てい、仇池に據る。

 始め、ていの楊駒は、仇池山に住んでいた。仇池は、方百頃(三頃20アール)、傍らの平地は二十余里。四面を断崖で囲まれ、険しい道が続いていた。
 その孫の千萬は魏に従属し、百頃王に封じられた。
 千萬の孫が飛龍。彼の代に、部族は勢力を増大し、略陽へ移住した。
 楊飛龍は、甥の令狐茂捜を養子にした。

 恵帝の元康六年(296年)。斉萬年の乱のとばっちりを避けるため、楊茂捜は略陽から仇池へ戻った。率いた部落は四千世帯。彼は、輔国将軍、右賢王と自称した。彼のもとへ、関中の民が大勢避難してきた。楊茂捜は、彼等を丁寧に迎え入れ、又、出て行く人々には護衛をつけてやった。

 さて、楊難敵は楊茂捜の長男である。ある時、楊難敵は、子供を密売する為、自分の養子を梁州へ派遣した。梁州刺史の張光はこれを知り、使者を鞭で打ち殺した。難敵は怨んで言った。
「あの大乱の後、俺達は大勢の民を助けたのだぞ。ちっとばかりの罪なんぞ、見逃すのが当然ではないか!」
 そして愍帝の建興元年(313年)。張光と楊虎が戦ったが、両者共に楊茂捜へ救援を求めた。楊茂捜は、楊難敵を張光のもとへ派遣した。楊難敵は、張光へ代償を求めたが、張光は与えない。すると、楊虎が十分な賄賂を贈って言った。
「流民達の財産は、全て張光が奪い取っております。我々を討つより、張光を討った方がずっと良いですよ。」
 難敵は大いに喜んだ。
 そうとは知らずに張光は、楊虎との戦闘で、張孟萇を先鋒とし、楊難敵を後続とした。難敵は楊虎と共に張孟萇を挟撃し、大いにこれを敗った。張孟萇と、その弟の張援は、この戦いで戦死した。孤立した張光は、籠城した。
 九月。張光は激憤の余り病気になったので、僚族達は魏興まで退却するよう勧めた。すると、張光は剣を握って言い返した。
「吾は国の重任を受けた身の上だ。それが賊徒を打ち払うことができない。死ぬのなら天国へ行ってやる。しかし、退却なんぞ、絶対にせんぞ!」
 絶叫した途端、ポックリと逝ってしまった。
 梁州の人々は、息子の張邁に、州の政治を委ねた。
 その張邁は、ていと戦って戦死した。すると人々は、今度は始平太守の胡子序を立てて州を任せた。
 十月。楊虎と楊難敵は、梁州を急襲した。胡子序は城を棄てて逃げ、難敵は梁州刺史を自称した。
 二年、正月。楊虎が漢中で略奪を働くので、役人も庶民も成へ逃げ込んだ。
 さて、梁州では張感とゆう男が、起兵して楊難敵を追い出した。張感は、梁州ごと成へ帰順した。こうして、漢嘉・倍陵・漢中は成の領土になってしまった。

 元帝の建武元年(317年)。てい王の楊茂捜が死んだ。長男の楊難敵が継承し、末の弟の楊堅頭と、領土を二分して統治した。難敵は左賢王と号して下弁に住み、堅頭は右賢王と号して河池に住んだ。

 永昌元年(322年)、二月。劉曜は親征して楊難敵を攻撃した。楊難敵は迎撃したが破れ、退却して仇池に籠もった。仇池の諸てい・きょう及び司馬保の宿将楊謄や隴西太守梁員は、劉曜へ降伏した。劉曜は隴西の一万余世帯を長安へ移住させ、更に仇池を攻撃した。
 ところが、対峙している最中、軍中へ疫病が流行った。劉曜も又被病したので、退却を決意する。しかし、退却中追撃されたらたまらない。そこで、光國郎将王廣を派遣し、楊難敵に禍福を説き、帰順を勧めた。楊難敵が趙の藩塀となることを承諾したので、劉曜は、”仮黄鉞、都督益・寧・南秦・涼・梁・巴六州・隴上、西域諸軍事、上大将軍、益・寧・南秦三州牧、武都王”の称号を与えた。

