則天武后 その八   晩年
 
  萬歳通天元年(696)四月、太后は、徐有功が法を公平に用いると考え、左台殿中侍御史に抜擢した。これを聞いた者は、皆、祝賀した。
 鹿城主簿の宗城の潘好禮は論文を著して、有功が道を踏み仁に依り誠節を固守し貴賤や生死でその操を覆さなかったことを褒めた。
 その中で、客が尋ねた。
「徐公は、今の世の中の、誰と肩を並べますか?」
 対して、主人は言った。
「四海はとても広く、人物も大勢居る。だから、行跡や仁徳が伝わらない者もいる。そんな人々を敢えて誣ようとは思わないが、少なくとも僕が見聞した中では、彼一人だ。彼に匹敵する人物は、古人の中から探し求めるしかないな。」
「張釈之はどうですか?」
「釈之のやったことは実に簡単なことであり、徐公の行いはとても困難なことだ。難易を比べると、優劣が見える。張公は、天下泰平の時に漢の文帝に逢った。高廟の玉環の盗賊や、渭水で馬が驚いた時などは、ただ法を遵守しただけだ。どうして難しいことだろうか!だが、徐公は革命の時に逢い、維新の党に属した。唐朝の遺老の中は、禍心を覆い隠して、人主へ徐公を疑わせようとしむけた者もいる。周興や来俊臣などは、悪言を飾って盛徳を誣る、堯の時の四凶のような人間。彼等へ対して、徐公は命懸けで善道を守り、正しいことを明白にし、幾たびも陥れられながらも、国の大綱を守り通した。これは、実際に我等が聞いた事実だ。何と困難なことではないか!」
「それでは、彼を司刑卿にすれば、彼の才覚を発揮させることができますね。」
「君達は、ただ徐公が法を正しく適用させることだけを見て、司刑にすれば良いと言う。だが、僕は彼の人格を見る。彼は、方寸の地でも拒絶されることがない。もしも彼を用いたら、何事でもこなせる。なんで司刑などで終わらせられようか!」 

 神功元年(697)正月己亥朔。太后が通天宮で享した。 

 箕州刺史劉思禮は術士の張憬藏から人相見の術を学んだ。この時憬藏は思禮へ言った。
「君は箕州刺史を経て、最後には太師まで栄達する。」
 すると思禮は思った。
”太師は、人臣を極めた貴位だ。君主の擁立でもしなければ、なれるものではない。”
 そこで、洛州録参軍其(「其/糸」)連輝と造反を謀り、密かに朝士達と結託した。
 思禮は、人相見の術に託して、朝士達へ富貴になると予言し、彼等がその気になった頃に言うのだ。
「其連輝は天命を受けた。公は必ず彼から富貴にしてもらえるぞ。」
 鳳閣舎人王劇(本当はりっとうではなく、力)は、天官侍郎事も兼務しており、彼の推挙で思禮は箕州刺史となった。
 明堂尉吉頁(「王/頁」)が、この陰謀を聞きつけ、合宮尉来俊臣へ告げ、彼へ上訴させた。太后は、河内王武懿宗へ探査を命じた。
 武懿宗は思禮へ、もっと大勢の朝士を巻き込んだら死罪を免じてやる、と持ちかけた。自分が少しでも気に入らない奴は、全て彼の一味へ仕立て上げたかったのだ。思禮はこれを受諾した。こうして鳳閣侍郎同平章事李元素、夏官侍郎同平章事孫元亨、知天官侍郎事石抱忠、劉奇、給事中周番(「言/番」)及び王劇の兄のケイ州刺史面(「面/力」)、弟の監察御史助等、凡そ三十六家が巻き添えとなった。彼等背は皆、海内の名士だったが、武懿宗は拷問を極めて疑惑を成立させた。
 正月壬戌、皆、一族誅殺となり、連座で流罪となった親党は千余人に及んだ。
 初め、懿宗は思禮だけは建議から外して寛大に接し、彼へ諸人を誣させた。だが、諸人を誅殺し終わると思禮も牢獄にぶち込んだので、思禮は後悔した。
 天授以来、太后は懿宗へ屡々疑獄を探査させた。彼はでっち上げで人を陥れて喜ぶような人間で、時人は周、来の同類と見た。
 来俊臣は、その功績を独占したくて、再び吉頁を告訴した。だが、頁は上奏して謁見することができ、どうにか禍から免れた。この事件で、俊臣は再び登用され、頁もまた進位できた。
 俊臣の党類が、司刑府史樊心(其/心)が謀反を謀てていると密告した。心の子息が朝堂で冤罪を訴えたが、口添えする者は居ない。子息はついに、刀を振るって割腹自殺した。秋官侍郎の上圭(「圭/里」)の劉如睿(「王/睿」)が、これを見て、密かに嘆いて泣いた。すると俊臣は、如睿が悪逆な心を持ったと上奏し、牢へぶち込んで絞首刑とするよう請うたが、制が降りて流罪となった。 

