造反
 
  

廬江王援(本当は王偏) 

 
 高祖は、廬江王援(本当は王偏)が惰怯で将帥の器ではないと思っていたので、彼が幽州大都督として下向する時、右領軍将軍王君廓を補佐役として付けてやった。君廓は群盗上がりで、勇敢剽悍だが陰険で策謀が多い人間だった。しかし、援は心底彼を頼り切り、通婚までさせた。
 太子の建成が秦王を除こうと陰謀を巡らせた時、密かに援とも手を結んだ。
 武徳九年(626)六月庚申、秦王世民が、建成を殺した。その詳細は、「玄武門の変」へ記載する。
 建成が死ぬと、上は詔にて通事舎人崔敦礼を派遣し、緊急に援を呼び出した。援は不安で堪らず、君廓へ相談した。すると君廓は、援を捕らえる功績を得ようと考え、援へ説いた。
「大王が入朝されますと、必ず害されます。今、数万の兵を擁しておりますのに、何で使者の呼び出しに応じて自分で網に掛かりますのか!」
 そして、共に泣いた。
 援は言った。
「今から、我が命は公へ託す。挙兵を決めたぞ!」
 そして敦礼へ京師の様子を問うた。敦礼は屈しなかったので、援はこれを牢へぶち込んだ。
 辛巳、援は駅伝を発して兵を徴集し、燕州刺史王先(「言/先」)を薊へ呼び出して、これと計画を練った。
 兵曹参軍王利渉が援へ説いた。
「王君廓は反覆常ない男です。機柄を委ねてはいけません。早く除いて、王先に代えるべきです。」
 援は決断できなかった。
 これを知った君廓は、先のもとへ訪れた。先は沐浴中だったが、髪を絞って出てきた。君廓はこれを斬り、その首を持って衆へ告げた。
「李援と王先が造反したぞ。勅使を捕らえて勝手に徴兵した。今、先は既に誅した。李援ひとりでは何もできぬぞ。お前達は援に従って一族皆殺しになりたいか、それとも我に従って富貴を取るか?」
 衆は皆言った。
「公に従って賊を討ちとうございます。」
 君廓はその麾下千余人を率いて西城を越えて入った。援はこれに気がつかない。君廓が、牢獄へ入って敦礼を助け出したので、援は始めてこれを知り、左右数百人を武装させて出た。君廓とは、門外で遭遇する。君廓は、援の兵卒達へ言った。
「李援は逆賊となったぞ。汝等は何で彼にしたがって煮えたぎった湯の中へ飛び込むのか!」
 皆は武器を棄てて逃げ、援一人だけが残った。援は君廓を罵って言った。
「小人、我を売ったな。罪状は、いずれはお前にも及ぶぞ。」
 君廓は援を捕らえて、絞め殺した。その首は京師へ送る。
 壬午、王君廓を左領軍大将軍兼幽州都督とし、援の家口を全て賜下した。
 敦礼は、仲方の孫である。 

 君廓は任地では驕慢放縦で不法なことが多かった。
 貞観元年(丁亥、627年)君廓は入朝するよう命じられた。ところで、長史の李玄道は房玄齢の従甥だったので、この機会に房玄齢への手紙を君廓へ託した。しかし君廓は、自分の罪が告発されたかと疑い、書いてある内容も知らないまま勝手にこれを棄ててしまった。
 九月、辛未、渭皆までは行ったけれども、そこで駅吏を殺して逃げ出した。突厥へ亡命しようとしたが、野人に殺された。 

  

  

