拓跋、魏を興す。

 

 魏の元帝の景元二年(261年)。鮮卑の拓跋力微が、始めて中国へ朝貢した。使者は息子の沙漠汗。彼はそのまま人質として都に留まった。
 拓跋力微の先祖は、北の荒れ地に住み、中華とは親交がなかった。可汗毛に至って、三十六国を統治し、始めて強大になった。五世後の可汗推寅が、南の大澤へ遷都した。
 その後、七世して、可汗隣が立った。彼は自分と七人の兄弟と、乙旋氏、昆氏とで、部族を十に分割統治した。
 隣は、年老いてから、息子の詰汾へ位を譲り、匈奴の故地へ移り住ませた。
 詰汾が死んで、力微が立った。
 力微は定襄へ遷都した。その部族は強盛を誇り、近隣の部族はこれに畏服した。
 晋の武帝の泰始三年(267年)。拓跋沙漠汗を国へ帰した。

 咸寧元年(275年)、六月。力微は、沙漠汗を再び入貢させた。
 沙漠汗が帰国しようとした時、幽州刺史の衛灌(正しくは、王偏)が、彼を留めるよう上表した。又、衛灌は、部族の大人達へ密かに賄賂を贈り、部族間の離間を謀った。
 三年, 十二月。衛灌は沙漠汗を国へ帰した。
 沙漠汗が晋へ居る間に、力微は、他の息子達を寵愛しており、又、賄賂を貰った大人達が共に沙漠汗のことを讒したので、遂に力微は沙漠汗を殺した。
 やがて、力微が重い病気に罹った。
 この頃、烏桓王の庫賢が信任されていた。衛灌は、拓跋部を掻き乱そうと考え、庫賢へ賄賂を贈った。これを受け取った庫賢は、諸大人を集めて言った。
「お前達の讒言に乗って息子を殺してしまったことで、可汗はお前達を恨んで居るぞ。お前達の長男を捕らえ、皆殺しにするつもりだ。」
 諸大人は懼れ、皆、逃げ出した。力微は憂いの余り卒した。享年、百四才。四男の悉禄が立ったが、国は衰えきってしまった。
 幽・へいの二州は鮮卑族と隣接しており、それまでは、東の努桓と西の力微が辺患となっていた。だが、衛灌の離間工作が功を奏し、務桓は降伏し、力微は死んだのである。朝廷は衛灌の功績を賞し、彼の弟を亭侯に封じた。

 拓跋悉鹿(鹿は別の書では禄となっている)が死に、弟の卓が立った。卓が死んだ後、甥の沸が立った。沸が死ぬと、叔父の禄官が立った。

 恵帝の元康五年(295年)、冬。拓跋禄官は、国を三部に分けた。一つは上俗の北から濡源の西。これは自分で統治した。一つは代郡参合陂の北。これは沙漠汗の子の猗施に統治させた。最後の一つは定襄の故城。これは猗施の弟の猗廬に統治させた。
 猗廬は用兵が巧く、西方の匈奴や烏桓の諸族を討ち、これらを全て撃退した。
 代の住民の衛操が、義子の衛雄と同郡の箕澹を引き連れて、拓跋部へ移住してきた。そして、彼は猗施へ説いた。
「晋の人間を移住させましょう。猗廬が招聘すれば大丈夫です。」
 猗施は悦び、彼に国事を任せた。以来、晋から大勢の人間が移住した。
 七年、九月。拓跋猗施が漠北を巡回した。西方の諸国を五年間歴訪し、これによって、三十余国が帰順した。

 永興元年(304年)、七月。司馬騰が、拓跋猗施へ援軍を乞うた。劉淵を討つ為である。拓跋猗施は、猗廬と兵を合わせ、西河にて劉淵を撃破し、汾東にて司馬騰と盟約を交わして帰った。
 二年、六月。劉淵は司馬騰を攻撃した。司馬騰は、再び猗施へ援軍を乞うた。衛操が出兵を勧めたので、司馬騰は軽騎数千を率いて司馬騰を救い、漢の将軍簒母豚を斬った。
 これによって、詔が下り、拓跋猗施は大単于となった。衛操は右将軍となる。
 同月、猗施が卒し、代わって子息の普根が立った。
 懐帝の永嘉元年(307年)。拓跋禄官、卒す。拓跋猗廬が、彼に代わって三部を統治した。

 四年、十月。劉昆(「王/昆」)が自ら劉虎を攻撃し、そのまま白部まで攻撃した。(白部は、鮮卑族。当時、劉虎も、白部も劉淵に同心していた。)ここで、劉昆は拓跋猗廬のもとへ使者を派遣して、腰を低く礼を尽くして援兵を乞うた。猗廬は、甥の鬱律へ二万の兵を与えてこれを攻撃した。 そして遂に、白部と劉虎を撃破し、その部族を屠った。
 これによって、劉昆は猗廬と義兄弟の契りを結び、彼を大単于・代公として代郡へ封じるよう上表した。この時、代郡は幽州に所属していた。幽州を統治する王凌はこれを許さず、猗廬を攻撃したが、撃退された。これ以来、王凌は劉昆と敵対した。
 だが、この代郡は、拓跋猗廬の本拠地からかけ離れている。そこで、彼は万余世帯の部落を率いて、雲中から雁門へ移動し、劉昆へ従った。劉昆はこれを止めることができなかったし、又、拓跋猗廬の兵力を恃みとしたこともあり、楼煩・馬邑・陰館・繁時・淳の人間を徑(正しくはこざとへん。)南へ移住させ、この五県を猗廬へ与えた。
 以来、猗廬の勢力は、益々増大した。

