則天武后 その九   
 
  久視元年(700年)臘月辛巳、元の太孫の重潤を邵王に、その弟の重茂を北海王に立てた。 

 太后が、鸞台侍郎陸元方へ外事を尋ねると、元方は答えた。
「臣は宰相となり、大事が起これば必ず奏上しております。些細なことは、聖聡を煩わせるに足りません。」
 この言葉で機嫌を損ねた。庚寅、罷免されて司禮卿となる。
 元方の為人は清謹。二回、宰相となった。太后は人事については屡々諮問したが、元方は密封で返答し、その内容は誰にも洩らさなかった。臨終の折、それらを全て焼き捨てて、言った。
「吾は、大勢の人間へ隠徳を施した。我が子孫は決して衰退しないぞ!」
 丁酉、狄仁傑を内史とした。
 庚子、文昌左丞韋巨泉を納言とした。
 二月、乙未、同鳳閣鸞第三品豆盧欽望を罷免して、太子賓客とする。 

 臘月乙巳、太后が祟山へ御幸する。
 春、一月丁卯、汝州の温泉へ御幸する。戊寅、神都へ帰る。告成の石宗(「水/宗」)へ、三陽宮を造成する。
 四月戊申、太后が三陽宮へ避暑に行く。途中、胡僧が舎利の埋葬の見物に、車駕を招いた。太后はこれを許したが、狄仁傑が馬前に跪いて言った。
「仏は夷狄の神で、天下の主が膝を屈する相手ではありません。あの胡僧は、詭弁を弄して万乗の君を招待し、遠近への宣伝にするつもりです。山道は険しく狭く護衛の兵で取り巻くことができません。万乗の君が行くところではありません。」
 太后は、途中から引き返し、言った。
「我が直臣の面目躍如じゃ。」 

 太后が、洪州の胡僧へ、長生の薬を調合させた。三年で完成したが、巨額の費用がかかった。太后がこれを服用すると、病状が少し改善した。
 癸丑、天下へ恩赦を下し、久視と改元する。天冊金輪大聖の称号を撤廃する。
 閏月戊寅、車駕が宮殿へ帰った。 

 閏月己丑、天官侍郎張錫を鳳閣侍郎、同平章事とした。鸞台侍郎、同平章事李喬(「山/喬」)を罷免して、成均祭酒とする。
 錫は、喬の舅である。だから、喬を政事からやめさせたのだ。 

 太后は、内史梁文恵公狄仁傑を群臣の誰よりも信重しており、いつも彼のことを名前では呼ばずに、「国老」と呼んだ。仁傑は、朝廷で面と向かって争うことを好み、太后はいつも我意を屈してこれに従っていた。
 かつて、太后に従って遊幸した時、風が吹いて仁傑の頭巾が落ち、馬が驚いて止まらなくなった。太后は、太子へ追いかけさせ、これを執って繋げさせた。
 仁傑は、屡々老疾を理由に退職を願ったが、太后は許さなかった。謁見するときには、いつも拝礼をやめさせ、言った。
「公から拝礼される度に、朕は心が痛むのじゃ。」
 そして、宿直を免除し、同僚へ言った。
「軍国の大事以外、公を煩わせてはいけません。」
 九月辛丑、卒した。太后は泣いて、言った。
「朝堂が、空虚になった!」
 この後、朝廷で大事が起こりなかなか衆議が決定しないと、太后はすぐに嘆いて言った。
「天は、どうしてこんなにも早く、吾から国老を奪ってしまったのか!」
 太后が、かつて仁傑へ問うた。
「朕は一佳人を用いようと思うが、誰がよいかな?」
「陛下が、どのようなご用に使うのか、まだ詳しく聞いておりません。」
「将相としたいのじゃ。」
「文学の蘊蓄なら蘇味道、李喬がすでにおります。それでも択抜した奇才がお望みなら、荊州長史張柬之が、老いたりとは言え宰相の才です。」
 そこで太后は、柬之を洛州司馬へ抜擢した。
 数日して再び仁傑へ問うてみると、彼は答えた。
「前に柬之を推薦しましたが、まだ用いられていません。」
「すでに抜擢した。」
「いえ、臣が推薦したのは宰相になれる人間で、司馬ではありません。」
 そこで秋官侍郎とし、しばらく後、遂に相とした。
 仁傑は、また、夏官侍郎姚元祟、監察御史の曲阿の桓彦範、太州刺史敬暉等数十人を推薦し、彼等は皆、名臣となった。すると、ある者が言った。
「天下の桃李はすべて公の門下ですね。」
 仁傑は言った。
「賢人を推挙するのは御国の為。私利ではない。」
 仁傑がまだ魏州刺史だったころ、恵政を行ったので、百姓は彼がまだ生きているうちに彼を祀った祠を造った。後、彼の子息の景暉が魏州司功参軍となったが、彼は貪婪暴虐で民の患いとなったので、人々は遂に仁傑の像を壊してしまった。 

