛謙光が上疏した。その大意は、
「選挙の法は才能のある者を得るのに適切でしたが、長い時間がたつ内に腐敗しました。今の人選は、あるいは挙人を捜すと称して、高尚な文章を競い合い、止まるところがありません。経国の才覚に至っては、ただ試しに策を述べさせるだけ。武人の敵を制する能力は、ただ弓を試験するだけです。昔、漢の武帝は司馬相如の文章に感嘆し、彼が同時代の人間ではないことを恨みました。後に、彼がまだ生きている人間だと判ると朝廷に置きましたが、その官位は文園令どまりでした。彼が公卿の任務に堪えられないことを知ったからです。呉起が戦争しようとした時、左右が剣を進めると、起は言いました。『将は鼓を打って全軍を指揮するのだ。敵に臨んで決戦する一剣の任務は、将軍の仕事ではない。』それならば、虚文がどうして世俗を助けましょうか。射撃の腕で、敵を制圧することができましょうか。大切なことは文吏がその行動や能力を察することです。武吏がその勇気計略を観ることです。居官の評価を考えて、推挙人への賞罰を決めるべきです。」 

 四月丙申、天下へ恩赦を下し、如意と改元する。 

 六月辛亥、萬年の主簿徐堅が上疏した。その大意は、
「書には五聴の道が記載されており、本朝には三覆の奏の制度があります。ですが、近年の敕での按反には、証拠が挙がれば即時斬決させることが屡々見られます。人命は至重であり、死んだ人間は二度と生き返らないのです。万が一にも冤罪がおこり、それで一族を誅滅させることとなれば、何と痛ましいではありませんか!この敕は、姦逆を抑えつけて刑典を明らかにすることには何の役にも立たず、ただいたずらに酷吏の権威を増長させて人々へ疑懼を生み出すだけにすぎません。臣は、この処分を根絶させ、法規通りに覆奏させるよう望みます。また、法官は、簡択を加え法を寛大公平に用いて百姓から称賛される人間を用いるべきです。どうかそのように人へ親しんで任せられてください。とことん残酷に処置して人々から忌み嫌われている者は、どうか疎遠にして退けてください。」 