 劉昆は、太傅の司馬越へ使者を派遣し、共に出兵して劉聡と石勒を討とうと持ちかけた。だが、司馬越は苟晞と豫州刺史の馮崇を忌み、後々の災いと考え、許さなかった。そこで、劉昆は征討を諦め、猗廬へ謝して、その兵を本国へ帰らせた。

 五年、劉昆が、息子の劉遵を猗廬の元へ派遣して、援軍を乞うた。猗廬は息子の六修を派遣し、劉昆を助けて新興を守った。
 六年、漢の革沖等が、晋陽の劉昆を攻撃した。猗廬は救援軍を出し、これを撃退する。
 すると、今度は劉燦等が攻撃し、遂に晋陽を抜いた。猗廬は自ら兵を率いて劉燦の軍を破り、劉昆は再び晋陽へ入城した。

 愍帝の建興元年(313年)、猗廬は、盛楽へ城を築き、ここを北都とし、故の平城を南都とした。又、平城も新しく作り直し、右賢王の拓跋六修に鎮守させ、南部を統治させた。
 三年、二月。拓跋猗廬は代王へ進爵した。官属を置くことが赦され、代・常山の二郡が食邑となった。
 猗廬は、へい州従事の莫含を麾下に召し抱えたかったので、劉昆のもとへ使者を派遣して乞うた。劉昆は承諾したが、本人の莫含は嫌がった。すると、劉昆は言った。
「へい州は弱く、逸材は少ない。それでも、我が領土が持ちこたえられているのは、代王の力なのだ。吾は身を低くし、息子を人質にしてまで彼に奉じているが、それは朝廷の恥を雪ごうと思ってのこと。お前が代王のもとへ行って、その腹心となれば、一州の頼みとなるのだぞ。卿がもしも忠臣ならば、何で小事にこだわって、殉国の大節を見失うのか!」
 説得されて、莫含はこれに応じた。代へ行くと、猗廬は彼を非常に重んじ、大計にも参与させた。
 猗廬は、非常に峻厳に法律を適用した。国人が法を犯せば、その部族を全員誅殺することもあった。
 ある時、老人や幼児の手を携えて歩いて行く一団があった。道行く人が、どこへ行くのか尋ねると、彼等は答えた。
「殺されに行くのです。」
 だが、彼等は、誰一人として逃亡しなかった。

 始め、代王猗廬は、末っ子の比延を寵愛し、世継ぎにしたがった。そこで、長男の六修を新平城へ出し、その母親を降格させたのである。かつて、六修は、一日に五百里を走るとゆう名馬を持っていたが、猗廬はこれを取り上げ、比延へ与えた。
 四年、六修が来朝した時、猗廬は、比延へ頭を下げるよう命じたが、六修は従わなかった。そこで、猗廬は、六修を遊びに行かせ、そこへ、比延を自分の車へ載せて通りがからせた。六修は、父王が来たと思い、道を避けて平伏したが、近くで見ると、車に乗っていたのは比延だった。六修は大いに憤慨し、サッサと南都へ去って行った。
 猗廬は彼を召還したが、上京しない。そこで猗廬は大いに怒り、兵を挙げてこれを討ったが、六修の軍に敗れてしまった。猗廬は粗末な身なりで逃げ出したが、一人の賤婦が彼を見知っており、遂に六修から殺された。
 この時、拓跋普根は国境近辺を守備していたが、変事を聞いて赴き、六修を破って、殺した。
 こうして、拓跋普根が代王となった。すると、国中が大いに乱れた。新旧(旧人は、索頭部の人間、新人は、晋や烏桓から帰順した人間)が猜疑し、互いに殺し合ったのだ。
 左将軍の衛雄、信義将軍箕澹の両名は、猗廬の補佐役として長年仕え、衆望を集めていた。彼等は、この様な事態に陥ったので、劉昆へ帰順しようと謀り、衆人へ言った。
「旧人は、新人が剽悍であると知り、これを皆殺しにしようとしている。どうすれば良いと思う?」
 晋人や烏桓人は驚愕した。
「生きるも死ぬも、両将軍に従います。」
 そこで、彼等は劉昆が人質として派遣していた劉遵と共に、晋人や烏桓人三万世帯と牛馬羊十万頭を率いて劉昆へ帰順した。
 劉昆は大いに喜び、自ら平城へ出向いて彼等を迎え入れた。これによって、劉昆の勢力が再び強大になった。