 この頃から、張易之、昌宗兄弟が寵愛されるようになった。詳細は、「張易之」へ記載する。 

 四月、鋳の九鼎が完成し通天宮へ設置された。豫州の鼎は高さ一丈八尺で、容積は千八百石。その他の州のは高さ一丈四尺で容積は千二百石。各々、山川の物産を図案化して彫り込んであり、全部で五十六万七百余斤の銅を使用した。
 太后は、千両の黄金を使って、その上へ金メッキしたがったが、姚壽が言った。
「九鼎は神器ですから自然な天質を貴びます。それに、臣が見ますに、五采の煥炳が混じり合った有様は、金色に塗らずとも眩しゅうございます。」
 太后は、これに従った。
 玄武門から曳き入れる。宰相・諸王が、南北の牙宿衞兵十余万人および杖内の大牛や白象を率いて曳いて行った。 

  前の益州長史王及善が退職した後、契丹が乱を起こした。山東の情勢が不安になったので、彼は滑州刺史に起用された。
 太后が召し出して謁見し、朝廷の得失を訊ねたところ、及善は治乱の要点十余条を述べた。すると、太后は言った。
「外州は末事。卿は根本の見識をお持ちだ。地方へは出せません。」
 四月癸酉、及善を朝廷へ留めて内史とした。 

 話は前後するが、朱前疑が上書して言った。
「臣は、陛下の満八百歳を寿ぐ夢を見ました。」
 おかげで彼は捨遣を拝受した。
 又、彼は自ら言った。
「陛下の白髪が黒くなり、抜け落ちた歯が再び生えてくる夢を見ました。」
 彼は駕部郎中(国中の厩牧や駅の馬など、官の牛馬を掌握する役)へ遷った。
 使いに出て帰ると、上書した。
「祟山にて万歳と呼ぶ声を聞きました。」
 今度は、緋の算袋を賜った。この時、彼はまだ五品ではなかったが、緑衫の上にこれを佩服した。
 五月、契丹出兵で、「軍馬を一匹献上すれば五品を賜下する。」と、京官へ敕が降った。前疑は馬を買って献上し、しばしば上表して進階を求めた。太后は、彼が余り貪欲なので不愉快になった。
 六月乙丑、前疑へ馬を返し、田里へ追い返すよう敕が降りた。 