 八月戊寅、夏官侍郎李昭徳の進言により、武承嗣と武攸寧を政務から外す。(詳細は、「武承嗣の継承未遂」へ記載する。)
 当時、酷吏が横行しており、百官はこれを畏れ足をそばだてていたが、昭徳ひとり彼等の姦悪を朝廷で奏していた。
 太后は祥瑞を好んだので、赤い模様の入った白石を献上する者が居た。執政がその異様なことを詰ると、献上した者は言い返した。
「これは赤心を示すのです。」
 すると昭徳は怒って言った。
「この石が赤心ならば、それ以外の石は全て邪悪なのか!」
 居並ぶ者は皆、笑った。
 襄州の人胡慶が、漆と丹で亀の腹へ「天子萬萬年」と書き、闕を詣でて献上した。昭徳はその文字を刀で悉く削り取り、法に照らして処罰するよう奏請した。太后は、「まあ、悪意でやったことではあるまい。」と言い、これを赦すよう命じた。
 太后は猫を良く馴らして、鸚鵡と一緒に住ませた。これを百官に見せたところ、閲覧が終わらないうちに猫は飢え、鸚鵡を捕らえて食べた。太后はとても恥じ入った。
(原文、猫はむじな偏でした。辞書(現代中国語辞典)でひくと、むじな偏でも「猫」を意味するようですが、太后は猫を忌み嫌っていました。粛淑妃の呪いの言葉がありますので。中国では同種の別の動物なのかも知れません。たとえば、猴も猿も日本では同じように「猿」と表記して区別を付けませんが、中国では厳密にわけられているようですし。
 太后は、垂拱年間以来酷吏を任用した。まず、唐の宗室の貴人親戚を数百人誅殺し、次は大臣数百家へ及び、その刺史、郎将以下誅殺された者は数えることもできなかった。官人が一人除名されるたびに、戸婢(宮中の門番をしている官婢)は言い合った。
「鬼朴が又来るぞ。」(”朴”だと意味が判りません。”僕”の間違いでは?)
 そして、一ヶ月も経たないうちに、逮捕・族殺が起こるのだ。
 監察御史の朝邑の厳善思は、直言を敢えて行った。この頃、密告が余りに多く、太后も煩わしくなってきたので、善思に取り調べさせたところ、虚偽の告発の罪に伏した者が八百五十余人にも及んだ。これによって、でっち上げをする輩は一時逼迫したが、彼等は束になって善思を讒言した。善思は罪に陥ちて驩州へ流された。しかし、後に太后はその無実を知り、再び渾儀監丞に任用した。
 右補闕の新鄭の朱敬則は、”太后はもともと恐怖政治で異議を禁じたのだが、今、既に革命は終わり衆心も太后の政権を受け入れたので、刑罰を寛大にするべきだ。”と考え、上疏した。その大意は、
「李斯が秦の宰相となり、酷薄変詐で諸侯を屠りました。しかし、彼はその後に政策を寛大に変えませんでしたので、遂に秦は土崩してしまいました。これは時勢に合わせて変わることを知らない禍です。漢の高祖は天下を定めると、陸賈・叔孫通へ礼儀を説かせ、漢は十二世も続きました。これは時勢に合わせて変わることを知った効果です。文明年間に陛下の政治が始まってから、三叔は悪言を流し四凶は造反しました。このような時勢には、鉤や罠を設けなければ天に応じ人に順うことはできませんし、刑罰を厳しくしなければ姦悪を挫くことができません。ですから鉄箱を設置して告発の門を開きました。こうして曲直の影は顕わになりましたし、包み隠されていたものも露呈しました。神道は正しい者を助けますので、罪なき者を罰することもなく、人民の心を騒がすこともなく紫宸殿は主を代えたのです。しかしながら、急ぎ足はつまずきますし、弦を張りつめれば和音が鳴りません。祭祀の時に崇められた飾り物が祭が終われば捨てられるように、当時の妙策は今日では粗大ゴミとなっています。伏してお願い申し上げます。漢・秦の得失を鏡とし、時事への適合を考え、糟粕の遺すべき物をつまびらかにし、テンが長の宿りではないことを覚り、姦険の異姓を挫き罠を布く輩の根元を閉ざし朋党の跡を一掃し、天下の人々を坦然大悦とさせてください。そうなれば、何と素晴らしいではありませんか!」
 太后はこれを善とし、帛三百段を賜下した。
 侍御史周矩も上疏した。
「弾劾を事とする官吏達は皆、残虐を尊び合っております。例えば、被疑者の耳へ泥を詰め頭へ籠を被せ重い首枷や鉄爪でその身を傷つけ髪を吊し耳をいぶす。これを『獄持』と言います。あるいは何日も食べさせず数日続けて尋問し、昼夜揺さぶって眠らせない。これを『宿囚』と言います。これらの拷問を受ければ、木石ではない人間、死ぬことが判っていても目先の救いに飛びつかずにはいられません。しかし、臣が密かに人々の声を聞いてみたところ、皆、天下泰平と称しております。何が苦しくて造反しましょうか!被告の全てが英雄の心を持って帝王になろうとゆう野望に燃えているとでも言うのでしょうか?ただ、拷問が辛くてありもしないことを自ら告白したのです。どうか陛下、これをお察しください。今、朝廷の百官は息を殺してビクビクとしております。陛下のことを、朝に親密にしていた者を夕べには仇のよう見るお方だと思い、いつ誅殺されるかと不安なのです。周は仁を用いて栄え、秦は刑を用いて亡びました。どうか陛下、刑を緩めて仁を用いてください。そうすれば、天下の大いなる幸いでございます!」
 太后はその言葉を大きく取り上げ、刑罰が緩やかになった。 

 太后は高齢だったけれども、人前ではシャンとしており、近習達へも衰えを感じさせなかった。
 丙戌、歯が抜けてもまだ長生きすると敕した。九月庚子、則天門へ御幸し、天下へ恩赦を下し、改元した。また、九月を社とする。 

