則天武后 その七   懐義失脚
 
 河内に年老いた尼がおり、神都の麟趾寺に住んでいた。彼女は嵩山の人韋什方等と共に妖術と広言で大衆を惑わした。
 尼は自ら浄光如来と号し、未来を予知できると言った。什方は呉の赤鳥年間生まれたと言った。また、ある年老いた胡人は自称五百才。薛師に会ってから二百年経つと言っていたが、容貌はまだ若かった。太后は、彼等を大変重んじていた。
 延載元年(694年)什方へ武氏の姓を賜下した。
 秋、七月癸未。什方を正諫大夫、同平章事として、制を下した。
「黄帝の頃の廣成を凌ぎ、漢代の河上を越える(廣成子と河上公。共に仙人)。」
 八月、什方が山へ帰ることを乞うたので、制にて官職をやめさせ、帰した。 

 九月、太后が黎花の一枝を宰相へ見せた。宰相達は皆、瑞兆としたが、杜景倹だけは言った。
「今、草木は黄落している季節ですのに、これはこのように溌剌としています。これは、天候が不順だとゆうこと。これは臣等の咎でございます。」
 そして、拝謝した。
 太后は言った。
「卿こそ、真の宰相だ!」 

 天冊萬歳元年(695)正月辛巳朔、太后へ称号を加えて、「慈氏越古金輪聖神皇帝」とした。天下へ恩赦を下し、證聖と改元する。ただし、二月甲子に、太后は「慈氏越古」の称号を撤廃した。
 九月甲寅、太后が南郊にて天地を合祭した際には、称号を「天冊金輪大聖皇帝」とした。この時も、天下へ恩赦を下し、改元する。 