 明帝の大寧元年(323年)。前趙が陳安を滅ぼした。(詳細は「前趙、秦・隴を平定する。」に記載)
 これを聞いて楊難敵は大いに懼れ、弟の楊堅頭と共に、南方の漢中へ逃げた。前趙の鎮西将軍劉厚はこれを追撃し、大勢の捕虜を捕らえて帰った。劉曜は大鴻臚の田松を鎮南大将軍、益州刺史に任命し、仇池を鎮守させた。
 楊難敵は、成へ使者を送って降伏を請うた。成の安北将軍李稚は、難敵から賄賂を貰ったので、彼を成都へは送らなかった。そして、前趙の軍が引き上げると、楊難敵は要害に據って成へ背いた。
 まんまと難敵の策略にはまった李稚は悔しがり、これの討伐を成王の李雄へ請うた。李雄は、李稚の兄で侍中・中領軍の李含と李稚を白水へ派遣し、征東将軍の李壽と李含の弟の李午を陰平へ派遣し、楊難敵を攻撃させた。群臣は諫めたが、聞かなかった。
 楊難敵は兵を派遣してこれを拒んだ。李壽と李午は進軍できない。そして、李含と李稚は、長躯下弁まで至った。難敵は、兵を派遣して、李含・李稚軍の退路を絶ち、四面から攻撃した。深入りしすぎて後続もなかった成軍はさんざんに敗れ、李含と李稚は陣没。戦死した兵卒は数千人にも及んだ。
 李含は李蕩の長男で、才能も人望もあった。李雄は、いずれ李含を世継ぎにするつもりだったので、その戦死を聞いて、数日、食事も喉を通らなかった。

 三年、三月。楊難敵は仇池を襲撃し、勝った。田松を捕らえる。難敵は彼を大臣の前に連れ出し礼拝させようとしたが、田松は目を剥いて怒鳴った。
「この狗畜生!天子の牧伯が賊徒に拝礼などするか!」
 難敵は言った。
「子岱(田松の字)、俺は君と共に大業を定めたいのだ。君は劉氏へ忠誠を尽くしている。それならば、俺へ対しても忠誠を尽くせる筈だ。」
 田松は益々声を張り上げた。
「この賊徒!お前の奴才で何が大業だ!俺は趙の鬼となっても、お前の臣下にはならん!」
 叫ぶや否や近くの兵卒から剣を奪い難敵へ斬りかかったが、避けられた。難敵は、これを殺した。

 成帝の感和二年(327年)。前趙の武衛将軍劉朗が三万騎を率いて仇池の楊難敵を襲撃した。結局勝てなかったので、三千余家を略奪して帰った。

 六年、成の大将軍李壽が陰平、武都を攻撃した。楊難敵は降伏した。

 九年、正月。仇池王楊難敵が卒した。息子の楊毅が立つ。龍驤将軍、左賢王、下弁公と自称する。叔父の楊堅頭の子息の楊盤を冠軍将軍、右賢王、河池公とし、東晋へ使者を派遣して「藩」と称した。

 感康三年(337年)。一族の楊初が楊毅を襲撃して殺し、部下を簒奪した。自ら立って仇池公と称し、後趙へ臣従した。
 穆帝の永和三年(347年)、十月。楊初は東晋へ使者を派遣し、「藩」と称した。東晋は、楊初を「使持節、征南将軍、よう州刺史、仇池公」の官爵を贈った。

