タラスの合戦
 
   将軍の高仙芝は、もともと高麗人であり、安西に従軍していた。仙芝は驍勇で、騎射が巧く、節度使の夫蒙霊サツは屡々推薦し、ついに安西副都護、都知兵馬使として四鎮節度副使へ充てた。
 吐蕃贊普が、娘を小勃律王へ娶せた。その勢力は周りの二十余国へ及び、皆、吐蕃へ帰順して唐へ貢献しなくなった。歴代の節度使はこれを討伐したが、皆、勝てなかった。
 天寶六載(747)行営節度使となって万騎を率いてこれを討つよう、仙芝へ制が降った。
 安西から百余日行軍し、特勒満川へ到着する。ここで軍を分けて、三道から進軍し、七月十三日に吐蕃の連雲堡下にて合流するよう申し渡す。
 吐蕃は、一万近くの唐兵が突如出現したので大いに驚き、山に依って拒戦し、矢や石を雨のように降らせた。仙芝は、郎将の高陵の李嗣業を陌刀将として、命令した。
「日中になる前に、虜を撃破せよ。」
 嗣業は軍旗を一本手に取ると、陌刀を率いて険阻な山を率先して登り、力戦した。辰から巳へ至って、虜を大いに破る。五千級を斬首し、千余人を捕らえ、それ以外は全員潰走した。
 中使の辺令誠は、敵地深く入った事を懼れ、それ以上進もうとしなかった。そこで仙芝は、老弱の兵三千を令誠の護衛としてその城を守らせ、更に進軍した。
 三日、坦駒嶺へ到着した。険しい坂を四十余里下った前方には阿弩越城がある。仙芝は、士卒が険阻な地形を憚って進まないことを恐れた。そこで、部下に胡服を着せて阿弩越城からの降伏の使者に見せかけ、言わせた。
「阿弩越城は心底唐へ帰順したがっております。娑夷水の藤橋は、既に落としました。」
 小勃律王の居城の薛(「薛/子」)多城は、娑夷水に臨んでいる。娑夷水は、すなわち弱水である。その水は比重が軽く、草芥でさえ浮かばない。藤橋は、吐蕃へ通じる道である。(訳者、曰く。「弱水」は、伝奇小説などで読んだことがある。実在するとは思えないのだが。)
 仙芝が、その芝居に合わせて喜んで見せたので、士卒達は進軍した。三日して、果たして阿弩越城から降伏の使者がやってきた。
 翌日、仙芝は阿弩越城へ入り、将軍席元慶へ千騎を与えて先行させ、言った。
「大軍が来たと聞けば、小勃律の君臣百姓は必ず山谷へ逃げ込む。そしたら彼等を呼び出して、帛を与え、敕による賜だと言うのだ。それを聞いて、小勃律国の大臣達がやってきたら、全員縛り上げて我の到着を待て。」
 元慶は、その言葉通りにして大臣達を全員捕縛したが、王と吐蕃公主は石窟へ逃げ込み、捕らえられなかった。仙芝が到着すると、吐蕃に随身していた大臣数人を斬った。
 藤橋は城から六十里の所に架かっている。仙芝は急いで元慶を派遣して、橋を壊させた。僅かに遅れて吐蕃軍がやって来たが、もう、渡ることはできなかった。
 藤橋は、矢がやっと届くくらいの広さ。吐蕃軍が退却した後、全力で修復したら、一年で完成した。
 八月、仙芝は小没律王及び吐蕃公主を捕らえて帰国した。
 九月、連雲堡へ到着し、辺令誠と合流した。月末、播密川へ到着した。京師へ戦勝の使者を派遣する。
 河西へ到着すると、夫蒙霊サツは、仙芝が自分へ報告もせずに勝手に戦勝の報告をしたことに腹を立て、ねぎらいの言葉も掛けずに罵った。
「犬の糞を喰らった高麗奴が!お前の才覚を見抜いて抜擢したのは誰だ?それなのに、我の処分も待たずに勝手に戦勝を報告したのか!高麗奴!お前の専横は斬罪に値する!だが、手柄を建てたばかりだから、そこまでは勘弁してやっているのだ!」
 仙芝は、ただ謝罪するだけだった。
 辺令誠は、”仙芝が万里深く進軍して奇功を建てながら、今にも憂死しそうだ”と上奏した。
 十二月己巳。上は、仙芝を安西四鎮節度使として、霊サツを朝廷へ呼び返した。霊サツは大いに懼れる。仙芝は、霊サツを見ると以前同様小走りに動いたが、霊サツはますます懼れた。
 副都護の京兆の程千里、押牙の畢思深(本当は王偏)そして行官王滔等は、皆、平日霊サツへ仙芝のことを讒言していた連中である。仙芝は、千里と思深へ面と向かって言った。
「公は、見てくれは男子だが、心は女のようだ。そうだな?」
 また、滔等をひっつかみ、これを笞打とうとしたが、赦してやってから言った。
「我は、もともと汝等を恨んでいた。それを黙っていたら、却ってお前達は憂えるだろう。今、すっかり口にした。もう、これ以上心配するな。」
 軍中は安堵した。 