李藝  

 武徳五年、李藝は、太子建成と共に劉黒闥を討った後、始めて唐へ入朝した。この時李藝は、功績に驕って傲慢で、その営へ来た秦王の近習を理由なく殴りつけた。上皇は怒り、藝を牢獄へ繋いだが、暫くして釈放した。そんなことがあったので、秦王が即位して皇帝となると、藝は内心不安でならなかった。
 曹州に李五戒とゆう妖巫がいたが、彼が藝へ言った。
「王には貴相が出ておりますぞ!」
 そして、これに造反を勧めたのである。
 貞観元年(丁亥、627年)正月、辛丑、天節将軍燕郡王李藝は「兵を動員して入朝せよ」との密敕を受け取ったと詐称し、州に據って造反した。更に兵を率いてタク州まで進軍する。タク州治中趙慈皓は、駆け出してこれを出迎えた。藝は、タク州へ入って、これを占拠した。
 吏部尚書長孫無忌等へ、行軍総管となってこれを討つよう詔が降りた。
 趙慈皓は、官軍が来ると聞くと李藝を裏切ろうと考え、密かに統軍楊岌と謀ろうとしたが、機密が漏洩し、藝は慈皓を捕らえた。
 城外にいた岌は、変事を悟ると兵を指揮してこれを攻めた。藝軍は潰滅し、藝は妻子を棄てて逃げた。突厥へ亡命しようとしたが、烏氏にて近習がこれを斬り、首を長安へ送った。
 弟の壽は利州都督となっていたが、また、縁座で誅殺された。 

  

  

長楽王幼良 

 涼州都督長楽王幼良は、粗暴な性格だった。百余人の近習達は皆無頼の子弟で、百姓達へ乱暴狼藉を働いた。また、キョウや胡と交易をする。
 ある者が、幼良に謀反の心があると告発した。上は、中書令宇文士及を駅伝で派遣してこれと交代させ、事実を究明させた。近習達は懼れ、幼良をさらって北虜へ亡命しようと計画したり、士及を殺して河西を占拠しようと計画したりしたが、密告する者が居て、それらの陰謀が暴露された。
 貞観元年(丁亥、627年)夏、四月、癸巳、幼良へ自殺を命じた。 

  

李孝常 

 利州都督李孝常等が造反を謀った。
 貞観元年(丁亥、627年)、孝常は入朝すると京師に留まった。そして右武衞将軍劉徳裕とその甥の統軍元弘善、監門将軍長孫安業が互いに符命を説きあって、宿衙兵を煽動し造反しようと謀ったのである。
 十二月、戊申、発覚して誅に伏した。
 安業は皇后の異母兄で、大酒のみの無頼漢だった。父の晟が卒した時、弟の無忌及び皇后はまだ幼かったが、安業は彼等の舅を追い返した。しかし、上が即位すると、皇后は過去の怨みを根に持たず、安業を甚だ礼遇した。
 造反事件が発覚するに及んで、皇后は涙を流し、上へ固く請うた。
「安業の罪は、ほんとうに万死に値します。でも、彼が私達へ無慈悲だったことは天下へ知れ渡っているのです。今、極刑に処したら、人々は必ず妾のせいだと吹聴します。それは聖朝へも累を及ぼすかも知れません。」
 これによって、安業は死刑を免れ、崔(「崔/」)州へ流された。 

  

  

青州 

 貞観元年(丁亥、627年)青州で造反を謀る者が居たが、州刺史や県令は一党を逮捕し、牢獄は溢れ返った。殿中侍御史の安喜の崔仁師へ、これを糾明するよう詔が降りた。
 仁師は、青州へ到着すると囚人達の枷を全て取り払い、彼等と共に飲食沐浴して寛慰し、首魁十余人を罰しただけで、残りは全て赦した。師へ帰って報告すると、勅使が派遣されて後の検分をした。
 大理少卿孫伏伽が、仁師へ言った。
「足下は、造反した人間を、大勢無罪とした。人は誰しも命を貪るものだ。殺されないと知ったら懲りないだろう。後のことを考えると、足下の為に深く憂えるのだ。」
 仁師は言った。
「およそ獄を治める時は、平恕の想いを基盤とするべきだ。なんで私一人罪を免れる為に、冤罪と判った者を罰せようか!万一臣が暗愚で釈放が間違いだとしても、我が身一つが十人の囚人の身代わりになるのなら、願うところだ。」
 伏伽は恥じ入って退散した。
 勅使がやってきて残った囚人達へ訊ねると、皆、言った。
「崔公は平恕で、一つとして事実を曲げておりません。どうか、早く死刑にしてください。」
 ただの一人も異議を唱えなかった。 

  