 司僕少卿の来俊臣は勢力に驕って淫を貪り、士民を美しい妻妾を持っていると聞くと、これを取り上げた。あるいは、その主人を誣告させ、敕と矯称して妻を取り上げたりした。この術で誅殺された者は、挙げて数えることもできない。宰相以下、その姓名を騙って、これを取る。俊臣は、自らの才覚を石勒に喩えていた。
 監察御史の李昭徳は、もともと俊臣と仲が悪かった。そして昭徳は、かつて秋官侍郎の皇甫丈備を侮辱したことがあった。そこで、俊臣と丈備は共謀して昭徳が謀反したと誣い、牢獄へぶち込んだ。
 俊臣は、疑獄事件をでっち上げようと思った。それは、武氏諸王と太平公主を告発し、又、皇嗣及び廬陵王と南北牙が手を組んで造反した、とゆうもだ。これによって国権を盗もうと欲したのである。そこで、河東の人衞遂忠へこれを告発させた。
 諸武と太平公主は恐懼して、俊臣の罪を告発したので、彼は牢獄へ繋がれ、役人は極刑を求刑した。
 太后は俊臣を赦したかったので、奏上されてから三日間、朝廷へ出なかった。すると、王及善が言った。
「俊臣は凶狡貪暴な人間。国の元悪です。彼を除かなければ朝廷は必ず動揺します。」
 そんな中、太后は苑中でぶらつき、吉頁が轡を執っていた。太后が外の様子を問うと、彼は答えた。
「人々は、来俊臣処刑の奏が下されないのを不思議がっています。」
 太后は言った。
「俊臣は、国に功績がある。朕はそれで躊躇しているのだ。」
「于安遠は、虫(「兀/虫」)貞が造反すると告発しました。そして造反が起こりましたが、それでも今は成州の司馬に過ぎません。対して俊臣は、徒党を組んで不逞を働き、良善を誣し、賄賂を山のように貪っています。今や無実の魂魄が路を塞いでいる有様。彼こそ国賊です。わずかの功績など、なんで惜しむに足りましょうか!」
 太后は、ついに命令を下した。
 丁卯、昭徳と俊臣が処刑されて、死体が市へ捨てられた。人々は皆、昭徳の死を悼み、俊臣の死に快哉を叫んだ。彼を憎む者は、争ってその死肉を食らい、アッとゆう間に無くなってしまった。眼は抉られ、面は剥がれ、内蔵はぶちまけられて辺りをベチャベチャにした。
 太后は、天下の人々が俊臣を憎んでいることを知り、制を降ろして彼の罪状を数え上げ、言った。
「赤族へ誅戮を加え、蒼生の憤りを雪ぎ、法に準じてその家を没収せよ。」
 士民は皆祝賀し合って、路上で言い合った。
「これでようやく、安心して眠れる。」
 話は前後するが、俊臣が其連輝を告発した時、その功績で奴婢十人を賜る事になった。俊臣は司農の婢を見渡したが、良い娘が居ない。そんな折、西突厥可汗斛瑟羅の家に細婢がおり歌も踊りも巧いと聞き、彼女を褒賞として貰いたくなった。そこで人を使って瑟羅が謀反したと誣告させた。西突厥の諸酋長達は闕を詣で、冤罪を訴えた。耳を斬ったり顔を傷つけたりして証を立てる者が数十人もいた。俊臣が誅殺されるに及んで、瑟羅も赦免された。
 俊臣の羽振りが良かった頃、選司達は、彼等が請願した人間は即座に除官した。こうして登用された者は、選ごとに数百人もいた。俊臣が敗北すると、侍郎達は皆、自首した。太后が彼等を責めると、対して彼等は答えた。
「陛下へ背くと、死罪です!臣下が国家の法を乱しても、罪は一身のみに止まります。しかし、俊臣の言いつけに背けば、たちどころに一族が誅殺されました。」
 太后は、彼等を赦した。
 上林令侯敏は、もともと俊臣へ諂って仕えていた。彼の妻の董氏が、諫めて言った。
「俊臣は国賊。破滅する日も間近です。あなた、どうか遠ざかってください。」
 敏は、これに従った。俊臣は怒り、武龍令へ左遷した。敏は行きたがらなかったが、妻は言った。
「グズグズしないで、早く赴任しなさい!」
 俊臣が破滅すると、その党類は皆、嶺南へ流されたが、敏だけは免れた。
 太后は于安遠を呼び戻して尚食奉御とし、吉頁を右粛政中丞へ抜擢した。 

 六月、検校夏官侍郎宗楚客を同平章事とした。
 戊子、特進武承嗣、春官尚書武三思が、共に鳳閣鸞台三品となる。七月、この二人が、ともに政事をやめた。 

 七月丁酉、昆明が帰順したので竇州を設置した。 

 八月丙戌、納言姚壽が事に坐して益州長史へ左遷された。
 太子宮尹豆廬欽望を文昌右相、鳳閣鸞台三品とする。 

 九月壬辰、通天宮に大亨した。大赦が降り、改元される。 

 甲寅、太后が侍臣へ言った。
「近年、周興、来俊臣が疑獄を裁かせると、大勢の朝臣を巻き込んで謀反したと言い立てました。国には常法があります。朕がどうして犯せましょうか!時にはその不実を疑い、近臣を牢獄へ派遣して問わせましたが、皆、自白書を持ってきて、囚人は承服していますと報告しました。ですから、朕は疑わなかったのです。ですが、興と俊臣が死んでからは、謀反したとゆう話を聞きません。それならば、今まで死んだ者は冤罪ではなかったのですか?」
 夏官侍郎姚元祟が言った。
「垂拱以来、謀反の罪で死んだ者は、皆、興等が自分の功績を高くする為にでっち上げたものです。陛下が近臣へ問わせましたが、近臣とても自分が誅殺されるのならば、どうして動揺せずにいられましょうか!囚人にしても、もしも証言を翻したならば、興等の毒手によってもっと悲惨な目に会わされますので、速やかに死ねる方が余程ましだったのです。天のおかげて聖心が啓蒙され、興等が誅殺されました。これで臣下達は陛下の為に喋れるようになりました。今後は、内外の臣下に造反など起こりますまい。もしも微かでも実状がありましたら、臣は、知りて告発しなかった罪を甘んじて受けましょう。」
 太后は悦んで言った。
「あの頃の宰相は全て事なかれで、朕を淫刑の主君へ陥らせました。卿の言葉を聞いて、 朕は深く合点しました。」
 元祟へ銭千緡を賜下した。
 当時の人々の多くは、魏元忠を冤罪だと訴えたので、太后は再び召し抱えて粛政中丞とした。
 元忠は前後四回、有罪となって市へ曝されたり流罪となったりした。かつて、彼が宴会に侍っている時、太后が尋ねた。
「卿は、行く先々で誹謗を受ける。どうしてですか?」
 対して、彼は言った。
「臣は鹿です。徒党を組んだ奸臣達は、臣の肉を羮にしたがっているのです。どうして逃げられましょうか!」 