 猗氏の人封常清は、幼い頃孤児になり、貧しく、痩せていて片足が短かった。仙芝が都知兵馬使だった時、彼の部下になりたがったが、拒絶された。すると常清は仙芝のもとへ日参しておよそ数十日もその門から離れなかった。仙芝はやむを得ずこれを留めた。
 達奚部が造反した時、夫蒙霊サツは仙芝へ攻撃させ、ほぼ平定した。常清が私的に戦勝報告書を書いて仙芝へ見せると、仙芝が言いたいことにピッタリ符合していた。この一件で、仙芝の府の人間は彼を有能だと認めた。
 仙芝が節度使となると、常清を判官(副使の次の位)とし、仙芝が出征する時には、いつも彼を留後とした。
 仙芝は、自分の乳母子の鄭徳詮を郎将とした。仙芝は、彼と兄弟のように接していた。家事を任せており、その威光は軍中に行き渡っていた。
 常清が留後の時、彼が外出していると、徳詮が後ろから馬でやって来て、彼を突き飛ばして去っていった。常清は使院(留後が政務を執る場所)へ到着すると、徳詮を呼び出した。途中で徳詮が門を過ぎる度に、その門を閉じさせる。彼が到着すると、常清は席を離れて言った。
「常清は、郎将も知るように、もともと下賤の出身だ。しかし、今は中丞の命令で留後となっている。それなのに、郎将はどうして人前で突き飛ばしたりできるのか!」
 よって、叱りつけた。
「軍政を糺すため、郎将は足斬りの死罪とする。」
 ついに、杖で六十打ち据えた上、地面に倒して曳き出した。
 仙芝の妻と乳母は門外で号哭して救おうとしたけれどもできなかったので、仙芝に訴えた。仙芝はこれを見て、驚いて言った。
「もう死んでしまったのか?」
 しかし、常清と会った時、この件について仙芝は何も言わなかったし、常清も謝らなかった。軍中は、これを畏れて、息をひそめるようになった。 

 八載十一月乙未、吐火羅葉護失里怛迦羅が使者を派遣して表にて称した。
「カツ師王は吐蕃と非常に仲良くなり、小勃律鎮軍を苦しめる為、その糧道を絶とうとしています。凶徒を破る為に、西安の兵の動員をお願いします。正月に小勃律国へ到着すれば、六月には大勃律国へ到着しましょう。」
 上は、これを許す。
 安西節度使高仙芝が、カツ師を破り、その王の勃特没を捕らえた。
 九載三月庚子、勃特没の兄の素迦をカツ師王に立てた。 

 使高仙芝は、偽って石国と和睦を結び、兵を率いてこれを攻撃した。その王及び部衆を捕らえて帰国し、老弱は皆殺しとする。
 仙芝は貪欲な性格で、多くの宝を掠奪した。碧珠十余斛、黄金五六駱駝(「ラクダに背負わせる量」の意味か?)、その他雑貨類など、全て私財にしてしまった。
  十載正月、安西節度使高仙芝が入朝した。捕らえた突騎施可汗、吐蕃酋長、石国王、カツ師王を献上する。仙芝へ、開府儀同三司が加えられた。ついで、仙芝を河西節度使として、安思順と代える。だが、思順は、大勢の胡人が自ら耳を裂き顔を削って自分の留任を願っていると風諭して、留任を請うた。制が降りて、思順を再び河西に留める。
 高仙芝が石国王を捕虜にすると、石国王子は逃げ出して諸胡を回り、仙芝の貪欲暴虐な有様をつぶさに語って仲間を誘った。諸胡は皆怒り、ひそかに大食(サラセン帝国)を誘い入れて四鎮を共に攻撃しようと欲した。
 仙芝はこれを聞くと、蕃、漢の兵卒三万人を率いて大食を攻撃した。七百余里深入りして、タラス城へ到着し、大食軍と遭遇した。
 両軍は、対峙すること五日。葛羅禄部の兵卒が造反し、大食と共に唐軍を挟撃した。
 仙芝は大敗して士卒の大半は戦死した。生き延びたのは、僅かに数千人。
 右威衞将軍李嗣業は夜にまぎれて逃げるよう仙芝へ勧めた。抜汗那の衆が前にいて、人畜が行く手を塞ぐ。嗣業は先駆けして大きな棍棒を振り回してこれを撃った。人も馬もなぎ倒され、仙芝は退出できた。
 将士はバラバラになってしまっていたが、別将のカイ陽の段秀実は嗣業の声を聞くと罵った。
「敵を避けて真っ先に逃げ出すのは、勇がない。自分の身体だけ守って衆を捨てるのは不仁だ。幸いに逃げ延びても、心に恥じることはないのか!」
 嗣業は彼の手を取って感謝し、留まって追っ手を拒んだ。そして敗残兵をかき集めて、共に逃げ延びることができた。
 安西へ帰ると、この事を仙芝へ報告し、秀実を都知兵馬使として、自分の判官とした。 

 十一載十二月丁酉、安西行軍司馬封常清を安西四鎮節度使とする。
 十二載、安西節度使封常清が、大勃律を攻撃して菩薩労城まで進軍した。前鋒が屡々勝ったので、常清は勝ちに乗じて追撃した。
 斥候府果毅段秀実が諫めて言った。
「兵が弱くて屡々逃げるのは、我等を誘っているのです。左右の山林を捜してください。」
 常清はこれに従う。果たして伏兵を捕らえ、遂に大いに破った。
 降伏を受けて、帰る。

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