 甲寅、正月を十一月へ、一月を正月へ戻すと制が降りた。(天授元年、十一月を正月としていた。)天下へ恩赦を下す。 

 丁巳、納言の韋巨源を罷免し、文昌右丞韋安石を鸞台侍郎、同平章事とした。安石は、津の孫である。
 この頃、武三思と張易之兄弟が政事を専横しており、安石は屡々面と向かって非難していた。かつて、禁中の宴に侍ってる時、易之が蜀の商人宋覇子等数人を引き入れて、博打を打って遊んでいた。安石は跪いて上奏した。
「商人は卑賤な輩。このような宴席に同座させてはいけません。」
 そして左右を顧みて、彼等を追い出した。座中の人間は顔色を失ったが、太后はそれを正しいとして、ねぎらって勉めさせたので、皆は感嘆して服した。 

 長安元年(701年)二月己酉。鸞台侍郎の柏人の李懐遠を同平章事とした。 

 六月庚申、夏官侍郎李迥秀を同平章事とした。
 迥秀は至孝の人間。その母親はもともと微賤だった。彼の妻の崔氏はいつも婢を叱咤していたが、母はそれを聞いて不機嫌になった。すると、迥秀はすぐに妻を追い出した。
 ある者が言った。
「賢室は悪いことをしたけれども、その過は七出(律に依れば、妻が以下の行いをすれば、追い出すことになっている。それは、子がない、浮気、舅姑に仕えない、口さがない、盗む、嫉妬が酷い、悪い病気に罹る、の七つである。)に触れたわけではない。どうしてこんなにすぐに叩き出すのか?」
 すると迥秀は言った。
「妻を娶ったのは、もともと親を養う為だ。今、不愉快にさせてしまった。どうして留めて置けようか!」
 遂に、離縁した。
 七月甲申、李懐遠がやめて秋官尚書となった。
 九月丙申、相王を知左、右羽林衞大将軍事とした。
 天官侍郎の安平の崔玄韋(「日/韋」)は、介直な人間で、今まで一度も謁見を乞うたことがなかった。執政はこれを憎み、文昌左丞へ左遷した。
 一月ほど経って、太后は玄韋へ言った。
「卿の官職が変わって以来、令史達はご馳走を並べて喜び合ったと言う。これは、彼等が姦貪を野放図にできるようになると思ったからです。今、卿を元の職務へ戻します。」
 そして、再び天官侍郎として、綏七十段を賜下した。 

 長安二年(702年)正月乙酉、始めて武挙を設けた。
 六月壬戌、神都留守韋巨源を京師へ呼び出した。副留守の李喬を後任とする。 

八月、敕が降りた。
「今後揚州及び豫、博の残党(武太后へ対して起こった唐宗室の造反の一党)について告発されることがあっても、全て聞き流せ。内外の官司はこれを糾問してはならぬ。」
 十一月辛未、監察御史魏靖が上疏した。その大意は、
「陛下は既に来俊臣の姦悪を知り、処刑しました。どうか、俊臣等が裁いた大獄に関しては、審議をやり直して、冤罪を晴らしてください。」
 太后は監察御史蘇延へ俊臣等の裁決の再審議を命じた。これによって、大勢の者が冤罪を雪げた。 