 明堂が完成した時、太后は、僧懐義へ、チョマで縫った大像を造るよう命じていた。完成してみると、その小指にさえ数十人が入るほどの大きさだった。そこで、明堂の北に天堂を造って、この像を安置したが、堂が完成すると、大風で壊されたので、更に作り直した。この工事は、毎日一万人を動員するほどの規模で、木材は江や嶺から取り寄せた。その費用は萬億を数え、府藏はほとんど空になってしまった。
 懐義は財産を糞土のように浪費したが、太后はそれを聞いても一度として詰問しなかった。無遮会のたびに、銭萬緡を使う。士女を大勢集めて、銭を車百台もばらまくのだ。士女は争って拾い、互いに踏みつぶしあって死人まで出た。
 住んでいる公私の田宅の住民は大半を僧にした。懐義は入宮を嫌がり、普段は白馬寺に住んでいたが、そこには僧侶になった力士が千人も居た。侍御史周矩は姦謀を疑い、これを調査するよう、固く請うた。太后は言った。
「卿はしばらくさがっていなさい。朕が自ら命じます。」
 矩が台へ来た時、丁度懐義もやって来たが、彼は階まで馬で乗り付けると、長椅子にて腹を剥き出しにしていた。矩が吏を呼んで無礼を詰問しようとすると、懐義は馬に飛び乗って去った。矩がその有様をつぶさに報告すると、太后は言った。
「それは道人に持病があるからです。詰問するに足りません。僧侶の件は、卿の処置に任せます。」
 彼等は全員遠州へ流された。矩は、天官員外郎へ遷された。
 正月乙未、明堂で無遮会を行った。深さ五丈の壕を掘り、綵を結んで宮殿とする。仏像などは皆、壕の中から引き出して、「地から沸いた」と言った。又、牛を殺して血を取り、それで大きな像を書いた。その首の高さは二百尺で、懐義の膝を刺して出した血で書いた、と吹聴した。丙申、天津橋の南へ像を張り、斎を設けた。
 この頃、御医の沈南 もまた、太后に寵愛されていた。懐義は怒り、この夕、密かに天堂を焼いた。すると明堂まで延焼し、その火は城中を昼のように照らした。火は明堂を焼き尽くして、血像は暴風で数百段に引きちぎられた。
 太后は、この事件を恥じ、箝口令を敷いた。ただ、「人夫が誤ってチョマ像を焼き、明堂まで延焼した。」とのみ表明した。
 この時、宴会が予定されていた。左捨遣劉承慶は宴会を中止して、天の譴責に答えるよう請い、太后もこれに従おうとしたが、姚壽が言った。
「昔、周では楽器倉が焼けましたが、国は益々栄えました。漢の武帝の時は、柏梁台が火災になったので、建章を大きく造営し、盛徳はいよいよ長久となりました。今、明堂は政務を執る所で、宗廟ではありません。自ら貶損する必要はありません。」
 そこで太后は端門まで御幸し、平常通り宴会へ参列した。そして、明堂と天堂の再建を命じ、懐義にそれを監督させた。
 また、銅を鋳て九州の鼎と十二神を造らせた。皆、高さは一丈。各々、その場所に設置した。
 話は前後するが、河内の老尼は、昼間こそ一麻一米を食していたが、夜はご馳走を並べて宴会を開き、弟子百余人を蓄え、淫乱の極みを尽くしていた。一味の武什方が、長生の薬を調合できると自称したので、太后は嶺南へ派遣して薬を採らせた。
 明堂が焼けた後、尼が弔問すると、太后は怒って叱りつけた。
「汝はいつも予知できると言っていたが、なんで明堂が焼失することを予言しなかったのか?」
 そして、河内へ追い返した。弟子も老胡も皆、逃散した。
 すると、彼等の姦を告発する者が居た。そこで太后は、尼を麟趾寺へ呼び戻した。それを聞いて弟子達は再び集まってきたが、その頃合いを見て役人が踏み込み、悉く捕らえて、皆、官婢とした。
 什方は、帰路の途上、偃師にて事の露見を知り、首をくくって死んだ。
 庚子、明堂が焼失したことを廟へ告げ、制を降ろして直言を求めた。すると、劉承慶が上疏した。
「チョマ像から出火して、総章まで延焼しました。仏舎を造営しても、労して益がないようです。どうか、造営を中止してください。又、明堂は天と人を統和するもの。それが焼け果てたとゆうのに、臣下は何を考えて宴会ができるのでしょうか!憂いと喜びが相争い、情性を損ないます。又、陛下は制を降ろして博く智恵を求め、至理を述べることを許されました。それなのに、左史張鼎は、周の武王が紂王を討った時、河を渡った後に出火して王屋まで延焼した故事を引き合いに出し、『王屋まで延焼したのは大周がいよいよ栄える祥瑞だ』と述べましたし、通事舎人逢敏は『弥勒が道を成す時、天魔が宮を焼き、七宝の台は全て灰燼に帰すのです』と奏しました。これらは実に諂妄の邪言で、君臣の正論ではありません。どうか陛下、恐々とした想いを持ち、天人の心をなみして不急の工事を興すのをおやめください。そうすれば、兆人はそのおかげを蒙り、福禄は尽きることがありません。」
 獲嘉主簿の彭城の劉知幾が、四事を表にて陳述した。その一は、
「皇業が始まって天地が開闢し、嗣君が即位して民は生まれ変わります。この時に、非常の慶を借りて再造の恩が下されるのです。しかし、今、天下は泰平なのに、赦令はやまず、近年では一年に何度も恩赦が降りていますし、それ以前も降りなかった年はありませんでした。遂には、違法悖礼の徒や無頼不仁の輩は徒党を造って強盗を生業とし、官吏は賄賂ばかり求めるようになってしまいました。彼等は、元旦や重陽の日には皇恩が降りると多寡を括っており、その胸算用通り、果たして赦免されるのです。あるいは、正しい人間が罪を糺そうとしても、密かに賄賂が行き渡って裁定が遅延し、遂には赦免されてしまいます。濫発される赦令は、世俗の多くを頑悖とし、心正しくする事はほんの稀です。善を為す者は恩恵に預からず、悪を為す者ばかりが大きな幸いを受けています。古語に言います。『小人の幸いは、君子の不幸である。』これこそ、それです。どうか陛下、今後は赦恩を減らし、民へ禁令を教え、姦人を粛清してください。」
 その二、
「海内には九品の官位が備わっておりますが、毎年赦が降りて、その度に必ず階勲を賜ります。朝野の宴会や公私の集まりでは緋色の人々が青衣よりも多く、象板が木笏よりも多い有様。これは皆、徳や才覚で挙げられた者ではなく、賢愚も美醜も判りません。今後は私恩をなくしてください。そうすれば善者は忠勤に励み、才のない者は勉励します。」
 その三、
「陛下が即位されてから、大勢の士を取り立て、六品以下は仕事が無く、土芥や砂礫に喩えられています。これらを淘汰しないならば、皇風を穢すのではないかと恐れます。」
 その四、
「今の牧伯は交代が激しく、昨日赴任したかと思えば、今日去って行く有様。このようであれば、長久の謀が執れません。どうして循良の政ができましょうか!今後は刺史は三年以上経たねば官を移さず、功過を良く察して賞罰を与えるようにしてください。」
 疏が奏されると、太后はとても嘉した。
 当時、官爵は得やすかったが、法網は厳峻だった。だから人々は競って昇進し、次々と刑戮へ陥っていった。そこで知幾は思慎賦を著し、時事を風刺した。
 僧懐義はますます驕恣になり、太后はこれを憎んだ。明堂が燃えてからは、懐義は不安になり、不穏なことばかり口走るようになった。太后は密かに宮人に有力者百余人を選び、これを防いだ。
 二月壬子、懐義を瑶光殿前の樹の下で捕らえ、建昌王武攸寧へ壮士を指揮させて殴殺した。屍は白馬寺へ送り、これを焚いて塔を造った。 

