鄭伯、桓王へ入朝する。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の隠公の六年、鄭の荘公が、周へ行き、始めて桓王へ謁見した。この時、桓王が礼を怠ったので、周の桓公が、王を諫めた。
「わが周が、平王の御代に遷都した時、最も頼りとしていたのは、晋と鄭でした。ですから、鄭へは特別に礼を厚くしても、その心が離れるのではないかと懼れなければなりません。ましてや、今回のように礼を怠ってしまっては、鄭は、もう二度と来朝しなくなるかも知れませんぞ。」 

 八年、鄭は泰山を祀るのをやめ、変わりに周公を祀りたいからと、魯の隠公へ使者を出し、自領のホウと魯領の許を交換するよう申し込んだ。(ホウは、泰山を祀る為に、鄭の領土として認められていた土地。これは飛び地だった為、経営が煩雑だった。そこで、隣接する領土と交換させてくれと申し込んだのである。) 

 同年、周の桓王は、カク公を卿士とした。(この件について、過去の経緯は「周、鄭、交々悪し 」へ記載。)
 九年、鄭伯は、王命を受けて宋を討伐した。 

 十一年、桓王は鄭から四ヶ所の領土を取り上げ、代わりに、蘇忿生の領土十二ヶ所を与えた。蘇忿生は、周の臣下だったが、桓王へ対して造反していた。 

 魯の桓公の元年、魯と鄭とで、領土交換が成立した。 

 五年、桓王は、鄭の執権職を罷免した。以来、鄭の荘公は、入朝しなくなった。そこで桓王はカク・蔡・陳・衛を率いて鄭を攻撃したが、荘公は迎撃し、周王の軍は大敗した。
 この戦いで、鄭の臣下の祝タンの射た矢が桓王の肩へ当たった。
 祝タンが追撃を請願すると、荘公は言った。
「いや、普通の人間が相手でも、みだりに凌いではケガをする。ましてや、相手は天子だ。我が国が助かれば、それで充分。」
 その夜、荘公は桓王のもとへ使者を派遣して、容態を見舞った。 

  

(東莱博議) 

 君子が事件を論じる時は、必ず事件を使いこなす。事件に振り回される事など、絶対にない。
 論文を書くべき価値のある事件は、古今に数え切れないほど多い。だが、その論文は、困難なものを見て困難と言い、容易なものを見て容易だと言うようなものばかりだ。甚だしきは、自説を曲げてまで、事件に即して評価を変える。これこそ、「事件に振り回されている」とゆうものではないか。
 論を立てるときに大切な事は、未明の理を発現させることである。既に明白になっていることを、いたずらに表現することではない。明白になっていることを表現することなど、「火は熱い」「水は冷たい」「塩は塩辛い」「梅は酸っぱい」と言うようなものではないか。そんなことは、天下の万民が知っている。なにも、私がワザワザ説を立てる必要はない。
 君子が論文を書くのは、自分を信じて人を信じないからである。自分の心を信じて、自分の目を信じないからである。だからこそ、事件に振り回されず、逆に事件を使いこなせるのである。
 君子が、ここの事件を見れば、あそこの理を得る。前の事件を見て後の理を知る。人々は、ただ目に見た事件の理だけにしか気がつかないが、君子は事件の外にある理を知るのである。
 試みに、二・三、実例を挙げてみよう。 

 春秋時代初期、鄭は周へ対して叛服常無かった。これへ対する評価も定まってはいない。だが、それらの評論は、全て事件に従って下されたものであり、事外の理にまで言及したものは少ない。 