 侍御史張循憲が河東采訪使となった。任期中、疑わしい事件が起こって決定できず、これを気に病んで、彼は侍吏へ問うた。
「共に知恵を出し合えるような優秀な人間は居ないかな?」
 すると、吏は言った。
「以前に平郷尉だった猗氏県の張嘉貞が異才でした。」
 循憲は嘉貞を呼び出して事件について尋ねたところ、彼は理に従って分析し、目の付け所などは実に鋭かった。そこで循憲は上奏文も書かせたが、彼が及びもつかないほど立派な物だった。
 循憲が都に帰って太后へ謁見すると、太后はその上奏文を褒めたので、循憲は嘉貞のやったことをつぶさに述べて、自刎の官職を彼へ授けるよう乞うた。すると、太后は言った。
「賢人を抜擢するための官職の一つくらいに、朕がなんで不自由しますか!」
 そして嘉貞を呼び出して内殿にて謁見した。彼と語り合って大いに喜び、即座に監察御史を授ける。循憲は司勲郎中に抜擢した。優秀な人間を見つけたことを賞したのである。 

 三年閏月丁丑、韋安石へ神都の留守を命じた。
 己卯、文昌台を中台と改称する。中台左丞李喬を知納言事とする。
 七月癸卯、正諫大夫朱敬則を同平章事とした。
 戊申、相王旦をヨウ州牧とした。
 九月、左武衞大将軍武攸宜を西京留守とした。
 この年、全土を六つにわけて使者を派遣し、州県の実態を観察させた。 

  四年正月丁未、三陽宮を壊し、その材料を使って萬安山へ興泰宮を造る。どちらの宮殿も、武三思が建議して造った物で、太后へ毎年御幸するよう乞うた。その為の費用は莫大で、百姓は苦しんだ。左捨遣盧藏用が上疏した。その大意は、
「左右の近臣は、陛下の意向に従うことを忠義とし、朝廷の官僚は陛下の感情を損なうことを戒めとしています。その結果、陛下は百姓の辛苦を知らず、陛下の仁を傷つけることとなるのです。陛下が、人々を苦しめることを理由にこれらを廃止するよう制を降ろせば、天下の人々は陛下が自分を苦しめてでも人を愛するようなお方であることを知るでしょう。」
 従わなかった。
 藏用は、承慶の弟の孫である。 

 壬子、天官侍郎韋嗣立を鳳閣侍郎、同平章事とした。
 二月壬申、正諫大夫、同平章事朱敬則が老齢と病気で辞職した。
 敬則は宰相の時、人材登庸を第一とし、それ以外の細かいことは何もしなかった。 

 太后が、かつて宰相達と話しているうちに、刺史、県令へ議論が及んだ。
 三月己丑、李喬、唐休景等が上奏した。
「最近の朝廷の議論を見ますに、官吏達の人情として、内官を重んじ、地方官を軽視しており、牧伯(刺史や県令)を授与される度に再三辞退する有様です。ですから最近では、地方官へ回されるのは、降格人事ばかり。風俗が悪化したのも、これが原因です。どうか、台、閣、寺、監の賢良の人間を選んで大州へ赴任させてください。まずは、近侍から率先して派遣するよう、お願い申し上げます。」
 そこで太后は、適任者を捜すよう命じ、韋嗣立や御史大夫楊再思等二十人を得た。癸巳、各人を本官の官職のままで検校刺史とする。嗣立はベン州刺史となった。
 これ以後、政事の実績が上がったのは、ただ常州刺史薛謙光と徐州刺史司馬鍠のみだった。 

 三月丁丑、平恩王重福を焦(「言/焦」)王とする。
 夏官侍郎宗楚客を同平章事とする。
 四月壬戌。同鳳閣鸞台三品韋安石が知納言となり、李喬が知内史事となった。
 鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品姚元祟が母親が老いたので、辞職して故郷へ帰ることを固く願った。六月辛酉、元祟を、秩位は三品のままで、行相王府長史とした。
 乙丑、天官侍郎崔玄韋(「日/韋」)を同平章事とした。
 丁丑、李喬を現職のまま鳳閣鸞第三品とした。喬は自ら内史の解任を請うた。
 壬午、相王府長史姚元祟へ知夏官侍郎、同鳳閣鸞台三品を兼務させる。
 七月丙戌、神都副留守楊再思を内史とする。
 再思は宰相になると、媚びへつらいに専念した。張易之の兄の司禮少卿張同休が、かつて公卿を集めて宴会を開いた。酒がたけなわの時、再思へ戯れて言った。
「楊内史の顔は、高麗人のようだ。」
 再思は大喜びで紙を切って頭巾へ張り付け、紫袍を翻して高麗の舞踊を踊ったので、一座は爆笑した。
 当時のある人が、張昌宗の美しさを褒めて、「六郎の顔は蓮の花のようだ」と言ったところ、再思一人、言った。
「そんなことはない。」
 昌宗が理由を尋ねると、再思は言った。
「蓮の花が、六郎に似ているだけです。」
 丙午、夏官侍郎・同平章事宗楚客が罪を犯し、原州都督へ左遷され、霊武道行軍大総管となった。
(訳者曰く。罪人が左遷されて行軍大総管となった。多分、誤訳ではないと思います。まともな感性とは、とても思えないのですが。) 