 四月、普根が卒した。彼の子息は生まれたばかりだったが、母親の維氏は、これを立てた。
 十二月、普根の子息も卒した。国人は、その叔父の鬱律を立てた。

 元帝の太興元年(318年)、六月。劉虎が、朔方から拓跋部へ攻め込んだ。
 七月、拓跋鬱律は劉虎を攻撃し、大いに破った。劉虎は塞外へ逃げ、従弟の路孤は部落ごと鬱律へ降伏した。
 こうして鬱律は、西は烏孫の故地から東は勿吉の西まで領有し、士馬は精強。北方の雄となった。
 だが、拓跋猗施の妻(維氏)は、強大になった代王鬱律を妬忌した。息子の為にならないと考えたのだ。
 四年、維氏は鬱律を殺して、我が子の賀辱を立てた。この変事で、数十人の大人が殺された。 鬱律の息子の什翼建(「牛/建」)は、まだ揺り籠に揺られる年頃だった。母親の王氏は、彼を袴の中に隠して、逃げた。
「お前に天の御加護があるのなら、どうか啼かないでおくれ。」
 什翼建は啼かず、母子はどうにか逃げ出せた。
 又、鬱律には翳槐とゆう息子も居たが、彼は舅の賀蘭部へ逃げた。
 維氏は、代国を牛耳り、後趙へ使者を派遣した。後趙では、彼等のことを「女国からの使者」と呼んだ。

 明帝の太寧二年(324年)、賀辱が始めて親政した。
 この頃、諸部族の多くが服従しなくなっていたので、東木根山に築城し、ここへ移った。
 三年、十二月。賀辱が卒して、弟の乞那が立った。

 成帝の咸和二年。乞那は賀蘭部へ使者を派遣して翳槐の引き渡しを求めたが、賀蘭部の大人藹頭は、彼を庇ってこれを拒んだ。乞那は宇文部と共に藹頭を攻撃したが、勝てなかった。
 四年、賀蘭部と諸大人が手を組んで拓跋翳槐を代王に擁立した。代王の乞那は宇文部へ亡命した。
 翳槐は、弟の什翼建を人質として後趙へ派遣し、和平を請うた。
咸康元年(335年)、拓跋翳槐は、賀蘭藹頭が尊大だと言い立てて、これを招き寄せて殺した。これによって、諸部は皆、翳槐に愛想を尽かして離反した。これを好機とばかり、代王乞那が宇文部から攻め込んだので、諸部はこれを擁立した。翳槐は業へ逃げ、趙にて厚く遇された。
 三年、趙の将軍李穆が、拓跋翳槐を大宵へ住まわせた。すると、彼の元の部落の民が、彼の元へ大勢集まってきた。代王の乞那は燕へ逃げ、国人は、再び翳槐を擁立し、盛楽へ城を築いて移り住んだ。

 四年、翳槐が病に倒れた。彼は、趙へ人質に出している弟の什翼建を立てるよう諸大人へ命じ、卒した。
 ところが、梁蓋をはじめとする諸大人は、主君が崩御した後の騒動を畏れ、この遺命に難色を示した。什翼建の居場所が、遠すぎるからだ。彼が来るまでに変事が起こるかも知れない。そこで、彼等は、別の主君を立てようと協議した。
 翳槐の下の弟は、屈。彼は剛猛で偽りが多い人間だった。次の弟の孤は仁厚な人柄だった。結局、彼等は屈を殺して、孤を立てた。しかし、孤はこれを拒絶し、自ら業へ赴いて什翼建を迎え、後趙王の石虎へ申し出た。
「什翼建は、帰国して主君とならねばなりません。代わって私が人質となりますので、どうか什翼建を帰国させて下さい。」
 石虎はその義心に感じ、兄弟揃って帰国させた。
作者、曰。石虎のこのエピソードは初耳だった。暴君のイメージを作る為、敢えて削除する人間が多かったのかもしれない。)
 十一月、什翼建が立って、代王となった。建国と改元し、国の半分を孤へ与えた。

 拓跋猗廬が死んでから、代国内は多難で、部族は離散した。こうして、拓跋氏は次第に衰退して行った。だが、什翼建は、雄勇にして知略があり、国を良く治めた。こうして、什翼建が立ってから、帰属する国人が次第に増えていった。
 彼は、始めて百官を設置し、衆務を分掌させた。代人の燕鳳を長史とし、許謙を郎中令とする。反逆、殺人、姦盗等の法が明文化され、律令は明確となり、政治は清簡と称された。連座や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。
 こうして、東は歳貊から西は破落那まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでの土地を領有し、帰順する民は数十万人を数えた。

 五年、五月。什翼建が塁源川に都を築こうと考え、諸大人を集めて協議した。
 すると、母親の王氏が言った。
「我等は、先祖代々遊牧を生業として来ました。今、国家は多難。もしも城壁を築いて定住すれば、一旦敵に攻められた時、逃げ場所がありません。」
 そこで、築城は中止された。