裴寂 

 貞観三年、沙門の法雅が妖言を流布したとして、誅殺された。
 司空の裴寂は、かつてその言葉を聞いていたので、辛未、罷免して郷里へ追い返した。寂は京師へ留まりたいと請願したが、上は言った。
「公の勲功は凡庸だ、こんな地位に就けるものではないぞ!ただ、恩沢が群臣第一だっただけではないか。武徳年間に賄賂が横行して綱紀が紊乱していたのは全て公のせいだが、古馴染みだったので法に照らすに忍びなかったのだ。郷里に帰って墓を護れるだけでも多大の僥倖ではないか!」
 寂は、遂に蒲州へ帰った。
 その直後、かつて狂人の信行が、「寂には天命がある。」と言ったのを、寂は上言しなかったとの告発があった。法に照らせば死罪なのだが、静州への流罪で済ませた。
 後、山キョウが動乱を起こした。この時、ある者は言った。
「連中は寂を脅しつけて盟主に推戴しました。」
 上は言った。
「寂は死刑が当然だったのに、我が命を助けて遣ったのだ。賊の盟主になる筈がない。」
 すると、果たして続報が来た。
”寂は家僮を率いて賊軍を撃破しました。”
 それを聞いて上は、寂の佐命の功績を思い、朝廷へ呼び寄せた。寂は、都にて率した。 

  

  

 五年、四月。壬寅、霊州の斛薛が造反した。任城王道宗が追撃してこれを破る。 

  

  

 十七年、ガク尉游文芝が、代州都督劉蘭成が謀反を企んでいると告発した。戊申、蘭成は腰斬の刑に処された。
 この時、右武候将軍丘行恭が蘭成の心臓や肝臓を探り出して食べた。上はこれを聞き、行恭を詰って言った。
「蘭成は造反したが、国にはそれへ対する決まった刑がある。なんでそんなことまでするのか。それが忠孝だと言うのなら、まず太子や諸王が先に食べるべきではないか。卿までお鉢が廻るものか!」
 行恭は慚愧して、拝謝した。 

  