 同月、并州へ北都を設置すると制する。
 癸丑、同平章事李遊道、王睿(「王/睿」)、袁智弘、崔神基、李元素、春官侍郎孔思元、益州長史任令輝が皆、王弘義に陥れられ、嶺南へ流された。
 左羽林中郎将来子旬(「王/旬」)が事件を起こして有罪となり愛州へ流され、そこで卒した。 

 二年正月壬辰朔、太后は萬象神宮で享した。魏王承嗣を亜献とし、梁王三思を終献とする。
 太后は、自ら神宮の音楽を作成し、九百人に舞わせた。 

 戸婢の團児は太后から寵信されていた。彼女はある時、皇嗣へ腹を立てた。そこで、皇嗣妃の劉氏と徳妃の竇氏が呪術を使っていると譖した。
 癸巳、妃と徳妃が嘉豫殿にて太后へ挨拶したが、退出すると同時にこれを殺し、宮中に埋めた。誰も、そのありかを知らない。徳妃は抗の曾孫である。
 皇嗣は、太后の意向に逆らうことを畏れ、敢えて何も言わない。太后の前での態度も普通通りだった。團児はまた、皇嗣も殺そうと思ったが、事情を知る者が太后に告げたので、太后は團児を殺した。
 この時、密告者は皆相手の奴婢を抱き込んでその主人を告発し、褒賞を求めた。
 徳妃の父親の孝甚(「言/甚」)は潤州刺史だったが、彼の奴隷が、徳妃の母親の龍(「广/龍」)氏を脅そうと、妄りに妖異を起こした。龍氏が懼れたので、奴隷は夜中に祠へ行って呪術を祓うことを請うたが、これが露見した。
 監察御史の龍門の李昶が、この事件を取り調べた。昶は徳妃と同様に呪詛を行っていると誣奏した。彼は、まず、とても悲しげに泣いてから言った。
「龍氏のやったことは、とても臣子のできることではありません。」
 太后は、李昶を給事中へ抜擢した。
 龍氏は斬罪に当たったが、その子息の希咸(「王/咸」)が侍御史の徐有功のもとへ出向いて、冤罪を訴えた。有功は刑の執行を延期させ、上奏してこの事件について論じ、無罪を主張した。李昶は、有功が悪逆と結託していると奏し、法に照らして処罰するよう請うた。法司は、有功の罪は絞首刑に相当するとした。
 令吏がこれを有功へ告げると、有功は嘆いて言った。
吾一人だけが死に、他の人々は永遠に死なないとでも言うのか!」
 そして食事をすると扇を顔に乗せて寝た。人々は、有功は強がりを言っているだけで内心は憂懼しているに決まっていると思い、密かに様子を窺ったが、彼は熟睡していた。
 太后は有功を呼び出すと、迎え入れて言った。
「卿の判決に従うと、大勢の人間を見逃すことになりますね?」
 対して言った。
「罪人を見逃すのは人臣の小過、人が生きて行くのを喜ぶのは聖人の大徳です。」
 太后は黙り込んだ。
 これによって、龍氏は死一等を減じられ、その三人の子息と共に嶺南へ流された。孝甚は羅州司馬へ降格となり、有功も除名された。 

 臘月、丁卯。皇孫の成器を壽春王、恒王成義を衡陽王、楚王隆起を臨シ王、衞王隆範、趙王隆業を彭城王へ降した。皆、睿宗の子息である。 

 一月庚子、夏官侍郎婁師徳を同平章事とした。
 師徳は寛厚清慎な人間で、他人を犯すことはあっても比べることがなかった。
 ある時、師徳は李昭徳と共に入朝した。師徳は肥っていて歩くのが遅かったので、昭徳はしばしば立ち止まって待ったが、なかなかやって来ないので、怒って罵った。
「この田舎者が!」
 すると師徳は静かに笑って、言った。
「師徳は田舎者ではない。そんな振る舞いをしたのは、誰かな?」
 師徳の弟が代州刺史に任命され、任地へ出立しようとした時、師徳は言った。
「吾は宰相なのに、汝まで州牧となった。ここまで栄寵が窮まったら、人々から妬まれる。どうやって禍を避けるつもりか?」
 弟は、跪いて言った。
「人から顔に唾を吐き掛けられても、拭い去るだけにします。だから兄上、どうか憂えないでください。」
 すると師徳は、顔色を変えて言った。
「だからこそ、吾は心配なのだ!人がお前の顔へ唾を吐き掛けるのは、お前へ怒っているからだ。それなのに、その唾を拭ったら、ますます怒りに火を注ぐではないか。唾など、放っておけば乾く。笑って受けなさい。」 