 代では、帰順したよそ者をひとまとめにして「烏桓」と呼び為してきた。什翼建は、これを二部に分け、各々大人を置いて監理させた。弟の孤に北部を分掌させ、息子の寔に南部を分掌させた。
 什翼建は、燕へ政略結婚を求めた。燕王の慕容光(「皇/光」)は、妹を彼に嫁がせた。
 六年、三月。什翼建は雲南を首都と定め、盛楽宮を築いた。
 七年、九月。盛楽城を築く。
 同月、代王妃慕容氏が卒した。

 十月、匈奴の劉虎が、代の西部へ来寇した。
 什翼建が迎撃し、撃退する。劉虎は戦死し、子息の務桓が立って、和睦を求めた。什翼建は、娘をこれと娶せた。
 又、務桓は後趙にも入貢した。石虎は務桓を平北将軍、左賢王に任命した。

 康帝の建元元年(343年)、什翼建は、燕王に再び婚姻を求めた。すると慕容光は、結納として千匹の馬を求めたが、什翼建は与えなかった。又、傲慢な態度で、婿としての礼儀に欠けていた。
 八月、慕容光は世子の慕容儁に代の攻撃を命じた。什翼建は部下を率いて逃げたので、慕容儁は戦えずに引き返した。
 二年、什翼建は大人の長孫秩を燕へ派遣し、妻を迎え入れた。

 穆帝の永和十二年(356年)、正月。匈奴の劉務桓が卒し、弟の閼頭が立った。
 二月、什翼建は兵を率いて西巡した。閼頭は懼れ、降伏を請うた。
 升平二年(358年)、閼頭の部落で、造反する者が相継いだ。
 十二月。閼頭は懼れ、東へ逃げた。黄河が凍っていたので、そのまま渡河したが、半ば渡ったところで氷が割れた。後続の人間は、悉く劉悉勿祈(劉務桓の息子)へ帰順した。
 閼頭は、代へ亡命した。

 三年、四月。 劉悉勿祈が卒した。弟の衛辰が、劉悉勿祈の子息を殺して立った。
 四年、劉衛辰は、秦へ使者を派遣して降伏した。そして、秦の領内に田を作ることを請うた。苻堅はこれを許した。
 四月、秦の雲中護軍の賈擁が司馬の徐贇を派遣して、大いに略奪した。
 これを聞いて、苻堅は怒った。
「朕は恩信で戎狄を手なずけようと思っていたのだ。小利を貪ってこれを敗るとは、どうゆう了見だ!」
賈擁を降格すると、劉衛辰のもとへ使者を派遣して、略奪品を返還し、これを慰撫した。ここにおいて劉衛辰は塞内へ移住し、秦への貢ぎ物を欠かさなくなった。

 六月、代王妃の慕容氏が卒した。
 七月、劉衛辰は代へ出向いて、慕容氏の埋葬を弔問した。その機会に、什翼建に通婚を求めたので、什翼建は娘を彼に娶せた。

 五年、正月。劉衛辰は秦の辺域で略奪し、五十余世帯の男女を奴婢として秦へ献上した。
 苻堅は怒って劉衛辰を叱責し、略奪した奴婢を元の村へ帰させた。
 これによって、劉衛辰は秦に造反し、専ら代へ臣従した。

 哀帝の興寧三年(363年)、劉衛辰は代に背いた。代王什翼建はこれを討ち、劉衛辰は西へ逃げた。
 海西公の太和元年(366年)、什翼建は、長史の燕鳳を使者として秦へ派遣して、入貢した。
 二年、十月。什翼建が劉衛辰を攻撃した。
 この時、河がまだ凍りついてなかったので、什翼建は葦のロープで流れを遮るよう命じた。すると、たちまち河が凍り付いた。しかし、まだそれ程堅くなかったので、葦をその上に散らさせた。草はすぐに凍り付いて、まるで浮き橋のようになった。代の兵卒は、これを渡った。
 いきなり攻撃を受けた劉衛辰は、宗族と共に西へ逃げた。什翼建は、彼の部落の民を七割方収容して、凱旋した。
 劉衛辰は、秦へ逃げ込んだ。そこで苻堅は、劉衛辰を朔方へ送り返し、兵を派遣してこれを守ってやった。

 簡文帝の咸安元年(371年)、三月。代の将軍長孫斤が、什翼建の弑逆を企てた。だが、世子の寔がこれと格闘し、傷つきながらも、これを捕らえ、殺した。
 五月、傷が元で、世子の寔が卒した。
 寔は、東部の大人賀野千の娘を娶っていたが、この時、彼女は身籠もっていた。
 七月、寔の息子が産まれた。什翼建は彼を渉珪と名付け、境内に赦を下した。