 閏十月甲寅、幽州都督狄仁傑を鸞台侍郎、司刑卿杜景倹を鳳閣侍郎として、共に同平章事とした。また、鳳閣舎人李喬を知天官選事とし、始めて員外官数千人を置いた。
 仁傑は上疏した。
「天は四夷を、先王の領土外に生みました。ですから、東は滄海に拒まれ、西は流沙に阻まれ、北には大漠が横たわり、南は五嶺で阻まれています。これは、天が夷狄を中華から隔てたのです。典籍をひもといても、声教も及ばず、三代の統治も至らなかった場所ですのに、今、わが国はこれを悉く指揮下に置いています。
 詩人達は、宣王の北伐を誇らなかったのに、文王の教化が江、漢へ及んだことは美化しています。太原と違い、江や漢は三代の遠裔で、国家の地域内だからです。
 武力を外へ用いて絶域で功績を挙げるのは、府庫を空にして不毛の地を争っているに他なりません。その人民を得ても賦税は増えませんし、その土地を得ても耕作も養蚕もできません。遠夷までが我等の僕となったとゆう虚名を求める為に、国の大本を固めることや人民を安んじることをないがしろにするのでは、これは秦の始皇帝や漢の武帝の所業であり、五帝三皇の事業ではありません。始皇帝は兵を窮め武を極めたので、麻のように人が死に、これが天下を潰叛させました。漢の武帝は四夷を征伐すると、百姓は困窮して盗賊が蜂起しました。ですが、武帝はその末年に悔悟して戦争をやめて兵役を罷めました。おかげで天の助けを得て国は存続したのです。
 近年、国家は頻繁に出兵しており、軍費は膨らむ一方です。西方は四鎮を守り、東方は安東を守り、日毎に徴発が行われ百姓は疲弊しました。今、関東は飢饉で、蜀・漢は逃亡し、江・淮以南では徴求がやまず、人々は生業もできずに相率いて盗賊となっております。本根が一度揺れたら、憂患は浅くありません。そうなってしまった原因は、蛮貊不毛の地を争い、人民を養育する道を踏み外したことにあるのです。
 昔、漢の元帝は賈損之の謀を納れて朱崖郡を廃止しました。宣帝は魏相の策を用いて車師の田を棄てました。彼等が、どうして虚名を求めなかった筈がありましょうか。けだし、人力を浪費することを憚ったのです。近くは貞観年間、九姓を克服した時には、李思摩を可汗に立てて諸部を統治させました。これは、夷狄が叛いたら討伐し、降伏したら慰撫するとゆう、推亡固存の義に適った行いでしたから、遠方まで防人を派遣するとゆう労役が起こりませんでした。近年の政策と比べ、このやり方は辺境経営の模範とできます。
 ですから臣は、提案いたします。阿史那斛羅を可汗として四鎮を委ね、高氏の末裔に高麗を再建させて安東を統治させましょう。遠方の軍費や塞上の武装兵を省いても、夷狄による侵侮の患がなくなればよろしいのです。何で、”夷狄は絶対に巣穴から掃討して虫けらと長短を比べなければならないのだ、”とゆう法がありましょうか!辺境警備の兵隊達には、ただ遠方まで斥候を出して、資糧を山積みし、敵の来襲を待ってから撃退するように敕すればよいのです。逸を以て労を待てば、戦士の力は倍になりますし、主を以て客を防げば我等は便宜を得ます。防備を固くして野を焼き払えば、寇は兵糧の掠奪ができません。自然、二賊はわが国へ深く侵入すれば全滅の危険が伴い、浅く侵略したら何も得られなくなるではありませんか。このようにして数年経てば、二賊は、攻撃しなくても向こうの方から降伏してくるでしょう。」
 この進言は受け入れられなかったけれども、心ある者は、正しいとした。 