 四月。天枢が完成した。その高さは百五尺、直径十二尺。八面で、各々の面は五尺だった。その下は、鉄で山を造る。周囲は百七十尺で、銅製の龍や麒麟が沢山いた。天枢の上には騰雲露盤があった。その直径は三丈、四人の龍人が立ち、火珠を捧げていた。これは高さ一丈。工人の毛婆羅が模型を造り、武三思が文を書いた。百官及び四夷の酋長の名を刻む。太后は、自らその告示文を書いた。文章は、「大周萬國頌徳天枢」。 

 萬歳通天元年(696)臘月甲申、神嶽で封を行う。詳細は「宗教」へ記載する。
 同月、長安の祟尊廟を太廟と改めた。
 二月辛巳、神嶽天中王を尊んで神嶽天中黄帝、霊妃を天中黄后、啓を斉聖皇帝とする。啓母神を封じて玉京太后とした。
 右千牛衞将軍安平王武攸緒は、若い頃から行い正しく、恬淡寡欲。神嶽の封禅に随従して帰ってくると、祟山の陽に隠遁するため、官を捨てることを求めた。太后は、彼が何か企んでいるかと疑い、これを許諾して、その様子を見た。
 攸緒は、厳しい谷間でゆったりと遊び、冬は茅が編んだ室で暮らし、夏は石室に居り、まるで山林の士のようだった。太后が王公へ贈った服や器物宝物も、攸緒は皆、放置したまま使わなかったので、塵埃が積み重なった。購入した田も奴に耕かさせて、その生活は民とまるで変わらなかった。 

 四月丁巳、新しい明堂が落成した。高さは二百九十四尺、方三百尺、規模は、以前のものより縮小された。上には金を施した鉄鳳が置かれた。その高さは二丈。後、大風に壊された。更に、銅で火珠を造り、群龍がこれを捧げる。通天宮と号す。
 天下へ恩赦を下し、萬歳通天と改元する。 

  

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