 武帝の寧康元年(373年)。什翼建は再び燕鳳を使者として秦へ派遣し、入貢した。

 二年、什翼建は劉衛辰を攻撃し、南へ走らせた。
 太元元年(376年)、十月。代の圧迫に耐えられなくなった劉衛辰は、秦へ救援を求めた。
 苻堅は、幽州刺史の行唐公洛を北討大将軍に任命し、幽州と冀州の兵卒十万を与えて代を攻撃させた。 又、へい州刺史倶難、鎮軍将軍登きょう、尚書趙遷、李柔、朱膨、張毛、郭慶に、劉衛辰を郷導として二十万の軍を与え和龍から出陣させ、洛と合流させた。
 十一月、什翼建は、秦兵の進撃を、白部と独孤部に防御させたが、どちらも蹴散らされた。そこで、南部の大人劉庫仁に十万の軍を与えて防御させた。劉庫仁は、劉衛辰の一族だが、什翼建の甥にあたる。だが、劉庫仁の軍も大敗した。
 什翼建は病気で陣頭指揮が出来なかったので、諸部を率いて陰山の北へ逃げた。すると、高車の雑種が悉く造反し、放牧さえもできなくなった。什翼建は、更に漠南まで移動した。
 十二月、秦軍が引き返したので、什翼建は雲中へ還った。だが、秦軍はまだ解散したわけではなく、君子津に駐屯していたので、什翼建の諸子は夜毎に兵を率いて警備した。
 さて、什翼建はかつて、国の半分を弟の孤へ与えていた。ところが、孤が卒した時、孤の息子の斤へ領民を継承させなかったので、斤は怨望した。
 この時、什翼建の世子の寔は死に、その子の珪はまだ幼く、慕容妃の生んだ六人の息子達は成長していたので、誰が後継になるか決まっていなかった。
 ここに及んで、斤は、什翼建の庶長子の寔君へ言った。
「王は、慕容妃の子息を太子に立てる為、まず汝を殺そうと思っている。だから、諸子に毎晩兵を率いて巡邏させ、汝を殺す機会を窺っているのだ。」
 寔君はこれを信じ込み、遂に、諸弟と什翼建を殺した。
 什翼建の他の諸子や婦人や部人は秦軍へ逃げ、ありのままを告げた。そこで、秦軍の李柔と張毛は兵を率いて雲中へ急行した。代の衆は逃潰し、国中が大騒動となった。この時、珪の母の賀氏は、珪を賀訥へ託した。
 苻堅は、代の長史燕鳳を召し出し、この動乱の原因を尋ねた。燕鳳が、ありのままに答えると、苻堅は言った。
「天下の悪は一つだ。」
 そして、寔君と斤を捕らえ、長安にて車裂の刑に処した。
 処刑が終わると、苻堅は珪を長安へ呼び寄せたがったが、燕鳳は言った。
「代王は滅び、その部下は離散しました。遺孫はまだ幼少で、王位の継承などできません。別部の大人劉庫仁は、勇も仁も兼ね備えております。劉衛辰は狡猾で反復常無い人間。この両者とも、単独で任せきることはできません。諸部を二つに分け、この両人に統治させるのが宜しいと考えます。この二人には、もともと深い溝がありますので、牽制し合って動きが執れなくなるでしょう。そうしておいて、孫が成長するのを待ってから、代王に取り立てられましたら、陛下は滅亡した代にとっては再生の大恩人となります。復興した代は、子々孫々に至るまで、叛臣とはなりますまい。これこそ辺境を鎮める良策です。」
 苻堅はこの策に従った。
 こうして、代は二つに分割された。河を境に、東を劉庫仁が、西を劉衛辰が統治し、各々苻堅から官爵を拝受した。
 賀氏は珪と共に独孤氏へ帰属し、南部の大人長孫嵩と共に劉庫仁のもとで暮らした。
 什翼建の諸子に、窟咄とゆう若者がいた。彼は既に長じていたので、行唐公洛の口利きで、長安にて暮らすことになった。苻堅は、窟咄を太学へ入れた。

 劉庫仁は、離散した民を招撫し、帰属した民を大変手厚く扱った。拓跋珪へは礼を以て接し、その興廃など、全く意に介さなかった。そして、息子達へ、常に言った。
「この児には天下の志がある。必ずや祖業を恢復するだろう。お前達は謹んで遇するのだ。」
 苻堅は、彼の功績を賞し、その官位に廣武将軍を加えた。
 それを聞いた劉衛辰は、劉庫仁の下位になったことを恥じ、怒って秦の五原太守を殺し、造反した。
 劉庫仁は、これを攻撃して破り、陰山の西北千余里まで追撃し、その妻子を捕らえた。又、西方の庫狄部を攻撃して、住居を移し、ここに桑乾川を置いた。
 しばらくして、苻堅は劉衛辰を西単于に任命し、河西の雑類を統治させ、代来城を与えた。

 八年、秦は泓水にて晋に大敗した。(詳細は、「慕容、秦に叛いて燕を復す」に記載。)

 九年、十月。後燕の太子太保慕容句の息子文と、零陵公慕輿虔の息子の常が、劉庫仁を攻撃して、これを殺した。劉庫仁の弟の劉頭眷が兄に代わって部衆を統治した。
 十年、八月。劉頭眷が賀蘭部を撃破した。又、柔善を撃破した。
 劉頭眷の息子の劉羅辰が、劉頭眷へ言った。
「我等の軍は、向かうところ敵がありませんが、心腹に疾を抱えています。早く処分なさって下さい。」
「誰のことだ?」
「従兄の顕は残忍な人間。将来必ず乱を起こします。」
 しかし、劉頭眷は聞かなかった。なお、顕は、劉庫仁の息子である。
 しばらくして、果たして劉顕は劉頭眷を殺して自立した。