 鄭の荘公が周へ入朝した時、周の桓王は、彼を礼遇しなかった。人々は、この件に関して、「鄭伯へ対して無礼だったのは、桓王の過失だ。」と評価するに過ぎないが、これは左氏が既に述べたことである。
 君子がこの事件を見たら、別の事にまで気がつく。
 この時既に、周王の権威は失墜していた。だから、傲慢はもちろん禍を招くが、腰を低くしても侮られてしまうに違いない。
 その証拠を挙げよう。
 後世、夷王は堂を降りて諸侯と会見した。これは腰が低いと言えるが、周の国威は益々衰えてしまった。襄王は晋の文公の招きに応じて晋まで御幸した。これは腰が低いと言えるが、晋の文公をますます驕慢にさせただけだったではないか。
 だから、桓王の過失は、鄭伯へ対して礼を失した事だけではない。むしろ、綱紀を乱して国威を失墜させてしまっていた事にこそあったのだ。
 これは、事外の理であり、左氏が、まだ言わなかったことである。 

 周と鄭が小競り合いを繰り返した。これに関して人々は、「周王が、カク公を執権にしたのが原因だ」と評価するに過ぎないが、これは左氏が既に述べたことである。
 君子がこの事件を見たら、別の事にまで気がつく。
 王が諸侯へ対する時、畏れた態度を表へ出したら相手は驕慢になり、そんな態度をおくびにも出さなければ相手は服従する。
 その証拠を挙げよう。
 平王がカク公を登庸しようとした時、鄭の荘公は王室を凌犯し、周の畑を蹂躙して憚るものがなかった。だが、桓王は、カク公を登庸しようと思ったら、すぐに執権として、何の猶予もなかった。それを見れば、鄭伯は、桓王が自分を畏れていないことが判っただろう。だから、桓王がカク公を執権とした後も王命を奉承し、王の命令のままに従軍もした。
 これを以て、歴然とする。周と鄭が小競り合いを繰り返した原因は、カク公が執権になった事ではなく、周が鄭を畏れたことにあったのだ。
 これは、事外の理であり、左氏が、まだ言わなかったことである。 

 桓王が、鄭伯へ蘇忿生の田を与えた。これによって、鄭は周への服従心をなくしてしまった。これに関して人々は、「周王は、鄭伯へ田を与えるとの名目は立てたが、実質的には何も与えてはいない。だから、鄭から愛想を尽かされたのだ。」と評価するに過ぎないが、これは左氏が既に述べたことである。
 君子がこの事件を見たら、別の事にまで気がつく。
 蘇忿生は、既に周へ対して造反した。だから、その田は、既に周の所有地ではない。そう考えると、鄭へ対して、「領土を与える」とゆう虚名だけを与えたのだから、怨みを買うのも当然かも知れない。だが、もっと深く考えてみよう。
 蘇忿生は王室の卿士である。だから、彼の領土も又、王室の領土である。だから、周が鄭へ対して領地を与えたとゆうのは間違いない。しかし、もっと大切なことがある。
 蘇忿生が周へ対して造反し、その領土へ盗據した。それなのに、周はこれを討伐することができず、他人の力を借りて始末したのである。これでどうして軽んじられずに済むだろうか。
 これを以て、歴然とする。鄭が周へ服従心をなくしてしまったのは、周を怨んだからではなく、周を軽んじたからなのだ。
 これは、事外の理であり、左氏が、まだ言わなかったことである。 

 桓王が鄭伯の執権職を奪い、諸侯を率いて鄭を攻撃したが、却って敗北してしまった。これに関して人々は、「鄭伯から執権職を奪ってはならなかった」と評価するに過ぎないが、これは左氏が既に述べたことである。
 君子がこの事件を見たら、別の評価を下す。
 鄭伯から執権職を奪うのは、間違ったことではない。ただ、桓王は、その理由を明確にできなかったのだ。鄭伯が、泰山の祀をやめた時点で、それを理由にして執権職を奪ったなら、名分が立ったではないか。あるいは、鄭伯が許と勝手に領土を交換した時点で、それを理由にして討伐したなら、名分が立ち、義にも適った。そうなれば、鄭は滅亡寸前にまで追い込まれただろう。しかしながら、桓王はこれらの時に討伐せず、数年経った後、理由もなしに執権職を奪い討伐した。鄭が服従しないのも当然である。
 つまり、桓王が敗北したのは、鄭伯の執権職を奪い、諸侯を率いて鄭を攻撃したからではない。これらの行動を起こす時を誤ったのだ。
 これは、事外の理であり、左氏が、まだ言わなかったことである。 