 甲寅、前の尚方監の裴匪躬、内常侍范雲仙が、私的に皇嗣へ拝謁したとゆう罪で、市場にて腰斬となった。これ以後、公卿以下、皆、皇嗣へ拝謁できなくなった。
 又、ある者が、皇嗣が密かに造反を謀んでいると告げた。そこで太后は来俊臣へ、皇嗣の近習達を詰問させた。近習達は苦痛に耐えきれず、皆、自ら偽りの自白をしたが、太常工人の京兆の金藏は、大声で俊臣へ言った。
「公が俊臣の言葉を信じないのなら、心をさらけ出してでも皇嗣が謀反していないことを示してやろう。」
 そして佩刀を引き寄せると自らの胸を裂いた。五臓が皆、流れ出して、大地が血に染まる。
 太后は、これを聞くと、担架で宮中へ運び込ませ、医者へ治療させた。医者が、臓腑を体内へ入れ込んで縫合し、秘伝の薬を使うと、一晩して、藏は蘇生した。
 太后は、自ら対面し、感嘆して言った。
「我が子が、自分で潔白を証明できなかったばかりに、汝をこんな目にあわせてしまった。」
 そして、俊臣へは詰問を中止するよう命じた。
 こうして、睿宗は誅罰を免れた。 

 二月、嶺南の流人が造反を謀てていると、密告する者が居た。そこで太后は、司刑評事萬國俊を摂監察御史として派遣して、糾明させた。
 國俊は、廣州まで来ると、流人を全て召集し、制をでっち上げて、全員へ自殺を命じた。流人達は服さずに騒ぎ立てたので、國俊は彼等を水辺へ追い詰め悉く斬り殺した。一朝で三百余人を殺したとゆう。
 その後、國俊は造反の自白をでっち上げ、都へ帰って奏上し、ついでに言った。
「諸道の流人達も必ず怨望して造反するでしょう。早く誅殺しなければいけません。」
 太后は喜び、國俊を朝散大夫、行侍御史に抜擢した。更に、右翊衞兵曹参軍劉光業、司刑評事王徳壽、苑南面監丞鮑思恭、尚輦直長王大貞、右武威衞兵曹参軍屈貞均(「竹/均」)を全て摂監察御史として、諸道へ派遣して流人達を糾明させた。
 光業達は、國俊が大勢を殺して賞されたのを見ていたので、争ってこれに倣った。光業は七百人を殺し、徳壽は五百人を殺し、その他の者も、少なくとも百人以上は殺した。この時、遠年雑犯の流人(微罪で長年服役した流人の事か?)も、一緒に殺された。
 太后は、彼等が刑を乱用したことを知り、制を降ろした。
「まだ生きている六道の流人は、家族共々郷里へ帰ってよろしい。」
 國俊等は、相継いで死んだり、罪を得て流罪となったりした。 

 来俊臣が「冬官尚書の蘇幹は魏州にいた頃に琅邪王沖と共謀していた」と誣告した。
 四月乙未、これを殺す。 

 九月、尊号を金輪聖神皇帝とするよう、魏王承嗣等五千人が上表して請願した。
 乙未、太后は萬象神宮へ御幸して尊号を受け、天下へ恩赦を下す。そして、金輪等七宝を造って、朝会のたびにこれを殿庭へ陳列した。
 庚子、昭安皇帝を渾元昭安皇帝、文穆皇帝を立極文穆皇帝、孝明高皇帝を無上孝明高皇帝と追尊した。 

 辛丑、文昌左丞、同平章事姚壽を司賓卿として、政事をやめさせる。司賓卿の萬年の豆盧欽望を内史、文昌左丞韋巨源を同平章事、秋官侍郎の呉の人陸元方を鸞台侍郎、同平章事とする。
 巨源は、孝寛の玄孫である。 