 劉顕は、ついでに拓跋珪まで殺そうとした。ところが、顕の弟の妻は、拓跋珪の姑だった。そこで、彼女はこのことを拓跋珪の母の賀氏へ伝えた。
 劉顕の参謀は、梁六眷。彼は什翼建の甥だった。そこで、彼も部人の穆祟と渓牧を派遣して、この事態を拓跋珪へ密告した。この時、彼は自分の妻と愛馬を穆祟へ託した。
「首尾良く逃げ出せたとしても、誰が密告したかは明白だ。」
 劉顕の陰謀を知った賀氏は、ある夜、劉顕に酒を飲ませて酔い潰した。そして、密かに拓跋珪と、旧臣の長孫建、元他、羅結を軽騎で逃亡させた。
 明け方、賀氏は厩の馬を見て驚いた振りをし、劉顕を揺り起こして厩へ連れて行った。そして、涙ながらに訴えた。
「我が子も来ていたはずなのに、姿が見えない。あなた方が殺したのでしょう!」
 劉顕はそれを信じ込んだので、追撃が遅れた。
 こうして逃げ出した拓跋珪は、賀蘭部へ逃げ込み、舅の賀訥を頼った。すると、賀訥は狂喜して言った。
「喜んでお力になりましょう。その代わり、国を復興した後も、老臣の事をお忘れになりますな!」
 拓跋珪は笑って言った。
「全く、舅殿の言う通り。決して忘れはせぬ。」
 劉顕は、梁六眷が謀略を洩らしたと疑い、これを捕らえようと思った。すると、穆祟が宣言した。
「六眷めは恩義を顧みず、劉顕を助けて弑逆を行った。だから俺は、奴の妻子を略奪したのだ。これで少しは溜飲が下がったわい。」
 それを聞いて、劉顕は疑惑を解いた。

 賀氏の従弟の賀悦は、外朝大人だった。彼は、部族を挙げて拓跋珪の麾下へ入った。劉顕は怒り、賀氏を殺そうとしたので、賀氏は亢泥家へ逃げ込み、神を祀ってある無人の小屋の中に三日三晩隠れ通した。その間、亢泥家は、一家を挙げて彼女の助命を嘆願したので、遂に危難から免れた。
 もとの南部大人長孫祟が、領民七百世帯を挙げて劉顕へ叛き、五原へ逃げた。この時、拓跋寔君の子の屋が衆をかき集めて自立したので、長孫祟はここへ逃げ込もうと思ったが、鳥屋が言った。
「父親を殺した人間の子供ですぞ。そんな人間の下には就けません。それよりも、拓跋珪へ帰属しましょう。」
 長孫祟はこれに従った。
 しばらくして、劉顕の部族でも動乱が起こった。もとの中部大人のゆ和辰は、賀氏を奉じて拓跋珪のもとへ逃げ込んだ。

 賀訥には、賀染干とゆう弟が居た。拓跋珪が余りに人望を集めたので、彼は拓跋珪を忌避し、党類の侯引七突に拓跋珪を殺させようとした。だが、代の人尉吉眞がこれを知って拓跋珪へ告げたので、侯引七突は手が出せなかった。
 賀染干は、尉吉眞が密告したとあたりをつけ、これを捕らえて拷問にかけたが、尉吉眞は屈服せず、とうとう免れた。
 賀染干は、遂に兵を挙げて拓跋珪を包囲した。すると、賀氏が出て、賀染干へ言った。
「お前達は我が子を殺した後、我をどこへ置くつもりですか!」
 賀染干は恥じ、兵を収めた。

 十二月。拓跋珪の従曾祖乞羅とその弟の建及び諸部の大人が、拓跋珪を盟主とするよう、みんなして賀訥へ請願した。
 十一年、拓跋珪は帰属した民を牛川に結集し、代王の位に即いた。登国と改元する。長孫祟を南部大人、叔孫普洛を北部大人とし、その衆を分割統治させた。
 以下、主要な人事を列挙する。
 左長史、上谷の張こん。右司馬、許謙。外朝大臣、王建・和跋・ゆ岳。治民長、渓牧。彼等は皆、宿衛を掌握し、軍国の謀議に参与した。長孫道生と賀比を侍従とした。
 なお、王建は什翼建の娘婿で、ゆ岳はゆ和辰の弟、長孫道生は長孫祟の義子である。
 二月、拓跋珪は定襄の盛楽へ移住した。農業に務め、民力を休めたので、国民は皆悦んだ。