 鄭は王軍を破った後、兵を納めて戦争をやめた。これに関して人々は、「鄭伯は、自分の国を守っただけだ。」と評価するに過ぎないが、これは左氏が既に述べたことである。
 しかし、君子は別の評価を下す。
 鄭伯は、まだ勝敗が決する前は、その部下に王を射撃させた。なんと悖っている事か。それが、勝利した途端、王へねぎらいの使者を出した。なんとも恭順なことではないか。始めに悖っていたのは、一時の勝ちを得たいとの真情から出たことである。対して、後に恭順になったのは、天下の人々からの責めを回避する為に感情を矯めたのである。
 後世、杜預(晋代の文臣。学者として名高い。)でさえもそれを悟れず、荘公の言葉を信じ込んで、「彼は専守防衛に徹した」と評した。荘公は、当時の人々を騙しただけではない。彼の遺姦餘詐は千年後の杜預まで欺いた。なんと陰険なことか。
 盗賊が、盗賊であることに甘んじているならば、その心情は、まだ恕せる。だが、盗賊が君子のふりをしたならば、その心情は何をさておいても誅しなければならない。それを思うならば、荘公を論じる者は、「いやしくも禍を免れるならば」の言葉を信じてはならない。彼が、上辺を繕ってこの言葉を吐いたことを憎むべきなのだ。
 これは、事外の理であり、左氏が、まだ言わなかったことである。 

 事を論じるのは、事を述べるのと同様ではない。事を叙べる時には、事実を載せなければならないが、事を論じる時は、理を推さなければならない。
 春秋左氏伝とゆうのは、歴史書である。左氏は、その書物の中で事実のみを記載していた。それなのに、論じる者が、それに従って事実を述べて事外の理を推す事ができない。それでは、事を叙する人間と変わりないではないか。いわゆる、「事を論じる」とゆうものではない。ましてや、その事実は既に記載されているのだ。何でそれ以上に贅辞を叙する必要があろうか。それこそ、「屋内に屋を造る」とゆうものだ。
 彼等の論文を削ったところで、この事実へ対して損益するものがない。それならば、その論文は事実に振り回されているだけ。そんな論文がなくても、事実は既に明白なのだ。
 だからこそ、善く論じる者は事実が論に従い、善く論じない者は、論が事実に従う。善く論じる者は、事実を論文の補助となり、善く論じない者は、論文が事実の補助となる。論が事実の補助となってしまったら、これは、論がかえって事実の弊害となってしまう。どうしてそんな事の為に筆を執る必要があろうか。 

(訳者、曰く) 

「近く思うとは何ぞ?」
「類を以て推し量ることなり。」(近思録)
 だからこそ、君子は一を聞いて十を知る。
 呂東莱の論は、深い。それは、幾つもの似ている事例を比較研鑽することによって、隠された真理を探り出しているのだ。
 例えば、桓王が、荘公へ対して傲慢だった。そして、鄭との確執から、周の国威は凋落した。こうして並べると、傲慢が悪いように見える。しかし、腰を低くして却って国威が凋落した事例が在れば、ここで失敗した原因は、傲慢だったことではなく、他のどこかにあったのではないか、と推測される。
 過去の事例から、教訓を得ることは大切だ。しかし、一つの事件を見るだけでは、そこから得られる教訓は仮説に過ぎない。それと似ている他の事例と比較して、始めて真理が掴めるのだ。そして、そうやってこそ、応用することもできる。そのコツさえ掴めば、一つの事件から多くの真理を見い出すことができるだろう。 

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