 八月、姚元祟が上言した。
「臣が相王に仕えていますが、軍事は不得手です(夏官は、兵部)。臣は、死ぬのが恐いのではありません。王の為にならないと恐れるのです。」
 辛酉、春官尚書に改められる。その他の官職は旧来通り。
 元祟の字は元之。この頃、突厥の叱列元祟が造反したので、太后は、元祟を字で呼ぶよう命じた。
 九月壬子、姚元之を霊武道行軍大総管とする。辛酉、元之を霊武道安撫大使とする。
 元之の出発間際、太后は宰相となれる者を外司から選ぶよう命じた。すると、元之は言った。
「張柬之は沈厚で謀略に富み、決断力があります。ただ、もう老齢ですから、急いで登用してください。」
 十月甲戌、秋官侍郎張柬之を同平章事とした。御年八十。
 乙亥、韋嗣立を旧職保持のまま検校魏州刺史とした。
 壬午、懐州長史の河南の房融を同平章事とした。
 太后が宰相達へ、員外郎を推薦するよう命じた。韋嗣立が廣武公岑義を推薦し、言った。
「ただ、彼の伯父の長倩は誅殺された人間です。」
 太后は言った。
「才能があれば、そんなことはどうでもよろしい!」
 遂に天官員外郎とした。これ以後、諸々の縁座に触れた者へ、登用の道が開けた。
 十一月丁亥、天官侍郎韋承慶を鳳閣侍郎、同平章事とした。丙辰、韋嗣立が、鳳閣侍郎・同平章事を罷免されて成均祭酒となった。検校魏州刺史は従来通り。兄の承慶が宰相となったからである。
 癸卯、成均祭酒、同鳳閣鸞台三品李喬を罷免して、地官尚書とした。
 十二月、甲寅、大足以降に新設した官を全てなくすよう敕がおりた。 

 神龍元年(705)正月壬午朔、天下へ特赦を下して改元する。文明以後の有罪者で、揚、豫、博三州及び諸叛逆の首魁以外は、全て恩赦の対象となる。
 癸卯、張易之と昌宗が誅殺された。詳細は、「張易之」へ記載する。
 乙巳、太后が、位を太子へ伝えた。
 丙午、中宗が即位する。
 丁未、太后は上陽宮へ引っ越し、李湛は宿衞として留まった。
 戊申、帝が百官を率いて上陽宮を詣で、太后へ則天太聖皇帝の尊号を献上する。 

 十一月壬寅、則天武后が上陽宮にて崩御した。享年八十二。遺制に言う、
「帝号を去り、則天大聖皇后と称せよ。王、蕭二族及びチョ遂良、韓爰(「王/爰」)、柳爽の親族は、全て赦免せよ。」
 上は諒陰に居り、魏元忠に三日間塚守をさせた。
 元忠は、もともと忠直として人望があり、中外から頼みにされていた。武三思はこれを憚り、太后の遺制を矯めて、元忠を慰諭し百戸の実封を賜下した。元忠は制を捧げて泣きじゃくる。それを見る者は言った。
「事は終わった。」
 太后を乾陵と合葬しようとした時、給事中厳善思が上疏した。その大意は、
「乾陵の玄宮は石で門を造り、鉄で固く閉ざしています。今、その門を開くには、壊さなければなりません。幽玄を尊ぶのが神明の道なのに、大勢の人間が動き回るのでは魂魄を驚かせ汚してしまうのではないかと恐れます。ましてや合葬は古来からのしきたりではなく、漢代の皇后の多くは合葬されておりません。魏、晋以降になって、始めて起こった風習です。乾陵のそばに吉相の土地を別に選び、陵としましょう。もしも神道に心があるならば、合葬しなくても幽道は自然と通じ会えます。もしも心がないのなら、合葬しても何の意味がありましょうか!」
 従わなかった。 

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