 三月、劉顕は、善無から、更に南の馬邑まで逃げた。その族人の奴眞は、麾下の部族を率いて代へ帰順した。
 この奴眞の兄の建は、賀蘭部に住んでいた。奴眞は、自分の領民の統治権を兄へ譲りたいと拓跋珪へ申し出、拓跋珪はこれを許可した。こうして、奴眞の部族は、建が領有することになった。
 ある時、建は賀訥へ金や馬を献上しようと、弟の去斤を賀訥の許へ派遣した。すると、賀染干が去斤へ言った。
「俺は、汝達兄弟を優遇するぞ。どうだ?俺の麾下へ入らないか?」
 去斤は許諾した。
 これを知って、奴眞は怒って言った。
「我が祖父以来、我が家は代々代の忠臣だった。だから、我は汝等へ部族を譲ったのだ。これは義に従おうと思ったまで。それが今、汝等は故なく国に背く。義はどこにある!」
 遂に、奴眞は建と去斤を殺した。
 二人が殺されたと聞いた賀染干は、兵を率いて奴眞を攻撃した。奴眞は代へ逃げた。拓跋が使者を派遣して賀染干を叱責したので、賀染干は兵を引いた。

 四月、代王珪は、国号を改め、魏王と名乗った。
 魏王珪は、東方の陵石へ移動した。すると、護仏侯部の酋長侯辰と、乙仏部の酋長代題が、珪に背いて逃げた。諸将がこれを追いかけようと請うと、拓跋珪は言った。
「侯辰は、代々よく仕えてくれた。たとえ罪があっても寛恕するべきだ。ましてや今は国家が創成したばかり。人情は不安だろうし、愚者は逃げるさ。追撃するほどのことではない。」
 七月、拓跋珪が盛楽へ戻ると、代題は再び来降した。しかし、旬日後には又も逃げ出して、劉顕のもとへ走った。拓跋珪は、代題の孫の倍斤に、その部族を統治させた。

 劉顕の弟の肺泥が、部族を率いて魏へ降伏した。

 さて、話は遡るが、前秦が代を滅ぼした時、代王什翼建の末子の窟咄を長安に移住させていた。
 泓水で前秦が大敗した後、窟咄は、慕容永に従って東へ移動した。慕容永は、窟咄を新興太守に任命した。
 劉顕は、弟の亢泥を窟咄のもとへ派遣して彼を迎え入れた。そして、自らも出兵して魏の南境へ迫ったので、諸部は大騒動に陥った。魏王珪の左右の于桓等は部人と共に珪を捕らえて窟咄に内応しようと企み、幢将の莫題等は密かに窟咄と内通した。
 于桓の舅の穆祟が、婿の企みを密告したので、拓跋珪は于桓等五人を誅殺した。しかし、莫題等七姓に対しては、悉く不問とした。
 このような事が起こったので、拓跋珪は内乱を恐れ、陰山の北まで移動し、再び賀蘭部へ依った。又、外朝大人の安同を後燕へ派遣して救援を頼んだ。慕容垂は、慕容麟を派遣した。
 十月、慕容麟の軍が到着する前に、拓跋窟咄は魏を攻撃した。賀染干が、これに呼応して魏の北部へ攻め込んだ。魏の民は恐れおののき、北部大人叔孫普洛は劉衛辰のもとへ逃げた。これを聞いた慕容麟は、安同等を先行させた。援軍が近いと知って、魏の人心は、やや落ち着いた。
 窟咄は高柳まで進軍した。珪は慕容麟と合流して迎撃し、これを大いに破った。大敗した窟咄は劉衛辰のもとへにげたが、劉衛辰は、これを殺した。拓跋珪は、窟咄の民を全て吸収し、庫狄干を北部大人とした。
 ちなみに、この頃の劉衛辰は、朔方に居を構え、盛況を誇っていた。後秦の姚萇は、衛辰へ「大将軍、大単于、河西王、幽州牧」の称号を与え、西燕の慕容永は衛辰へ大将軍、朔州牧に任命した。
 十二月、慕容垂は拓跋珪へ西単于の称号を与え上谷王へ封じたが、珪は受けなかった。

 十二年、魏の長史の張こんは魏王珪に言った。
「劉顕は、我等を併呑しようと思っています。今、奴等の内紛で、奴真と肺泥が来降しました。これに乗じて奴等を滅ぼさなければ、後々の患いとなります。しかし、奴等はなおも強大で、我等だけでは手に余ります。燕と連合して、これを滅ぼしましょう。」
 拓跋珪はこれに従い、安同を再び使者として派遣した。
 七月、劉衛辰が、後燕へ馬を献上しようとしたが、劉顕はこれを略奪した。
 慕容垂は怒り、慕容楷、慕容麟を派遣して、これを攻撃し、大いに破った。劉顕は、馬邑の西山へ逃げた。
 拓跋珪は、慕容麟と合流し、彌澤にて劉顕を攻撃し、再び破った。劉顕は西燕へ逃げた。慕容麟は馬牛羊千萬を獲得して、総軍を収めた。
 慕容垂は、劉顕の弟の可泥を烏桓王に立てて、その配下を治めさせ、八千余落を中山へ移住させた。

 十三年、拓跋珪は庫莫渓を弱落水の南にて撃破した。
 七月、庫莫渓は、再び魏の営を襲撃したが、珪は又も撃破した。
 庫莫渓は、もともと宇文部に属し、契丹とは同類異種にあたっていた。彼等の先祖は皆、慕容光に撃破され、それ以来、松漠へ移り住んでいた。