斉王祐 

 斉州都督斉王祐は、軽薄な性格。その舅の尚乗直長陰弘智がこれに説いて言った。
「王の兄弟は多いのです。陛下千秋万歳の後の為に、壮士を得て自衛するのが宜しゅうございます。」
 祐は同意した。そこで弘智は妻の兄の燕弘信を推薦した。祐は悦んで、金玉を厚く賜り、密かに死士を募らせた。
 上は剛直の士を選んで諸王の補佐として長史、司馬と為し、諸王の過失を報告させていた。祐は小人達と昵懇で狩猟を好んだので長史の権萬紀は何度も諫めたが、聞かれなかった。壮士の処君暮、梁猛彪が裕から取り立てられていたが、萬紀は弾劾して追放した。しかし、祐は密かに彼等を呼び戻し、いよいよ厚く寵遇した。
 上は屡々書状で裕を責めた。萬紀は罪に落とされることを恐れて祐へ言った。
「王はどうか態度を改めてください。萬紀は朝廷へ出向いて弁明しますから。」
 そして祐の過失を箇条書きにして、祐へ迫って自白文を書かせた。祐は懼れてこれに従う。
 萬紀は京師へ着くと、「祐は必ず改悛できます。」と言った。上はとても喜んで、萬紀を励まし、祐の今までの過失を数えて敕書で戒めた。祐は、これを聞いて激怒し、言った。
「長史は我を売ったか!我に勧めて、自分の功績にした。絶対殺してやる!」
 上は、校尉の京兆の韋文振が謹直なので、祐の府の典軍に抜擢していた。文振も屡々諫めたので、祐は彼も嫌っていた。
 萬紀は了見の狭い人間で、祐を性急にせき立て、城門外への外出を許さず、鷹や猟犬は全て追い放ち、君暮や猛彪は祐との面会さえ許さなかった。そんな折り、萬紀の自宅に、夜半土塊が落ちてきた。萬紀は、君暮と猛彪が自分を殺そうとしたのだと思い、彼等を牢獄へぶち込んで緊急の伝令を使って上聞し、併せて祐の一味数十人を弾劾した。上は刑部尚書劉徳威を派遣して調べさせたが、多くの証拠が見つかった。そこで、祐と萬紀を共に朝廷へ呼び寄せた。
 祐は、既に怒りが積もり積もっていた。遂に、燕弘信の兄の弘亮等と共に、萬紀を殺そうと謀った。萬紀は詔を奉って先行した。祐は弘亮等二十余騎を派遣して追跡させ、これを射殺した。
 祐の党類は、韋文振へ仲間になるよう迫ったが、文振は従わず数里逃げたので、追いかけて殺した。寮属は戦慄して、首を項垂れて平伏し、敢えて仰ぎ見ようとしない。そこで祐は自ら上柱国、開府等の官職を与え、官庫の物資を放出して賞を行った。民を駆り立てて入城させ、武器や楼閣を修繕し、拓東王、拓西王等の官を設置する。吏民の中には、妻子を棄てて夜逃げする者が続出したが、祐は止めきれなかった。
 三月、丙辰。兵部尚書李世勣等へ、懐、洛、ベン、宋、路(「水/路」)、滑、済、軍(「軍/里」)、海の九州の兵を動員してこれを討伐するよう詔が降りた。
 上は、祐へ手敕を賜り、言った。
「我は汝へ、小人に近づくなといつも言っていた。それはこうなるからなのだ。」
 祐は、燕弘亮等五人と共に内に寝起きし、他の党類には士衆を統治させ、城を巡って自ら守った。祐は、夜毎に弘亮等や妃等と共に宴会を開いて喜んでいた。笑い戯れている中で官軍の話題になると、弘亮等が言った。
「王、心配は要りませんぞ!弘亮等は右手に酒杯を持ち、左手は王の為に刀を振るいましょう!」
 祐は喜んで、信じ込んだ。
 檄文を諸県へ廻したが、応じる者はいない。この時李世勣軍はまだ到着していなかったが、青、シ等数州の兵は、既に州境へ結集していた。
 斉府兵曹の杜行敏等は、祐を捕らえようと陰謀を企てた。すると、祐の党類以外は皆、これに応じた。庚申、夜、四面から軍鼓の音が響き渡り、それは数十里先まで聞こえた。外にいた祐の党類は、皆、刀で切り刻まれた。祐が何の音か問うと、左右が答えた、
「英公(李世勣)麾下の飛騎が城壁へ登っているのです。」
 行敏は兵を分散させ、垣を壊して入ってきた。祐と弘亮は武装して兵と共に入室し、扉を閉じて拒戦した。行敏等は千余人でこれを包囲した。だが、明け方から日中まで掛けても勝てなかった。行敏は祐へ言った。
「王は、昔は帝の子息だったが、今では国賊だ。早く降伏しないと、焼き殺すぞ。」
 そして、薪を積み上げて燃やそうとした。祐は窓の間から言った。
「扉を開こう。ただ、燕弘亮兄弟の命が気にかかるのだ。」
 行敏は言った。
「命は全うしよう。」
 そこで、祐等は出てきた。ある者は、弘亮の目をえぐり取って地面へ叩きつけた。その他の者は、皆、その股を叩き折って殺した。祐を捕らえると、吏民の前に示してから、東廂に鎖で繋いだ。こうして、斉州はすっかり平定された。
 乙丑、李世勣へ戦争終了の敕が降った。祐は、京師へ到着すると、内侍省にて死を賜った。その党類で誅殺された者は四十四人。それ以外の者は、不問に処した。
 祐が造反した当初、斉州の人羅石頭がその罪状を面と向かって数え上げ、槍を振るって刺そうとしたが、燕弘亮に殺された。
 祐が騎兵を率いて高村を撃つと、村人の高君状が遙かに祐を責めて言った。
「主上は三尺の剣をひっさげて天下を取り、億兆の民は御厚恩を蒙って、まるで天のように仰いでいる。それなのに王は城中数百人を駆り立てて禍乱を起こして君父を犯す。これは一本の手で泰山を揺るがすような事だ。身の程知らずも極まった!」
 祐はこれを攻撃して捕らえたが、慙愧して殺せなかった。
 敕が降りて、石頭へ毫州刺史が追賜された。君状は楡社令となり、杜行敏は巴州刺史として南陽郡公に封じられる。彼と力を合わせて祐を捕らえた者も、それぞれ褒賞があった。
 上が祐の家の文疏を検分すると、記室のキョウ城の孫處約が諫めた文書が見つかったので、これを賞した。彼は次第に出世して中書舎人となる。
 庚午、権萬紀へ斉州都督を追贈し、武都郡公の爵位を賜う。諡は敬。韋文振は左武衞将軍を追賜し、襄陽県公の爵位を賜う。

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