 十一年。楊毅の弟の宋奴が、姑の子の梁武王に、楊初を刺殺させた。楊初の子の楊國は宋奴と梁武王を殺し、仇池公を自称した。桓温は、楊國を鎮北将軍、秦州刺史に任命させた。
 十二年。一族の楊俊が楊國を殺して自立した。東晋は、楊俊を仇池公と為す。楊國の息子の楊安は、秦へ亡命した。
 升平四年(360年)。楊俊、卒す。息子の楊世が立つ。
 海西公の太和三年(368年)。仇池公楊世を秦州刺史と為し、楊世の弟の楊統を武都太守と為す。楊世は、東晋に臣従していたが、同様に秦にも臣従していた。秦では、楊世を南秦州刺史に任命した。
 五年。楊世、卒す。子息の楊簒が立った。彼の代になって、秦と国交を断絶した。叔父の楊統がこれと継承権を争い、互いに兵を挙げて戦った。

 簡文帝の感安元年(371年)、三月。秦の西県候雅、楊安、王統、徐成及び羽林左監朱膨、揚武将軍姚萇が、歩兵騎兵合計七万の軍勢で仇池公楊簒を攻撃した。
 四月、秦軍は鷲峡へ進撃。楊簒は五万の兵で拒戦する。東晋の梁州刺史楊亮は督護の敦宝とト靖に千余騎を与えて楊簒の援護に派遣した。両軍は峡中で戦い、楊簒は大敗した。兵卒の三・四割が戦死し、敦宝、ト靖も陣没。楊簒は敗残兵を纏めて逃げ帰った。
 西県候雅は仇池まで進攻し、楊統は武都の衆ごと降伏した。
 楊簒は懼れ、自らを縛って降伏。雅は楊簒を長安へ送った。
 秦は、楊統を南秦州刺史に任命した。又、楊安には南秦州諸軍事が加えられ、仇池を鎮守させた。

 武帝の寧康元年、八月。東晋の梁州刺史楊亮が、息子の楊廣に仇池を襲撃させた。楊廣は楊安と戦って敗れた。沮水の諸砦は皆壊滅したので楊亮は懼れ、磐険まで退いた。
 九月、楊安は漢川へ進攻した。

 冬、秦王の苻堅は、王統と朱膨に二万の兵を与えて漢川から出撃させ、毛當、徐成に三万の兵を与えて剣門から出撃させて、梁・益へ入寇した。
 楊亮は万余の兵力で迎撃した。楊亮は青谷にて敗北し、西城へ逃げた。
 朱膨は、遂に漢中を抜いた。徐成は剣閣を攻め、これに勝つ。
 楊安は梓潼へ進攻した。梓潼太守の周虎は倍城を固守する。ただ、母親や妻を巻き添えにはしたくなかったので、歩騎数千の護衛で、彼女達を江陵へ送らせた。だが、この軍が朱膨に襲われて、二人とも捕虜になってしまった。とうとう、周虎は降伏した。
 十一月、楊安は梓潼を占領した。
 東晋の荊州刺史桓豁は、江夏相の竺瑶を救援に派遣した。しかし、その竺瑶は、廣漢太守の趙長が戦死したと聞いて、引き返した。
 益州刺史の周仲孫は、綿竹にて朱膨を防戦していたが、毛當が成都へ入城したと聞き、五千騎を率いて南中へ逃げた。
 こうして、秦は遂に梁・益の二州を占領した。すると、夜郎等の近隣の小国が、皆、秦に帰順した。
 苻堅は、楊安を益州牧に任命し、成都を鎮守させた。また、毛當を梁州刺史に任命し、漢中を鎮守させた。姚萇を寧州刺史に任命した。そして王統を南秦州に任命し、仇池を鎮守させた。

(訳者曰)

 楊難敵没後の「てい」は、内紛の連続だった。その上、大国秦への朝貢を止める。これでは滅びない筈がない。
 以前、権力争いに敗れた一族の楊安が秦へ逃げ込んでいたのは、彼等にとって幸いだった。そうでなければ、血統が絶えてしまっていただろう。