 延載元年(694年)正月丙戌、太后が萬象神宮で享した。 

 五月、魏王承嗣等二万六千余人が越古金輪聖神皇帝とゆう尊号を上へ奉った。
 甲午、太后は則天門の楼へ御幸して尊号を受け、天下へ恩赦を下し、改元する。 

 八月己巳、司賓少卿姚壽を納言とした。左粛政中丞の原武の楊再思を鸞台侍郎、洛州司馬の杜景倹を鳳閣侍郎として、共に同平章事とした。
 豆盧欽望が、京官の九品以上の官吏へ棒給二ヶ月分を返上させて軍へ回すよう請い、百官へ表を転示して同意させた。百官は、ただ命令に従って表の前に赴いて同意したが、それが何を意味するのか知らなかった。
 捨遣の王求禮が欽望へ言った。
「卿は禄が多いから、少しぐらい返上しても平気だろうが、卑官の者は貧苦に迫られている。それなのに、何も知らせず欺いて奪うのか?」
 欽望は顔色を変えて否定した。
 これが上表されると求禮は進言した。
「陛下は四海の富をお持ちですし、軍にも棒給があります。どうして九品のような貧官を欺いて、その棒給を奪うのですか!」
 姚壽は言った。
「求禮は大礼を知らぬのです。」
 求禮は言った。
「姚壽如きが、なんで大礼を知っているか!」
 この事は、遂に中止となった。 

 同月戊寅、鸞台侍郎、同平章事の崔元宗(「糸/宗」)が罪に触れて振州へ流された。 

 武三思が四夷の酋長を率い、請うた。
「銅鉄で天枢を鋳造し、端門の外に立て、功徳を銘記しましょう。唐を黜き周を頌するのです。」
 そして、姚壽へ監督させた。
 諸胡は百萬億の銭をかき集めて銅鉄を買ったが、足りなかった。そこで民間から農具を取り上げて充当した。 

 九月、殿中丞来俊臣が収賄の罪で同州参軍へ左遷された。王弘義も、瓊州へ流された。
 王弘義は、途中で敕を捏造し、都へ呼び戻されたと言い、引き返した。その途中、漢北にて侍御史胡元禮に会った。胡元禮は、その件を吟味して姦状を見破り、王弘義を杖殺した。
 内史李昭徳は太后の信任を恃み専横に振る舞ったので、大勢の人がこれを憎んだ。前の魯王府功曹参軍の丘音(「心/音」)が上疏して、これを責めた。その大略は、
「陛下は、天授以前は万機を独断しておられました。しかし、長壽以来は昭徳へ委任しております。機密へ参与させて可否を決定させるのみか、利便に流されて諮謀に関わらない時でさえ傍らに侍らせておりますが、これではあらぬ疑いを持たれてしまいます。昭徳は、自分が専断していることを他人へ見せつけて、政策の成功は自分の手柄として失敗は主君のせいにしております。これは臣下としての義ではありません。」
 又、言う。
「昭徳の肝は体より太く、鼻息は天上の雲でさえ吹き払うように思えます。」
 又、言う。
「蟻の穴が堤を壊し、ススキの針も怒りを写します。権は大切な物で、一度なくしたら再び得難いのです。」
 長上果毅のトウ注も、数千言にも及ぶ「石論」を書き、昭徳の専権の有様を述べた。鳳閣舎人逢弘敏がこれを取り上げて上奏した。太后は、これによって昭徳を憎んだ。
 壬寅、昭徳を南賓尉へ降格し、やがて死一等を減じて流罪とした。 

 十月壬申。左昌右丞李元素を鳳閣侍郎、左粛政中丞周允元を検校鳳閣侍郎とし、共に同平章事とした。允元は、豫州の人である。
 天冊萬歳元年(695)正月、周允元と司刑少卿皇甫文備が、「内史豆盧欽望、同平章事韋巨源、杜景倹、蘇味道、陸元方は李昭徳へ諂っており、矯正できません。」と上奏した。欽望は趙州へ、巨源は麟州へ、景倹は秦(「水/秦」)州へ、味道は集州へ、元方は綏州へ、それぞれ飛ばされた。
  三月、丙辰、鳳閣侍郎、同平章事周允元が卒した。 

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