 以前の暦官は、この月を正月として、臘月を閏月としていた。だが太后は、正月の甲子朔を冬至にしたかったので、制を下して言った。
「前月の晦日に月を見たら、天経に爽としていた。今月を閏月として、来月を正月とする。」
 聖歴元年(698年)正月、甲子朔、冬至。太后が通天宮で亨した。天下へ恩赦を下し、改元する。 

 同月、夏官侍郎宗楚客が政事をやめた。
 二月乙未、文昌右相、同鳳閣鸞台三品豆盧欽望が、やめて太子賓客となった。 

 四月庚寅朔、太后が太廟を祀った。 

 七月。鳳閣侍郎、同平章事杜景倹が、やめて秋官尚書となった。 

 同月戊戌、太子大保の魏宣王武承嗣が病死した。詳細は、「武承嗣」へ記載する。
 庚子、春官尚書武三思を検校内史とし、狄仁傑に納言を兼任させた。
 太后が宰相達へ、各々尚書郎を一人推挙するよう命じた時、仁傑は、自分の子供の司府丞光嗣を推挙して、地官員外郎としたが、優秀だと讃えられた。太后は喜んで言った。
「卿は祁奚(春秋時代の人間。適役だと判断したら、讐でも子息でも推挙した)の後継者です。」
 通事舎人の河南の元行沖は博学で多くのことに精通しており、仁傑は彼を重んじていた。その行沖はしばしば仁傑を諫めて言った。
「およそ家には、栄養を摂る為の食糧と、病気を治す為の薬が不可欠だ。僕が明公の門を窺うに、珍味が多い。行沖が薬の一端となろう。」
 仁傑は笑って言った。
「君が、我が薬籠の中の物ならば、一日としてなしには済まされないな!」
 行沖は、澹とゆう名前だが、字の方が有名である。
 九月甲子。夏官尚書武攸寧を現職のまま鳳閣鸞台三品とした。
 同月、天官侍郎蘇味道が鳳閣侍郎・同平章事となった。
 味道は前後数年間相の地位にいたが、それはおもねりによるものだった。かつて、彼は人へ言った。
「諸事、明白にしては良くない。ただ、曖昧にしてどっちつかずでいることだ。」
 時人は、彼を言った。
「蘇模稜(模稜は、”曖昧”の意味)」 

 十月、制が降りた。
「都下の屯兵は、河内王武懿宗、九江王武攸既の指揮下へ入れる。」
 夏官侍郎姚元祟と秘書少監李喬を同平章事とした。 

 蜀州は毎年五百人の兵を派遣して、姚州を守備していたが、そこまでの道は遠くて険しく、大勢の人間が死んでいた。そこで、蜀州刺史張柬之が上言した。
「姚州は、もともと哀牢の国で、山は高く水は深い荒れ果てた異郷の地。国家がこれを開いて州としましたが、未だかつて税金を徴収することができません。それなのに防備の金ばかりかかり府庫は底を突く有様。駆り立てられる兵卒達は、まるで蛮地への流刑のようで、異国にて屍を曝すことになるのです。臣は、国家の為に、これを惜しんでおります。どうか姚州を廃止して、 州へ隷属させてください。毎年の朝勤などは、蕃国同様に扱うのです。濾南の諸鎮も皆廃止して、濾北へ関所を設置しましょう。そして、使者でなければ往来させないようにするのです。」
 疏は上奏されたが、納れられなかった。 

 二年(699)正月、丁卯朔。通天宮にて朔を告げる。
 壬戌、皇嗣を相王、領太子右衞率とする。
 甲子、控鶴監丞、主簿等の官を設置する。媚びへつらいで寵愛された者や文学の士をこれに充てる。
 司衞卿の張易之を控鶴監とし、銀青光禄大夫張昌宗、左台中丞吉頁、殿中監田帰道、夏官侍郎李迥秀、鳳閣舎人薛稷、正諫大夫の臨汾の員半千等が皆、控鶴監内供奉となる。稷は、元超の子息である。
 半千はこれをやめるよう上疏した。と、言うのは、古来にはこの官職がなかったし、軽薄の士を大勢かき集めていたからである。だが、この上疏によって半千は、太后の機嫌を損ね、水部郎中へ左遷された。
 臘月戊子、左台中丞吉頁を天官侍郎、右台中丞魏元忠を鳳閣侍郎とし、供に同平章事とした。
 文昌左丞宗楚客と、彼の弟の司農卿晋卿が、万余緡の収賄と邸宅が豪奢すぎるとゆう理由で有罪となった。楚客は播州司馬へ降格となり、晋卿は峯州へ流された。
 太平公主が彼等の邸宅を見て、嘆いて言った。
「この邸宅を見ると、虚しくなってきます。」
 一月庚申、夏官尚書、同鳳閣鸞台三品武攸寧が罷免され、冬官尚書となった。 