 この頃から、拓跋珪は後燕を攻略しようと、密かに企てるようになった。(詳細は「魏、後燕を伐つ」に記載。)

 十四年、正月。魏王珪は高車を襲撃して、これを破った。
 二月、吐突隣部を襲撃して大いに破り、その部落の民を、全員捕らえて還った。
 十五年、四月。魏王珪は意辛山にて慕容麟と合流し、賀蘭・乞突隣・乞渓の三部を撃破した。乞突隣と乞渓は、皆、魏へ降伏した。

 七月、劉衛辰が、息子の直力堤に賀蘭部を攻撃させた。賀訥は困窮し、魏へ降伏した。拓跋珪が救援に駆けつけたので、直力堤は撤退した。
 拓跋珪は、賀訥を部落へ移住させ、東境へ住まわせた。

 十六年、劉衛辰が、息子の直力堤へ十万弱の兵を与え、魏の南部を攻撃させた。
 十一月、魏王珪は自ら五千余の兵を率いてこれを大破した。直力堤は単騎で逃げた。拓跋珪は、勝ちに乗じて追撃し、劉衛辰の領内にまで攻め込んだ。衛辰の部落は大混乱に陥った。
 拓跋珪は、旬日のうちに、衛辰の居城まで攻め込んだ。衛辰親子は、即日遁走した。
 翌日、拓跋珪は諸将に探索を命じた。すると、将軍の伊謂が直力堤を捕らえて来た。劉衛辰は、部下の造反にあって殺されていた。
 十二月、拓跋珪は塩池に陣営した。ここで、劉衛辰の宗党五千余人を誅殺し、屍は河へ放り込んだ。これによって、河以南の諸部は悉く魏へ降伏した。拓跋珪は、馬三十余万匹と牛羊四百余万匹を獲得し、国の財源が豊かになった。
 劉衛辰の末子の勃勃は、薜干部へ逃げた。
 魏王珪は、薜干部へ勃勃の引き渡しを要求した。薜干部の長の太悉仗は、魏の使者達へ勃勃を示して、言った。
「勃勃は、国が滅び、家族も失い、切羽詰まって我が元へ逃げ込んだのだ。その彼を魏へ引き渡すなど忍びない。そんなことをするくらいなら、彼と共に滅んだ方が余程ましだ。」
 そして、勃勃を没弄干の許へ送った。弄干は、勃勃へ娘を娶せた。(勃勃のその後については、「赫連、朔方に據る」に記載。)
 十八年、魏王珪は、薜干部が勃勃の引き渡しを拒否したことを理由に、これを攻撃した。八月、その城を襲撃する。 太悉仗は後秦へ逃げた。

 二十一年、七月。群臣が魏王珪へ、皇帝と称するよう勧めた。珪は、始めて天子の旌旗を建て、「皇始」と改元した。
 安帝の隆安二年、六月。魏王珪は、群臣へ国号を考えさせた。群臣は皆、言った。
「周、秦以前は、諸侯が天子となった時、自分の国号を天下の号としたものです。我が国は、漢代には寸尺の領土もありませんでしたが、百世にわたって継承する中で、代北に基を築き、遂にここまで強大となることができました。よって、『代』と称するのが宜しいと考えます。」
 すると、黄門侍郎の崔宏が言った。
「昔、商の人間は一カ所に落ち着きませんでした。ですから、未だにあの国のことを『殷』と言ったり、『商』と言ったりするのです。代は確かに、我等が発祥の地。しかし、国のしての形を造った時、『魏』と改称しております。それに、『魏』は『大きい』とゆう意味です。しかも、中華の大国です。今まで通り『魏』と称するべきかと考えます。」
 魏王珪は、その意見に従った。
 七月、平城へ遷都した。始めて宮室を造り、宗廟を建て、社稷を立てた。
 又、建国の事業として、街道に道しるべを造り、全国の秤や長さの単位を統一した。又、郡国へ使者を派遣して、地方行政の実態を調査させ、地方官の賞罰は、自ら考課した。
 十一月、魏王珪は、尚書吏部郎登(「登/里」)淵に官僚制度と音律を整備させ、薫謐に礼儀を整備させ、王徳に律令を整備させ、吏部尚書崔宏にそれらを総裁させて、国家百年の骨子を作ろうとした。なお、登淵は、前秦の名将登きょうの孫である。
 十二月、魏王珪は皇帝位に即き、天興と改元した。朝野の全員に髪を束ねて冠をつけるよう命じる。遠祖の毛以下二十七人を追尊して皇帝とする。以下、諡は次の通り。
 六世の祖力微は神元皇帝、廟号は始祖。その子の沙漠汗は文皇帝。祖父の什翼建(牛/建)は昭成皇帝。廟号は高祖。父の寔は献明皇帝。
 又、崔宏の建議に従って、黄帝の子孫と自称し、土徳を標榜した。六州二十二郡の守宰、豪傑の二千世帯を代郡へ移住させた。東西は代から善無まで、南北は陰館から参合までを畿内とし、その外側には八部師を設置して、これを統治した。