 臘月、太后に八の字をした重眉(?)が生えた。百官は、皆、祝賀した。 

 二月己丑、太后が嵩山へ御幸した。途中侯(「糸/侯」)にて升仙太子廟を詣でる。
 壬辰、太后が危篤。給事中の樊城の閻朝隠を派遣して、少室山にて祈る。朝隠は自ら犠牲となり、沐浴してまな板の上に伏せ、太后の身代わりになることを請うた。太后の病気は少し良くなり、彼は厚く賞された。
 丁酉、侯氏から帰る。
 七月。会稽王武攸望の代わりに、建安王武攸宜へ西京の留守を命じた。
 八月、「州県の長史は敕旨がなければ勝手に碑を立ててはいけない」と、制が降りた。
 九月乙亥、太后が福昌へ御幸した。戊寅、神都へ帰る。
 十月、太子や諸王が、再び閣を出た。 

 太后が制を降すようになってから、大勢の武氏諸王やフバ都尉が成均祭酒や博士、助教となったが、彼等の大半は儒士ではなかった。また、郊丘や明堂や拝洛、封祟などの功績で、弘文国子生を齋郎として、選補の資格を与えた。これによって学生は学業を習わなくなり、二十年間、学校は殆ど廃されていた。また、酷吏に誣陥されて親友と離ればなれになった者達は、まだ復帰を許されていなかった。
 そこで、鳳閣舎人韋嗣立が上疏した。
「この頃、俗物は儒学を軽視し、先王の道は弛廃されて講じられなくなりました。王公以下の子弟を皆、国学へ入れて、他の手段での出世の道を閉ざさせるべきでございます。
 又、徐敬業や越王貞が造反して以来刑罰は厳しくなり、酷吏がその隙に乗じて殺人のみで出世しました。陛下の御聖明のおかげをもちまして周興、丘神来、王弘義、来俊臣が相継いで誅殺されましたので、朝野は喜び合い、再び日の光を浴びたようでございました。狄仁傑や魏元忠などは、かつて裁判に掛けられ、二人とも嘘の自白をしました。陛下のご明察がなければ、切り刻まれて塩漬けとなっていたところでございますのに、今、陛下は抜擢して任用し、良輔となつております。どうして、以前は悪かったのに、今は良くなったのでしょうか?これは、事実がねじ曲げられていたか、明らかになったかの違いでございます。
 ですが臣は、かつて冤罪を蒙った大勢の者が、皆、仁傑や元忠のようなものではなかったかと恐れているのです。どうか陛下、天地の仁と雷雨の施しを広げて、垂拱年間以来の罪人へ対しては、罪の軽重を問わず、全て洗い直し、死者へは官位爵位を追復し、生きている者は郷里へ帰ることをお許しください。そうすれば、天下の人々は、かつての狂乱が陛下の御意向ではなく、皆、獄吏達の専横であったことを知り、幽鬼達は喜び四海を和気が覆うでしょう。」
 太后は、従えなかった。
 嗣立は、承慶の異母弟である。母の王氏は承慶へとても酷く当たっていた。しかし、母が承慶を杖で打とうとする度に、嗣立が身代わりにぶたれることを願い出た。母が承知しないと、嗣立は自分で自分を杖打った。そうゆう事で、母親も、承慶へ対して少しは寛大になった。
 承慶は、鳳閣舎人の時、病気を理由に辞職した。この時、嗣立は莱蕪県の県令だったが、太后は彼を呼び出して、言った。
「かつて、卿の父が言いました。『臣には二人の子息がおりますが、二人とも、陛下のお役に立てます。』と。卿の兄弟が官職に就くと、果たして父君の言葉通りだった。朕は今、卿を兄の代わりとする。他の者を用いない。」
 そして即日、鳳閣舎人とした。 

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